・菊地大司教の日記「子供のころお世話になったチャールズ・レンネル神父様が帰天」

2021年1月 5日 (火)

 2020年はコロナ禍とともに、多くの先輩司祭・宣教師が帰天された年でもありました。その中で、私の故郷である岩手県の宮古教会の信徒の方から連絡をいただき、子どもの頃に私が大変お世話になった宣教師の帰天を知りました。(写真は、昭和35年頃の宮古教会)

 ベトレヘム外国宣教会の宣教司祭であるチャールズ・レンネル神父様が、引退され過ごされていた故郷のスイスで、12月17日に89歳で帰天されました。

 1931年(昭和6年)生まれのレンネル神父様は、59年にチューリヒ郊外のインメンゼーにあるベトレヘム外国宣教会で司祭として叙階。60年に来日し、日本語を学んだ後、62年(昭和37年)に岩手県の四ツ家教会の助任として赴任されました。

 当時、岩手県全域の宣教司牧は、ベトレヘム外国宣教会に委託されていました。そして1970年に岩手県の宮古教会に主任司祭として、また小百合幼稚園園長として赴任し、その後2001年にスイスへ帰国するまで、宮古で働かれました。

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 私の母親とのツーショット写真で申し訳ないのですが、上の写真は、岩手で働いてくださったベトレヘム外国宣教会の宣教師の原点であり、また墓所でもあるインメンゼーの本部を、2005年に母と訪問し、その際にレンネル神父様とアルプスの山々を訪れた時のものです。私の母親はレンネル神父様と同い年です。

 実は私は、生涯の中で、教会関係以外の場所に住んでいたことは2年しかありません。私が生まれた時、父親は宮古教会の伝道士(カテキスタ)でしたから、教会敷地内の職員住宅で生活をしていました。父親は盛岡の四ツ家教会に転任となり、そこでも四ツ家教会の信徒会館二階にあった職員住宅で生活をしていました。

 その後、父親の転職のため一家は静岡に越しましたが、ちょうど小学5、6年の二年間、静岡市井川で教員住宅に住んでいました。自分の生涯の中で、教会関係以外で暮らしたのは、その時だけです。そして私自身は中学一年から神言修道会の小神学院に入ったので、それからの人生の本拠は、司教となるまで、神言会の修道院となりました。

 ですから人生の中で2年間しか、教会関係以外で生活したことがないのです。教会で生活するということは、そこの司祭館に住む司祭の生き様を日々目の当たりにしているということですから、さまざまな司祭から、私は影響を受けていると思います。その中でもレンネル神父様は特別です。

 その盛岡の四ツ家教会に私たち家族が越していったのが1963年か64年だったと思います。ちょうどレンネル神父様が四ツ家教会の助任として働き始めた頃です。その頃から、父の転職で盛岡を離れる69年まで、同じ四ツ家教会の敷地内で生活をしていました。

 単に生活をしていただけでなく、小学生になってからはほとんど毎朝、すぐ隣にあった盛岡白百合学園の修道院(現在の郵便局)へ、朝ミサに行くレンネル師に引きずられてミサに与り、うろ覚えのラテン語で侍者をさせられていました(ちょうど典礼が変わる時期でしたので、変化が大きくて閉口することも多々ありましたが)。ですから私の信仰の基礎を「厳しく」たたき込んでくださったのは、当時まだ青年宣教師だったレンネル神父様です。

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 大神学院にいた頃には、夏休みにレンネル神父様を訪ねて宮古教会のお手伝いをさせてもらったり、さまざまな機会にお世話になりました。写真は、中学生の頃の夏休みに、母や弟と一緒に宮古教会を訪ねたときだったと思います。

 私が1986年3月に名古屋で司祭叙階され、その直後の復活祭に、宮古教会で初ミサをするよう招いてくださったのも、レンネル神父様でした。幼い頃に生活した、生まれ故郷である宮古や宮古教会と私を、今に至るまで続く太い絆で結んでくださったは、レンネル神父様の心配りでありました。

 レンネル師を知っている人は誰でも、神父様の笑顔とジョークとフレンドリーさを体験し、記憶しています。素晴らしい宣教師でした。

 レンネル神父様の宣教師としての大きな貢献に、神様が豊かに報い、永遠の安息の内に迎え入れてくださいますように。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

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2021年1月6日