・菊地大司教の日記 ⑱ご復活!新たな生き方へ出発する神の民でありたい

御復活おめでとうございます

 皆様、御復活おめでとうございます。

 暖かな復活祭になりました。東京はすでに桜も散り始めました。

 初めての関口での聖金曜日。やはり聖堂が物理的に大きいことや、そのため参加してくださる方の数が多いことから、新潟では経験したことのないことが起こります。たとえば十字架の崇敬の時に歌う典礼聖歌には、かなり多くの節が用意されていますが、新潟に限らず多くの教会では、崇敬の行列が終わってしまうために、かなりの節を飛ばして歌い、ちょうど良いくらいに合わせて最後の節に来るようにするのが、聖歌隊長の腕の見せ所です。しかし関口では、すべて歌いきってもまだ崇敬の列が終わらない。いや、驚きました。しかも一度に4名ずつも崇敬に並ぶにもかかわらずです。

 この日は古郡神父に説教をお願いしました。たとえばサンピエトロの教皇様司式の聖金曜日の受難の祭儀は、このところいつもカンタラメッサ神父さんの説教です。それに負けないほどに力のこもった良い説教を、古郡神父から聞かせてもらいました。

 そして復活徹夜祭。30名ほどのかたが洗礼を受けられました。すみません、正確に数えておけば良かったのですが、それくらいでした。多いです。要理を担当したグループごとに洗礼を行うので、西川神父と古郡神父はそれぞれご自分が担当した方々に洗礼を授け、私はシスターなどが担当された方々8名に洗礼を授けさせていただきました。

 この8名の中には、全くの偶然なのですが、私の中学時代からの友人が含まれておりました。このような形で、東京で再会し、しかも洗礼を授けさせていただくことになろうとは、思ってもみませんでした。洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。

 復活の主日は、浦野神父が担当している本郷教会へ。マンションのようなたたずまいの立派な建物でびっくり。ミサ後には、復活徹夜祭で洗礼を受けられた3名の方々を囲んで、茶話会も行われました。おめでとうございます。

 以下、復活徹夜祭の関口での説教の原稿です。

 今宵、主イエスの復活を祝うわたしたちは、旧約聖書における出エジプトの出来事を記した聖書の言葉を聞きました。神はモーセにこう言われたと記されていました。「なぜ、私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい」。神に選ばれたイスラエルの民がエジプトにおける奴隷の状態から解放されるためには、いまの現実を完全に離れ、具体的にそして物理的に体を使って移動し、新たな地へ向かって出発することが求められたのです。

 古い生き方からまったく異なる新しい生き方への「過ぎこし」によって解放は実現します。しかしその「過ぎこし」は、与えられるのではなく、イスラエルの人々がモーセとともに自ら行動することによって、初めて達成されたのです。神の愛といつくしみは、待って願っているだけでは実現しない。それはまず出発という行動を必要とするのです。

 「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探している」。先ほど朗読された福音に記された神の使いの言葉です。イエスの復活を告げるこの言葉は、単に「あなたがたはイエスを捜しているが」といえばよいものを、わざわざ「十字架につけられたナザレのイエス」と形容しています。つまり、復活されたイエスと、これまでの弟子たちが知っているあのナザレ出身で十字架上で殺されていったイエスとは同一ではない、全く異なる生命に生きている存在なのだということを、この言葉は示唆します。その上で、過去との決別を促すように、その過去のイエスは「ここにはいない」と宣言するのです。主イエスを失ったという悲しみと絶望に至ったこの場所にとどまり続けるのではなく、全く新しい生き方へと出発するようにと、行動を促します。それが、エルサレムを離れてガリラヤへ旅立つよう、弟子たちに命じる言葉です。

 わたしたちの信仰は、恵みが与えられるのを座して待ち続ける受け身の信仰ではなく、その恵みの中に生きるために積極的に行動するよう促される信仰であります。しかも、神がイスラエルの民全体に旅立ちを求めたように、わたしたち信仰に生きる者が皆で生み出す信仰共同体が、全体として行動することを促されているのです。

 教皇フランシスコは、旅立ち行動する教会共同体を、「出向いていく教会」という言葉で表されました。「『出向いていく教会』は、宣教する弟子たちの共同体です」と「福音の喜び」に記されています。あらためて言うまでもなく、わたしたちキリストにおける信仰に生きる者には、自らが信じる福音をすべての人に伝えていく務めが与えられています。ですから「出向いていく教会」とは福音を告げ知らせる教会であります。そのことを教皇フランシスコは、こう記しています。

 「福音を宣教する共同体は、行いと態度によって他者の日常の中に入っていき、身近な者となり、必要とあらば自分をむなしくしてへりくだり、人間の生活を受け入れ、人々のうちに苦しむキリストのからだに触れるのです。・・・福音宣教する共同体には『寄り添う』用意があり、それがつらく長いものであっても、すべての道のりを人類とともに歩みます。」

 もう50年以上前、1965年12月に、第二バチカン公会議が採択した現代世界憲章の冒頭で、教会は高らかに次のように宣言しました。

 「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」

 わたしたちは、それぞれの時代の現実における、人々の「喜びと希望、苦悩と不安」に寄り添うために、「出向いていく教会」であります。

 それでは人間が生きていく人生の中で、一番の喜びと希望とはいったい何なのでしょう。もちろん、それぞれの方にとって自分の喜びや希望があることではありましょうが、しかし信仰の立場にとって一番の喜びと希望は、人間の命の誕生とその尊厳が護られることであります。なぜならば、本日一番最初の創世記の朗読で耳にしたように、神はわたしたちの命を、神ご自身の似姿として、そして良いものとして創造された。私たちの命を至高の賜物として創造されたと、信仰者は信じているからです。その最高の賜物が誕生し、十全に育まれるようにと、その尊厳が護られること以上の、喜びと希望はありません。

 しかし現実はどうなのでしょうか。いま、神の賜物である人間の命は、その始まりから終わりまで、大切にされ、その尊厳は護られているのでしょうか。

 世界の各地では、今このときも地域紛争はやむことがなく、特に将来を担うはずの子どもたちを中心に賜物である命は危機にさらされています。どこに生きるどの命であっても、神が愛され大切にされているのだから、それは徹底的に護られなくてはなりません。どのような形であれ、暴力的な手段で命が奪い取られるような状況や、その尊厳がないがしろにされるような事態に、教会は賛同できません。

 私たちの国にあっても、近年、命の尊厳をどう考えているのか理解できない大量殺人ともいうべき事件を耳にすることもありました。障害とともに生きる方々の施設で、19名が殺害されるという事件も発生し、その後には、その殺害行為を正当化する考えに同調する論調が、インターネット上を中心に少なからず見られました。その現実が、日本における命に対する価値観が、身勝手で利己的なものになってしまったことを強く感じさせます。命が持つ価値を人間が決めることができるという考え方に、教会は賛同できません。

 「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」

 教会共同体は、社会の現実の中にあって、困難に直面し、生きることに困難を感じている方々に寄り添い、すべての命を大切にし、人間の尊厳を尊重する価値観のために、積極的に「出向いていく教会」でありたいと思います。信仰にあって神と共に歩む人生を送るために、人間中心の価値観に生きた過去と決別し、新たな生き方へと出発する神の民でありたいと思います。

 (菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

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