・竹内神父の午後の散歩道 ⑫生きているイエスの手

 昨年(2020年)の自殺(自死)者は、2万1081人(男性1万4055人、女性7026人)。かつて(1998年~2011年)は、3万人を超えていました。その後、減少傾向が続いていたのですが、昨年、再び増加となりました。しかし、これらの数字は、実際に亡くなった人の数であり、実際に思い悩んでいる人の数は、その何倍なのでしょうか。

 世界保健機関(WHO)のデータ資料(2014年)によれば、日本における自殺者数は、12か国(オーストラリア、カナダ、フィンランド、フランス、ドイツ、イタリア、ニュージーランド、韓国、ロシア、英国、米国、日本)中では3番目に多く、自殺死亡率は5番目に高くなっています。原因は、経済・生活、健康、家庭問題など複合的です。このような現実を前にして、これらの国々は、本当に「豊かな国」「平和な国」だと言えるのでしょうか。むしろ、「病んでいる」のではないか、と思います。

 

*イエスの手が触れて

 イエスは、さまざまな人々の病を癒されました。病の癒しは、多くの場合、罪の赦しとも関連しています。イエスは、ある時、シモンのしゅうとめをはじめ、多くの病人を癒されました。

 「日が暮れると、いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスは一人一人に手を置いて癒やされた」(ルカ福音書4章40節)。

 文字どおり、イエスは手当てをされます。イエスの手が、直接病人に触れます。彼のこの手は、しかし、病人を癒す時ばかりでなく、さまざまな形で私たちに触れます。例えば、人に祝福
を与える時(マタイ19章13節)、盲人の目を開く時(マルコ福音書8章23~25節)、また、水に沈みかけたペトロを救う時などです(マタイ福音書14章31節)。イエスの癒しは、”ソーシャル・ディスタンス”を超えます。

*温もりのある手によって

 それでは、私たちの手は、今、どのように働いているのでしょうか。私たちの生活の現場には、至る所に「マニュアル」(manual<manus手)があります。「マニュアル」は、新しい仕事を覚える時など必要ですし、実際有益です。しかし、いつまでもそれに頼っているのも、問題です。

 なぜなら、それによって私たちの行いは、単なる機械的なものとなり、血の通わない無味乾燥なものとなってしまうからです。温もりのない手は、潤いのない人間関係を生み出し、その結果、先に述べたような多くの病んだ人々に溢れた社会となってしまいます。

 私たちの生活は、確かに、便利になりました。手紙、電話、メール、そしてZoom……。直接会わなくても、連絡はもちろん、お互いの意志の疎通も(ある意味で)可能となりました。しかし、このようなつながりは、どこか心もとないものでもあります。

 温もりのある手ーそれは、人間の心から生まれます。キュア(治療)では賄えないところも、ケア(心遣い)によって癒されます。「ケアリングは人間の存在様式です」と、シモーヌ・ローチは、語りました。看護の看は、「手」と「目」によって行われる働きです。

*父の御手に委ねて

 十字架上で、イエスは、大声で叫ばれましたー「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ福音書23章46節)。そして、息を引き取られました。文字どおり、彼は、自らの命を父の御手に渡されました。私たちの命も、同様です。

 そのことを、イエスは、確かに請け負い、こう語りますー「私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない」(ヨハネ10章28節)。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

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2021年10月31日