・竹内神父の「日曜午後の散歩道」①待降節を迎えて、”いのち”を整える

・竹内神父の「日曜午後の散歩道」①待降節を迎えて、”いのち”を整える

ペトロ岐部と187人の殉教者

 2008 年 11 月 24 日、長崎で催された「ペトロ岐部と 187 人の殉教者」の列福式に参加しました。朝から雨が断続的に降り続き、「大丈夫かな」と心配だったのですが、予定どおり 正午時に始まり、途中からは雨も上がって、ときどき日も差すほどとなり、約 3時間半に及んだ式は無事終わりました。

 彼らは、1603 年から 1639 年にかけて、日本の各地で自らのいのちを賭して、神の愛、あるいはまた、イエス・キリストを証しました。言葉にすれば簡単ですが、その意味するところは、広くて深い。ちなみに「殉教」とは、ギリシア語の「マルティリア」(martyria)に由来し、その意味は「証」です。ですから、殉教者とは、本来、「証人」を意味しています。

待つことへの招き

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書 12章24節)ー殉教者について語られるとき、しばしば耳にする言葉です。ここでは、言葉として明言されていませんが、二つのことが語られていると思います。一つは、個々のいのちは死を通してこそ、真のいのちー永遠のいのちーへと結ばれるということであり、もう一つは、その真のいのちへの道は、死を通してこそ証されるということです。

 待降節を迎えて、私たちは、終末的色彩の濃い聖書朗読が与えられます。今日は待降節第二主日ですが、第一朗読では、「荒れ野に主の道を備えよ」(イザヤ書 40章3 節参照)と語られます。その意味は、主が来られるから、主の歩まれる道を整えて準備していなさい、ということでしょうか。また、待降節における大切なテーマの一つである「待つ」ということに、心が向けられます。

 「待つ」という行為は、人間として美しい行為ですが、同時にまた、忍耐が求められるのも事実です。ともすれば、私たちは、忍耐を避けようしますが、実は、それによっていっそう深く神に与ることができます。なぜなら、神は、忍耐そのものだからです。「主は怒るに遅く、慈しみに富み、過ちと背きを赦す者」(民数記14章18節)。

主の道を備えた人々

 殉教者は、確かに、主の道を備えた人々だったと言えるでしょう。彼らは、神を見据えて生きていました。その神が、私たちに約束されたことーそれは、「平和」です(詩編 85章9 節参照)。この平和は、しかし、ただ単に何も起こらないとか、力と力が危うい均衡を保っているとか、あるいはまた、独裁者がすべてを支配している、といったようなことではありません。そこにはもっと積極的な意味があります。

 「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ福音書 20章19、21、26節)ーこれは、私たちに対するイエスの願いであり約束です。この言葉の背後には、「神がともにおられる」(インマヌエル)という意味が含まれています。「恐れるな。私があなたを贖った… あなたは私のもの… 私はあなたと共にいる」(イザヤ書 43章1~2節参照)ーこれは昔も今も、そしてこれからも、変わることのない神の約束です。

 「主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ」(マルコ福音書1章3節)。洗礼者ヨハネは、文字どおり、生涯をかけてこの言葉を生き抜きました。ヨハネは荒れ野で叫ぶ声、そしてイエスは、その声によって伝えられる神のみことばそのものです。「主の道を備えよ」ーそう語られるとき、改めて、ヨハネの生き方に学びたい、と思います。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」にしてあります「カトリック・あい」)

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2020年11月30日