三輪公忠 戦火と人間 2017・2・20
「歴史認識」は相変わらず日本の国際環境に重要な位置を占めている。国際法規違反の真珠湾奇襲攻撃で始まった対米戦争は”Remember Pearl Harbor”の対日「殲滅戦争」を呼び起こし、東京を焼きつくし、日本の都市という都市の壊滅をもたらした。日本政府が降伏の意思表示を1日遅れたばっかりに富山市は焼け野原とされた翌日1945年8月15日戦後を迎えた。
戦時中のアメリカメディアは「ジャップ」(日本人の蔑称)をロイド眼鏡に燕尾服、シルクハットをかぶった姿に描いた。真珠湾攻撃が始まってしまっている事も知らずに米国務長官に、日本政府が「宣戦布告を意味する」文書と位置づけていた公文書を手交するために訪れた野村、来栖両大使の日米和平への外交努力を茶番劇と嘲笑ったものだろう。
日本人は戦時中いつもこんな風にあしらわれたのだろうか。そんなことはない。アメリカ人にある巧まざる人間性の発露を体験した日本兵もいた。大岡昇平(1909-1988)はこう記している。
「担架は釣り上げられた。舷側を越すと、一人の水兵がいきなり私を抱き上げ、舳を回って船艙蓋の上に横たえた。この水兵の行為はひどく私を驚かせた。・・・私は偶々抑留された比島人に密に食料、莨等を与えるくらい奉仕はしたが、必要があっても彼等の汚れた体に触れる気にはならなかったであろう。私の下半身は四十日着のみ着のままの軍袴で・・・。こうした積極的な好意と思いやりは明らかに勝者の寛容以上のものである。」(1948年「捉まるまで」として『文学界』に発表,1952年『俘虜記』に収録。)
また米空母の艦長が体当りして戦死した特攻機の日本兵士を、国旗にくるんで米軍の戦死者と同じ栄誉礼で水葬に付したという逸話を読んだ記憶がある。感動したが、はっきりしなくて困惑していたのも事実だ。遺体をくるんだ「国旗」が星条旗だったのか日章旗だったのかということである。日章旗だとすると、それは何処にあったのだろう。特攻死した兵士が、襷がけにでもしていたものだったのだろうか。いずれにしろ美談である。
戦争末期、小笠原群島の父島は本土防衛の最先端基地であり、通信施設があった。James Bradley, Flyboys (New York: 2003)はこの重要な基地を空爆中、高射砲弾が命中した米爆撃機の乗組員の運命を辿ったドキュメンタリーがある。海上で潜水艦に救助されたのは後の米大統領ジョージ・W・H・ブッシュ氏であった。残りの8名は日本軍の捕虜となり、裁判も無く、処刑された。
処刑される兵士は先ず死後の自分が埋められる穴を掘らされた。出来上がると足をその穴の中に垂らして穴の縁に座り目隠しをされる。斬首をする日本兵の他に、観客として日本軍兵士が集められる。しかし、集められた日本兵はこれから怒る残忍な光景に耐えられず、ほとんど皆、日本刀が振り上げられた瞬間までには、処刑現場から消え去っていた。
著者は硫黄島攻略の英雄の1人、あのスリバチ山の天辺で、星条旗を押し立てた6人の兵士の1人を父としていた。彼はハリウッド映画にもなった『父たちの星条旗』の著者でもある。そのブラッドレ-の著述は、「猿」的日本人像には終わっていない。捕虜を処刑する日本人の野蛮さだけを追及し、それに対してアメリカ人がどれだけ正義の人士であったかを語ったりしない。太平洋戦争の前史として、ペリーの黒船を砲艦外交のはしりとして、その野蛮さを叙述するばかりでなく、その半世紀後スペインから奪い取ったフィリピンで植民地支配の一手として
「10歳以上は一人残らず殺していまえ」とニューヨークの新聞が論説したと書いている。イラストに選ばれた写真には、例えば東京大空襲で油脂爆弾のためにマル焦げになって転がっている一般市民の姿がある。彼我の人命に対する無残な行為をバランスさせているのである。言い換えれば、戦争というものの狂気を告発しているのである。こういう語り口の積み重ねの先に、 昨年の現役のアメリカ大統領オバマ氏の広島訪問が実ったのではないか。
日本の総理が南京を訪れるのは何時の事か。
(みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)
2017年2月20日
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カテゴリー : 三輪先生
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