(投稿)新型コロナで大学のキャンパス長期封鎖・・半世紀前にも同じことがあった-そして大学新聞の役割  

   中国・武漢に端を発する新型コロナウイルス感染は世界約200か国に広がり、感染者は1000万人、死者は50万人を超え、終息の見通しは立たない。新入生を迎えて春学期に入った上智大学もキャンパスの事実上の封鎖が続く。だが、上智のキャンパスが長期封鎖という危機的状況に陥ったのは、初めてではない。半世紀前、世界中に巻き起こった学園紛争の嵐の中で、約半年間、キャンパスが封鎖されたのだ。(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

*紛争の嵐、上智騒乱、校舎占拠…

   1960年代半ばから後半にかけて、ベトナム戦争や日米安保条約改定に反対する運動が野党勢力を中心に激化し、連動する形で反体制を標榜する全共闘系学生たちによる学園闘争が全国の大学に広がった。上智大学でも、1968年秋には校舎群が暴力的に占拠、封鎖し、講義を始め学内の活動がほぼ停止した。

 ちなみに、当時の上智大学はすでに、大学当局と教職員、学生が協力して、大学改革に取り組んでおり、他大学に見られたような、反体制学生たちが“破壊的行為”をするための”正当”な理由はなく、多くの学生の支持を得られなかった。

  学内紛争が激しさを増す中で、かじ取りを任されたヨゼフ・ピタウ理事長ら大学の新首脳陣は良識派学生グループと協力して説得による封鎖解除実現に努めたが、封鎖学生の内部抗争もあって効果なく、同年12月下旬に機動隊による強制封鎖解除。荒らされた校舎の改修などのため翌年四月までキャンパスが閉鎖された。

 

*切望された「公正な報道機関」

   私が上智に入ったのは1965年。すでに危機の前兆があった。キャンパスの中を、「反帝国主義」「反安保」などを叫ぶ一部学生が、立て看板を背景に我がもの顔に闊歩し、入学前に想像していた静かな学究的雰囲気とはかけ離れたものを感じさせた。

 講義が始まって間もなく、ショッキングな体験をした。大教室で講義を始めようとした新聞学で日本的権威の教授を、数人の全共闘系学生が取り囲み“自己批判”を強要した。ショックを受けた教授は涙声で何か答えようとしたが、言葉にならない。学生たちは、教授を罵倒し、笑いものにしたのだ。

 議論したいなら、別の場所で正々堂々と主張を戦わせればいい。こんなことが当たり前になるようでは、高い授業料を払って学問をしに大学に来た意味がなくなる…。

 大学生活に慣れて分かってきたのは、こうした事態を解決しようとする動きが学内に見当たらないことだった。「上智大学新聞」は全共闘系の”宣伝紙“になっていて、学内の動きを客観的に知る手立ても、声を上げる手段もない。何とかできないのか…。

 そうしたある日、同級の某君から「大学と教職員、学生が協力して、新しい学内新聞を作る計画がある。会合に来てみないか」と誘われた。

 会場には二十人人以上の学生のほか、「上智大学新聞」の元編集長で上智職員の赤羽隆久氏、総務部長の河野義祐師が席を並べ、創刊の話があり、準備開始で合意した。

*たった3人で創刊、薄氷を踏む思い

 だがその後、読売や朝日と同サイズの新聞を毎月1回出す、取材も編集も印刷、発行の体制もゼロから、全共闘などからの妨害も覚悟が必要、などが分かってくると、多くの学生が去り、残ったのは、赤羽氏と新聞作成は初めての学生二人―卒業まで半年の法学部四年と外国語学部一年の私―の3人。

 赤羽氏から手取り足取りの指導を受け、悪戦苦闘、1965年12月1日、創刊にこぎつけた。しかし、出来上がったばかりの新聞を丸ごと燃やされたり、「大学当局の回し者」などと脅されたり。いつまで発行を続けられるのか…。まさに薄氷を踏む思いだった。

 それでも、地道に努力を続けていくうちに、協力者も増え、編集員は十人前後までになった。学園紛争の嵐が吹き荒れる中で、大学当局が教職員、学生と協力して大学改革に取り組む上智の動き。それを公正に、多角的に報道し、学内の皆が情報を共有すべく努めた。

*危機を乗り越えた全上智人の協力

 1968年秋、全共闘系学生たちによる校舎バリケード封鎖、占拠という事態は避けられなかったが、上智新聞の報道で現状をただしく認識する学生、教職員の大部分が危機乗り切りで足並みをそろえ、機動隊による封鎖解除、3か月半のキャンパス封鎖を経て、大学の機能は円滑に回復し、改革も進んだ。

 ピタウ理事長、守屋学長を中心に、学生の勉学、課外活動などに学生の主体性を尊重する大学運営の抜本改革、東大、京大、慶応、早稲田など、いわゆる”一流大学”の後塵を拝していた教授陣の抜本的なレベルアップなどに精力を注がれた。

 他大学では紛争終結後も、大学当局の硬直的な姿勢や学内紛争に我関せずの立場をとった多くの学生に失望した優秀な教員の離反など後遺症が長く続いたが、上智の場合は、学園紛争を結束して乗り越えた大学当局、教職員、学生の努力が速やかな立ち直りを実現し、上智の飛躍につながっていったのだ。

*飛躍へ、「上智新聞」の貢献

 ピタウ理事長はその後、学長などを経て、バチカンで教育省の次官になられたが、任期を終え日本に戻られて出された自伝で上智新聞を高く評価してくださった。

 「紛争当時の他の大学との際立った違いは、上智新聞が、学生や教職員に、適切な判断と対応を可能にする公正な情報を提供し続けたこと… 良識派学生や教職員を結集して紛争を乗り越え、大学を新たな発展につなげることに貢献してくれました」(上智大学出版刊「自伝・イタリアの島から日本へ、そして世界へ」)。

 上智新聞は、創刊号の論説で「全学生のために、全教職員のために…上智の伝統と育成のために、学内のニュースを的確に伝え、(学内)世論を集結し、学内を啓発する」と役割を規定した。具体的な対応は時代環境によって変わるとしても、基本は変わらない。

*活字離れの今、「読まれる」には

   新聞の命は一人でも多くの人に「読まれる」ことにある。一般紙でも、大学新聞でも同じだ。活字離れが深刻な現代では、なおさら、「読まれる」努力が必要だ。

  目を引く見出しや写真、レイアウトを工夫することも必要だが、大事なのは中身だ。世界、日本の社会、大学がどの方向に進み、読者の関心がどこにあるか的確にとらえ、それに応えつつ、編集者の思いを伝えることだ。それには識別力、判断力、文章力を磨く必要がある。

  “同好会のノリ”も時には役に立つかもしれないが、“面白がっているだけ”では、読者を惹きつけられず、飽きられる。

   難しいのは百も承知だ。だが、そうした努力を上智新聞の記者、編集者として重ねることは、学生生活を充実したものにし、社会に出た後、一生の中で必ず役に立つ。

  上智卒業後、読売新聞に入り、経済部記者、ロンドン特派員、論説委員、論説副委員長、東南アジア地域統括を務め、インターネット・メディアの最前線にいる筆者の結論だ。

(なんじょう⊡しゅんじ=1969年外英卒、上智新聞・初代論説企画委員長、第三代編集長、元読売新聞論説副委員長、現・中曽根康弘平和研究所研究顧問)

(「上智新聞」2020年7月1日号に掲載した筆者の寄稿を手直しの上、掲載しました)

 

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2020年7月2日