・Sr.岡のマリアの風 ㉘三位一体の祭日に…リラックス法…

 山登りが好きなH神父。仕事の合間を縫って(本当に忙しい!)、休日には山登り。
「神父さま、休みの日に山登りなんて、いつ『休む』のですか?」という、わたしの「正直な」質問に対して、「いや~、山を登ることが、リラックスなんですよ」と、当たり
前のようにH神父。
「だって…疲れるでしょう?」…どうも、わたしとH神父の「感覚」がずれている、と感じながらも、さらに質問するわたしに、H神父は答える。

 「疲れ果てて、頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。それが、リラックスなんですよ」。

 H神父にしてみれば、この気持ち、わかんないだろうな~と言いたいところだろう。先日、N教会の主日のミサにあずかったとき、主任司祭H神父(山登りのH神父とは別の)が、説教の中で、ちょうど連休だったこともあり、「休む」ことについて話した。

 わたしたち日本人は忙しいから、連休、となると、忙しかった分「休まなくちゃ損」、つまり、「働いた分、取り戻さなければ、休まなければ…」と「忙しく」なる。で、結局、「休み疲れ」になり、その「休み疲れ」を取るために、また休まなければならない…という話。

 そして、「本当に休みたいなら、わたしは次のことをお勧めします」と、H神父流「休む業」とは…森の中に入って、「ボ~っと」すること。

 「何も考えてはいけないですよ。木が美しいとか、空気がさわやかとか、そんなことも考えない。とにかくボ~っとするんです」。「ボ~っとしていて、心の中から、わたしの存在の中心から、何か湧き上がってくるのを待つ」。「ああ、この『雑草』と呼ばれる草花は、神さまが命を与えてくださった場所で、けんかすることなく、譲り合いながら生きているんだな~」とか、「この木々は、誰からも世話されずに、それでも、神さまに向かって、天に向かって、ひたすら伸びているんだな~」とか…。

 「考えるんじゃないんですよ。考えてはいけません。自然にわきあがってくるまで、ボ~っとしているんです。わきあがってくる思いをもって、しぜ~んに、創造主である神さまを賛美するんです。すべてお恵みなんだな~と感謝するんです」。

 H神父いわく、これが「休む」ということ。山登りのH神父も。ボ~っとのH神父も、「見た目」違うけれど、同じことを言っているのかな~、とわたしは思った。

 頭が真っ白になること 体が疲れ果て、体の芯から真っ白になること。そのとき、わたしのこの存在、この体、この魂を造ってくださった方の懐で、わたしはすべて「委ね尽くして」リラックスする。ボ~っとする中で、わたしの存在から自然に湧き上がってくる「驚き。 どんなにささいなことでも、それは驚きだ、と言えるだろう 」に委ねる。「わたしが」休まなきゃ損…から、わたしを造ってくださった方の懐に、わたしを委ねる、への通過。

 今日、三位一体の祭日。朝、ロザリオ片手に外に出て歩いていると、二人の姉妹たち(シスター)が、黙々と草取りをしていた。「何をわざわざ休みの日に」…と思うのは、「休まなきゃ」派の考えることだろう。きっとこれが、このシスターたちにとっての「リラックス」なんだろう。

 先日、信徒のSさんは、N市内から、わざわざこの山奥の修道院に来てくださり、茂りすぎて収集がつかなくなっていたバラの剪定をし、植えたばかりの小さなゴーヤの苗に覆いかぶさっていたお茶の木の枝を切ってくださった。昨年、ゴーヤがカーテン状に伸びるために、網をかけてくれたのも、このSさんだ。「わざわざ、休みの日に…」。

 「わたしの時間」を、人のために使うなんて「もったいない」「損する」というのは、「ぶどう園のたとえ話」で、朝早くからやとわれて働いた人が、夕方遅く来て働いた人と同じ賃金をもらって、ぶつぶつ言うのと似ているような気がする。「最後の瞬間に来て、ちょっとだけ働いて、同じ賃金をもらうなら、朝から働いて『損した』」、という理屈。「放蕩息子」の話しも、そう。

 そして極めつきは、いわゆる「天国泥棒」と呼ばれている、十字架上のイエスから「あなたはわたしと一緒に、今日、天国にいる」と言われた強盗の話だろう。「わたしは、小さいころから、若いころから、 こんなに苦労して 信仰を守ってきた。それを、好き放題して、悪い事までしておきながら、最後に悪かったと思っただけで、天国に入れるなんて。わたしももっと、好きなことすればよかった。損した」、という理屈…。

 「一生懸命頑張り過ぎる」と、すべてが「恵み」であることを、忘れてしまうことがある。この、わたしの命そのものが、「恵み」であること、そもそも、わたしという存在そのものが「恵み」であることを、忘れてしまう。

 パパ・フランシスコは、今、毎週水曜日の一般謁見のカテキズムで、教会の「秘跡」について話している。「洗礼」によって、こんなに弱く、罪びとであるにも関わらず、「本当に」神の「子」としていただいたこと。これ以上の恵み、喜びはない、と、パパは強調する。

 この恵みに慣れ過ぎて、感謝できなくなると、教会の掟に「しばられず」、「自由に」遊べる人はいいな~、ということになる。このみじめなわたしたちが、どんなに信じられない「代償」をもってあがなわれたかを、考えなさい、そしてそれにふさわしく生きなさい、と使徒パウロは言う。

 大人になって洗礼の恵みをいただいたわたしにとって、洗礼、ミサ聖祭、ゆるしの秘跡の「無償」の恵みは、どんなに感謝しても、感謝し尽くせない。このように無限の恵みを前にしたら、どんなことが起こっても、「損をした」とは思えない。無償の洗礼の恵みによって、本当に「神の子」としていただいて、本当に「神のいのち-永遠のいのち-」をいただいたのだから。

 今日は、三位一体の神の神秘に「驚き」、賛美し、感謝する日。わたしたちの神が「孤独」の神ではなく、「交わり(コムニオ)」の神であると知ることは、何とすばらしいことでしょう、と、聖書学者A. Vanhoye枢機卿は書いている。わたしたちは実際に、洗礼によって、この「交わりの神-たがいに与え尽くす、愛の神-」の中に入る。

 Vanhoye枢機卿の言葉を、ちょっと聞いてみよう。

 「わたしたちの心は、この神の賜物への感謝でいっぱいになるはずです。もしかしたら、わたしたちは、三位一体の神のいのちにあずかっているという特権、その神秘の中に入れられているという特権について、十分に考えていないかもしれません 「考える」とは、知的な知識だけでなく、それに生き生きと(バイタルに)あずかること-それはより大切です-によって。神が、三つの「ペルソナ」の一致であると知ること自体、すでにわたしたちにとって大切な知識ですが、これらの神の「ペルソナ」との交わり(コムニオ)の中に生きるということは、さらにより尊いことです」

 「…わたしたちの、三位一体の神との関係は、わたしたちにとって、大きな喜びの源でありますが、同時に、深い要請の源でもあります。実際、真の愛は、わたしたちの人間としての全能力を使います わたしたち自身をすべて捧げることを要求します。神の愛は、炎のようです、だから、多くを要求します けれどそれは、わたしたちを恐れさせるべきではありません。そうではなく、わたしたちは信頼をもって前に進むことが出来ます。なぜなら、神の恵みがわたしたちを支え、愛の生活(愛する生き方)においてわたしたちを成長させるから。実に、愛の生活は、もっとも聖なる三位一体の神のいのち自身にあずかることです 」。

 そんな難しいこと言われても…と、言われるだろうか?でも、これはまさに、わたしたちの「いのち」がかかっていることだ。そして、わたしたちを通して、すべての人々の「いのち」がかかっていることだ。「わたし」は「丸ごと」恵み、まさに「恵みのかたまり」であることを、しばしば、特に、どうしようもなくなったとき、前が見えなくなったときに思い起こしたい。頭で考えることも大切だけれど、それ以上に、神の「懐」の中で、「ボ~っと」しながら、「頭が真っ白に」なりながら、この「丸ごと恵みの存在」を味わいたい。

 アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2018年5月27日 | カテゴリー :