・Sr.阿部のバンコク通信 (82)「信者になる人がいる」という不思議に主の働きを感じる

 先日、故粕谷甲一師のシリーズ物を読んでいて、意外な考えに出会いました。

  「いつも思うのですけれど、日本に信者が増えないのは不思議だというのではなく、信者になる人がいるというのが不思議ですね。…遠い死海のほとりの植民地で始まった宗教…教祖はたった3年しか働かないで無残に殺されてしまい、弟子もばらばら…そんな新興宗教かなんて山ほどありますね。みんな消えちゃうでしょう。その中で一番ぱっとしないキリスト教が消えないで、どういうわけか千年以上たってこのアジアに届いて…」

 タイに来て出会いがあって、数十人の信仰入門-洗礼のお世話をする機会があり、この『不思議』をいつも感じていました。粕谷師の言う『やはりそれは神さまの先手、その力が働いている』事に尽きると実感しています。人を通して求道者を私の所に導き、先手を打って働いておられる目に見えな神さまの不思議に触れるのです。

 昨年受洗してタイのカトリックの女性と結ばれた日本の青年、朝7時から10時に修道院まで通って信仰を学び、一緒に聖歌を歌い、祈りました。十字を切る仕草がしっくり身につく姿を見て、「あゝ、神さまと親しい触れ合いに導かれている。良かったなぁ」と思いました。

 先月、25年以上も前に信仰の手解きをして洗礼のお世話をした女性の方。タイのカトリックの男性と結ばれ、4人の素敵な子供たちのお母さんになっていました。久しぶりにお会いしたのは、19 歳で白血病で亡くなった3番目のお嬢さんの通夜の席。暖かい愛の涙の見送りで、家族の皆さんの信望愛の深い絆を感じました。

 毎日曜、家族でミサに与り、お墓参り、濃密に生き切った娘の人生から汲み尽くすことのできない宝を見つけ、大きな悲しみの中で希望を絶やさず、「娘の残した手造り珈琲淹れで、大好きな珈琲を味わっています」と語ってくれました。

 「あなたがたは『小さな群れ』、『パン種』」というイエスの言葉のように、粉に紛れて役割を果たす小さな信徒の存在、教会はその細やかな存続のために真剣に宣教するわけです。バンコク教区の受洗者は毎年200人ほどですが、タイ仏教社会の大海の一滴です。

 粕谷師の著書から思いがけない示唆を受け、宣教活動の動機を深く強く激励され、広い神の視野に導かれました。「1人ひとりの自由の領域に神様が働くのを手伝うのが宣教。神様に取って代わることではない」。その通りです!

 主よ、私を鍛え、福音のためにご自由にお使いください。

 (引用は、粕谷甲一著、女子パウロ会発行「キリスト教とは何か」シリーズより)

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

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2023年10月6日