・”シノドスの道”に思う ③多様性の ある”逆ピラミッド”が、”シノダル(共働的)な教会”が目指すべき姿

 前回、「逆ピラミッドan inverted pyramidの教会」という言葉を紹介しました。これは2015年に教皇フランシスコが演説で用い、また国際神学委員会作成の『教会の生活と宣教におけるシノダリティ』(2018年)に出てくる言葉でした。「逆ピラミッド」が「シノダルな教会」のあり方なのです。

 第2千年期の教会は「位階制中心の教会」でした。ピラミッド型の教会です。しかし、第3千年期の教会は再び第1千年期のように「シノダルな教会」になることが「神の意志である」と教皇フランシスコは明言されました。「シノダルな教会」は逆ピラミッドの教会―上に一般信徒がいて、教皇や司教といった聖職者は底辺に位置して、皆の奉仕者となる教会…。しかし、本当に逆ピラミッドの教会になるためには、教会法の改訂や種々の規定を設けて、奉仕のあり方や信徒の発言権などが具体的に明文化される必要があるでしょう。

 教会とは「神の民」です。基本的には、洗礼によって誰もが聖霊を受けて平等なのです。多数を占める一般信徒がいて、その中から役務者としての司教司祭なども出てきた。第二バチカン公会議の『教
会憲章』30項に「神の民について言われたすべてのことは、信徒、修道者、聖職者に等しく向けられている」とある通りです。「神の民」全員のシノダリティ(共に歩む・協働性)があらゆる面に浸透していかねばなりません。

*かつては「位階制」が教会の「本質」であったが

今まで教会はピラミッド型の教会でした。権威と権力を持った上位者がいて、無力な下位の者がいる。「権威」は、容易に「権力」になります。上には教え命じる聖職者がいて、下には学び従う信徒がいた。信徒は受け身で従順であることが求められた。ヒエラルキアは「聖なる位階制」ですから教皇、司教、司祭、助祭、修道者など聖職者のみが本来的な教会です。その下に、「俗人」と呼ばれた一般信徒を置きました。「聖」と「俗」をきっちり分けていた。

 ですから、聖堂は祭壇のある内陣と信徒席は柵で仕切られ、御聖体をいただくときは舌で受けていた。このような聖位階制の「制度としての教会」が教会の「本質」であると考えられてきました。

*「教会の神秘」「神の民」こそが教会の本質である

 それに対して、第二バチカン公会議は『教会憲章』冒頭の第1章と第2章に「教会の神秘」「神の民」をもってきて、これこそが「教会の本質」であるとした。キリストの命に活かされる「神の民」です。そのあとで「教会の組織」または「教会の成員」として位階制度(特に司教職)をもってきた(岩島忠彦著『キリストの教会を問う』359ページ、増田祐志著『カトリック教会論への招き』184~186ページ)。

*今は「妥協の産物」から脱却すべき時

 『教会憲章』『現代世界憲章』の示す教会は、キリストにおける新しい「神の民」を教会の本質とする進歩派と、制度的位階制を支持する保守派との「妥協の産物」であった、と岩島師は何度か述べています(前掲書358,364,367ページ)。そのため司教職や司祭職は奉仕にある、と書いてはありますが、現実にはそうはならなかった。1983年公布の新教会法典の聖職者中心の規定もあるため、位
階制的教会観を持ったままで働いている司教・司祭が少なくないのです。公会議後80年経ってもあやふやな状態が続いています。

*ピラミッド型から逆ピラミッド型の教会へ

このように「位階制」というものは、教会の制度または組織であって、教会の本質ではない。もし位階制・ヒエラルキーが、教会の本質で、変更できないものとしてあるのなら、位階制が神の意思として続いてきたのなら、それは人間の意思で勝手に変更できませんから、教皇フランシスコは「逆ピラミッド」という言葉を使わなかったはずです。10月に開かれる世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会に向けた”シノドスの道”の第一段階として、一般信徒の声を聴く必要もなかったでしょう。

 位階制が教会の本質ではないからこそ、ピラミッド型から逆ピラミッド型に変えることも可能であり、変えねばならないのです。教会の存在理由はミッション(福音の宣教、皆が神の民になること)にあるのであって、制度が目的ではありません(増田祐志著『カトリック教会論への招き』64ページ)。

 先述した教皇フランシスコの演説に「教会の構成的要素としてのシノダリティは、位階制の職務自体を理解するための最も適切な解釈の枠組みを私たちに与えてくれます」とあります。逆ピラミッド型の教会では、位階制の職務は奉仕にあります。聖職者は教え、命令する者ではなく、奉仕者、役務者として皆に仕える。

 仕えることの基本は「聴く」ことにあります。人に聴き、神に聴く。信徒に「聴く」ことなしに逆ピラミッド型になることはあり得ません。神の民全員が「聴かれる」ことによって、シノダリティが位階制を規定していくのです。位階制がシノダリティという性質を教会に付与するのではありません。

*普遍(ローマ)と多様性(世界の地方教会)の不一致

前にご紹介したヘルダー社刊の特集号「動き出す普遍教会」は、フランク・ロンジの「多様性の道…グローバル教会は補完性を必要としている…」という論文で締めくくられています。このグローバルな世界でカトリック教会は、地方の多様性を認める必要がある。それには補完性の原理が求められる、と。

 現代の民主主義を体験して、あるいは知識として知っているグローバルな世界では、ローマの示す普遍をそのまま各地方に持ち込むことは、もはや不可能です。日常生活と教えの不一致、性的虐待とその隠ぺい、司教らのリーダーシップの欠如など、信徒の間に不信と倦怠感、無気力が広がり、教会は下降スパイラルに入った、とロンジは言います。ドイツ、フランスだけでなく、カトリック国と言われたイタリア、スペイン、アイルランド、南米諸国などほぼすべての国で、カトリック信徒の数が激減していますし、とくに若者の教会離れは深刻です。

 土地も気候も人種も歴史も文化も異なっている多様な世界で、神が望む普遍的な教会、皆が一致できる教会の教え、倫理、制度はどのようなものなのか、問われています。

*補完性の原理について

 「補完性」とは何でしょうか。その原理は二つの面から成ります。すなわち、下位の単位(個人や団体)で出来ることに上位の単位は介入しない。しかし下位の単位ができないこと、力の及ばないこと
には、上位の単位が積極的に介入することが許される(あるいは、支援することが求められる)、というものです。

 位階制は中央集権制の統治です。普遍を体現するローマから世界の各地方教会へ。そこに補完性の原理が加わることで地方教会は自由裁量の幅が広がります。地方でできることは地方で自主的に決めて行なう。現実に適応した政策が可能となる。

 一例として、今、司教をどのようにして選んでいるのか、教区民にとって極めて不透明です。シノダルな教会には透明性が求められます。地方は自分たちで「神の意思は何か」を考えながら、活動・運営していく。従って、教皇・司教たちと信徒の関係は、これまでの上下関係から「水平」の関係、「対等・協力」の関係になっていくはずです。

*補完性の原理によって多様性を活かす

 10月からローマで始まる2期にわたるシノドス総会の『討議要綱(作業文書)」のAにあるように、シノダルな教会の一つに、「画一化を求めず多様性を恐れず、多様性の中で一致を生きること」があります。

 前回ご紹介したレオ・ボッカルディ駐日バチカン大使の講話の11番にも「意見の多様性を排除するのではなく、多様性の調和の中で一致して歩む」のがシノダルな教会であると述べておられました。補完性の原理によって多様性を可能にします。

 「補完性 subsidiarity」という言葉は、『討議要綱』B2.2に出てきます。地方教会において、洗礼を受けた信徒は、司祭に従属的な形ではなく、もっと主体的な奉仕ができるように、補完性の種々の形を法制化することが考えられるのではないか。叙階された司祭などの奉仕者と並行して、あるいは彼らと相補的な関係を持ちながら、教会のあらゆる場面で、信徒が持つ賜物やカリスマに応じて、キリストの預言的、司祭的、王的な3つの働きに参加できるように、適切な形・やり方を法的にも規定していく… そのようなことが今回の”シノドスの道”の大陸レベルの多くの会合でも議論されました。すべての信者は洗礼によって共通祭司職をいただいているからです(『教会憲章』10,11項)。

*一致と多様性のバランス

 フランク・ロンジによると「社会教説の中で、教会は補完性の原理を強く支持している… <一致及び必要な画一性>と<可能な多様性>の関係は、再定義されなければならない… より上位の者
は、多様性のため直接に支援して、個々の独立した規則をもって援助しなければならないのである。ローマのシノドス事務局が『自分たちは地方教会をシノダリティの創造で支援します』と言ったのは良いことである」。

 地方教会は自治を基本とし、地方だけで出来ないことをローマが支援するという形で、各地方の多様性は生かしていく。一致・統一と多様性を神学的にも法制的にもどのように規定・調整できるか、問われています。

*画一化ではなく多様性を活かす方向… のはずだが

 最後に、以前は、ミサの栄唱は司祭が「キリストによって、キリストと共に… 全能の神、父であるあなたに」、そして会衆が「すべての誉れと栄光は、世々に至るまで、アーメン」と唱えていました。土屋吉正師によると「会衆の参加を促すために、日本の典礼では歌う場合、<アーメン>だけではなく<すべての誉れと栄光は>から歌うことができるようになっています」(『ミサ』あかし書房)。

 ところが、今回の改訂で規範版に従い、すべて司祭が唱えることになった。せっかく日本(地方)が勝ち取ったものを失い、会衆の参加部分が減ったことは残念でなりません。規範版(ローマ)に従うことはただの画一化であって、「多様性における一致」とはほど遠いものです。これは地方の活力を奪うものではないでしょうか。

(西方の一司祭)

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2023年8月30日