前回、ドイツ司教協議会と信徒組織ZdKが共同で進めてきたドイツ固有の「シノドスの道」での決定がそのままではバチカンに容認されなかったため、シノドス評議会の設立は難しくなったこと、バチカンの主張は、叙階の秘跡によって「統治の権能」を持っている司教が一元的かつ最終的に教会の統治の権限を持っているので、一般信徒をそこに平等に加えることはできない、共同統治は不可であるとのバチカンの主張について若干考察しました。
いずれにせよ、司教協議会はバチカンによる世界シノドスに合わせながら、ドイツ固有のシノドスを進めていこうとしています。今回は、ドイツ司教協議会春季総会最終日、2月22日付けドイツ司教協議会のプレスリリースから、 協議会議長ベッティングによる「報告書」の言葉を順に追っていきます。司教たちがどこに重点を置いているかが、垣間見えると思うからです。
*総会のシノドス関連のテーマは・・
総会の議題の中でシノドスに関しては、「シノダルな教会その一:世界シノドス」、「シノダルな教会その二:ドイツの教会のシノドスの道」と2回に分けて議論されました。まず世界シノドスに関して検討されたテーマは3つ。①(司教の)統治の全権をどう取り扱うか。責任重大なかつ構造的に確認・保証されるような取り扱いrückgebundene Umgangをすること。②教会において権力をさらに分散すること。⓷役務担当者は説明責任を実践すべきこと。
*『総括文書』における司教・・
昨年10月の世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会第1会期の『総括文書』Nr.12(シノダルな教会における司教のあり方について)、Nr.18(参加の構造について)から引用がなされています。昨年11月のこのコラムで筆者はNr.12を取り上げましたが、それはシノダルな教会になるか否かは司教にかかっているからでした。先ほど司教の「統治の全権」とあったように、総括文書においても、すべては司教にかかっているのです。
さて、引用箇所の一つは「この役務は、統治が共同責任においてなされ、宣教・告知が敬虔な神の民に聴くことによってなされ、謙虚さと回心を通して聖化と典礼的祝いがなされる時、シノダルな姿で
現実化する(Nr.12.b)」。すなわち、統治が共同責任によって、宣教が聴くことによって、聖化と典礼的祝いが謙虚さと回心によって、この3点が実践されるなら、司教の統治はシノダルなものになるだろうというのです。
宣教や典礼はさておき、「統治が共同責任によって」なされるのがシノダルである、というのが重要ですが、では司教の全権を、誰が、どのように「共同で」行使するのかは、まだ明らかではありませんし、十分な試みもされていないでしょう。
*ヒエラルキーとシノダリティ
以上に続けてベッティング司教は「世界シノドスの重要なテーマの一つであり、また次回の審議のため重要なテーマは、ヒエラルキー的に作られている教会の役務とシノダリティの相互性の問題である」と述べています。ヒエラルキーとシノダリティの関係をどう考えるか、です。2015年のフランシスコ教皇によるシノドス設立50周年記念講演で「教会の構成的要素としてのシノダリティは、ヒエラルキー的奉仕自体を理解するための最も適切な解釈の枠組みをわれわれに提供している。聖ヨハネ・クリソストムが言っているように教会とシノドスは同義語である・・」とありました。
従って、少なくともシノダルなやり方でヒエラルキーは運営されなければならないことは確定していると言えますが、一般信徒との共同統治ができないとすると、どの程度までの共同ができるのか、極めて曖昧になりそうです。第2会期の審議の大きなテーマでしょう。
*司教と共同責任のありかた
もう一つ引用されているのは「司教は<すべての、ある人々の、一人の>間の循環を促進することで、地方教会のシノダルなプロセスを主導し活性化するという重要な役割を持っている。すなわち、この司教職(「一人の」)は「すべての」信者の参加を、直接的に識別プロセスと意思決定プロセスに携わる「ある人々」の貢献によって、促進するのである。司教が理解するシノダルな観点の確信と、彼が権威を行使する際のスタイルは、司祭、助祭、一般信徒、修道者・修道女がシノダルなプロセスにどのように参加するかに決定的に影響する。全員のために司教はシノダリティの模範となるように召されている」(Nr.12c)。先ほど出ていた統治の「共同責任」を司教がどのように捉え現実化していくのか、第2会期でどこまで議論がされるか、一つの焦点となります。
*共同責任の担い手はシノダルな諸委員会
続けてベッティング司教は「核心において、世界シノドスの考えは、ドイツの<シノドスの道>の基本文書『権力と教会における権力の分散—宣教の任務における共同参加、共同参与—』の観点と一致している。司教の統治はシノダルな諸委員会での信頼でき、構造的に確認・保証される作業Rückbindungを必要とする。このことは司教の最終責任に矛盾するものではなく、司教の全責任の存立に必須の重要な部分である。」と述べています。
これは重要な言明です。以下に説明していきます。
初めに述べた3つのテーマのうち、最初のものは「司教の統治全権の取り扱いについて<責任重大な、構造的に確認・保証されるような取り扱い>をすること」でした。そして「シノダルな諸委員会における信頼でき、構造的に確認・保証される作業を必要とする」と言います。つまり司教の<共同責任>の担い手は「シノダルな諸委員会」であると。
バチカンの総括文書(Nr.12.b)の「共同責任」の担い手は「シノダルな諸委員会」であるというのがドイツ司教たちの考えです。重い責任を負い、構造的組織的に確認しながら、司教のすることの是非を判断・保証しながら統治の任を分け持つ。あえて敷衍すれば、司教の働きを絶えず監視しながら同行すること。司教が何かを考えたり決めたりするとき、諸委員会もその側にあって同じ問題を考え、 助言し、決定への承認もする。そのためには司教と「シノダルな諸委員会」は信頼関係を持ち、互いに見える距離を保ちながら司教の行為を確認・保証していくということでしょうか。
*カウンターパートとしてのシノダルな諸委員会
ちなみに、2022年2月3日のシノドス集会で決議された基本文書『権力と教会における権力の分散—宣教の任務における共同参加、共同参与—』の中に、「教区レベルで司教にとってのカウンターパート(対応するもの、相補的なもの)を組織し、彼らがどう働くかを決めるシノダルな構造が必要である」とあります。統治者が司教一人だと君主制になりますが、そうではなく司教と対になるような、司教に相対する存在、カウンターパートが存在すれば、もっと民主的になります。
先に述べた「シノダルな諸委員会」を設けることがカウンターパートとなり「シノダルな構造」ができるでしょう。そして彼らが司教の働きを監視しつつ、それを是認するなら、司教は確信を持って自分の権威を行使できるようになるでしょう。
次に2つ目の「権力分散」について。一例として虐待問題の取り扱いに関して総括文書は、多くの司教は父親の役割と裁判官の役割の両方を受け持つのは難しいので、裁判官の任務を別の機関に委ねるべきとしている(Nr.12.i)。同様に、関係所管庁間での<チェックアンドバランス>の原理、<コントロール・調整・協働のメカニズム>が、権力分散のため必要である、とドイツ司教たちは言っています。
3つ目、役務の担当者の説明責任について。総括文書で「参加する組織体・団体は・・・共同体に対して説明責任の文化を実践するように勧めます」(Nr.18i)。教会を透明な組織・構造にして、説明責任も持たせないと、もはや人々は納得しないということでしょう。
以上、3つのテーマは第1の「司教全権が共同責任で」という点が具体化できれば、第2「権力分散」、第3「説明責任」もクリアできそうに思います。
次にドイツのシノドスの道を今後どう進めていくかに関しては、これまで司教たちとZdKで進めてきたイニシアティブをさらに発展させること、そして「教会法の条件に合致したシノドス評議会を準備すること」が決議されたことを特に述べておきたいと思います。「シノドス評議会」設立を諦めたわけではありません!なお6月に司教とZdKの、シノドス委員会(代表者会議)開催予定です。
*秋のシノドス総会第二会期に向けた作業
ところで、1月23日付け司教協議会のプレス報道で、協議会の常任委員会は、世界シノドス第二会期に向けた今後の準備として、各教区に、以下のような質問に対して最大5ページの「省察報告書」(司教協議会事務局による)を3月31日までに提出するよう求めています。シノダルで宣教的な教会になるため、どうすれば教区レベルで神の民全員が連携して「異なった共同責任」を強化できるか、またどうすれば地方教会の諸関係を創造的に形作っていけるか、そのためには教会の全構成員の共同責任を中心に置いて地方教会は具体的な変換が求められているが・・・。
「異なった」とは様々な次元や側面での奉仕・職務があるという意味です。その後、それらについて4月に常任委員会で司教たちによって話し合いがなされ、8ページの要約が作られ、5月15日までにローマに提出されることになっています。バチカンが第二会期の準備文書を用意するためです。
最後に、シノダリティを進める上で「共同責任」をどのように捉えるかが、大きな問題となることが、ドイツの例で理解されると思います。
:ドイツ司教協議会www.dbk.de
(西方の一司祭)