復活節も半ば、教会が伝統的に聖母マリアに捧げる5月の「聖母月」が始まりました。
この時期になると、何年も前のある復活祭のミサの後で、なぜか次のような疑問が頭をよぎったのを、思い起こします。
「 福音書には、ご復活された主イエスは様々な人に現れたことが記されているが、なぜマリア様に現れたことについて何も書かれていないだろう?それが起こらなかったことを意味しているのか?」
福音書に記載がないことは、主がマリア様に現れなかったことを示しているとは思いませんでした。なぜなら、主が「500 人以上の兄弟たちに同時に現れた」(コリントの信徒への手紙一第15章6節)と、使徒パウロが証ししていますが、そのようなたくさんの人たちが関わった出来事は福音書にも記されていないからです。
また、マリア様ご自身も確かに、聖霊降臨の直前まで集まっていた弟子たちの共同体と共におられたため(使徒言行録第1章14節)、ご復活後の40日間、主はマリア様のもとに御姿を現れなかったのは考えにくいと思いました。
とは言え、御母であるマリア様は主イエスが飼葉桶にお生まれになった時から十字架の上に亡くなられた時まで共におられたため、正直、ご復活された主がマリア様への御出現について、一言でもよいので福音書記者に記してほしかったな、と思っていました。
それから、その翌年の復活節の頃だったかもしれませんが、なぜかまた、このことをより深く考え始めました。
あくまでも自分なりの思いでしたが、主イエスがご復活の後にマリア様にも現れただけでなく、マグダラのマリアや弟子たちよりも、他の誰よりも、先にマリア様に御姿を現されたではないかと思うようになりました。なぜそう思っていたかと言えば、次のような場面を思い巡らして想像していたからです。
● マグダラのマリアをはじめ婦人たちが日の明け方に墓を訪れたが、主は既にご復活され、マリア様も彼女たちと共におられなかった。なぜなら、主がすでにマリア様に御出現されたからではないだろうか?
● 墓を訪れた婦人たちは、聖金曜日に、心が揺らぐことなく、ずっと主と共にいた忠実な者だったため、最初にご復活された主と会う人たちに選ばれたのかもしれない。だとすれば、聖金曜日に、主に非常に忠実なもう一人の方がおられた。それがマリア様だった。
● マリア様はご自分の息子である主イエスの受難と十字架に対して、比類なく深い関わりを持っておられた。マグダラのマリアと他の人たちも確かに多くの悲嘆に暮れていたが、それ以上にマリア様の苦しみ、悲しみ、心の痛みは、「剣がご自分の魂さえも貫いたように」(ルカ福音書2章35節参照)、誰よりもはるかに大きかった。母親としてのマリア様は、むしろ、ご自分の息子の身代わりになりたい、と思っていたのではないだろうか?マリア様が最も苦しんでおられたため、ご復活の日に主イエスに会うことは、大いに喜ぶべきではないだろうか。
そのような思いを誰にも共有せずに持ったままでいましたが、しばらくして、偶然にも聖ヨハネ・パウロ二世教皇の一般謁見のメッセージ「マリア様は全『過ぎ越しの神秘』の証人であっ
た(”Mary was witness to whole paschal mystery” )」(1997年5月21日)を拝読したところ、なんと、私がずっと思っていたことが、その内容と一致していたのです。
聖ヨハネ・パウロ二世教皇は次のように語られています。
「この(福音書の)沈黙は、復活後、キリストがマリアに現れなかった、という結論に導いてはなりません。むしろ、福音書記者たちがなぜそのような選択をしたのか、その理由を探るように私たちを誘っています。」(第1項抜粋)
「確かに、ご復活された主イエスが最初に現れたのは、おそらく母であったと考えるのが妥当でしょう。夜明けに墓に行った婦人たちの中にマリア様がおられなかったことは、マリア様がすでに主イエスに会っていたことを示しているのではないでしょうか?」(第3項抜粋)
聖ヨハネ・パオロ二世も同じように思っておられるのを知った時、うれしく、驚きました。その後、自分なりに更に調べた結果、古い昔から同じように思っている教会の教父たち、聖人たち、神学者やキリスト教の作家たちが決して少なくない、ということが分かりました。
例えば、聖アンブロジウス、聖アンセルムス、大聖アルベルト、聖イグナチオ・デ・ロヨラ、アビラの聖テレサ、がそうです。
中でも私が最も感銘を受け、感動したのは、十九世紀の偉大な典礼学者ドム・ゲランジェ(フランスのベネディクト会の修道院長)が名著「典礼暦年」で、次のように述べている箇所です。
「福音書では、主イエスが御母に現れたことは書かれていませんが、他のすべてのことは完全に記されています。その理由を説明するのは難しいことではありません。他の御出現は復活の証拠として意図されたものですが、マリア様への御出現は、御子が御母に対して抱いた優しい愛によるものでした。福音書の中でこのことが語られる必要はありませんでした。聖アンブロジウスを始めとする聖なる教父たちから伝わった伝統は、そのことを十分に証ししていますし、彼らが黙っていたとしても、私たちの心はそれを語っていたでしょう。そして、救い主がご復活の日に,なぜこんなに朝早く墓からご復活されたのでしょうか。それは,救い主の親孝行の愛が,最も愛し,最も苦しんでいた御母の切実な願いを満たすために切羽詰まっていたからです」
なんと美しい聖なる親子水入らずの再会だったのでしょうか!ドム・ゲランジェ神父の記述を拝読した後、主イエスのマリア様への御出現が福音書に記されていなくて本当によかった、と思うようになりました。その理由も、よく理解できたような気がしました。
この5月の聖母月に、私たちはロザリオを祈りながら、聖母マリアの心をもってご復活された主イエス・キリストを観想し、世の中が直面している試練を乗り越えるために、私たちの御母の執り成しを、お願いしたいと思います。
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれて育ち、現在日本に住むカトリック信徒)
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