50 年たった今、対話が、ますます分断され暴力的な紛争が起こりやすい世界に関わるだけでなく、欠くことのできないものになっていることに、私たちは気付きました。対話する教会は、一層、「橋を架ける教会」にならねばなりません。私たちはイエスと共に、「平和を作る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(同5章9節)と宣言します。
50年たった今、信教の自由のための空間が当然のもの、とは見なされ得ないことに、私たちは気付きました。自由は、時には額の汗、殉教者の血によってなされた贖罪によって買い取らねばならないのです。”沈黙の教会”と共に、私たちは神の祝福を願います。私たちは、虐待や暴力に苦しむ人々の側に立ちます。私たちは、子供、女性、移民、難民にとって安全な世界を目指して活動するとともに、次のように祈りますー「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる 」(同5章6節)。”沈黙の教会”は贖いと希望の教会でもあるのです。
親愛なる友人の皆様、この総会のために時間を割いていただき、ありがとうございます。タイの素晴らしい人々へ、私たちを快く受け入れてくれてありがとう。タイの教会へ,あなたの明るい証しとおもてなしに感謝します。この総会が実り多いものになるように働き、祈ってくれたすべての人に感謝します。神があなたのすべての祈りを聴いてくださいますように。神があなたに健康、繁栄、平和を与えてくださいますように。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)