Bharatiya Janata Party (BJP) supporters dance to celebrate after their leader B. S. Yeddyurappa was sworn in as Chief Minister of Karnataka state in Bangalore, India, Thursday, May 17, 2018. (Credit: Aijaz Rahi/AP.)
ムンバイ発 – 1 月中旬にわずか 2日間に2件続けて起きたキリスト教徒に対する脅迫事件は、この国で少数派ながら活気に満ちたキリスト教徒が直面している脅威を鮮明に印象づけた。ヒンズー教徒が多数を占めるインドで、キリスト教徒がますます強まる”ヒンズー・ナショナリズム”の波に脅かされている。
”ヒンズー・ナショナリスト”たちは、この国のトップであるナレンドラ・モディ首相の選挙基盤の一部とされており、首相が指導する政党、 BJP と同盟関係にある。そして最近の二つの事件で、カトリックの聖職者と一般信徒は、国内で物議を醸している「反改宗法」に違反したとして告発された。
専門家は、同法が少数派グループを脅迫し、インド社会から追い出す使われることが多い、と指摘しており、同国のカトリック教会の指導者、ムンバイ大司教のオズワルド・グラシアス枢機卿は、二つの事件が「改宗法の危険性を反映している」と批判している。
1月の事件の一つは18日、インド北東部のタンドラで起きた。小教区の共同司牧者であるジョセフ・アムスカニ神父が、ミサを捧げるために近くの小さな集落に出かけた際、現地の警察に拘束された。
現地の教会関係者によると、ヒンズー教原理主義者の集団から、アムニスカニ神父が反改宗法に違反する宣教活動を行っていると告発を受けた警察が、神父と、同行していた修道女、カテキスタ、運転手を署に連行した。神父以外は間もなく釈放されたが、神父はその後、数時間も拘留され、警察署の周辺では、即時釈放を求めるキリスト教徒と神父を起訴するよう要求するヒンズー教原理主義者が集まり、険悪な雰囲気になった。
アムスカニ神父は釈放後、Cruxのインタビューに答え、「私は約 7 時間拘束されました。何千人ものキリスト教徒が警察署の周りで私の釈放を求める一方、起訴を求める”右翼分子”も25人ほどいた。彼らが互いに争うことのないよう、私はずっと祈っていましたが、互いに非常に緊張し、人々は動揺していました」と語った。
この事件の 2 日前、イエズス会が運営するNGO、「Vishwa Mandal Sevashram(VMS)」のリーダーとスタッフ約 40 人が、インド南東部のサングリ駅に到着した電車の中で暴行を受けた。 襲ったのはヒンズー教徒の右翼集団で、数人に重軽傷を負わせた。
このヒンズー教徒右翼集団は、「VMSがインドの先住民の人々を改宗させるためにやってきた」と非難し暴力を振るったうえ、地元警察に取り調べを行うよう要求。抗争に発展するのを恐れた警察当局は、VMSのメンバーたちに、約 700 マイル離れたシルプール市の活動拠点に戻るよう命じた。
襲われたVMSのメンバーたちは、これまで50年以上にわたってこの地域の先住民の人々に奉仕してきた。その一人は、「列車が午後 9 時 30 分頃にサングリ駅に到着した際、約 15 人の男が列車に乗り込んできて、『お前たちは、改宗活動に参加している』と私たちを非難し、暴力を振るい始めました。私たちが『研修旅行に来たのだ』と言っても、無視して殴り続けました。金属製の指輪で頭を殴られ、出血した人もいた。暴行を20分以上続けた後、警察官が来たので逃げて行った」と語った。
2018年からこのNGOに関わってきたイエズス会のコンスティ・コンスタンシオ・ロドリゲス神父は、この事件を「よく計画された攻撃」と批判した。「私たちは、地元の人々の生活の向上と発展、自立促進のために奉仕してきました。今回の事件はとても残念ですが、これからも奉仕を続けます」と述べた。
神父は事件後、現地の警察署長あてに手紙を送り、「私たちは今、40 の集落で 子供たちの補習クラスを開いています。子供たちに質の高い教育を提供するためのスキルを高める定期的な教習 プログラムも毎月、実施しています。 この教育プロジェクトの一環として、私たちは他の教育 NGOを 訪問した」と,”改宗”活動とは何の関係もないことを説明。
また、事件当時のことについて、「 列車には、私たちの補習クラスの教師42 人が乗っていました。サングリ駅に到着した時、若者の集団が列車に乗り込み、まだ寝ていた教師を引き倒し、棒と金属のブレスレットで殴り始めました。 障害のある教師の杖が外に放り出され、無力な状態になりました。 何人かの教師が列車から降ろされ、そのまま駅に残された人もいました」と書いた。
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グラシアス枢機卿は、 18 日にアムトカニ神父が一時拘束された際、カトリックでないキリスト教徒たちが、早期釈放に協力してくれたことに感謝し、「あらゆる宗派のキリスト教徒が団結し、互いに助け合い、団結し、神父を支持してくださったことをとてもうれしく思います。これはキリスト教一致の表明、キリスト教一致の目に見える証しです。 イエスのすべての弟子たちが共に立つことが重要であることを示してくれました」と述べた。
また、16日の事件については、被害に遭ったVMSの活動を称賛し、「過去 53 年間、地域の 部族の教育と社会生活の向上のために、たゆまぬ努力を続けてきました。貧しく、社会から疎外された部族社会に奉仕してくれています」としたうえで、「鉄道駅で、誤った批判を浴び、身体的暴力を振るわれたことは非常に残念」と遺憾の意を表明。
カトリック教会がインドで不当な改宗に関与しているとの見方を強く否定し、「カトリック教会は強制改宗に完全に反対している。強制的な”改宗”は合法ではなく、改宗とは言えない。 私たちの考えと哲学は明確です。私たちはキリストを証ししようとしているが、いかなる形であれ、他者を強制したり、圧力をかけたりすることは決してしない」と言明した。
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)
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(2023.1.21 カトリック・あい)
2023年キリスト教一致祈祷週間が1月18日から25日にかけて世界で行われている。東京では、日本キリスト教協議会(NCC)とカトリック東京大司教区の共催で「キリスト教一致祈祷週間 東京集会」が18日、昨年に引き続きオンライン配信で行われたが、菊地・東京大司教の説教原稿は以下の通り。
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カトリック東京教区 大司教 菊地 功
私たちは、暴力の支配に屈してしまったのでしょうか。この世界は、まるで暴力の支配に屈服しようとしているかのような様相を呈しています。
この3年間、私たちは未知であった新型コロナウィルスという存在に直面し、感染症の拡大の中で命の危機に直面し続けてきました。社会の中には様々な意見が飛び交っています。教会の中にも様々な意見が飛び交っています。
3年間の経験が、専門家の間に様々な知見を積み重ねさせたとは言え、実際にはどうなるのか、予測をつけることができない未知の世界に私たちは生きています。間もなく終結するという声もあるかと思えば、まだまだこれからも危機は続くという声もあり、心から安心できる日は、なお先にあることだけは確実です。
この状況から抜け出すために、世界は知恵と絞り互いに協力しながら、ありとあらゆる努力を重ねる必要があることは、誰の目にも明らかです。にもかかわらず、あろうことか、神からの賜物である人間の命に暴力的に襲いかかる理不尽な出来事が、世界各地で続発しています。
カトリック教会のリーダーである教皇フランシスコは、この感染症の危機が始まった当初より、命を守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してこられました。この危機的状況から、以前よりももっと良い状態で抜け出すためには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそがたどるべき道です」と呼びかけこられました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、命を守るのだ、と強調されてきました。
2019年11月に日本を訪れた時には、東京で東北の大震災の被災者と出会い、「一人で復興できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べられ、連帯こそが希望と展望を生み出すのだ、と強調されました。
しかしながら、この3年間、私たちの眼前では、調和も多様性も連帯も実現していません。目の前に展開しているのは、分裂であり、排除であり、暴虐です。この3年の間だけでも、例えばミャンマーではクーデターが起こり、ウクライナではロシアの侵攻によって戦争が始まりました。日本でも元首相の暗殺という、自らの思いを遂げるために、暴力によって他者の命を奪い取るような事件も起こりました。
暴力による支配が続く中で、先行きの見えない不安は暗闇をさらに深く増し、私たちは疑心暗鬼にとらわれます。「一体、これからどうなるのだろう」という先行きの不透明性は、心の不安を増し、具体的な命の危機の状況が続くとき、疑心暗鬼はさらに深まり、他者への思いやりの心は薄れ、利己的な保身に走ってしまいます。
そのような状況が続く中で心の一部を占めてしまった不安は、暴力を止めるためには暴力を持って対抗することを良しとする思いを生み出しています。いのちを守るためには、多少の犠牲はやむを得ないという気持ちになってきます。
はたして暴力が良いのでしょうか。多少の犠牲は仕方がないのでしょうか。暴力の結末は死であり神の否定です。それは歴史が証明しています。神が命を賜物として与えてくださったと信じ、神がすべての命を愛おしく思われていると信じている私たちキリスト者は、命を守り生かす事の重要性を強調しつづけ、愚直に暴力を否定したいと思います。
ミャンマーやウクライナでの独裁による圧政や戦争という暴力の現実に加え、世界には以前から、思想信条の自由を求める人たちへの圧迫が横行し、宗教者を含め正義のために声を上げる者への暴力も頻発しています。
例えば、戦いに巻き込まれる。兵士として戦場に駆り出される。独裁的な権力のもとで、心の自由を奪われる。様々な理由から安住の地を追われ、いのちを守るために、家族を守るために、世界を彷徨い続ける。乱高下する経済に翻弄され、日毎の糧を得ることすら難しい状況に置かれ、困窮する。異質な存在だからと排除される。人種が異なるから、と攻撃される。出自が問題だから、と排除される。性的な現実から、差別を受ける。
主ご自身が、今、福音を語られるのであれば、これらの人たちの現実を一つ一つ並べ上げ、私たちがどのような行動を取ってきたのか問いかけるのではないでしょうか。主が言われる「私の兄弟であるこの最も小さな者」は、いままさしく命の危機に直面するこの多くの人たちを意味しているのではないでしょうか。そうであるならば、私たちは出向いて行かなくてはなりません。命を守るために、命の危機に直面する人たちと共に歩まなくてはなりません。
連帯すること、共に歩みながら支え合うこと、そういう生きる姿勢が世界を支配し、暴力による支配を打ち破らない限り、神の望まれる正義は確立せず、平和は実現しません。神の望まれている平和の実現は、すなわち神の定めた秩序の具体化に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は、1960年代に東西冷戦が具体化し、核戦争の危機が視野に入る現実の中で、回勅「地上の平和」を著し、その冒頭にこう記しておられます。
「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「地上の平和」1項)。
私たちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。そのでも、神が賜物として私たちに与えられた命を守ることは、最も重要な課題です。しかしすでに、今回の感染症の状況が始まる以前から、特に私たちの国は武器を手にすることなく進行する戦いのまっただ中にあります。人間の命に対する暴力的な攻撃は、感染症の状況に突入する以前から顕著になっていました。
例えば2016年7月26日に、相模原市の障害者施設での殺傷事件です。障がいと共に生きている方々19名が殺害され、20名を超える方々が負傷された凄まじい事件でありました。その衝撃は、犯行に及んだ元職員の青年の行動以上に、その言葉によってもたらされています。
自らの行為を正当化するだけにとどまらず、「重度の障がい者は生きていても仕方がない。安楽死させるべきだ」などと真剣に主張していた、と報じられました。加えて、この犯人の、いのちに対する考え方に対して賛同する意見も、インターネットの中に少なからず見られました。すなわち、私たちの社会には、「役に立たない命は生かしておく必要はない」と判断する価値観が存在していることを、この事件は証明して見せました。
その後も、多くの人の命が身勝手な理由による暴力的犯罪行為によって一瞬にして奪われる理不尽な事件は発生し続けています。
いったい、私たちのこの日本の社会は、どのような価値観を持って人間の命を量っているのでしょうか。神が望まれる秩序が確立された世界からは遙かに遠いところを、現実の世界は歩んでいるのではないでしょうか。
ご存じのように、今、私たちの国では宗教の意味やその存在が問われています。元首相の暗殺事件以来、宗教団体がその背景にあると指摘され、それが宗教全体の社会における存在の意味を問いかけるきっかけとなりました。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由ですし、特定の宗教団体に所属するかしないかという個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。入信するもしないも、強制されることはあってはなりません。
宗教は、命を生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教が、命を奪ったり、生きる希望を収奪するような原因を生み出してはなりません。家庭を崩壊させたり、犯罪行為を助長したり、命を生きる希望を奪ったり、人間の尊厳を傷つけるようなことは、私たち宗教者の務めではありません。
キリスト者はすべての人の善に資するために、この社会の現実のただ中で、命を生かす希望の光を掲げる存在であり続けなければなりません。キリスト者は、この現実の中に神の秩序を打ち立てるために、対立や排除や暴力ではなく、一致と連帯と支え合いをあかしし、推し進める存在でありたいと思います。
保守的傾向を強める社会全体の風潮に流されるように、異質な存在を排除することを良しとする傾きは、私たちの教会の中にも入り込んでいます。言い返すことのできないような正論を並べ立て、教会の教えを忠実に守るかのように見せかけながら、その実、自らとは異質な存在への攻撃的な言動をする人たちが、神の愛を証ししているとは思えません。
教会は一部の選ばれた人たちだけものではなく、神が創造されたすべての命を抱合する共同体です。選別し排除するのではなく、皆とともに歩もうとする共同体です。他者を攻撃し、排除する価値観を、それも多様性の一つだからと主張して、承認させようとする考え方には同調することはできません。
光は闇が深ければ深いほど、小さな光であったとしても、希望の光として輝きを放ちます。2000年前に、深い暗闇の中に輝いた神の命の希望の光は、誕生したばかりの幼子という、小さな光でありました。いかに小さくとも、暗闇が深いほど、その小さな命は希望の光となります。誕生した幼子は、闇に生きる民の希望の光です。
神の言葉である御子イエスが誕生したとき、暗闇に光が輝きました。イエスご自身が暗闇に輝く希望の光であります。私たち、イエスをキリストと信じる者は、その希望の光を受け継いで、暗闇に輝かし続けるものでありたいと思います。不安に恐れおののく心を絶望の闇の淵に引きずり込むものではなく、命を生きる希望を生み出し、未来に向けての展望を切り開くものでありたい、と思います。輝く光であることを自らの言葉と行いをもって証しするものでありたい、と思います。連帯のうちに、互いに支え合いながら歩むものであり続けたい、と思います。
(編集「カトリック・あい」)