はじめに
:教皇庁の公式ニュースサイトVaticanNewsが、5月から、「バチカンと中国の対話」というテーマで不定期連載を始めています。6月26日掲載分はバチカン放送日本語課が翻訳、掲載されていますが、7月13日まで7回の連載が続いており、隣国の私たちにも中国との関係を考える際に役に立つ内容が含まれています。「カトリック・あい」では、英語原文を翻訳し、バチカン放送日本語課翻訳分と合わせて転載させていただきます。
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⑧使徒的継承と司教たちの正統性 (2018.7.17)
教皇による権限付与無しで叙階された中国の司教たちに正統性を与えることは、冷厳な官僚的行為ではなく、純粋かつ深遠な聖職の識別の行程だ。今回の記事は、司教についての教会法上の正当性と公民的な認証に関する問題について、取り上げたい。
(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)
カトリックは、平凡な地理的、あるいは制度的な感覚で理解されるべきではない。教義と信仰の清廉さの感覚、おなじ信仰と教義を分かち合う共同体の伝統への忠実さで、理解されるべきものだ。このような普遍性についての奥深い感覚は心と魂に触れる-カトリックは、実に、キリストにおいて多様性を調和する有機的な統合への道である。それゆえ、現地教会は、神の子全体によるミサ聖祭の挙行に向けて、司教の指導の下に、それを囲む司祭団と助祭たちによって、内面的に構成されるものなのだ。
この意味において、カトリック教会は、全世界に広がる現地教会すべてを慈愛をもって統治するローマ司教(教皇)と信仰と教義を共有する司教のいる現地教会のある所なら、どこにでも存在する。仮に、その一方で、現地の司教が、ローマ司教と信仰と教義を”生まれつき”共有せず、日々の行為の中でそうした共有を表明しないなら、極めて深刻な問題を生じる。このため、教会法は、使徒的承認なしに司祭を叙階する司教と、叙階された者に対して、厳しい措置を定めており、そのような叙階は、信仰と教義の共有に対して手痛い傷をもたらし、教会法の定めに対する重大な違反となる。
教皇の信認を得ずに叙階された中国の司教たちに正統性を与えることは、冷厳な官僚的行為ではなく、そして、ありえない-純粋かつ深遠な聖職の識別の行程をとらなくてはならない。それによって、特定のケースが、正統と認めるのに必要な条件を満たすかどうかを判断するために査定する―例えば、ある司教が、カトリックの信仰と教義を完全に共有することを改めて認められるか否か、というように。
そのような行程は、関心を持った司教たちが、聖父に、明確かつ真摯に赦しを繰り返し願うことから始まる。
その後に、次のような段階が続く-その願いに対する教皇による評価と赦し―教会法にもとづく措置と罰則、とくに破門宣告の、痛悔を前提とした免除-秘跡上の罪の赦し―当該司教の、信仰と教義の全面的な共有の再構築―そうした共有を、高位聖職者の立場から内面的振る舞いと外面的行為による恒常的な明示―教皇による司牧上の権限の授与。
これらに加えて重要なのは、赦免され、正統と認められた司教が、司牧者として教会共同体に受け入れられることだ-それには、自分が司牧者として任じられた共同体を養い育てるために、祈り、警戒、従順、そして協力に貢献することが求められる。
このような和解の行程は、正統性を欠いた司教たちのケースに対する特定の手順をもって、教会の一致が傷つけられる時いつでも、教会生活の正常なあり方に収まる。さらに、中国に関して言えば、司教たちに正統性を与えることは、新しいことではなく、全員によって受け入れられてはいないが、すでに、最近数十年にわたって行われてきた。しかし、司教たちに正統性を与える過程で、世俗的な意味合いも存在する-事実の特定の評価のおいて、核心的な重要性を持つと考えられる点が強調されることになった。
正当性を与えることについての政治的解釈と、教会法的な懲罰の政治的意義についての誤解は、ともに、いくつかの場合に、関係者の中に、そして教会関係者の中にさえも、不快と当惑を引き起こした。司教たちに正統性を与えることは、聖ヨハネ・パウロ2世が明確に熱望したが、教会の”悪意を秘めた”人々に温かく受け止められることはなかった。彼らは、司教たちに正統性を与えることが、”当局”と政府の政策による是認と解釈される危険を見て取ったのだ。
だが、”悪意を秘めた”人々の中にも、正統性を与えることを支持する声があった。例えば、その時代の”悪意を秘めた”ある司教は、バチカンと中国政府当局との交渉について情報を得ていて、聖ヨハネ・パウロ2世を高く評価する言明を公にしていた-「教皇は、”キリストの心”を開き、中国政府が認めた教会共同体に属する多くの司教たちを受けれた」と語り、中国における教会の一致と信仰、教義の共有を守るために働いた。
現在も、中国における正当性の問題はわずかな司教たちについてしか関係しないように見えるにもかかわらず、異なった動機に触発された異議を唱える動きがある。それは考慮に入れねばならない。それでも、関係者の一人ひとりが持ち続けるべきは、中国での教区共同体の教会立て直しは、司教の正統性と認知によってのみ可能となる、という確信なのだ。
① 対話に「魔法の杖」はない (2018.5.2)
最近のいくつかのしるしはバチカンの中国との対話に重要な進展があったことを示しているかもしれないが、両者の間で公式のいかなる合意も、近くなされるようには思われない。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)
聖座と中華人民共和国の代表者によ接触は、しばらく前から行われている。その目的は、中国における教会に関する問題を、建設的に、対立的なならずに解決しようとすることにある。問題のうち、最大なものは、司教任命という微妙なテーマだ。カトリック教会のこの問題への対応は、全ての関係者にとって好ましいものとなるような協力の形態を始める意図を持った司牧的対応である。魔法の杖ですべての問題を解決できるとは考えてもいない。そのようなものはないからだ。
イタリアの新聞 “La Stampa”とのインタビューで、バチカン国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿はこう語った-「良く知られているように、”新中国”の出現とともに、この偉大な国において教会活動が深刻な明暗とひどい苦しみの時期を経験しています。しかし、1980年代に入って、聖座と中国の代表の接触が始まりました。それは山あり谷ありでしたが、聖座は常に、司牧的な姿勢を保持し、反対を乗り越え、当局との敬意を持った、建設的な対話の姿勢を保ちました。前教皇ベネディクト16世は2007年の『中国のカトリック教徒への手紙』で対話の精神を示し、『正当な文官代表との永続的な争いを通しては、現在の諸問題の解決はできません』と書いています。教皇フランシスコが聖座に就いて以来、対話への建設的な率直さと中国の真正な歴史への忠誠という線に沿って、交渉が続いています」。
中国における新しい共産党政権の成立は、毛沢東革命の結果だった。毛沢東革命の目的は西欧支配、貧困、無知からの、旧支配階級の圧政からの民衆の解放だったが、神の概念と宗教からの解放でもあった。こうして、特別に困難な歴史的段階、多くのカトリック司祭と信徒にとって厳しい迫害の時が始まったのだった。そうして、1980年代に入り、中国に変化が始まったが、当然ながら、共産主義者のイデオロギーはなお強力で、最近では、治安と社会・文化的生活の文化で規制強化の傾向がでてきている。
だが、恐らく、これは急激な経済成長を秩序だったものにしようとする試みでもある。経済の急激な発展は一方で、富裕層、新たな機会、独創性を生んだが、他方で、社会構造をかき乱した―汚職が増え、とくに若者たちの間で伝統的価値が失われた。そうした流れの中で、イデオロギー的な厳格さが大きな国内の変化に十分に対応できなくなっている。それは、必然的に、宗教の分野にも触れてくるのだ。
聖座は、敬意ある対話の雰囲気の中で、教会と社会の善を促進することに貢献する努力に、いつも時間を空けている。世界のカトリック信徒たちは、このことが自分たちと密接に関係していることを、理解する必要がある。それは遠く離れた国で起きていることに関するものではなく、どこに住もうとも、私たちが属する教会の活動と使命に関わるものである、ということを。
②相互信頼に向けた小さな歩み (2018.5.7)
なぜバチカンが中国当局との対話に熱心なのだろうか?中国では、宗教に敵意を持つ政権によって迫害を受けているにもかかわらず、カトリック信徒たちは信仰を持ち続けている。では、そのような対話が何をもたらせるのだろうか?(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)
対話は、教会の活動の基礎だ。その機構の中でも、外界との関係においても、教会の行動にとって不可欠な要素だ。対話をするということは、社会、諸宗教、諸文化と関係を持つことを意味する。第二バチカン公会議は、対話―教会関係者の間だけでなく、キリスト教徒でない人々、官民の機関に属する人々、そして善意のすべての人々との対話-を司牧活動の一形態とみなした。公会議が出した「現代世界憲章」はこう述べている-「信じる者も信じない者も皆、ともに生活しているこの世界を正しく建設するために協力しなければならない…このことは、誠実、かつ見識ある対話無くしては、ありえない」(21項)。
教皇パルロ6世は、同様の事を回勅“Ecclesiam Suam”で語っている―「教会は、自身が存在している世界と対話するようにせねばなりません。教会は語り、教会はメッセージとなるのです」(67項)。カトリック教会は「教会内外の、善意のすべての人との対話を支える用意がなければなりません」(97項)。
人々、組織、そして共同体社会との対話は友情につながる理解を深める。すべてのケースにおいて、対話は信頼によって育まれる。相互信頼は、様々な機会に、しばしばひっそりと、つながりなくなされる、多くの小さな歩み、振る舞い、出会いの成果だ。教皇フランシスコは「閉じられていないいくつもの扉がいつも存在します」と2017年5月13日に語っている。
聖座と中国の間の現在の対話の雰囲気は、最近の歴代教皇による小さな歩みによってもたらされている。それぞれが道を開き、新たなブロックを積み上げ、希望にあふれた思考と行動を奮い起こした-パウロ6世の慎重な外交からベネディクト16世と聖ヨハネ・パウロ2世の明確な意思表示に至るまで、中国当局との積極的な対話を促した。そして、ごく最近では、中国を含む、とても多くの人々、国々との対話を推し進める、教皇フランシスコの個性、教え、振る舞いがある。
カトリック教会は、それ自身を目的とした対話を選ばない。それは、政治的な、あるいは外交的な得点を稼ぐために、重要な原則を売り渡してしまうような「すべての代価を払って妥協する」種類のものではないのだ。中国の場合でいえば、カトリック共同体が経験した迫害を忘れることを意味しない。教会にとって、対話は常に、真実と正義を求めることによって動かされ、基本的人権を尊重し、人間にとって必須の善を達成することを目的とするものだ。
教会の使命は、たとえ中国においても、その国の構造や行政を変えたり、政治的な権力に挑戦することではない、ということを思い起こすことが重要である。教会が、その使命を純粋に政治的な分野に限るなら、教会の真の本質を裏切り、単なる政治的な多くの中の一つの主役となり、天から与えられた素晴らしい使命を捨て、自身の行動をつかの間の次元に矮小化してしまうことになるのだ。
真摯で誠実な対話は、教会が 社会の中でカトリック信徒たちの正当な期待を守り、共通善を推進することを可能にする。この文脈で、教会が批判的な言明をする場合、その目的な論争を巻き起こしたり、決めつけをすることではなく、建設的な精神をもってより公正な社会を推進することでなければならない。批評は、司牧的な慈善の確固とした行為だ。なぜなら、それは、弱く、声を上げる力をもたない人々の苦しみの叫びの反映だからである。中国に関して言えば、聖座は誠実で敬意ある対話が、困難で危険を伴うものであっても、確信を持った意見交換の雰囲気を促し、相互理解を深め、ゆっくりと、遠い昔についての、そして最近についての誤解を解いていくことに成功することを、信じている。
様々な合図は、聖座が国際的に実行している「ソフト・パワー」に、中国が関心を高めていることを示している。中国では、歴史は自然の経過をたどり続け、教会において特別な責任を持つ者は慎重に識別を行う必要がある。それが、聖座が中国当局と四半世紀以上も続けている対話が、時々のしるしを読み取り、歴史における神の実存を確認するために、まぎれもない司牧的な責務となっている理由なのだ。
③中国における教会の宣教の必要性 (2018/6/26)
教会の宣教は常に変わらないといえる。しかし、今日の中国の状況を背景に宣教を考える時、当局との建設的対話の強い必要が浮かび上がってくる。(セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父=イエズス会)
司祭、信徒、修道者、誰であっても、キリストの弟子たちは皆、どこでも、いつの時代にも、人々の間にあって、光・塩・パン種となる使命を持っている。それは彼らの善き業を見た人々が皆、天の御父に栄光を帰するためである。中国の教会において、それは異なると言えるのだろうか?実際、最近中国が、特に欧米社会との、冷静な比較を試みる代わりに、ある種の閉鎖的態度をとっていると指摘する人々がいる。一方で、教皇庁は、非難や、より率直な批判の態度をとるかわりに、どうして対話や協定を信頼し続けることができるのかと問う声もある。
教皇庁が持つ、国際社会に対する、特に紛争や危機をめぐる多くの介入経験から推論できるように、対話を求めるのは、隔たりと無理解がより拡大することの危険を自覚しているからであり、そこで対話はチャンスとなるだけでなく、不可欠な選択となるからである。何よりも、教会は自らの信者たちに、とりわけ彼らが大きな苦しみに接している場合に、特別に寄り添う責任を負っていることを忘れてはならない。実際、他の機関にとっては、「同意」、あるいは「譲歩」のしるしとさえ受け取られかねないことが、教会にとっては、道徳的義務であり、福音の要求に応える、霊的な強さのしるしなのである。
中国においてこのミッションを遂行するには、教会は政界に対し特権を願う必要はない。教会はただ、正当な方法で、ありのままの自分でいなければならない。実際、必要な自由さえ欠如したような、特殊で究極の状態においても、教会はその福音宣教を前進させる方法を追求することができる。さらに、いかなる時代、世界のいかなる場所においても、教会にとって困難と十字架を伴わなかったことはない。むしろ、気づくべきことは、たとえ今日でも、宣教に理想的な条件は、民主主義的により発展した国々においてさえも存在しないように見えるということである。
一方で、教会は、信仰や、愛、内部の一致なしではやっていけない。そのために教会の中には、信仰と愛における一致を育む非常に特別な仕事がある。それが教皇の任務といわれるものであり、それをつかさどるのはローマ司教、すなわち教皇である。中国における教会のミッションは、その何億という人々を前に、何よりも一致した、信頼性のある教会として存在することにある。そして、中国国民の生活があるところにはできる限り、どこにでも存在することである。どのような機会、状況、環境、あらゆる社会の出来事において、謙遜と、またキリスト教的希望に基づく先見性をもって、彼らと運命を共にし、神が自らお与えになる未来から人類が切り離されないように、良い未来を拓くことである。
今日、グローバル化や豊かさの普及、生活や環境クオリティ、平和や人権など、また環境や人間関係の消費主義と切り離せない世俗化、他者と対抗しながらも自分たちの利害を追求する国々、宗教的無関心、弱者や社会からはみ出した人々の締め出し、これら現代の大きな挑戦を前に、教会はまさにそこに存在し、世の命のために死に復活したキリストを告げ知らせる必要がある。
こうしたことは、言葉の上では、もっともらしく簡単に見える。キリスト教徒が良い心がけにあふれているならば、なぜ政府当局はキリスト教徒を恐れたり、彼らの前に多くの障害を置く必要があるのだろうか。実際には、その教会が置かれた具体的な環境を知ることが必要である。ある種の環境では、キリスト教徒の過ちや罪が非難されるだけでなく、彼らの良い行いまでもが、特に最初の頃は、歓迎されないことがある。
中国の政治当局もまた、かなり前から、宗教は経済の発展と社会正義の発展と共に消え去る表層的な現象ではなく、人間の構成的要素であることに、気付き始めている。純粋な宗教体験は、人々と社会の調和ある発展のために欠かせない要素である。現代の発展し複雑化した社会においても、宗教の存在は大きな活力と刷新力を示している。
中国において、儒教哲学の伝統的な見方によれば、親切や、友情、教育、権威に対する従順などの道徳の教えと共に、国家はあらゆる形の宗教を、法律をも利用しながら、厳しく管理する権利を持つという考えがある。一方で、19、20世紀の中国の歴史は、文化的・宗教的な要因がからまった、当時の政府に対する、いくつかの反乱や、社会的・政治的な様々な動きを記録している。これらの歴史的出来事をめぐる政治的見解は別とし、ここから宗教一般に対する考えに混乱や偏見が生じたことも念頭に置かねばならない。こうしたことが宗教的分派主義や、宗教感情の政治利用とは全く関係のない、偉大な宗教的伝統に損害を与えることになったといえよう。
原理主義的で理性を持たないアプローチとカトリック信仰が、全く相容れないものであることを、中国文化と中国社会はより一層、理解するよう求められている。
(翻訳・バチカン放送日本語課・「カトリック・あい」が編集)