(バチカン広報・「カトリック・アイ」訳)教皇フランシスコは17日、待降節第三主日の正午の祈りの中で、次のようなお話をされた。
「先週の日曜日のミサ典礼で強調されたのは、注意深くあることの意味、主の道を準備する具体的なかかわりでした。今日、待降節の第三日曜日は「喜びの日曜日」と言われ、ミサ典礼は私たちを喜びを持って霊を受けるように招いています。聖パウロは、私たちを三つの仕方で主の到来を準備するように招いています。それは、「いつも喜ぶ」「絶えず祈る」「感謝し続ける」ことです。
まず、聖パウロは「いつも喜んでいなさい」と言います。つまり、喜びの中に常に留まること、たとえ物事が望みどおりにいかない場合でも、深い喜び、平和がある。その喜びは内的なものです。そして平和は‶地上での‶喜び。人それぞれが心配、困難、苦しみに出会います、私たちは皆、それを知っています。私たちを取り巻く現実はしばしば、居心地が悪く、不毛で、洗礼者ヨハネが声を響かせた砂漠と同じように思われます。
しかし、洗礼者ヨハネの言葉は、私たちの喜びが確かなものに基づいており、砂漠にも存在するのだということを教えてくれます。「あなた方の中に、あなた方の知らない人がいる」とヨハネは言います。それがイエス、神の使いです。預言者イザヤは言います。「(私が使わされたのは)貧しい人に善い知らせを告げ、心をくじかれている人を癒し、囚われている人に開放を、縛られている人に釈放を宣言するため」(イザヤ書61章1節~2節)と。この言葉を、イエスはナザレの会堂で説教をなさったときにご自分の言葉でお話しになり、この世におけるご自分の使命が、罪からの、罪が作り出す個人的、社会的な奴隷状態からの解放にあることを明確にされるのです。イエスは、ご自身だけができること―神の子であることの尊厳と自由を人々に取り戻させること―のために、それによって喜びをもたらすために、地上においでになりました。
救い主の期待を特徴づける喜びは、「祈り続けること」に基礎を置いています。これが二つ目の仕方です。聖パウロは言います。「絶えず祈りなさい」(テサロニケの人々への第一の手紙5章17節)。祈りを通して、私たちは神との確かなつながりを持つことができます。それは真の喜びの源です。キリスト教徒の喜びは、買うものではない、買うことのできるものではない。信仰とイエス・キリストとの出会いから来るものです。それが私たちの幸せの原因です。そして、私たちはキリストに根を深くおろせばおろすほど、イエスに近づきます。内面的な落ち着きをもてばもつほど、日々の矛盾、対立の中にあっても、イエスに近づけるのです。こうした理由のために、イエスと出会うキリスト教徒は、不幸の預言者ではなく、他の人たちと分かち合う喜び、人生の旅の疲れを和らげる喜び、人に伝える喜びの証人、伝達者となることができるのです。。
パウロが示す三つ目の仕方は、神の喜ばしい愛に感謝し続けること、です。神は私たちに実に寛大であり、私たちはいつも慈しみ、愛、忍耐、そして善なるものを知り、そうして絶えることのない感謝の中に生きるように招かれています。
喜び、祈り、そして感謝。それは確実な方法でクリスマスをすごすための準備の三つの仕方です。喜び、祈り、感謝。待降節の最後の主日。皆さんご一緒に声をあげましょう。喜び、祈り、感謝・・もう一度!待降節の最後の主日に、私たちは、聖母マリアの心優しい取り次ぎに自分を委ねます。彼女は「私たちの喜びの元」。イエスをお生みになったからだけではなく、絶えず私たちをイエスに触れさせてくださるからです。