・「私たち司教、司祭が人の命をないがしろにする罪を繰り返さないよう、決意を新たにする」菊地大司教の四旬節第三主日説教

2022年3月19日 (土)週刊大司教第六十九回:四旬節第三主日

  四旬節第三主日です。

 3月16日深夜に、東北地方を襲った地震の被害を受けられた方々に、お見舞い申しあげます。

 ちょうど本日19日が仙台教区のガクタン司教様の司教叙階式にあたり、昨日18日には東京から仙台へ移動しなくてはなりませんでした。結局、自分で運転して移動することにしました。東京から仙台への車での移動ですと、新潟へ向かう距離とそれほど変わりません。

 ガクタン司教様の叙階式については、別途掲載します。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第69回、四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第69回 2022年3月20日)       

 出エジプト記は、モーセの選びの物語を記します。神は自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗り、神の救いの計画を形作る時間の流れが、人間の常識をはるかに超えて連綿と続き、その一つ一つの時代の中での関わりが、すべからく結び合わされて一つの流れを形作っていることを明確にされます。

 神の救いの計画を形作る時の流れは、今も連綿と続いており、私たちの理解をはるかに超えたところで、神はご自分の計画を成し遂げて行かれます。

 パウロもこの雄大な時間の流れに触れ、神の救いの計画の中にあって、すべてが結び合わされていることを明確にし、今を生きている私たちも、その流れの中で結びあわされていることを示します。パウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と記すことで、私たちが自力ではなく、実は神の計らいの中で生かされている存在であることを示唆します。

 ルカ福音は、神が、その怒りを私たちに向けないのは、忍耐強く待っておられるからであり、私たちはそのあわれみの中で生かされているものであり、何気なく毎日を過ごしてはいけない、ということを示唆するイエスの言葉を記します。私たちは、常なる回心へと招かれています。四旬節は、私たちを包み込む神の憐れみの中で、私たちが神によって生かされていることを悟り、回心へと導かれるときでもあります。

 四旬節の第二金曜日、先日3月18日が、日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」でありました。多くの教会で、本日四旬節第三主日に、この意向でミサが捧げられます。

 命を賜物として与えてくださった神を信じる私たちには、命の尊厳を守る務めがあります。したがって教会の聖職者には、その務めを率先して果たすことが求められます。

 残念ながら模範であるはずの聖職者が、命の尊厳をないがしろにする行為、とりわけ性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為に及んだ事例が、世界各地で多数報告されています。なかでも「保護を必要とする未成年者に対する性虐待」という卑劣な行為を行った聖職者の存在も明らかになっています。日本の教会も例外ではありません。

 加えて司教をはじめとした教会の責任者が、聖職者のこうした加害行為を隠蔽した事例が、世界各地で報告されています。

 今、シノドスの道を共に歩んでいる教会は、互いに耳を傾け合い、支え合いながら、連帯の絆に結ばれた共同体であることを目指しているはずです。互いの絆の中で、同じ尊厳ある命を与えられたものとして、共に神によって生かされている共通理解を持とうとしているはずです。賜物である命とその尊厳を守ることが、教会の一人ひとりの務めであり、そして共同体の努めであることを認めようとしているはずです。

 日本の教会が、命の尊厳を守り抜くための努力を怠らない教会共同体となることを、私たち司教をはじめ聖職者が妨げている事例があることを、大変申し訳なく思っています。

 世界中の教会に多くの被害者がおられます。教会は、しばしば無関心や隠蔽も含め、被害を受けられた方々に大きな罪を犯してきました。申し訳ありません。私たち司教や聖職者がこのような罪を繰り返すことのないように、信仰における決意を新たにし、私たちを生かしてくださる神の慈しみによりすがり、愛のうちに祈り、行動したいと思います。

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2022年3月19日