*私たちと神の関係を”養子縁組”で例えるのは不十分
続けて枢機卿は、「聖パウロは、養子縁組の例えを使って、神がキリストを通して人との間に打ち立てた絆を、私たちに理解させようとしますが、そのような比喩は、神秘の豊かさを表現するのに十分ではありません」と述べた。
「なぜなら、人間的な養子縁組はそれ自体が法律で定義されたものであり、養子縁組された子が、血液やDNAを共有せずに、自分を養子にする人の名、市民権、住居を引き継ぐということであるとすれば、私たちにとって、神との関係はそのようなものではないからです」とし、「神は、私たちに名だけでなく、ご自分の命、DNAであるご自分の霊を引き継がれる。洗礼を通して、神の命が、私たちの中に注がれるのです」と言明。
続けて、「聖ヨハネは、真の、ふさわしい世代について、神からの誕生について語ります。私たちはなぜ、聖霊から生まれたのか、私たちはなぜ、上から生まれたのか」。「私にとって、教皇が今年9月8日の一般謁見での講話で語られたことは重要です。教皇はこう言われました-『私たちキリスト教徒は、神の子であるという現実を当然のことと考えていますが、私たちは、神の子となった洗礼を受けた時のことを、いつも感謝を込めて思い起こすのがいいでしょう。神からいただいた素晴らしい贈り物を強く認識しながら生きるために』と」。そして、教皇の言葉を思い起こしつつ、次のように語った。
「注意してください。私たちには、致命的な危険がある。それは、『宇宙の創造主、全能、永遠の、命の与え主である神』の子に他ならないことを含めて、私たちの信仰がもつ最も崇高な賜物を、当然のことと見なすことです。聖ヨハネパウロ2世は、亡くなる直前にお書きになった聖体に関する書簡の中で、キリスト教徒が再発見すべき「聖体の驚き」について語っておられますが、同じことー信仰から驚きに移行することーは、神の子であることついても言えます」。
*信仰の驚き
さらに、洗礼の秘跡について、「神の分かち合い、あるいは洗礼の恵みは、多様で非常に豊かですー神の子とされ、罪が赦され、聖霊が宿り、信仰、希望、慈愛という聖書に基づく美徳が魂に注ぎこまれます。人の貢献は、本質的に信仰で成り立っていますが、神の賜物を前にした、驚きで目を見張る、畏怖が必要です。神の賜物は、信じられたいくつもの真理ー十字架の真理の苦さを含む真理ーの味をゆっくりと自分のものにすること。つまり、『信じられた真理』は『活きた現実』にならねばならないのです」と述べた。
そして、信仰から、私たちが神の子であることを知るという驚きへの飛躍は、どうすればできるでしょうか。この問いへの最初の答えはこれですー神の言葉。(同じように欠かすことのできない手段に聖霊-がありますが、次の瞑想のためにとっておきます)。教皇・聖グレゴリオは、神の言葉を、火打ち石、つまり、火花を起こし、灯火に火をつけるために使われた石、に例えています。火打ち石で行うことを神の言葉で行う必要がある、と言っています。火打石を火花が出るまで繰り返し叩くように、神の言葉をじっくりと味わい、繰り返し、大きな声を出しても繰り返す、のです」と強調した。
*人間愛:私たち皆が兄弟姉妹
枢機卿はまた、私たちが神の子であること、キリスト教徒としての尊厳をしっかりと認識できるように祈ることを、人々に勧めた。「そうすることは、神の息子、娘である他の人々の尊厳と、全人類に対する神の父性を認識することにも、つながります」と述べ、「私たちキリスト教徒にとって、人間愛は、神がすべて者の父であり、私たち皆が神の息子、娘であり、皆が兄弟姉妹であるということの、究極的な元になるもの。これ以上の強い絆はあり得ない。そして私たちキリスト教徒にとって、普遍的な兄弟愛を促進すること以上に、差し迫った課題はあり得ません」と語った。
最後に枢機卿は、「普遍的な兄弟愛を養うことはまた、私たちの兄弟との対立に神を引き込ないようにすることを意味します。自分に正しく相手に悪いことを望まず、互いに慈しみを持って接すること。それが、聖霊の命を、あらゆる形の共同生活を生きるために欠かすことのできないことです。家族のため、すべての人、教皇庁を含むす宗教的な共同体のために」と語り、「聖書が、私たちが神の子であることの真の意味を発見するのを助けてくれる」ことへの希望を述べることで講話を締めくくった。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)