2021年9月19日 (日)年間第25主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
年間第25主日の9月19日、午前10時から、非公開でささげられ配信された主日ミサの説教の原稿です。
新規陽性者数が減少を続けていることが事態が好転している兆しだと信じていますが、このまま9月末日で緊急事態宣言が解除されるのであれば、10月1日からは、以前のステージ3に戻して、ミサを公開するようにしたいと思います。
なお10月以降、小教区の主日ミサとは別に、教区内で土曜日などにミサを伴う行事がいくつか予定されていますが、それぞれの主催者にあっては、必ず聖堂を管理する主任司祭・責任者と相談し、その小教区などの定めている感染対策を遵守されるようにお願いいたします。
以下、19日午前10時から関口教会のYoutubeチャンネルで配信されたミサの、説教原稿です。
【年間第25主日B(東京カテドラル聖マリア大聖堂 2021年9月19日】
公開ミサを自粛しているために教会活動が立ち止まってしまい、そのためどうしても忘れられがちなのが残念ですが、世界の教会は教皇様の回勅「ラウダート・シ」に触発された「被造物の季節」を、そして日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」を、9月1日から10月4日まで、すなわちただいまの時期に過ごしております。
人類は常に何らかの発展を指向し、与えられた資源を活用することで、より良い生活を、そして社会を手に入れようと努めてきました。もとより生活が便利になり、健康や安全が保証される社会を実現することは、共通善により近づくことであるとも考え、研鑽を重ね、努力を積み上げてきました。
残念なことに、教皇が回勅「ラウダート・シ」の冒頭で指摘するように、その努力の過程で私たち人類は、自分たちこそが「地球をほしいままにしても良い『支配者』や『所有者』と見なすように」なり、「神から賜った善きものを私たち人間が無責任に使用したり乱用」してきました。その結果、「共通の家である地球を、深く傷つけてしまった」と指摘される教皇は、さらにこう述べておられます。
「神にかたどって創造された大地への支配権を、私たちに与えられたことが、『他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化する』との見方は、断固、退けられねばなりません」(67)
その上で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を」(137)必要とすると指摘され、「密接に結び合わされている森羅万象を俯瞰するような、総合的視点が不可欠」であることを強調されます。
私たちの心には、競争の原理が刻み込まれているのでしょうか。競争に打ち勝って、より良い人生を手に入れたい。そう願って、世界的な規模で続けられたさまざまな競争は、結果として、共通の家である地球を傷つけてしまった。それは、私たちの願いが、神の御心に適う願いではなかったため、ではないでしょうか。
「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に逆らう者にとっては、「神による永遠の救い」でなく「この世での救いこそが現実」であって、それは、「神の慈しみ」と対立する「利己的な欲望」の実現でしかありません。しかし、神に従い、真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。
教皇は、私たちに命を与えられた創造主が、人類にどのような使命を与えたのかを記す創世記の話を引いて、「ラウダート・シ」にこう記されます。
「聖書が世界という園を『耕し守る』よう告げていることを念頭に置いたうえで、・・・『耕す』は培うこと、鋤くこと、働きかけることを、『守る』は世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」
すなわち、私たちは、「被造物の上に君臨して、支配し、浪費する存在」ではなく、「被造物を管理し守り育てるように、と命じられた『奉仕する支配者』」でなければならないことが記されています。
心に刻み込まれた競争の原理は、利己的欲望と相まって、私たちを君臨する支配者にしてしまいました。しかし「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と述べられた主は、私たちに「奉仕する支配者」となることを求められます。それこそは、主イエスご自身が自ら示された生き方であります。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ福音書10章45節)」と、マルコ福音の続きに記されています。
使徒ヤコブは、妬みや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、神の平和は実現せず、命を奪うような混乱が支配する、と使徒は指摘します。
使徒は、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです」と記します。「間違った動機」とは、すなわち、時空を超えたすべての人との繋がりに目を向けず、今の自分のことだけを考える利己心がもたらす動機です。「その利己的な動機による行動の選択が、被造界を破壊してきたのだ」と教皇は指摘されます。
受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類に対する、神の愛と慈しみが具現化しています。イエスの受難への道は、神の愛の証しであります。十字架は、神の愛の目に見える証しであり、十字架における受難と死こそ、具体的な行いによる神の愛の証しです。神の常識は、救いへの希望は、人間が最も忌み嫌う「苦しみと死」の結果としてあることを強調します。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、私たちは神の愛と慈しみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。
主イエスは、その受難と死を通じて、私たちに君臨する支配者ではなく、奉仕する支配者としての生き方を明確に示し、私たちがその生き方を証しするように、と求められます。
繰り返し私たちを襲う大規模な災害は、そのたびごとに私たちに価値観と発想の転換を求めます。私たちの徹底的な回心を求めます。そして今、新型コロナウイルス大感染のただ中で、私たちは価値観と発想の転換を求められ、回心を求められています。
9月7日、教皇フランシスコは、正教会と英国国教会のそれぞれの代表とともに、環境に関するメッセージを発表されました。その中で、環境をめぐる持続可能性を具体化することが急務の課題であると指摘され、さらには環境問題が、特に貧しい人々に与える影響を考慮することや、こうした課題に取り組むための世界的な協力構築の必要性を真摯に考えるように、と求めておられます。その上で、このコロナ大感染は、私たちが短期的視点から目先の利益に捕らわれて行動するのか、はたまた回心と改革の時とするのか、の選択肢を与えているのだ、と呼びかけます。
今こそ、視点を転換し、常識を打ち破り、神の呼びかけに耳を傾け、その知恵に倣って生きる道を選び取る時であります。
日本では9月20日が「敬老の日」とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。何歳からを高齢者と呼ぶのかについては、さまざま議論があることでしょうが、人生の経験を積み重ね、命の時を刻んで来られた多くの方々のために、神様のさらなる豊かな祝福をお祈りいたします。
教皇様は今年から、7月の最後の主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音を証しする人生に定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音を証しするために、神の呼びかけに応える道を選択し、たゆみなく回心の道を歩みましょう。
(編集「カトリック・あい)」