・竹内神父の日曜午後の散歩道 ③「しかし、思い悩むな」

 「食べものを用意して食べさせるっていうことは、やはりひとつの『祝福』だと思うんです」—料理家の辰巳芳子さんは、こう語ります。

 「食べることは、他のいのちとつながること」ーこれは極めてあたりまえの事実です。スペインで出会った生ハムを日本でも、と思い、辰巳さんは、ご自宅でハムの制作に取り掛かります。約15年の試行錯誤の後、ようやく、自分なりに納得できるものが出来上がります。

 この営みを、彼女は、自分が手がけた中でも最も大がかりな「風仕事」だった、と言います。「風仕事」とは、あるところまでは人間がやるが、それから先は自然に任せる、ということだそうです。自然と一つになって営む仕事ーそれは、自ずと物事の本質に向き合わざるを得ません。

 この不確かな生活の中で生きて行くことーそれは、本来、そう簡単なものではありません。自分自身はもとより、これから先、この社会はいったいどうなっていくんだろうー真摯に生きようとする人ならば、きっと思い描くことでしょう。

 私たちは、しばしば、様々な誘惑や困難に出会い、不安(健康、仕事、家族、経済…)に襲われます。私たちの生活は、このように、極めて不確かなものです。それはあたかも、海の上に漂う舟のようなもの。人間の思いや力では、いかんともしがたいことに遭遇します。そのような時、私たちは、より確かなものに自分の基を求めます。

恐れるな

 「夕方になった頃、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた」(マルコによる福音書6章47節)。当時の人々は、海には悪霊が住むと考え、それは恐怖の対象でした。しかし同時にまた、そこはイエスの多くの弟子にとっては、生活の場でもありました。

 舟はよく教会にたとえられます。その「舟」が、イエスと離れています。舟は逆風に襲われ、それに乗っていた弟子たちは、不安を覚え難儀します。舟は、木で造られていたのでしょうか。アウグスティヌスによれば、この木は、イエスが掛けられた十字架の木。不安定な水の上に浮かぶ舟は、まさに、私たちのこの世での生活の姿を現しています。

 湖上を歩いて弟子たちに近づかれるイエス。しかしそれを幽霊だと思い絶叫する弟子たち。そのような彼らに、イエスは語りますー「安心しなさい。私だ。恐れることはない」(マルコによる福音書6章50節)。

 「恐れるな」ーこれは生前のイエスが、何回ともなく語った言葉。同様の言葉として、彼はまた、「思い悩むな」「心配するな」とも語ります。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなこと気を遣い、思い煩っている」(ルカによる福音書10章41節)。確かに私たちは、日々の生活の中で、様々なことに思い悩みます。

「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな… 明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章25、34節)。

イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり平安が訪れます。彼らと共にいたイエスの名は、インマヌエル。それは「神は私たちと共におられる」という意味。真の平和は、ここから生まれます。ですからイエスは、こう約束されますー「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章20節)。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

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2021年1月30日