♰ 「テレビを消し、ケータイを切り、『祈り』で神と対話し、荒れ野に花を開こう」灰の水曜日に

 カトリック教会の典礼暦は26日、「灰の水曜日」を迎え、教皇フランシスコは水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、この日から始まる「四旬節」の意味について話された。

 「四旬節」は、「灰の水曜日」から「聖土曜日」(復活祭の前日の土曜日)までの主日(日曜日)を除いた40日間を指す。教皇は「キリスト教信仰と一年の典礼の中心である復活祭へと向かう「四旬節」の歩みは、公生活前に荒れ野で40日間の祈りと断食の日々を過ごしたイエスに従うもの」とされ、キリスト者にとっての、「荒れ野」が示す精神的意味を説明された。

 自分が荒れ野にいると想像するよう招かれた教皇は、「そこで最初に感じるのは、『大いなる沈黙』ではないでしょうか… 荒れ野は、私たちを取り囲む騒音から離れ、沈黙の中で、『風のように吹き、心に触れる神の御言葉』を聴く、まさに『御言葉の場所』です」と語られた。

 そして、「聖書で、主は、荒れ野でご自身の民に話しかけることを好まれます… 神がモーセに十戒を託されたのも、荒れ野においてでした」とされ、「荒れ野で人は神に近づき、神の愛を再び見出します。毎日、人里離れた所に退き、祈っておられたイエス(ルカ福音書5章16節)は、沈黙のうちに私たちに語りかける御父を、どのように探し求めたらよいか、を教えています」と説かれた。

 さらに、四旬節は「テレビを消し、聖書を開く時。携帯電話を切り、私たちを福音につなぐ時です… 無駄な話、意味のないおしゃべり、うわさ話、陰口を止める時です」「神と対話するためには祈りが不可欠であり、主との沈黙の対話は、私たちに再び命を与えるものです」と祈りの重要性を示された。

 教皇はまた、荒れ野は「多くの無用な物事から解放され、本当に大切なものに立ち返る『本質の場所』」とし、「イエスは私たちに断食の模範を示されたましたが、断食は無駄や贅沢を捨て、本質的で簡素な生活の美しさを求めさせるものです」 と説かれた。

 さらに、教皇は、荒れ野は「孤独の場所」である、とされ、「今日も私たちの周りには多くの荒れ野があります… 貧しい人やお年寄りなど、疎外され見捨てられた多くの人々がいます。荒れ野は無言のうちに、助けを求めるこれらの人々へと私たちを導く。四旬節の歩みは最も弱い立場の人々に向かう愛の歩みとなるのです」と強調。

 このようにして教皇は、祈り・断食・いつくしみの業を「四旬節の荒れ野の道」として示され、「『見よ、私は新しいことを行う… 私は荒れ野に道を….置く』(参照:イザヤ書43章19節)と神が約束された通り、荒れ野には、私たちを『死から命』へ導く道が開かれます… イエスと共に荒れ野に入り、命を新たにする神の愛の力、過ぎ越しを体験しながら、そこから出ましょう。荒れ野のイエスに従いましょう。イエスによって私たちの荒れ野は花開かれるのです」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

 

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2020年2月27日