(2019.8.26 La Croix マイケル·ケリー=イエズス会士)
ジョージ・ペル枢機卿の刑事有罪判決を取り消す取り組みに関する8月21日のビクトリア州控訴裁判所の判決は国際的な嵐を巻き起こしたが、そのほとんどは甚だしく無知であった。
オーストラリアのペル氏の忠実な弁解者たち(数は少ないが非常に騒々しい)は、その有罪判決に反発していたか、またはメルボルンのピーター・コメンソリ大司教のように、「自分たちの友人がそのような罪を犯せることを信じない」と公言していた。
国際的には、一部のバランスの取れた反応もあれば、Cruxローマのジョン・アレン氏のような誇張された反応もある。アレン氏はオーストラリアからの根拠はほとんどあるいは全くないのに、「ペル氏の昔からの友人たちと敵たちを含め、かなり広範囲にわたるカトリックの意見は、彼が有罪判決を受けた容疑自体は非常に信じ難いことだ」と指摘した。
そのような見解は多くの現実に折り合いをつける必要がある。私を最もがっかりさせたのは、控訴裁判所の決定が発表された後、どれほど否定されているかということだ。
私自身の見方は簡単だ。判決の遅れが長ければ長いほど、ペル氏の控訴が棄却されるに違いないと確信した。もしも控訴裁判所が控訴を支持し、彼が無実であると判断した場合、彼を釈放すべきだと考えた場合、なぜ彼を約3ヶ月間も刑務所に入れ続けたのだろうか。
要するに、ペル氏は陪審員によって全員一致で有罪判決を受けたということだ。 これが私たちの法制度が提供できる最高のものであることを受け入れるか、または陪審員による裁判制度を投げ出す。 後者はまず起こり得ないだろう。
*私たちの不利な立場
控訴裁判所は有罪判決を受けた人を再審しない。控訴裁判所の唯一の趣意は、有罪判決を無効にする法律違反の争点があるかどうか、または裁判で提出された証拠に基づいて陪審員の決定は「安全でない」または「不当」であるかどうかを確認することだ。3人とも法律に違反していないことを判明し、2人は「安全でない」評価を支持するような証拠を見つけなかった。
その過程について非常に有能な法学教授の意見をここで参照できる。
不思議なことに、多くの人々はその事実を否定している。 ジョージ・ペル氏は有罪判決を受けた犯罪者だ。
他の多くの人と同じように、彼が有罪判決を受けたとき、私も驚いた。私は彼のことを35年間も知っていたが、彼の誠実さや動機について、高く評価したことはなかった。それでも私でさえ、彼の堕落がそれほどまでにひどいものだとは思わなかった。
しかし、私はその判決に激怒したすべてのコメンテーターと同じように、ペル氏が有罪判決を受けた証言を聞いていない。裁判官、陪審員、弁護士たちのみが聞いていたのだ。
ペル師のことをどう思おうとも、私たちは彼の有罪または無罪を評価する上で不利な立場にあり、「慎重な沈黙」を保つことが最善なのだ。
多くの人々の否定的な反応は、数年前にシドニーのすぐ北にあるメイトランドニューキャッスル教区の司教から接触された経験を思い出させる。ニューカッスルの教区会議で講演をするように頼まれたが、その教区は聖職者のセックススキャンダルの拠点であり、司教からは「我々はここからどこへ向かうのか?」と話すように頼まれた。
何を話せばいいのか分からなかったので、エリザベス・クブラー・ロスの有名な著書 『死ぬ瞬間』に書かれた5つの段階を参考した。最初の段階、つまり「否定」を克服する唯一の方法は、これらのことを行う人は犯罪者であることを受け入れる、と話した。すると、ある司祭が立って「なぜあなたは私の友だちを犯罪者と呼ぶのか」と質問したので、私はこう答えた。「ええ、あなたがそれを受け入れられないという事実は、否定についての私の論点を立証しているのです」。
*権力の濫用と嘘と隠蔽
児童虐待は権力の乱用によって起きており、私が個人的に知っている限り、枢機卿は破壊的な方法で自身の権力を使うことのできる人物なのだ。また、枢機卿は真実をもてあそぶことができる人物だ、と私の個人的経験から証言できる。
児童虐待とは何か? 権力の乱用と嘘と隠蔽でその暴露を避けることだ。昨年12月に判決が出され、今年2月に公表された枢機卿の有罪判決で、私はショックを受けたが、それほど驚いていなかった。人は驚くことなくショックを受けることができる。 しかし、私が驚かなかったのは、確率の収束だけに基づいていた。確率の収束は合理的な疑問を超えるものではない。それは刑事裁判での有罪判決が必要とされるものだ。陪審員が証拠と証言に基づいた結論は、合理的な疑いを超えたものでなければならないのだ。
ペル枢機卿の支持者によるもう一つの不満は、彼がただ一人の告発者の証言で有罪判決を受けた、ということだ。だが、検察側は、ほぼすべての強姦犯罪の有罪判決はただ一人の告発者によって示された証拠と主張に基づいている、と反論するだろう。
*残酷な真実
それが、どこのコメンテーターでもぶつかる問題だ。陪審員、弁護士、裁判官以外の誰も、被害者から有罪の証拠を見聞きしたことがない。
裁判官、陪審員、弁護人、これらの人たちだけが証拠を見聞きしたのはなぜだろう。理由は2つある。主に被害者のプライバシーを保護するためだけでなく、証拠が提出された時点で、ペル枢機卿はさらなる告発に直面する可能性が高く、あまりにも多くの証拠を明らかにすることで、彼のその他の事項に関する公正な裁判を損なう恐れがあると、検察がそう判断した。
私たち観察者にとって、この過程の結果は簡単だ。上訴することのできる陪審員制度を受け入れるか(この場合、控訴は失敗した)、または陪審員制度を捨てるか、ということだ
一人のオーストラリアの司祭として、私はこの事件が信者たちに及ぼす後遺症を強く懸念している。私ができる最善の助けは「信者たちが現実を受け入れることを助ける」ということだ、との結論に達した。司祭たちにとって、それは人々が死にかけている時に起こること。人々が自分のしたことに対する罪悪感に襲われた時に起こること。人間関係が終わった時、人々が落胆した時に起こること。
唯一の強壮剤は「残酷な現実を受け入れる」ことだ。
(翻訳「カトリック・あい」ガブリエル・タン)
(注:LA CROIX internationalは、1883年に創刊された世界的に権威のある独立系のカトリック日刊紙LA CROIXのオンライン版。急激に変化する世界と教会の動きを適切な報道と解説で追い続けていることに定評があります。「カトリック・あい」は翻訳・転載の許可を得て、逐次、掲載していきます。原文はhttps://international.la-croix.comでご覧になれます。