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以上

読者の声」への34件のフィードバック

  1. 今から20年前の出シスター阿部とタイでの出来事です。当時の私は学生で、昼食をラーメン店で一緒に食べる機会がありました。その時不思議なことが起きました。
    「シスターのラーメンだけおいしい!でも、どうして?」
    私だけではなく他の学生たちも集まり不思議がっていたところ、ふと目をやると自由に使っていいスパイスたちがずらりと並んでいました。
    人生にはタイのスパイスの数のごとく、たくさんのスパイスがあります。私も味見程度にしておきたかったスパイスは数知れず…。それらも上手に使いこなして美味しく料理をしたいと感じました。そう、あのラーメンのように! そして自分の糧にしたいです。
    シスター阿部のコラムは元気で明るく心に染み渡るようで大好きです。シスター阿部は現在闘病されていらっしゃるとお聞きしていますが、私の方が毎回活力をいただいています。これからも、楽しみにしています。

  2. はじめまして。
    私は、鹿児島のザビエル教会信徒の二田正章(にた・まさあき)と申します。

    カトリック・あいでいろいろなことを気付かせていただいて感謝しています、

    今回、メール差し上げたのは、「カトリック・あい」を私の友人、知人に紹介しようと思い、「カトリック・あい」のQRコードを作成し
    カードやハガキに印刷して、それぞれのスマホで読み込んでいただこうと思っています。

    「カトリック・あい」の内容に加筆・削除・変更等々一切いたしませんので、
    上記の件ご了解いただきますようよろしくお願いいたします。
              〒899-2201  鹿児島県日置市東市来町湯田2648-1 二田正章 携帯電話090-8413-6557

    • 二田さま
       メールありがとうございます。返信を差し上げているとは思いますが、受信されていなかったら念のためです。お申し出の件、了解しました。「カトリック・あい」を表示していただき、そのまま、お使いいただくのは歓迎です。そのような了解を得ずに、有料のカトリック雑誌に掲載してしまう事案がでていますので、出来れば事前に御覧楽いただきければありがたく思います。よろしく。

      「カトリック・あい」南條俊二

  3. 『シスター阿部のコラムを読んで』

    どんなことがあっても、喜び悲しみ苦しみすべてを主に委ねお捧げしている人生を知り、感動しました。それと共に、ふと自分の最近を振り返りました。小さなことなのになぜか心に波風がたつことの多かった日々でした。そんな自分に気づき、改めたいという気持ちになりました。思いのままにいかないことはたくさんあって、その意味や理由がわからないと不安になります。それでも、いつも一緒にいてくださる神さまのことを思い、安心して人生を歩みたいです。

  4.  コラム「シノドスの道に思う」に非常に共感しました。私もシノダリティ無しに開催されたシノドスに対し神父に疑問の声を上げた一信徒です。私の経験からすると興味深い事に、共同体のより良い在り方を望み協働的な実際的提言を試みた時、人々は興味を失う傾向があると感じました。恐らくそれが非常に大変な仕事だからです。シノダリティなしに小教区での取り組みが終わるのはいかがなものかという意見を言明することすら拒絶する傾向があります。私たちに「赦しなさい」と教えられた主が「間違いに対しても敵対する態度を取る事はありえないだろう」と思うからではないかと推測しますが、さてどうなのでしょうか。主は人々のためにあらゆるものと戦われたのではないでしょうか。人々の尊厳や自由を限定するものに対して議論され、愛ある新たな理解へと人々を導こうとされたのではないでしょうか。「平和ではなく剣を」との御言葉は、包括的な愛・正義とそうでないものの明暗を私たちの意識にはっきりさせ、実践においては一時的に対立することは避けられないという事を示して下さったのかもしれませんね。

  5. (公開は不要です。)
    「あい」をごくたまに、拝読しているシスターです。
    若い頃、シスター阿部羊子にお世話になりました。
    園田の修道院で行われていた
    「サンパオリーネの集い」に
    求道者の頃参加しており
    シスター阿部の明るさ、やさしさ、
    当時阪急園田駅前にあった
    ソレイユという洋菓子屋さんの
    おいしいケーキを、
    集いに参加した女の子たちに出してくださったこと、
    タイに行かれるときき、すごいなあと思ったこと、
    遠い昔の思い出がよみがえります。
    シスター阿部、あの時はありがとうございました。
    同じ奉献生活者として
    シスターの足元にも及ばない自分ですが
    シスターがお元気でご活躍されることを
    心からお祈り申し上げております。
    そしていつか再会できるなら
    この上ない喜びです。
    お体をお大事になさってください。

  6. コラム「シノドスの道に思う②」を読み、様々な事が腑に落ちる思いです。小教区でのシノドスの歩みの中で、「教会は民主主義的でなくてよい」という意見に出会いました。聖職者中心主義的、または民主主義的あり方のどちらが正しいのかという考えに陥りがちですが、新しいより良い教会のあり方を模索する時間とプロセスが必要なのだと理解しました。教皇大使ボッカルディ大司教のお話の内容から、主が弟子たちの足を洗われたという事が心に浮かびます。皆が等しく「神の民」であり、全体として一つの民であるならば、目指すべきは同胞愛的という方向しか残されていないでしょう。主日ミサの参加者が大幅に減っているという記事もありましたが、教会とその信仰に愛のリアリティーが感じられないのであれば、人々が別の道を選んだとしても仕方ないかもしれません。生き生きとした同胞愛を日常生活において模範として実践する聖職者に奉仕の権威を自然と認め、お互いの交わりの中で人々の善意が力強く育まれる、そんな教会であって欲しいと思います。

  7.  コラム「シノドスの道に思う」が、これまでを振り返る時間となっており大変感謝しております。
     教皇フランシスコの目指す「シノダルな教会」に向かうための初めの一歩、各小教区での声を聴くことは、教皇様のご意思だけでなく神の御意志でもあったと言えそうですが、小教区で実際に直面した現実との違いに人々が二重性を感じ、落胆や苦しみを覚えた、これが真剣に取り組もうとした人々の感想ではないかと思います。裏を返せば「シノダルな教会」の理想を多少なりともつかんでいるからこそ、苦しみが生じたと言えるのかもしれません。
     人々の認識が成長すれば古い教えが役立たなくなり、変化を要する必要が生じる事は自然なことではないかと思います。ですから、より真理に近づくための変化は今後もあり続けるのではないでしょうか。あやふやな「聖」と「俗」の捉え方についてもまさに、私達は過渡期を目撃しているのだと思います。
     今、教会の構造と教えを見直さなければ、教会が人々の生活の中で重要な存在と見なされなくなるのでは、という危機感を強く持っています。独裁、不透明さを容認し、次々と分割をつくりだすような構造や教えなら今後はもう役立たないでしょう。また、それらに沈黙し続ける事も現状維持に結果的に加担していると思います。「シノダルな教会」への願望が共同体の中に宿っていてこそ、望む変化が生まれるのではないかと思いました。

  8.  コラム「シノドスの道に思う④」の感想です。いつも楽しみに読ませて頂いております。

     教会という船は「全ての人が神の子」というヴィジョンを欠いていた為に、権威の不当な濫用という岩礁に乗り上げてしまったのかもしれません。シノドスへの歩みを体験した私達はもはや、より良い航路への船出を諦めることはできないでしょう。大切な事は、今回の歩みの中で知った深い闇と苦痛を単なるスキャンダルに終わらせるのではなく、また苦しむ人々に対する無関心という怠惰に陥るのでもなく、私達が積極的にあがなうための機会としなければならないという事だと思います。キリストは生きておられ、私達を通して働こうとされているに違いないのですから、現在の混乱と残骸の中から真に霊的なヴィジョンと動きが生まれると私は信じます。

     私達に明らかとなった身近な問題の一つに「教会統治はどうあるべきか」があります。コラムの中でも「シノダル(共に歩む、共働的)とヒエラルキー的をどちらも大事だ、として並行させる事は危険ではないか」とのご指摘がありました。「ヒエラルキー」とは聖職者方の事であり最終的にはその権力行使を認めるという文章ですが、次のような可能性を含むかもしれません。

     小教区に当てはめて考えてみますと、人々に働かれる聖霊を信頼するという事は全ての個人の意見を通すという事ではなく、まずは立場や役割を超えて誰もが発言できる自由が認められる、という事だと思います。耳を傾けあい、分かち合う中で、よりキリストのみ旨に近い道は何か共に識別し、一致できる最善の地点を導き出す、そのような意見者がその時の「ヒエラルキー」と認められる事が理想なのかもしれません。それは司祭かもしれないし、ある時には専業主婦や子供かもしれません。また一人だけでなく数名の一致した意見かもしれませんし、逆に多数の中のごく少数意見かもしれません。私達は権威をキリストに置くという事はどういう事か、再考する必要があると思います。生きた交わりを結果的に共同体の強さとするためには、固定概念や好き嫌いやプライドといったものを、より大きな全体の為に放棄できる子供のような素直さが必要となるに違いありません。米国の信徒らの「ミサへの招きはすべての人に向けられるべき」との結論も、いのちに対する神聖さを素朴に認めたからこそのものではないでしょうか。

     それぞれのカリスマの豊かさを主からのものとして認め合いながらも霊的識別が働くようにとの願いが、「シノダル的とヒエラルキー的を並行させる」という途方もないアイディアの底に眠っている気が致します。真の奉仕を行うためには、隣人への圧倒的な愛とバランス感覚が問われる時代に入ったと言えるのかもしれませんね。

  9.  コラム「シノドスの道に思う⑤」の感想を分かち合わせて頂きます。

     世界大戦中のドイツの努力は全く不可能な人種的純粋さを保護することに向けられ、異質とするものを徹底的に排除する事を政治的に正当化した結果、歴史に残る悲惨な出来事に繋がったのだと思います。戦後のドイツ国民は同じ過ちを二度と繰り返さないと深く心に刻んだに違いありません。疑問や反抗もなく独裁を受け入れてしまった反省から、自分自身で考え行動し他者との対等な関係を重んじるという教育がなされてきたのではないかと思います。
     今、ドイツで多くのキリスト教徒が離脱しているのは、政治的全体主義を過ちと心に刻んでいるドイツの信徒らが、宗教的全体主義に大いに疑問を抱いているという事の目に見える現象なのではないでしょうか。日本でも教会から離れた信徒は「神から離れた」と見なされるでしょうが、もしかするとそれとは逆に、経験において自分自身でキリストを探究し解釈するようになりつつある人々の霊的な思考による結果かもしれません。
     希望を感じるのは、ドイツが今ある障壁をものともせず、皆で共に歩み続けようとする教会再生へのその強い意志です。ドイツ独自のシノドスの歩みが教会の現在の問題に対し全てを調和させていくことが出来るかどうか注目したいと思いますので、今後も是非コラムで紹介して頂けると有難いです。ドイツの取り組みによって正しい識別と聖霊による統治形態の青写真が世界に提供できるようになり、新しいインスピレーションに心開かれている真に霊的な傾向の世界中の人々によって実施され発展することを期待します。

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