読者の声

コメントをお寄せ下さい

下記コメント欄より入力された場合は、内容を確認させて頂き、公開させて頂く場合があります。公開を希望されない場合や、お問合せの場合は、「お問い合わせ」ページより送信下さい。下記「個人情報の取扱いのご説明」にご同意の上送信ください。

 

「個人情報の取扱いのご説明」

  1. 組織名:カトリック・あい
  2. 個人情報保護の責任者:カトリック・あい 代表 南條俊二、連絡先「お問い合わせ」ページからご連絡ください。
  3. 利用目的:コメントへの対応のためです。
  4. 個人情報の第三者への提供:第三者への提供は行いません。
  5. 個人情報の取扱いの委託:委託は行いません。
  6. 開示等に関する問い合わせ窓口:「お問い合わせ」ページからご連絡ください。
  7. 任意性:個人情報をご提供頂くことはご本人の任意ですが、必要な情報を頂けなかった場合は適切なコミュニケーションを行えない場合があります。

以上

読者の声」への34件のフィードバック

  1. はじめまして。シスター阿部羊子から、このサイトを教えていただきました。私はいま36歳。シスター羊子には、私がカレン族の村にスタディツアーに参加した際に、お世話していただきました。そのときは20歳でした。

    私が最近いちばん印象に残ったのは、先月のシスター阿部の水に感謝するお祭りのコラムです。

    その記事を読んで、私は「親に恩は返せても、水に恩は返せない」と祖母に言われたことを思い出しました。祖母は、お風呂の残り湯を洗濯や掃除、洗顔にも使っていて、水をとても大切にしていました。こころ暖まるコラムでした。素敵なお祭り、ぜひ見てみたい!と思いました。

    こんなふうに、カトリックあいを運営してくださって、ありがとうございます。読むときは、神さまの愛を改めて思い出す時間です。全部に目を通すことはできていませんが、病気療養中の私は、とても楽しみにしています。

    これからもつづけていただけると、とても嬉しいです。

    • +主の平和
        三品様
       復活祭も終わって日本は寒暖差が激しいながらも花も咲き、よい気候になりつつあるものの、コロナの第三波で大変なことになっていますが、体調はいかがですか。復活祭など、「カトリック・あい」では、出来るだけ動画も入れ、教皇の説教の翻訳も早く載せるように努めていますが、いかがでしょうか。幸いと言うか、今年に入って、イタリアや西日本の読者の方からも投稿をいただき、それをきっかけに、定期コラム執筆者も増えています。ごむりでなければ、日頃思った事、おっしゃりたいことをお書きいただければいつでも掲載します。ご身体をお大事に、ご無理なさらないよう・・  感謝!  カトリック・あい代表・南條俊二

  2. 初歩的な質問です。
    教皇の回勅「ラウダート・シ」は翻訳すると、どういう意味でしょうか。

  3. 初歩的な質問です。
    教皇の回勅「ラウダート・シ」は翻訳すると、どういう意味でしょうか。
    以前に同じ質問をしましたが、その後、見なかったので、回答があったかも知れませんが、時効となったようです。
    すみません、再回答願います。

  4. 以前に同じ質問をしましたが、その後、見なかったので、回答があったかも知れませんが、時効となったようです。
    すみません、再回答願います。

    初歩的な質問です。
    教皇の回勅「ラウダート・シ」は翻訳すると、どういう意味でしょうか。

    • 石田様
       「ラウダート・シ」という回勅のタイトルは「あなたは称えられますように」という意味の古いイタリア語で、アシジの聖フランシスコの「太陽の賛歌」から採られています。日本の司教団の公式翻訳本が何故かタイトルを言語のまま使っているために、タイトルの本来の意味が伝わらないようです。小生なら、「環境回勅『ラウダー・トシ(あなたは称えられますように)』としていましたが…司教団の教皇の回勅や使徒的勧告の日本語タイトルはおかしいのが少なくありません。翻訳能力も、現代日本語のセンスも極めて貧弱なので・・・「カトリック・あい」がすでに昨年11月に苦労して日本語全訳を出した使徒的勧告「兄弟の皆さん」は、司教団はいまだに翻訳を完成しておらず、本にするのは夏以降と見られますが、どんな日本語タイトルになるのでしょう? 「カトリック・あい」代表・南條

      • 南條さま
        「ラうダート・シ」は「あなたは称えられますように」という意味なんですね。有難うございました。

  5. 独立した息子は、25歳、大好きな彼女と同棲しています。コロナの中で、若い人たちが、心許せる相手を見つけられたことは、素敵だと思うけど、彼女はまだ学生で、もっと勉強したいと云っているのです。さっさと結婚したら?と云っても、「そんなんじゃない」と云われるし、息子には『きちんと避妊してる?ピル飲んでもらってる?』としかいうことが出来ないです。なにか、いいアイディアがあれば教えてください。また、私自身は月経過多と子宮筋腫で、ミレーナを装着しています。ミレーナのおかげで、出血も減り、PMS
    貧血もなくなって、快適に過ごせるようになりました。病気の症状を解決するために、ミレーナを使うということも罪なのでしょうか?フマ―ネヴィテを実行する知恵は?あこやがい

    • あこやがいさま
       うちは3人子供がいますが、幸い、同棲する前に結婚できました。長男は、関係を持つ女性もいたようですが、相手を困らすようなことはなく、半分見合いの形で、うまく結婚して10年以上、孫も2人出来て円満。長女は一年先に就職したあと、相手が学部を卒業した段階で結婚し、大学院に行き、修士号、博士号をとって就職するまで、”育て上げ”、こちらも孫を2人作って、円満に暮らしています。個人的には、同棲をずるずると続けるのが常態になると、互いの責任もあいまいになり、他にいい人ができたら・・ということになりかねないのでは、と思います。本当に好き合っているなら、さっさと結婚して、相手が勉強を続けたい、というなら、そうさせてあげればいいと思いますが。 ミレーナのことは、よく知らないのですが、病気の治療のためなら、『罪』になることはあり得ないと思います。思い悩むまでもないでしょう。  「カトリック・あい」代表・南條

  6. はじめまして。東京の司教区に住んでおります一信徒です。今回の Motu proprio についての情報ありがとうございます。今回の教令の中は、パウロ6世の Ministeria Quaedam についても触れらていて、今回の教令もその内容 (ministerium の促進) と同じ精神によるであることが述べられていますが、日本では、このように今回の教令の理解の前提 (の1つ) になる Ministeria Quaedam がまだあまり知られていないように見えますがいかがでしょうか (特に重要な関係者となるはずの信徒の間で)。個人的な体験で恐縮ですが、私は、ヨーロッパに住んでいましたときに、普通の信徒として滞在先の教会に通っておりましたが、自分の仕事以外の時間を利用して、教会で決められた訓練を受けて、まさにこの Ministeria Quaedam の適用を受けて、聖職候補者にならない前提で、minister (最初は lector ついで subdiacunus 相当の accolytus) に任じられました。私の教育を担当してくださった司教区の責任者の方々 (担当の司教、司祭、助祭などの方々) は、私の体験は、のちに私が世界のどこのカトリック教会に行っても、間接的・直接的な形で役に立つものと期待してくださっていましたが、実際には、日本に帰国した際には、東京の司教区ではこのような形での信徒の ministeria の推進はほとんどなされていないことを告げられました。今回の自発教令の適用に伴い、Ministeria Quaedam の積極的な適用も行われるようになるのかなあ、と関心をもっております。拙文お読みいただきありがとうございました。

    • 山本様 
       連絡が遅れて申し訳ありません。お話の件ですが、カテキスタのことであれば、教区で一部の小教区で導入を始めています。菊地大司教の御父上が岩手でカテキスタをされていたこともあり、積極的に制度化を進めようとされていますが、日本の場合、地方ではいくつかの教区で昔から存在しているものの、東京教区ではこれまで全く実績がありません。個人的には、むしろ、妻帯者の「終身助祭」をしっかりと制度化し、修道会の協力も得て、育成していく方が、東京教区の場合は意味があると思うのですが・・ただし、カテキスタにしても、終身助祭にしても、育成できる人材がいるのか、というと?です。そもそも司祭の育成がきちんとされているのか、という問題があるわけで、もうすこし、全体の組み立てをきちんとする必要があると考えています。大司教殿には以前から申し上げているのですが、やはり「人」の問題に行きつきますね。大司教就任から3年以上たつのに、未だに補佐司教すらバチカンが任命しない状態ですし。   南條

      • 南條様、信徒の奉仕職の問題に関し、丁寧なご返事いただきましてどうもありがとうございます。こちらからまたご返事を差し上げる前に、いろいろと考えているうちに時間がたってしまいました。どうかお許しください。私の限られた体験・立場からだけでも、これはずいぶんと申し上げられそうなことがありそうだ、と勝手ながら思いました。とりあえず、2点ほど:パウロ6世のにしろ、教父フランシスコのにしろ、言及させていただいた教令は、信徒の奉仕職の多様性の推進ということに要点があるものと理解しております。ですからさまざまな奉仕職に信徒を任ずる、ということが大前提の要点であって、その大前提の枠内で、今回は特にカテキスタが取り上げられた、ということだと思います。それから、終身助祭の必要性は、信徒の奉仕職ではなくて、聖職の養成の問題の一部かと思います。また、実は、終身助祭の養成の問題と、信徒の奉仕職の問題は、「あれか、これか、どちらにするか」というようなことではなく、両立し得るものであり、また、両立させなければならないものだと理解するべきではないでしょうか。かって、ミニステリア・クエダムに関するコメントとして、土屋神父が、そもそも聖職者になる人は、まず信徒としての奉仕の経験がなければならないのだ (もちろんこれは、奉仕職を聖職候補者にのみ授けるということではないが)、と述べておられたのを思いだします。それから、すみおません、もう一つ、確か、アングリカンなどほかの教会からカトリックに移ってきた人が、たとえば、もともと信徒の accolytus だったりした場合は、そのままカトリック教会でも信徒の身分の accolytus として奉仕することがゆるされているはずだと記憶しております (間違いでしたらごめんなさい)。乱文にて失礼いたしました。

  7. 教皇メッセージ 世界召命祈願の日「私たちは皆、人類家族の実現に召されている」に思う

     ロシアの軍事侵攻から2か月が過ぎた。多くの人々はウクライナの痛みに心を寄せ、戦争の早期終結を願っていると思われるが、同時に、言論の自由のないロシアの一般市民に対しても、“敵”と感じていないのではないだろうか。ウクライナから隣国に避難したある少女は、ロシア人とウクライナ人が握手し「平和」と書き添えた絵を描いた。これらの事は、今ある確かな希望ではないだろうか。戦争をもってしても、人々の中にある善意や理解の精神は、まだ消えていないという事の現れなのかもしれない。
     しかし、このまま戦争が長引くならどうだろう。許し難い惨状が毎日報道されており、苦痛が日ごとに増していく。嘆き悲しみへの共感はやがて善意の灯を萎えさせて、憎しみの炎に変えてしまうかもしれない。
     戦況を見守る私たちも、既に次のような戦禍にいるのではないだろうか。人類家族実現の土台となる善意、愛ある理解の側に立つのか、それとも憎しみ、無関心の側に立つのか?この戦いに中立はないだろう。

  8. グローバルと言う言葉がいきわたっている。国際交流は確かに進んだ。しかし国際交流は、人類全体の兄弟化に向かうことはなく、日々それぞれの国民の心の壁は高くなってきたように感じる。交流の主な理由が利益を求める経済が基礎だからだろう。経済は利潤を求めて動く。その意味で基本的にエゴイステックな面を持つ。教皇フランシスコは「この経済は人を殺します。」とまで断罪している。
     日本の文化を考えてみれば良い。文字は中国から伝わった。仏教や陶磁器なども中国・朝鮮半島を経て伝わっている。明治以後の日本の発展は、西洋文明のお陰である。外国は恩師・友人として敬うべき存在である。また第二次大戦後、日本から南米などに多数の移民が渡っている。彼らは他国に受け入れてもらい、壮絶な苦難の末に現地に根付き、新しい統合された文化を切り開いている。国際交流で日本も関係した諸国も発展してきた。戦後の復興に際し、米国、戦勝国が日本の伝統を守り、そのアイデンティティーを尊重してくれたことも忘れてはならないことだろう。
     外国という異文化との交流は,新たな発展の機会を提供してくれる。なのに今の日本は、難民を厳しく制限し、移民・移住に壁を作っている。兄弟愛に欠け、恩知らずと言えよう。少子高齢化を問題にしながら、彼らから利益を得ることしか考えない”実習生制度”、非人間的な”入国管理制度”など、あってはならない。人類は皆兄弟である。教皇フランシスコは 回勅 兄弟の皆さん で4つもの引用を挙げて説いている:
    ・「寄留者を虐待してはならない。抑圧してはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記22章 20節)
    ・「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」(出エジプト記23章9節)。
    ・「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。あなたがたのもとにとどまっている寄留者は、あなたがたにとってはイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。」(レビ記19章34節)。
    ・「あなたがぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で摘み残しを集めてはならない。それは、寄留者、孤児、そして寡婦のものである。あなたがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい」(申命記24章21節~22節)。

  9. カトリック中央協議会が、残留の緩和を求めて、オンライン署名を始めている。全国の小教区に波及して欲しい。

  10.  本サイトのシノドスに関する記事に「”シノドスの道”で、ドイツの”実験”的な歩みとローマの正式な歩みの緊張関係は、今後 1 年間のカトリックのドラマの多くを際立たせるはずだ。ひと言で言えば、教皇と彼のバチカンの顧問は、同性婚、聖職者の独身制、女性の司祭・助祭の叙階、司教の選任方法の見直しなど「世界中で多くの議論を呼んでいる問題に前向きな方針を打ち出すことで、世界の教会の流れに先んじることのないように」とドイツの司教団に”警告”を出している。」とありました。
     以下の点について宜しくお願いします。
    ①シノドスとはこのような改革を目指すものなのですか。
     シノドスという言葉を度々目にしていますが抽象的でなにを考えるべきものかよく分かっていません。このような改革が課題ならばそのことをもっと明確にするべきではないでしょうか。
    ②世界のカトリック教会内でこのようなことが議論されているならば、本サイトでも紹介してほしいです。

    • 小溝様
       ご返事が遅れて申し訳ありません。しかし、ご質問の件については今でも十分、有効と考え、ご返事します。
       ”シノドスの道”については、はっきり言って、バチカン関係者も含めて、いまだに教皇の意図をよく理解しているとは思われません。教皇の現状認識は、これまでのカトリック教会は第二バチカン公会議の「世界に開かれた、共に歩む教会になろう」という基本的なメッセージを実現していない。現代世界で福音宣教の使命を果たすため、「司祭も信徒も、信徒以外とも互いに耳を傾け合い、尊重し、ともに主の光を目指して歩む教会にならねばならない」、そのために、まず、”シノドスの道”を歩む意識、体制を作ろう、と言うものだと思います。それは、一昨年秋の”シノドスの道”の開始の際の教皇の言葉を慎重に読めば分かります。ですから、そうした前提がしっかりできたうえで、教会改革を積み上げていく、というのが教皇の狙いといえるでしょう。
       ドイツの場合は、”シノドスの道”が始まる2年前から、独自に司教、司祭、信徒が率直に自国の教会改革についての話し合いを始めていました。背景には、聖職者の性的虐待、高位聖職者による隠ぺいなどが次々を明らかにされ、教会の信頼が落ち込み、信徒の教会離れも加速する、という深刻な状況があり、何とか教会を立て直す方策を考えねばならない、という切羽詰まった事情があるようです。このため、今日、「カトリック・あい」に掲載しましたが、ドイツの教会の行き過ぎとも思われる動きが、世界の教会の中で深刻な亀裂を生みかねない、と懸念したバチカンがブレーキをかけようとしているが、うまくいかない、というのが現時点での状況でしょう。
       このような状況に対して、日本の教会は、まったく他人事のように構え、”シノドスの道”の歩みさえもまともに取り組んでいない、というのが実情です。確かに件数は少ないかもしれませんが(実態をまじめに調べようともしていないので分からないのが実情)「カトリック・あい」で追跡しているように、長崎、仙台など、極めて無責任とも言える対応もあり、それが追及されるのを恐れてか、”シノドスの道”の歩みにも顔を背けている教区もすくなくありません。司教団の連帯も、いぜんの”高松問題”以来、崩れたまま。何とか日本の教会を建て直さねば、という思いから「カトリック・あい」を始めたとも言えるのです。   「カトリック・あい」代表・南條

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA