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「教会における虐待危機は消えていない、実際、拡大する可能性が高い」とCruxは報じているが、この危機を終わらせようという決意が、教会に不思議なほど感じられないのはなぜだろう。
虐待問題によって教会の全体的な信頼が失墜しても、主の「隣人愛」という教えは真理だ。その真理を説き導く役割の方々が、保身のために権力を用いる事、被害者が声を上げられず泣き寝入りの状況に置かれやすい事、事実に対して多くの信徒が無知なままにされている事、……根本的な問題はこうしたところにある。私たちに強い違和感を覚えさせているのは、「隣人愛」に対立しているように思える、体質や方法なのだ。それは私たちの魂を幽閉するため、憎悪を引き起こす。被害者はじめ、虐待問題に憤怒して声を上げている人々は、教会の評判を落とそうとしているのではなく、権力の間違った使用や方法、誠意の感じられない対応、集団的な無責任さ、無関心、そのようなものと闘っている。
視点を変えると、高まるこの不満感は、人々の理解や霊的な目覚めを意味するものかもしれない。善意が人々の間に高まる時、私たちは最初に暗闇や分裂を強く感じる。闇を照らし、橋渡しする努力を呼び起こすものが、善意や聖霊の力でなければ他に何があるというのだろう。2021年に始まり第二会期を迎える今回のシノドスの歩みの美しさは、この聖霊の力を大規模に呼び起こそうという、教皇フランシスコの私たちへの信頼に感じられる。
心の傷。私が愛知県の単科の大学に赴任して7、8年頃だった思う。何でも、「日本臨床心理学会」及び「日本臨床心理士資格認定協会」が、カウンセリングの資格云々と言い始めた。当方は別段気に留める事もなく、過ごしていた。が、友人が恐らくこの「資格」は将来「国家資格」になるだろうから、資格を得た方がよいのでないかと助言をしてくれた。で、何処の本屋にもうず高く積まれていた表紙の赤い「手引き書」を購入した。内容は資格を得る為の方法が記されていた。が、私の専門領域に関しては記載がなく、「その他」の項目に該当する事が解り、「日本臨床心理士資格認定協会」に電話をし「資格取得」の方法を得た。それに従い「必要な書類」と「事例研究」を要求され(事例研究は400字詰原稿用紙50枚で、二つの事例が必要との事。私の場合は、試験ではなく、書類選考による、経過措置との事)、これは結構厄介な仕事であったが、平成元年にこの資格を取得した。が、資格を取得しても「研修」として5年間で15ポイントの研修録が要求され、5年毎の資格更新時の条件となった。
ある研修会のテーマが特別企画として、「精神的虐め」についてであった。
この研修会で何が話されたか、もう殆ど記憶にないが、一つだけ未だに覚えている事がある。「精神的イジメ」には、当然、「加害者」と「被害者」がいるわけだが、「加害者」の方にはイジメの記憶があまり残らず、「被害者」には一生残るとの事であった。
以下、簡単に私が遭遇した「被害者」としての「虐め」を記す。当時の上石神井の神学校(上智大学神学部)には「学生担当専任」のイエズス会神父がいた。先輩の神学生から、彼には「気を付ろ」と忠告を受けた。要するに不条理に神学生のクビを切るのである。この神父F・Pは第二ヴァチカン公会議、日本司教団の顧問でもあった。兎に角、神学校では絶対の権限を有していた。彼に依って、日本人神学生が不本意にクビになる事が多々あった。(この事柄の背景を述べると話が長くなるので割愛する)。
が、ある時、私にもクビの宣告がなされた。咄嗟に驚いた。何が原因なのか皆目見当がつかない。正直、困った。当時、日本イエズス会福管区長は私の友人であり、又、神学校の修道院長とも親しい友人関係にあった。この二人が事実上、助けてくれ、私はクビを逃れたが、教区の神学生がクビになった時、誰が助けるのか。その神学生を送った司教だろうと普通はそう思うだろう。(当時の上智大学神学部はイエズス会神学生、教区神学生が居た)。が「学生担当」の神父がヴァチカンの担当者に、直接、書留速達を送れば、ヴァチカンの担当者は日本人神学生のすべての書類を即座に焼却する。こうなると、司教がどう足掻いても、ヴァチカン側はそんな人は居ないと返信してくる。これ等の事は先輩神学生から、直接聞いた事である。
現在、教区神学生の教育はイエズス会(上智大学神学部)から独立し、所謂、各種学校となり、教区神学校になった。私は、後まだ二三酷いパワハラを受けたが、彼等は知らぬ存ぜぬを決め込むであろう。神父・シスターと言われる人達は誰からも注意をされない。余程、自分自身について反省していないと必ず他者に精神的傷を負わせる。この事は当時、神学校にいた神父が常に口にしていた事を思いだす。これ等の話は50年以上前の話である。今現在、もうその様な事はないと思うが、改革されている事を切に願う。
キリスト教の所謂「性」について、ことの「是非」は別にして、以下雑感:この事柄を勇気を持って最初に語ったのは、多分、S・フロイドをおいて他にいない。
キリスト教と言う「宗教」がかくも「性的」な事柄を「抑圧」した事実を「深層心理学」から解明したのは、フロイドと言っても過言ではなかろう。最近の聖職者による「性的幼児虐待」をみるまでもなく、古来からこの事象は「枚挙にいとま」がない。20世紀を代表する「神学者達」も御多分に漏れず「性的逸脱者」であった。そもそも、その原因は何処にあるのか、、、?大まかに言えば、パウロの影響を強く受けたアウグスティヌスは後のキリスト教思想の礎を築いた人であろう。
が、誤解を恐れずに言えば、新約時代からアウグスティヌスに至る迄に勘案された「性的」な事柄を、人間に根差す「原罪」に置き換え、全ヨーロッパに網をかける如く、宣教がなされ、その基を築いたと言えば、御専門家から批判を浴びるだろうか、、、?が、結果はその「原罪意識」が抑圧され、「潜在意識化」され、人を絶えず束縛してきたのが現状であろう。キリスト教は「性」に関して、全く「真の自由」を与えなかった。この事柄を敷衍すれば、人間そのものを「自由」にしなかったと言っても過言でなかろう。この時代遅れも甚だしく、現状認識に著しくズレているのが、現今のキリスト教ではなかろうか、、、?はたまた、「賞味期限」切れが、昨今のキリスト教なのだろか、、、?
賢明な諸氏に一考、願いたいが、まあ、笑って放念して下さって結構ですよ。
雑感として以下の事柄を簡単に明記したい。尚、当方、今年で85歳になり、もう公の書に記す事を最後にしたいと考えています。従いまして、雑感としては少々長文になるかもしれませんが、編集をされる方々には何卒ご寛容をお願いしたい。
一信徒が、カトリック教会に対して次のような事を述べても、悲しいかな「ごまめの歯軋り」にもならないであろう。カトリック教会の司祭による幼児性的虐待については、多くの報道機関から報道がなされ、もう少なからず多くの人がご承知かもしれませんが、この問題を述べてみます。
最近、海外から帰国した友人と色々と話をしたが、その中で、案の定、この司祭の問題が話題になり、友人曰く、「カトリック教会には、もう、神も、イエス・キリストも、聖霊も居ないのではないか」と言われ、当方には返す言葉がなかった。こう言われ、確か、フランスの人類学者、エマニュエル・トッドはこれを「信仰システムの崩壊」と明言したが、勿論、これは狭義の既成宗教の崩壊を意味はしないが、「人々に存在の意義・意味」を与える事が不可能になったと事を言っていると思われる。が、カトリック司祭の「幼児性的虐待」が、現実の社会に於ける他の何等かの組織体の中で同様な事が行われたら、その組織体は破綻するだろうし、又、社会そのものが、その様な組織体の存在を許さないであろう。この忌まわしい事柄は半世紀に渡って行われている。
教皇ピオ12世は、かって、「教会はキリストの神秘体である」と発言したが、幼児性的虐待を行う司祭が存在する教会が、何故、「キリストの神秘体」なのか?大雑把な言い方をするが、確か、トマス・アクィナスの神学によれば、サクラメントを執行する司祭がどれだけ汚れていようが、神の恩寵は人々にもたらさると説明する。この際、司祭は単なる「道具」、水道の管のようなものと言うのである。この説明は確実に詭弁であり、虚偽であろう。このような言説で人々を納得させる事はもはや、不可能である。知性の犠牲を強いる如何なる教えにも、敢然と「否」と言うべきであろう。
現教皇、フランシスコは司祭による「幼児性的虐待」問題を集中的に話し会う為に、各国の司教を招集したが、解決らしい結果はなかったと思う。問題をどのように、処理し、又、その対策をどうするのか、その説明は無かった。
この問題は被害者の「トラウマ」を考えたら、とても安易に考える事は出来ない。カトリック教会は、所謂、「性」の問題をいとも簡単に考えた。人間の実存的生と密接に繋がっている「性」を所謂、肯定的には思考しなかった。この事を、スイスの深層心理学者、C・G・ユングは「キリスト教は性の問題」を解決していないと述べた。けだし、明言であろう。カトリック教会は「性」の問題に対して真正面から対峙しなかった。カトリック教会の司祭が「幼児性的虐待」を行った事は、皮肉を込めて言えば「身から出た錆」とでも言えようか。神からの召命、使命を受けて独身の司祭になる。司祭は、今一度、この自己奉献とも言うべき事柄を謙遜さを持って黙想する必要があろう。
纐纈康兵氏のコメントへの共感
3回にわたる纐纈氏のコメントは、神学校で権限を持つある司祭の一存によってクビになったこと、また他の多くの神学生たちもクビになって去っていったこと、つまりパワハラという精神的イジメによって「心の傷」を負ったこと、これが一つ。もう一つは性の問題。教会は性的な事柄を原罪のように扱い、抑圧したため潜在意識化して人に自由を与えず無意識的に束縛してきた。性の問題を真正面から対峙してこなかったために、司祭による幼児性的虐待すなわちセクハラも起こったと言えないだろうか、C.G.ユングが言うように「キリスト教は性の問題を解決していない」のであると。司祭の独身制の問題もそこにある・・。纐纈氏のコメントの内容は深く広く、キリスト教思想史上のことでもあり、私の手に負える範囲で上のように要約させていただきました。被害者を作り出す加害者・司祭のパワハラとセクハラ。歴史的に振り返ると、2世紀の終わりごろになって司祭や司教はヒエレウスつまり祭司という言葉で呼ばれるようになりました。神と人を仲介する者が祭司です。しかし聖書は信徒全員が祭司的な集団だと考えていますので、司祭や司教を特別視することは本当は間違いであり、このことが後々まで(現代まで!)尾を引いていくことになったと思います。特に4世紀頃から教会は社会の中で大きな制度となって、司祭・司教は特別の権限や権威を持っていきました。またエウカリスチア(感謝の祭儀)を司式する司祭・司教は特別の「聖」性を要求されるようにもなり、独身が勧められ、求められていったようです。また聖書にもあるように終末的思想が一般に浸透していましたし、殉教者の多かった時代はいつ死んでもいいように教会の指導的立場の者(司教など)は結婚をしないことは多々あったと思います。また。中世初期の聖俗がはっきりと分離していない社会では聖職者の妻帯は慣習であって、とくに問題視されなかったが、その後教会が世俗権力からの自由と世俗支配を主張するようになってから、聖職者の妻帯が明確に禁じられるようになっていきます。レオ9世やグレゴリス7世教皇辺りからです。(小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』)。こうして位階制の教会の中にいる司祭司教は権力を持ち、一般信徒を俗人として分けていきました。この位階制度がずっと現代まで続いてきたため、パワハラ、セクハラは隠されて存在し続けてきたのでしょう。特にローマカトリック教会の中心であるバチカンは「ゲイ」が支配する組織であり、教会は構造的に同性愛化する性質があり、性的虐待を個人的、制度的に隠蔽するシステムになっている、と『ソドム バチカン教皇庁最大の秘密』の著者フレデリック・マルテルは述べています(河出書房新社刊)。この本をある牧師夫人から紹介されたのは、もう何年も前ですが、まともに読む気にはなれません。でもこれが現実なのです。性の問題に取り組む教会になるには、バチカン聖庁を根本から改革しないとダメでしょう。長くなるので、この辺で筆を置きます。西方の一司祭
西方の一司祭(山口氏)が答えて下さったので、当方の返答をしておきます。カトリック司祭の「幼児性的虐待・婦女レイプ」等は司祭達の共同責任であり、又、それは連帯責任でもあると思う。通常の社会でこうした事が起きれば、その組織のトップが責任を取る事が当然だと思われる。山口司祭の様にローマ・ヴァチカンにその責任を被せる事は決して妥当とは思えない。
では、この問題の原因は何処にあるのだろうか。カトリック教会、司祭の「ヒエラルキー」(位階制)に対して、信徒は如何なる権限も有していないし、口を挟む事すら不可能である。こうした現状に対して、フランスの人類学者、E・ドットはカトリック教会の「信仰組織」の崩壊と明言した。これは言葉を変えれば、カトリック教会の「ヒエラルキー」が破綻していると言いたいのであろう。
最後に「ヒエラルキー」にしろ、はたまた「七つの秘跡論」にしろ、この辺でより深く、広く再考する必要があると思われる。
2024年10月号 Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」を拝読して
環境に適応することも、神さまが人間に備えられた能力という考え方にはっとさせられました。すべてのものは神さまから与えていただいたものだと言葉としては理解していましたが、ああ、本当にそうなんだなあと納得いたしました。
AIや、効率重視の発展を見せる日本の現状を批判することなく、タイ文化と東京の両方を受け入れ、それぞれの利点を生かして生活しておられる。シスター羊子のあり方に感動します。
信仰とは、どんな時にも喜びを見いだすことができる、神さまの方向を見つめて生きる恵みですね。