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以上

読者の声」への13件のフィードバック

  1. はじめまして。シスター阿部羊子から、このサイトを教えていただきました。私はいま36歳。シスター羊子には、私がカレン族の村にスタディツアーに参加した際に、お世話していただきました。そのときは20歳でした。

    私が最近いちばん印象に残ったのは、先月のシスター阿部の水に感謝するお祭りのコラムです。

    その記事を読んで、私は「親に恩は返せても、水に恩は返せない」と祖母に言われたことを思い出しました。祖母は、お風呂の残り湯を洗濯や掃除、洗顔にも使っていて、水をとても大切にしていました。こころ暖まるコラムでした。素敵なお祭り、ぜひ見てみたい!と思いました。

    こんなふうに、カトリックあいを運営してくださって、ありがとうございます。読むときは、神さまの愛を改めて思い出す時間です。全部に目を通すことはできていませんが、病気療養中の私は、とても楽しみにしています。

    これからもつづけていただけると、とても嬉しいです。

    • +主の平和
        三品様
       復活祭も終わって日本は寒暖差が激しいながらも花も咲き、よい気候になりつつあるものの、コロナの第三波で大変なことになっていますが、体調はいかがですか。復活祭など、「カトリック・あい」では、出来るだけ動画も入れ、教皇の説教の翻訳も早く載せるように努めていますが、いかがでしょうか。幸いと言うか、今年に入って、イタリアや西日本の読者の方からも投稿をいただき、それをきっかけに、定期コラム執筆者も増えています。ごむりでなければ、日頃思った事、おっしゃりたいことをお書きいただければいつでも掲載します。ご身体をお大事に、ご無理なさらないよう・・  感謝!  カトリック・あい代表・南條俊二

  2. 初歩的な質問です。
    教皇の回勅「ラウダート・シ」は翻訳すると、どういう意味でしょうか。

  3. 初歩的な質問です。
    教皇の回勅「ラウダート・シ」は翻訳すると、どういう意味でしょうか。
    以前に同じ質問をしましたが、その後、見なかったので、回答があったかも知れませんが、時効となったようです。
    すみません、再回答願います。

  4. 以前に同じ質問をしましたが、その後、見なかったので、回答があったかも知れませんが、時効となったようです。
    すみません、再回答願います。

    初歩的な質問です。
    教皇の回勅「ラウダート・シ」は翻訳すると、どういう意味でしょうか。

    • 石田様
       「ラウダート・シ」という回勅のタイトルは「あなたは称えられますように」という意味の古いイタリア語で、アシジの聖フランシスコの「太陽の賛歌」から採られています。日本の司教団の公式翻訳本が何故かタイトルを言語のまま使っているために、タイトルの本来の意味が伝わらないようです。小生なら、「環境回勅『ラウダー・トシ(あなたは称えられますように)』としていましたが…司教団の教皇の回勅や使徒的勧告の日本語タイトルはおかしいのが少なくありません。翻訳能力も、現代日本語のセンスも極めて貧弱なので・・・「カトリック・あい」がすでに昨年11月に苦労して日本語全訳を出した使徒的勧告「兄弟の皆さん」は、司教団はいまだに翻訳を完成しておらず、本にするのは夏以降と見られますが、どんな日本語タイトルになるのでしょう? 「カトリック・あい」代表・南條

      • 南條さま
        「ラうダート・シ」は「あなたは称えられますように」という意味なんですね。有難うございました。

  5. 独立した息子は、25歳、大好きな彼女と同棲しています。コロナの中で、若い人たちが、心許せる相手を見つけられたことは、素敵だと思うけど、彼女はまだ学生で、もっと勉強したいと云っているのです。さっさと結婚したら?と云っても、「そんなんじゃない」と云われるし、息子には『きちんと避妊してる?ピル飲んでもらってる?』としかいうことが出来ないです。なにか、いいアイディアがあれば教えてください。また、私自身は月経過多と子宮筋腫で、ミレーナを装着しています。ミレーナのおかげで、出血も減り、PMS
    貧血もなくなって、快適に過ごせるようになりました。病気の症状を解決するために、ミレーナを使うということも罪なのでしょうか?フマ―ネヴィテを実行する知恵は?あこやがい

    • あこやがいさま
       うちは3人子供がいますが、幸い、同棲する前に結婚できました。長男は、関係を持つ女性もいたようですが、相手を困らすようなことはなく、半分見合いの形で、うまく結婚して10年以上、孫も2人出来て円満。長女は一年先に就職したあと、相手が学部を卒業した段階で結婚し、大学院に行き、修士号、博士号をとって就職するまで、”育て上げ”、こちらも孫を2人作って、円満に暮らしています。個人的には、同棲をずるずると続けるのが常態になると、互いの責任もあいまいになり、他にいい人ができたら・・ということになりかねないのでは、と思います。本当に好き合っているなら、さっさと結婚して、相手が勉強を続けたい、というなら、そうさせてあげればいいと思いますが。 ミレーナのことは、よく知らないのですが、病気の治療のためなら、『罪』になることはあり得ないと思います。思い悩むまでもないでしょう。  「カトリック・あい」代表・南條

  6. はじめまして。東京の司教区に住んでおります一信徒です。今回の Motu proprio についての情報ありがとうございます。今回の教令の中は、パウロ6世の Ministeria Quaedam についても触れらていて、今回の教令もその内容 (ministerium の促進) と同じ精神によるであることが述べられていますが、日本では、このように今回の教令の理解の前提 (の1つ) になる Ministeria Quaedam がまだあまり知られていないように見えますがいかがでしょうか (特に重要な関係者となるはずの信徒の間で)。個人的な体験で恐縮ですが、私は、ヨーロッパに住んでいましたときに、普通の信徒として滞在先の教会に通っておりましたが、自分の仕事以外の時間を利用して、教会で決められた訓練を受けて、まさにこの Ministeria Quaedam の適用を受けて、聖職候補者にならない前提で、minister (最初は lector ついで subdiacunus 相当の accolytus) に任じられました。私の教育を担当してくださった司教区の責任者の方々 (担当の司教、司祭、助祭などの方々) は、私の体験は、のちに私が世界のどこのカトリック教会に行っても、間接的・直接的な形で役に立つものと期待してくださっていましたが、実際には、日本に帰国した際には、東京の司教区ではこのような形での信徒の ministeria の推進はほとんどなされていないことを告げられました。今回の自発教令の適用に伴い、Ministeria Quaedam の積極的な適用も行われるようになるのかなあ、と関心をもっております。拙文お読みいただきありがとうございました。

    • 山本様 
       連絡が遅れて申し訳ありません。お話の件ですが、カテキスタのことであれば、教区で一部の小教区で導入を始めています。菊地大司教の御父上が岩手でカテキスタをされていたこともあり、積極的に制度化を進めようとされていますが、日本の場合、地方ではいくつかの教区で昔から存在しているものの、東京教区ではこれまで全く実績がありません。個人的には、むしろ、妻帯者の「終身助祭」をしっかりと制度化し、修道会の協力も得て、育成していく方が、東京教区の場合は意味があると思うのですが・・ただし、カテキスタにしても、終身助祭にしても、育成できる人材がいるのか、というと?です。そもそも司祭の育成がきちんとされているのか、という問題があるわけで、もうすこし、全体の組み立てをきちんとする必要があると考えています。大司教殿には以前から申し上げているのですが、やはり「人」の問題に行きつきますね。大司教就任から3年以上たつのに、未だに補佐司教すらバチカンが任命しない状態ですし。   南條

      • 南條様、信徒の奉仕職の問題に関し、丁寧なご返事いただきましてどうもありがとうございます。こちらからまたご返事を差し上げる前に、いろいろと考えているうちに時間がたってしまいました。どうかお許しください。私の限られた体験・立場からだけでも、これはずいぶんと申し上げられそうなことがありそうだ、と勝手ながら思いました。とりあえず、2点ほど:パウロ6世のにしろ、教父フランシスコのにしろ、言及させていただいた教令は、信徒の奉仕職の多様性の推進ということに要点があるものと理解しております。ですからさまざまな奉仕職に信徒を任ずる、ということが大前提の要点であって、その大前提の枠内で、今回は特にカテキスタが取り上げられた、ということだと思います。それから、終身助祭の必要性は、信徒の奉仕職ではなくて、聖職の養成の問題の一部かと思います。また、実は、終身助祭の養成の問題と、信徒の奉仕職の問題は、「あれか、これか、どちらにするか」というようなことではなく、両立し得るものであり、また、両立させなければならないものだと理解するべきではないでしょうか。かって、ミニステリア・クエダムに関するコメントとして、土屋神父が、そもそも聖職者になる人は、まず信徒としての奉仕の経験がなければならないのだ (もちろんこれは、奉仕職を聖職候補者にのみ授けるということではないが)、と述べておられたのを思いだします。それから、すみおません、もう一つ、確か、アングリカンなどほかの教会からカトリックに移ってきた人が、たとえば、もともと信徒の accolytus だったりした場合は、そのままカトリック教会でも信徒の身分の accolytus として奉仕することがゆるされているはずだと記憶しております (間違いでしたらごめんなさい)。乱文にて失礼いたしました。

  7. 教皇メッセージ 世界召命祈願の日「私たちは皆、人類家族の実現に召されている」に思う

     ロシアの軍事侵攻から2か月が過ぎた。多くの人々はウクライナの痛みに心を寄せ、戦争の早期終結を願っていると思われるが、同時に、言論の自由のないロシアの一般市民に対しても、“敵”と感じていないのではないだろうか。ウクライナから隣国に避難したある少女は、ロシア人とウクライナ人が握手し「平和」と書き添えた絵を描いた。これらの事は、今ある確かな希望ではないだろうか。戦争をもってしても、人々の中にある善意や理解の精神は、まだ消えていないという事の現れなのかもしれない。
     しかし、このまま戦争が長引くならどうだろう。許し難い惨状が毎日報道されており、苦痛が日ごとに増していく。嘆き悲しみへの共感はやがて善意の灯を萎えさせて、憎しみの炎に変えてしまうかもしれない。
     戦況を見守る私たちも、既に次のような戦禍にいるのではないだろうか。人類家族実現の土台となる善意、愛ある理解の側に立つのか、それとも憎しみ、無関心の側に立つのか?この戦いに中立はないだろう。

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