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以上

読者の声」への39件のフィードバック

  1.  シノドス関連など日本のカトリック教会のために必要な情報が提供されて有り難く思っております。

     さて、トップページの、2024年最初の「教皇の意向: 多様性という賜物のために」に記載されている、「カトリック教会には多様な儀式(典礼様式)の伝統があることを、聖霊の導きによって気づくことができますように」を、どれだけの日本のカトリック信徒が理解できるのでしょうか?
     「カトリック教会」というのはすなわちラテン典礼カトリック教会だという誤解の中にある人がほとんどではないでしょうか?
     ウクライナには、ラテン典礼カトリック教会よりも、ビザンティン典礼様式の「ウクライナ・ギリシャ・カトリック教会」のほうが圧倒的に多数であることを、どれだけの人が理解できているのでしょうか?
     実は日本のカトリック教会は、カトリック教会の真の姿を、実はまだ知らないのではないでしょうか?

  2. コラムにて「信仰は隣人愛と分離できない」との一文で思い出した実体験を分かち合わせていただきます。
    待降節主日の非常に寒い朝、教会塀のそばで一人の男性ホームレスが生ごみ袋から残飯を手づかみで口に運んでおりました。友人と相談し熱いお茶を届ける準備をすると、その場におられた他の信徒らから「関わらないで」とお願いされたのです。もうすぐミサだから、今ホームレス男性が教会に来ると対応できないという理由でした。
    その数週間後の夜半ミサ直前、今度は身なりの良い盲目の老男性が「初めて教会に来た」と言って聖堂受付に来られました。ある信徒はミサの説明をし、ある信徒は寄り添い、手を取って席に誘導し、対応した信徒だけでなく男性の来訪を知った皆が自然と思いやりや気配り、喜びにおいて「一致」したような感覚を体験しました。この日の夜半ミサの荘厳さと温かさの実感を、私は生涯忘れることはないでしょう。
    コラムで紹介された昔話の「善良な人、欲深い人」にふれた時、自分はここまで欲深くないぞ、これは他人事だ、という思いになっている自分に気がついたのですが、その両方を併せ持っているというのが私達一人一人とその集まりである共同体の現実ではないでしょうか。ご紹介させて頂いた二つの体験談のどちらの時も司祭の意向を伺う時間は全く無く、その場の信徒らの意志が現実となりました。ホームレスの男性に対しては、一人の信徒の独断によって熱いお茶と食べ物が手渡されました。その信徒は「何十年も毎週必ずミサに与っていようとも、主の教えを実践出来なければキリストを信じる者として非常に生ぬるいのではないか」という強い思いがあったのです。
    確かに、もし実践出来なければ神からの教えであっても意味をなしません。現代世界は戦争や気候危機など多くの問題を抱え、さらに教会共同体の様々な問題も意識されており、個人では何もできないという無力感に襲われがちです。ですが、霊性の表現に向かう一人一人の動き、それがどうして小さなものでありえましょうか。教皇フランシスコも「キリスト教徒の生活は、霊的な闘いを恵みの瞬間に変える機会に満ちている」と私達を鼓舞されました。自分の置かれた所で花開いて香り満ちてゆく道。皆でそのような道を選びとっていけますように。

    •  読ませて頂きました。
      男性ホームレスの件、もしもその時のミサの福音で、「あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、……」(マタイ25.31-)が朗読されていたら皮肉ですね。その男性ホームレスの方が洗礼を受けた方ではないという思い込みは私たちの中にありがちです。
       私たちは、一人の人間のいのちのなかで、神がおられる、ということを本気で信じているのでしょうか、それとも「単なるたとえ」として受けいれているのでしょうか。その違いによって、「神を礼拝する」行動に違いが出てくるのは必然なのだろうと思います。

  3. ふくにゃんさん
    読ませて頂きました。ミサ前なので「関わらないで」の言葉は衝撃でした。とは言え、御言葉を聴いている者であっても悲しいかなそれが現実かとも感じています。マタイ25.31〜46を読みました。キリスト者とはどのように生きるのか、そして神はわたし達に何を望んでおられるのか! イエスの生き方に倣いなさいと問われているのではないでしょうか。
     生ゴミを口にしていたホームレスさんに、イエスを重ねて見ることのできるキリスト者に、私たちはならなければとの強い思いがあります。
     ミサの意味をキリスト者は、特に深く考えなければなりませんよね。

  4. ふくにゃんさん
    読ませて頂きました。ミサ前なので「関わらないで」の言葉は衝撃でした。とは言え、御言葉を聴いている者であっても悲しいかなそれが現実かとも感じています。マタイ25.31〜46を読みました。キリスト者とはどのように生きるのか、そして神はわたし達に何を望んでおられるのか! イエスの生き方に倣いなさいと問われているのではないでしょうか。
     生ゴミを口にしていたホームレスさんに、イエスを重ねて見ることのできるキリスト者に、私たちはならなければとの強い思いがあります。
     ミサの意味をキリスト者は、特に深く考えなければなりませんよね。

  5. 日高千夏代さま
    コメントをありがとうございました。マタイ25章31節~46節も改めて読みました。
    あの時の「関わらないで」には、ミサに支障がないようにしなければならないというご心配があっての言葉だと思います。お茶を届けた信徒は、生ごみを口にする程の状況の男性を見なかった事にしてミサに参加する事など出来なかったのだと思います。優先するべきは何かを即座に判断しなければならず意見が分かれましたが、低くされている方に寄り添うという事について共同体が考える機会になったのは間違いありません。私達の教会は、思いがけずイエスの訪問を受けたのかもしれませんね。

  6.  教皇フランシスコは1月8日「平和(を守り、育てるの)は、私たち全人類に課せられた責任」と強調された。私達の「責任」とは何か。思い巡らせてみると、真の自由意志の欠如という問題が関係しているのではないかと思う。ここで言う自由意志とは、共同体、人類といったグループを善へと方向づけるための個人の正しい選択と行動に関係している。
     もし、起こっている問題は自分とは無関係、いつかそれらは終わり再び良くなるだろうと傍観者の立場をとったならば、様々な害悪に対して自らの自由意志を正しく働かせる「責任」という問題を見過ごすことになるのではないか。サイレント・マジョリティーが最大巨大勢力ならば悪の側には都合良い。愛という基本的な法が無視されるとき、全体が苦しむ。平和は正義が支配するときにしか訪れない。他者の苦しみや非道さを傍観するごとに、意図せずとも愛や正義を退廃させる結果を招いているのではないだろうか。
     恐らく、私達の自由意志は悪や大混乱を招いているものを変性していく大きな力になり得る可能性を持っている。阪神・淡路大震災直後、500円の弁当を被災地に運び5千円で売ったお店が三ヶ月で潰れてしまった話を御存知だろうか。弁当は被災地で飛ぶように売れたが、被災者に対し高額の弁当をもって儲ける非道さに怒った店の地元のお客が完全に離れてしまった。そのため店はたった三ヶ月で潰れてしまったのだ。人々が健全さを勝利させた一件だと思う。
     私達には自由と正義、信頼と祝福された平和に対する権利がある。それらを抑圧、歪曲する者達に対し正気であることを求める声は大切だ。大多数の人々は戦争や不法、混乱の無益さに飽き飽きし、愚行を永久に終わらせるための方法を心の内に求めている。すべての国に存在するそのような人々に、キリストが油注ぎ働かれるのだと希望を持ちたい。

  7. 1月24日付朝日新聞記事、実名での訴えに至った田中時枝さん、本当にお辛い体験をなさったと思います。自分は30代のころ
    ある神父からやたら肩を抱かれたり隣にくっついて座られて身体を密着させられ気持ちが悪くて一人のシスターに
    相談したところ「神父様はイタリアや海外での生活が長いからスキンシップは自然な行為。あなたが大げさにさわぎたてるのはおかしい」と言われがっかりした記憶があります。自分の体験は些細なことですが(わたし的には大変気分が悪くミサに与るのもその神父からご聖体をいただくのもいやでしたが)信仰とそれとは別なものと正しく導いてくれる信者の友がたくさんいましたので救われました。田中さんのためにも、また声を上げることのできない方々のためにもお祈りしたいと思います。

  8. 神言会に対する裁判の記事、大変興味深く読んでいます。さて、実名報道されたヴァルカス・フロス・オズワルド・ザビエル神父についてですが、公開情報のレベルで不可解な点があります。2016年4月1日付の長崎大司教区の新聞「カトリック教区報」には、同神父が神言会が司牧を担当する長崎の西町教会から東京の吉祥寺教会に4月1日に異動することが掲載されています。しかし、同じ頃の「東京教区ニュース」(2016年3月14日号)には、同神父の転入のお知らせが載っていません。そして、同神父は吉祥寺教会から事前告知もなく、いつの間にいなくなってしまいました。
    これは一体どういうことなのでしょうか。

    https://www.nagasaki.catholic.jp/cms/newspaper/kyouhou/201604.pdf

    https://tokyo.catholic.jp/info/news/29115/

  9. カトリックの一信徒としての憂い

    1.信徒としての心理
      ➀ モチベーション(意欲)とエンゲージメント(組織に対する信頼)の低下
      ➁ トップダウンがベースで個人からのボトムアップの仕組みがほとんど無い
      ➂ 組織理念、価値観が不透明で不文律、共有化されていない

    2.組織の内部環境、運営の劣化
      ➀ 組織内部の情報の共有化が図られていない
      ➁ 組織としての内部機構の明確化ガ図られていない
    ➂ 業務分掌規程が不明確
    ➃ 文書規定による伺い、合議、決済、管理、保存が不明確
    ➄ 組織全体のコミュ二ケーションのあり方、取りまとめ、反映のルール化が欠如

    3.外部環境変化への対応不足
      ➀ 社会の情報化、デジタル化への早期内研修、業務改革の不備
      ➁ 組織として社会の急激な変化やニーズに対して迅速な対応が難しい状況に陥っている

    4.組織のパフォーマンス(組織人の活発な行動)の低下
      ➀ 組織を離れたり休眠、安否不明者の増加
      ➁ 組織内部の不協和音や空白化
      ➂ 意見の対立をトップダウンで押し切る姿勢の常態化
      ➃ 組織内部の信頼関係の崩壊
      ⑤ 一部の特定者のみによる独断先行的な組織運営

    5.組織ガバナンスの欠落
      ➀ 組織構成員のデーターベースのシステム化がなされていない
      ➁ 組織ビジョンの不備
      ➂ 組織の中長期計画の数値管理の不備
      ➃ 財務管理の不透明、担当者の長期在任
      ⑤ コンプライアンス(法令順守)の意識欠落、公正・公平な情報公開の不備

    6.組織に対する社会的評価の低下
      ➀ 近隣の地域との関係性の軟弱
      ➁ 外部からの意見収集の体制、情報収集、分析検討の欠落
      ➂ 照明、案内板、来訪者応対の統一マニュアル不備
      ➃ 定期的な組織の数値的統計、管理、分析の業務体制の不備
      ⑤ 対外広報体制の不備

     PN:藪北諫言

  10. 以前、共同体で悪化した人間関係の修復を試みた時、ある疑問を感じた事があります。中年の(教会では若い?)信徒がある会を改革したのですが、それは自分以外の先輩信徒らを全て排除するという方法でした。仲間だった人々は友の裏切りに非常に憤り、深く傷つきました。私は改革した信徒に皆と話し合いをするよう勧めたのですが、その若い信徒は、和解や話し合いを全く求めていませんでした。「この苦しみは全て神さまにお捧げしている、神さまは赦してくださるのでそれで良い」というのです。
    私たちは告解の秘跡で神さまと和解することが出来ますが、それだけで満足している信徒は案外多いのかもしれません。また彼の場合、教会での奉仕を人一倍多くこなすことで誰よりも主に近いと信じ、隣人愛から遠ざかっている状況が見えなくなっているのかもしれません。教皇フランシスコは4日、「取り返しのつかないものを修復する」をテーマにした国際会議の参加者にむけて、「償いは人間同士の和解だけでなく、神との和解にもつながるのです。それは、隣人に対して犯した悪は、神に対する罪でもあるからです」と語られました。神との本当の和解は、真摯な反省、話し合い、傷の修復、そのような実を結ぶものではないでしょうか。教会での様々なハラスメント問題に対しても、責任者は「霊の実」を明確に証して頂きたいと思っています。

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