・鼎談と分かち合いの集い「キリスト教用語の日本語訳は本来の意味を伝えているか」

 (2017.9.東京・信濃町) 真生会館主催 司会:森一弘司教(真正会館理事長) 出席者:高木賢一神父(東京教区事務局長) 石井祥裕氏(上智大学神学部講師・日本カトリック典礼委員会委員)

 (日本の教会にとって極めて重要なテーマであり、もっと関心を持って真剣に取り組むべき課題と思われます。この鼎談はかなりフランクな形で行われたため、発言者が特定できるようなまとめ方をすると、ご迷惑がかかることが考えられるため、三人、あるいは会場の参加者の発言のポイントと思われるものを匿名でまとめ、感想を加えることとしました=「カトリック・あい」南條俊二)

 日本語の聖書やミサ典礼の祈りの言葉は、本来の意味を伝えているか

・日本語の聖書やミサ典礼の祈り、歌で「栄光」という言葉が頻繁に使われるが、この言葉の本来の意味はどういうものなのか、疑問を持った。ヘブライ語でこの箇所に使われている言葉は「重み」「重さ」であり、ギリシャ語では「見かけ」「表れ」に通じる意味で使われており、「光」は意味としてでてこない。「神の存在、表れを確実にするもの」というのが本来の意味だったようだ。

・「聖体」も、聖なる体、と言うのは一体何なのか。もとになったギリシャ語のeucharistiaは「感謝」。もとにあるべブライ語では「感謝の捧げもの」を指していた。根本に、「神の恵みに感謝する」という意味がある。

・また、「信仰の神秘」というように使われている「神秘」。以前は「秘義」と言うこともあったが、第二バチカン公会議後に「神秘」と直された。このギリシャ語のmysterionには「隠された神の計画」が実現した喜びが含まれている。これを、簡単に「神秘」と訳していいものだろうか。

・さらに「福音」という言葉も、一般的に日本で使われている意味とは違う、教会独特の言葉。‶内向き〟の言葉のように思われる。「愛」「あわれみ」「慈しみ」など、教会では使い慣れた言葉も含めて、日本の典礼書の改定作業がされているが、容易ではない。現代の日本の人々に本当に通じる言葉にするにはどうしたらいいか、考え直す機会だともいえる。

・「栄光」「聖体」「神秘」と言った言葉は翻訳の下になった原語も含めて、ヨーロッパのメンタリティーが反映している、という気がする。「ご聖体」は「聖なるもの」という発想は、ヨーロッパの感性、「人間は穢れたもの」「神は聖なるもの」と強調したのはヨーロッパの教会。

・「栄光」はラテン語に翻訳した時に変わった。ヨハネ福音書では、栄光は十字架とつながっている。福音書、教義、典礼はつながっており、言葉は時代や社会とともに変わっていくが、この三つを関連させて考えていく必要がある。

・ミサ総則の改訂版が出たが、ナンセンスと思われる個所がかなりある。奉納行列の際に着席せよ、とあるが、起立して迎えるのが筋ではないか。また「キリストの体」と言っていたのを、「キリストのおん体」と変えたが、変える意味がない。

・「罪」もよく使われているが、これは「神の道から外れること」を意味すると思う。「原罪」はアウグスチヌスが使った一過性の表現、と理解している。人間を邪悪視している。キリストの言う「罪」はそうではないし、「あがなう」というのも「もう一度、神に向き合う」ことだ。関連して、「赦しの秘跡」は「疎外感からの解放」だと理解している。

・「大きな罪を告白しないと、地獄に落とされる」という言い方がよくされてきた。神から「拒まれる」という印象が強い。そうではなくて「大丈夫だよ」ということではないか。

・「赦し」と言う日本語訳がいいのか。「悔い改め」とか、「和解」の意味も元の言葉には含まれている。イエスが「あなたの罪は赦された」と言われたが、この中に「赦し」の本当の意味を解き明かすヒントがある。

・「赦し」は、神理解に関わっている。「最悪のことをした弟子たちが赦された。だからあなた方も大丈夫」ということだ。

 「神」という訳語の見直しも

・(明治以降、日本で使われるようになった)「神」という言い方は、1950年代生まれで、ずっと子供のころから使われてきたので違和感はない。「神学部」というように言葉が固定されているし。ただ、あまり考えずに使っていた側面は否定できず、見直そうと思っている。キリスト教が伝来する前から「神」があった日本の文化、社会環境の中で、どのようにキリスト教の「神」を伝えていけるのか、問い直すのは意味があると思う。ちょうど自分の教会の勉強会でこの問題を取り上げようとしているので、我々の世代は「神」に違和感がないなかで、見直しているつもりだ。

・かつて「天主」と言う言葉が使われ、現在では「主」と「神」。日本の社会では、最近は「神ってる」という使い方もされている。

・バチカンにいる神学者や典礼の専門家には日本語が分かる人はほとんどいない。とすると、日本で改訂案をもっていっても、適切なアドバイスを受けられるのか。そんな状態で、日本の典礼の見直しができるのだろうか。

 問題意識を今後どう生かすか

・キリスト教への理解を多くの日本人に深めてもらうためにも、以上のような議論を体系的にまとめようという考えは・・日々のミサの説教などに活かしていく・・学生たちと共にまとめていこうと考えている。

・長い日本の歴史の中で育ってきた文化と、とくに明治以降持ち込まれたヨーロッパの文化との葛藤。自分の過去を支えてきた文化と新しい文化との葛藤、そういうものも、日本人に理解される日本語訳の問題の背景にある、と言う言ことを念頭に置くことも必要。

・キリスト教を日本に伝えようとした宣教師が、一神教にこだわり、八百万の神を否定し、一神教を強制しすぎた、という歴史もある。

・ヨーロッパには他者との出会いの体験が希薄なように思う。ヨーロッパでは、「自由・平等・博愛」で近代世界を切り開いたかのように言われるフランス革命も、オスマントルコから見たら「近代資本主義イデオロギーの一つに過ぎない」という評価になる。知らず知らずのうちにヨーロッパの視点にならされているものの見方を、見直す必要もある。

・ただ、「日本」「ヨーロッパ」とひとまとめにできない側面もある。単純に二つに分けて論じるよりも、個々に分けて考えるべきではないか。

・言葉にこだわり過ぎず、どのような神理解、どのような人間理解をもとにするのか、そこから解釈し直す、ということだろうか。

【鼎談を聞いて】日本の教会は日本語訳の「失敗の本質」を理解しているか

・非常に示唆に富む、本音の意見を聞くことができたように思う。私見を申し上げれば、歴史的に見て「キリスト教の日本語訳の失敗の本質」は、英語のGod、ギリシャ語のTheos, ラテン語のDeus を明治時代初めから中期にかけて、日本の長い歴史の中で森羅万象に敬意を示す言葉として使われてきた「神(かみ)」を、十分な検討、いやほとんど何の考慮もなしに、キリスト教の奉じる存在の日本語訳にしてしまったことにある、と考える。

・GodあるいはTehos、Deusの本質をどのように自分たちキリスト教徒は、宣教師は理解し、日本の歴史風土、社会に合った言葉で、それをできるだけ正確に伝えるには、どのような日本語訳が可能なのか、真剣に考えたとは、とても思われない。「神」をキリスト教の「神」に‶流用〟あるいは‶盗用〟したもともとは、19世紀に中国における英米プロテスタント宣教師たちが「God」を漢語で同訳したらいいかで、喧々諤々の議論をしたことに始まる。

・簡単に説明すると、主として英国から来た宣教師たちは「上帝」(中国古来から「至上の存在」。自然界の不思議な力を持つ聖霊の意味も)、米国から来た宣教師たちは「神(shen)」(世界を統べる法則―天―の命を行う神話伝説時代の三人の皇帝)を主張して譲らず、このうち、後者の宣教師が日本に宣教に来て、「神(shen)」を使った中国語訳の聖書をもとに、日本語訳にして出版したのが1871年。恐らく、同じ「神」と言う漢字が、「かみ」という読み方で使われていたので、そのまま使ってしまった、と言われている。カトリック教会ではそれより20年以上遅れて、日本人でプロテスタント宣教師の翻訳を手伝った人が、パリ外国宣教会の宣教師の翻訳を手伝ったことから、そのまま「神」と訳され、現在の聖書、典礼の祈りや歌に使われて、現在に至っている、というのが真実だ。

・ちなみに、中国のカトリック教会では、当時も現在も「天主」(古代中国の天地万物を支配する創造主)と訳されているが、日本では、戦時中に政府・軍部の批判を受けて「天主」と一時的に改められた。戦後、進駐軍のキリスト教を背景にした民主化政策のもとで、海外から大量の宣教師が呼び込まれ、彼らが日本語を十分知らないままに「神」を使ったことで、「神」が本質をあらわす適切な日本語かどうかの議論もないまま、現在に至っている、と言うのが事実である。

・立教大学の教授だった前島潔氏は1938年に出版した「日本に於ける基督教の『神』に就いて」の中で、「『神』と言う語は日本人が決めたのではなく、外国人宣教師が決めたことで、日本の長い神道の伝統と紛らわしい」と批判し、戦後も、ハーバード大学教授で最高の知日派と言われ、米国の駐日大使を務めたライシャワー博士は自著「ライシャワーの日本史」でに「日本の古代から伝わる神(かみ)は信頼万象の礼拝の対象、ユダヤ・キリスト教の「ゴッド」との概念とは全く異なるものだ」と異論を唱えたが、教会関係者は全くといっていいほど、関心を示さなかったのだ。

・なぜこのようなことになってしまったのか。それは、日本語も日本文化・歴史も十分に理解していない外国人宣教師が、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語もキリスト教の歴史も、キリストのメッセージもほとんど知らない日本人の助けを受けて、しかも、かなり限られた人々の手で翻訳されたことにある、と言えると思う。この「失敗の本質」は、日本の教会では今も反省が十分に行われないまま、受け継がれているようである。

・聖書にしても、典礼で使われる祈り、歌の文句にしても、それが、キリストが伝えようとしたメッセージを、日本の長い歴史文化を背景にした社会で生きている言葉で表現しよう、という意識が、日本の教会の指導層には、全く感じられない。真剣にそのように考えるならば、聖書、典礼、教義に精通した専門家は当然のこと、言語学者、日本語学者、そして日々、生きた言葉で読者にどう伝えたらいいか苦闘しているまともなジャーナリスト、とくに論説委員など、教会の持てる力を総結集して、言葉を削り出していく必要があるのだが。私は、第二バチカン公会議以来、翻訳に関与する責任ある司祭たちに、そのようなことを言い続けてきたつもりだが、半世紀たっても、まったく改善された様子がない。改めて言おう。「失敗の本質」を謙虚に反省すること。それは、キリスト教が日本に土着していくために欠かすことのできない要点の一つだ。

   鼎談で一つ気になったのは、ある聖職者が「自分は『神』と言う言葉に違和感がない」と繰り返し、まったく、問題意識がないようなことを言われたことだ。「本質が問題だ」とも言われたようだが、まさに、日本人が何百年、何千年も意識してきた「神」をたかだか150年前に、キリスト教の「神」に、十分な本質的理解もなく‶流用‶したことが、日本人の間に、いまだにキリスト教の本質が十分に理解されない原因の一つがある、と考えるのだ。聖職者は毎日、「神」という言葉を使い慣れ、違和感がないのはある意味で当然だ。問題は本人が違和感をもつかどうかでなく、対象となる一般の日本人がどのように、キリスト教の「神」を受け止めているかではないか。このような問題が欠落したままでは、「日本語訳の失敗の本質」は理解されず、失敗が繰り返される(現にそうなっている)のではないだろうか。

(「カトリック・あい」南條俊二)

 

(以上のご参考までに、拙著「なぜ『神』なのですか―聖書のキーワードのルーツを求めて」(燦葉出版社刊)をご覧いただけれ幸いです。Amazonで購入可能ですが、難しければandynanjo@gmail.comへ。送料・梱包費300円でお送りします)

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2017年9月9日