・カトリック、天理教、仏教の代表者による「若者と宗教」シンポジウムより

 日本カトリック司教協議会諸宗教部門主催のシンポジウム「若者と宗教」が9月16日、天理教、真言宗、曹洞宗、カトリックの4宗派の講師が出題する形で、カトリック奈良教会で開かれました。教皇フランシスコは来年秋に「若者」をテーマにした全世界司教会議(シノドス)を招集されます。そのための準備がすでにはじまっており、バチカンの準備事務局は全世界の教会はもちろん、若者たちに会議に向けた意見、提案の募集を行っています。残念ながら日本の教会の取り組みはあまり活発ではないようですが、このシンポジウムもシノドスに向けた前向きな動きのきっかけになることが期待されます。以下に4人の発題者がまとめたレジメをご紹介します。(「カトリック・あい」)

 

日本カトリック司教協議会 諸宗教部門より挨拶

 このシンポジウムは、2011 年より「自死」をテーマに東京、福岡、大阪の三都市にて開催し、また 2014年には「高齢化社会を豊かに生きること」、2015 年には「平和のための宗教者の使命」、昨年 2016 年には「いつくしみとあわれみ(慈悲)」をテーマに、諸宗教の方々との親交を深めて参りました。

 近年、若い人を含め、人々の宗教離れが指摘され、様々な場面で、若者の減少を実感しております。このような中で、若い人は宗教についてどのように考えているのか、また、信仰をもっている人は自身の宗教に対してどのようなことを感じ、考え、願っているのでしょうか。本年は、この奈良の地で、実際に若い人々と関わっている宗教者、若くして信仰をもち奉仕している天理教、仏教、キリスト教の方々をお招きし、学びたいと思っております。

 人間の根本的な生き方を伝え続けている宗教者として、何を伝えることができるのか、皆様とともに考え、分かち合えれば幸いです。

東井 成則氏(天理教) 若者たちと信仰を歩む

○学生生徒修養会(通称:学修、主催:天理教学生担当委員会) 対象:大学生層 期間:6 泊 7 日の合宿生活の趣旨:天理教教義の研鑽と実践を通して信仰の喜びを味わい、自らが天理教の信仰者であること の使命感を高める 内容:天理教教義を学ぶ講義、礼拝作法を学ぶ修練、 班ごとのグループワーク、布教活動

○カウンセラーとしての準備 学生の心の成人(信仰的成長)を願う “にをいがけ”の姿勢=良い信仰の香りを伝える 種まきとしてのにをいがけ 良い芽が出るよう、良い香りが身に付くよう、自らが教えを実践する

○半数の班員の病気 人間の体は神様からのかしもの・かりもの 心のみ人間の自由に使うことができる →各々の心の遣い方を神様は見ておられる 病気・困難=神様の“てびき” =人間の心の入れ替え、心の成人を促す

○学生たちとの話し合い 身の回りに起こる事態を我がこととして捉える 学生の素直な心、人のたすかりを願う心

○布教活動 “人たすけたらわがみたすかる” 鮮やかな神様のお働きとその実感

○“信仰の元一日”の発見

井川 裕覚師(高野山真言宗)〜お遍路にみる若者の宗教心〜

  1. 若者の宗教離れ?

 昨今、若者が“宗教離れ”をしているといわれています。しかし、何をもって宗教離れといえるのか、そんな疑問が湧いてきます。“宗教”なるものが存在し、くっついたり離れたり……そんなイメージなのでしょうか。全国のお寺の数は約 7 万 7,000 件といわれ、コンビニの数をはるかに凌ぎます。そんなお寺の参拝数が減っていることが宗教離れなのでしょうか。特定の宗教、宗派に所属していないことや、無宗教式のお葬式を行う人が増えていることでしょうか。それとも、信心深くないことを指しているのでしょうか。

 街で見かける寺社仏閣や教会から、道端のお地蔵様、クリスマス、除夜の鐘、初詣……私たちの身の回りには宗教的なものが多数存在しています。宗教について考えるとき、その捉えどころのなさに驚かされることもありますが、その計り知れない可能性に心が踊らされます。私たち人間が、頭で理解することなどできそうにないほどに広く、深い世界がそこには広がっています。若者は本当に宗教から離れてしまったのでしょうか。

 感受性の豊かな若者が必ずしも宗教心に欠けているとは思わないのが、私の考えです。むしろこの多様でとらえどころのない宗教を、柔軟に受け取ることができるのは若い人々ではないでしょうか。仏教の立場から、若者と宗教の関わりについて考察を深めていきたいと思います。

  1. 新しい試みをする現代の仏教寺院

 近年、若者のお寺離れを防ごうと多くの寺院が様々な取り組みを行っています。

 お寺の本堂でライブをする「DJ 坊主」 カンターに立つ「坊主バー」 本堂で汗を流す「寺ヨガ」

 テクノ音楽に乗ってお経を唱える「テクノ法要」 お寺がカフェを運営する「寺カフェ」

 その中でも、仏教に触れられるものとして根強く人気があるのが「修行体験」です。お寺で気軽に座禅や写経などを行うものから、宿坊に泊まり、参加者と寝食を共にするサンガの経験ができる本格的なものまで様々なものがあります。

 そのキーワードは「旅」と「非日常」だと思います。修行体験に参加する人は 20 代や 30 代の若者も多く、熱心に参加されるのが特徴です。多くの人がお寺や修行を通じて、日常を離れ、自分を探し求める旅に出ているように思えます。いつもとは違う自分、本当の自分とは何か−−−修行体験にくる人々からは、そのような眼差しが感じられます。今思えば、私が高野山で行った修行(これは体験ではありませんが)なども、自分を見直す素晴らしい時間でした。世俗を離れ、密教の価値観の中で自我を相対化し、「自分とは何者か」という問いの中で徹底的に自己を見つめます。

 「自由」という言葉は、「自」らに「由」るという仏教に語源を持つ言葉です。お釈迦様は入滅の間際の最後の説法で「法灯明」と「自灯明」という教えを説かれました。法、つまり仏さまの教えを頼りに、そして自らを頼りに生きなさいと教えます。そして、真言密教には「如実知自心」という教えがあります。「大日経」という経典の中には「悟りとは、実の如く自らの心を知ることである」と説かれています。

 あるがままに全ての存在をとらえ、自分の心もあるがままに見つめることから真理は始まります−これを如実知自心といい、ここに密教の修行の本質があります。現代の若者は、頼りにすべき「自」らに不安を覚えるからこそ、あるがままに自心を見つめようと修行体験に参加するのではないでしょうか。

  1. 遍路と弘法大師・空海

 そんな「旅」と「非日常」を満たす修行として、多くの若者が四国遍路に魅了されています。遍路とは、祈願のために弘法大師修行の遺跡である四国八十八か所の霊場を巡り歩く修行のことです。

 その起源として、平安時代末期の聖が行った「四国辺地(へち)」「辺路(へじ)」という修行があります。聖とは、既存の寺院秩序から離脱し、都鄙を往来しつつ、山林修行や寺社造営などに携わった僧のことを指します。12 世紀の『梁塵秘抄』や『今昔物語集』などの説話から、現世とは別の世界とつながる海岸などの僻地を歩く過酷な修行だったことが知られています。その辺地修行と弘法大師信仰が結びついたのがお遍路です。

 御入定後 100 年を経て、醍醐天皇より弘法大師の名を賜った空海は、宝亀 5(774)年、今の香川県の善通寺市に生まれます。叔父に師事して仏教や儒教を学んだ空海は、当時の大学に通いますが、途中で退学し、密教の秘法を修めるべく、若くして山岳修行に入ります。その修行の地となったのが四国の険しい山々や海辺で、弘法大師が開いていった霊場が八十八か所あり、それを巡る旅が「四国巡礼」になったといわれています。

 お遍路には「同行二人」という大切な精神があります。これは、旅をするのは一人だけれど、常に弘法大師・空海とともにあるという考えで、苦難の末に煩悩を一つずつ落とし、悟りを目指すことが旅の目的です。

  1. 4つの道場

 四国四県のお遍路には、それぞれに意味があります。阿波(徳島県)は「発心の道場」で、空海が人々の救済を発願した土地。ここから四国巡礼は始まります。次が土佐(高知県)で「修行の道場」。三番目の伊予(愛媛県)は「菩提の道場」といわれ、ここまで来るとお遍路さんは煩悩から解放され、悟りを得る境地に近づくようです。そして、最後の讃岐(香川県)が「涅槃の道場」。煩悩を捨て去り、いよいよ悟りに到達する土地です。第八十八番の札所となる大窪寺はこの讃岐にあり、ここで遍路は結願します。もっとも四国巡礼の起源については分からないことが多く、八十八か所になったのもいつ頃からかはハッキリしないといわれています。現在は順序にはこだわらず、どこの札所から回ってもよいとされていますが、「発心」「修行」「菩提」「涅槃」の順に霊場を巡り、悟りの境地に近づいていく悟りへの4段階説が、自分を高めたい人々の関心を引きます。

  1. 死出の旅

 今でこそクルマや観光バスで回れるようになったお遍路ですが、昔は「死出の旅」といわれるほど、命がけの旅だったようです。全行程 1,400 ㎞といわれる遍路道は、当然のことながら整備されていないところも多く、険しい山中の道なき道を行く旅であり、道中に休む場所は少なく、ところどころに「遍路ころがし」と呼ばれる難所があり、実際に落命する者もあったとか。常人には成しえない修行を行い、生死の境をさまようことで死を見つめ、生を悟る、そのような深い意味合いが遍路にはあるのです。お遍路の正装とされる白装束は、いつどこで行き倒れてもいいという、死の覚悟を表したものといわれています。

  1. 再生の旅

 もちろん現代のお遍路には、命を賭すような厳しさはありません。第四番札所大日寺の住職である真鍋俊照氏は、著書「四国遍路 救いと癒しの旅」の中で若者の遍路に触れ、「近年の四国遍路は、かつての『死出の旅』から変わって、『癒しの旅』という意味合いが強くなっている」といいます。

 なぜ、遍路をすると癒されるのでしょうか。理由の一つは「お接待」と呼ばれる地元の人々のもてなしにあります。接待とは仏教で、通りすがりの修行僧に茶湯などを振る舞うこと。無縁社会に生きる若者は、この温かい地元の人との交流や、お遍路さん同士の間に生まれる連帯感などに少しずつ癒されるのではないでしょうか。

 もう一つは、自然の中で自分の限界と向き合う体験にあります。家族と離れ、体力の極限に挑み、一人でそれを乗り超えた経験が自信となり、それが「自分をありのままに受け入れる」という自己肯定感につながると考えられます。閉塞した日常にあって、「『死者のように生きている』という状態から、再生するための旅」が若者のお遍路ではないか、つまり、自分の人生を豊かなものにするための旅がそこにはあります。

  1. 若き空海

 しかし、仮に遍路が「自分を再生させる旅」として機能するのであれば、弘法大師もまた同じような思いを抱いて旅に出たのではないでしょうか。あくまでも想像にすぎませんが、10 代の若い空海が大学を辞め、密教の修行に身を投じた背後には、それなりの心の葛藤があったと思います。今、この飽食の世に生まれた若者にとって、1,400km もの道のりを歩き通すのは、まさに苦行に等しい行為。その苦しみの果てに得られる”何か”を探し求めているのであれば、それは立派な修行と言えそうです。そういう意味では、現代の若者の「癒しの旅」こそ、そもそものお遍路の姿に最も近いものかもしれません。

  1. まとめ

 お遍路を通じて「若者と宗教」というテーマについて考えてきました。実際は信仰心のない方も篤信の方も様々な人々が八十八ケ所の霊場を巡っています。しかし、そこに共通していることは、自分を支えてくれる“何か”を見つめ、そして自分のうちから沸き起こる“何か”を探し求めることではないでしょうか。

 高野山の道場で修行をしている時、「修行は先人の宗教体験の追体験をすること」と言われたのを覚えています。弘法大師は遍路の道中で、自身の修行をしながら多くの人々を救いました。高野山に「相互供養・相互礼拝」という教えが伝わっているように、きっと人を救い、それと同時に人に救われて、

 感謝の気持ちで四国を巡ったことと思います。自分に足りない“何か”を求めて遍路の旅に出る若者は、お接待をしてくださる現地の人々に救われて、そして救い、心が満たされていく中で、弘法大師の感謝、感謝の旅の追体験をしていることでしょう。

 お遍路に見出された一人、種田山頭火は「伊予にしにたし」と晩年四国を歩き、「人生即遍路」という碑を残しました。仏教に「生死」という言葉があるように、死出の旅から生き生きとした生へと再生を果たしていく−−−お遍路の旅は、まさに人生そのもののように思えます。仏教は、「生老病死」−−−まさに人生そのものへの問いかけから始まりました。宗教とは、神仏や教義、礼拝の施設だけを指すのではなく、自分とは何かを教えてくれ、自分を変容させてくれるものということもできます。

 遍路道を歩く若者が絶えないことは、まさに若者の宗教心の現れを意味しています。札所の寺院を巡って納経帳に朱印をもらうことが目的のように見えますが、本来の目的は「人生を歩くこと」。日々の生活のなかで見失ったものを再発見する−−−それが現代の若者のお遍路さんの姿です。そして、私たちの人生に息吹を与えてくれるのが宗教ではないでしょうか。

◎ 其れ仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し 『般若心経秘鍵』弘法大師・空海(仏の教えは、遥かに遠いところにあると思われるかもしれませんが、本当は意外に近いところ、即ち私たちの心の中に存在しているのです)

秋田 修孝師(曹洞宗) 【永平寺の修行】 

【永平寺の修行】~行を迷中に立てて證(しょう)を覚(かく)前(ぜん)に獲(う)る 

  永平寺では、毎年 2 月 18 日から 3 月末日までに、新たな修行僧が上山します。大半の修行僧は大学 卒業後、すぐに上山しますので、年齢は 22・23 歳です。

 彼らは初めに旦過(たんが)寮(りょう)(約 1 週間の坐禅期間)を過ごします。次に、鳴らしものを学ぶ 鐘 洒(しょうしゃ)(永平寺は、鐘や太鼓など音を合図に行動します)を過ごし、各部署(寮舎)へと配属(転役)されます。

 就寝時間、起床の時間、食事、入浴など、永平寺に来て彼らの日常は一変します。さらに、当たり前にあった携帯電話や個人の自由な時間もない生活となります。 彼らは、修行生活により、様々な戸惑い、悩み、迷いながら、それでも懸命に修行を行じております。

【修行僧との関わりを通して】~修行、その中で、気づき、成長する~

 ・応量器作法で母の気持ちに (同事) ・毎日何度も繰り返し行う諸堂のご案内を通して一期一会に (而今) ・食べ物を捨てて (老婆心) ・伝道部で古参になって山門で (縁起) ・永平寺の修行僧たちは皆、若き仏です。 【宗教は必要とされている】~参拝者・参籠者・参禅者の声~

  親を亡くした、受験に向けて、仕事の悩みなど、多くの方が訪れ、思いを伝えてくださいます。誰もが、悲しみ、悩みや迷いをもち、幸せになりたいと願い、救いを求めております。 永平寺の修行僧は、その願いに寄り添い、共に生きていく僧侶となるべく、修行に励んでおります。

白浜 満司教(カトリック)テーマに基づく問いかけ

「近年、若い人々を含め、宗教離れが指摘されております。このような中で、人間の根本的な生き方を伝え続けている宗教者として、何を伝えることができるのでしょうか。若い人は宗教についてどのように考え、また、信仰をもっている方々は、自身の宗教に対して、どのようなことを感じ、考え、願っているのでしょうか。」

1:価値観の多様性の中で

 日本では、政治、経済、学問、文化、宗教など、種々の分野において、多様な価値観が尊重される社会です。宗教の分野に関しても信教の自由が保証されています。日本には、おおらかに受け入れる風土があるのではないでしょうか。このような社会風土の中で、人々は多くのものの中から、自分の意志で自由に選ぶことができるのに、日本の若者は、自分のための宗教を選択し、それに従って生きる必要性を感じていないように思います。現在、いわば無宗教の状態で生活している方々が多いのではないでしょうか。しかし、自分の人生に孤独や虚しさを感じ、何か大切なもの、あるいは仲間を見出すために、宗教に「救い」を求めている人々も少なくないように思います。

2:宗教の役割

 多様な価値観をおおらかに受け入れる社会風土の中で言えることは、どの分野においても、人々は根本的に良心にもとる言動を警戒しているということです。しばしば宗教の中にさえ、良心にもとる言動がはびこり、宗教に対する負のイメージが日本社会の中に広がっていることは残念ですが、このような宗教に対する逆風の中にあっても、宗教に期待されている役割とは、多様な価値観をおおらかに受け入れる社会風土の中にあって、「良心の声」となるということではないでしょうか。社会の中で、宗教こそ「良心の声」を代弁しなければならない立場にあるものだからです。

3:人類が直面している異変の中で

 ローマ法王(教皇)フランシスコは、2015 年 5 月 24 日に公布した『ラウダート・シ』(ともに暮らす家を大切に)という環境問題への取り組みを促す文書の中で、人類が直面している異変(叫び)を大きく二つに大別しています。

  • 現代社会の異変(叫び

一つは「自然環境」の叫びです。大気汚染、土壌汚染、廃棄物、気候変動、水資源の不均衡と質の低下、生物多様性の喪失などです。もう一つは人間(社会)環境の叫びです。不公平な分配や消費、情報過多、過労、自死、暴力、テロ、薬物などの人間社会の崩壊の兆候が、とくに巨大都市化した社会の中で生じていることを指摘しています。そして、ローマ法王フランシスコは、この自然環境の悪化と人間とその倫理の退廃とは密接にかかわっており、人類は「環境的でも社会的でもある一つの複雑な危機」に直面していると分析しています。

  • 今、求められていること

 ローマ法王フランシスコは、これまでの人間の反省を踏まえ、宗教の役割を期待しながら、次のように教えています。―「はかり知れない科学技術の発展に、人間の責任感や価値観や良心の成長を伴わせてこなかったのですから、実際のところ現代の人間は、権力を正しく用いるための教育を受けてはいないのです。健全な倫理を、また、限界をさだめさせ、明確な自覚に基づく自制を教えてくれる文明や霊性を有していると主張することはできません。」(105 番)―科学技術の発展に、人間の責任感や価値観や良心の成長を伴わせる役割を担うもの、また健全な倫理・限界を定めさせ、それに基づく自制を教えてくれる文明や霊性を生み出す母体となるものこそ、宗教ではないでしょうか。

  • 宗教の役割・分野

 「環境的でも社会的でもある一つの複雑な危機」に直面して、ローマ法王フランシスコは、当初から聖書が打ち出している教えを思い起させます。すなわち、聖書の創造記事に基づいて、人間は、①神とのかかわり、②隣人とのかかわり、③自然(大地)とのかかわり、という三つのかかわりの中で生かされていると教えています。そして、この三つのかかわりの中で、次のような自覚を促しています。「わたしたちが自然の価値と脆弱さを、また同時に神から賜ったわたしたちの能力を認めるなら、際限のない物質的な進歩という現代の神話をようやく捨て去ることができます。大切にするようにと神から委ねられた壊れやすい世界が、自らの力を方向づけ、発展させ、制限する賢明な道を見出すよう、わたしたちに挑んでいるのです。」(78 番)

4:次の世代を担う若者たちに(キリスト教的立場から

 人類は、これまで進歩してきた歴史が自己破滅の道に向いつつある現実をしっかりと見つめ、「際限のない物質的な進歩という現代の神話をようやく捨て去る」謙虚さと賢明さを見出すときに来ています。

 人類を破滅に導く異変に直面している中で、若者たちには、今こそ、「良心の声」に耳を傾け、人類の危機に立ち向ってほしいと思います。多様な価値観の中にあっても、すべての人間の心に響く「良心の声」を大切にし、聖書が教えている三つのかかわりの断絶が起きていることを見抜いてほしいと思います。①自然とのかかわりの中でその異変に気付き、②また隣人とのかかわりの中で人間(社会)環境の叫びを受け止め、人間の傲慢がその原因であることを謙虚に認め、③人間を越えた偉大な力の存在に心を開いてほしいと思います。なぜなら、自然もそして人間も、自らの知恵と力で存在し、始めたものではないからです。

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2017年10月5日