◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑭「聖体を受け、すべての人がイエスのもとに一つとなる」

教皇フランシスコ、3月21日、バチカンでの一般謁見 – AP

(2018.3.21 バチカン放送)教皇フランシスコは21日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われた。

 「ミサ聖祭」をテーマに続けておられるカテケーシス(教会の教えの解説)の前に、この日が「春分の日」であることに言及。信仰を花々に喩え、「春になると草木は花を開きますが、水やりの足りないものや、根が切れてしまった草木は、十分に花を咲かせることができません。信仰も同様で、愛徳の業や善を行うことで花開くべきキリスト教生活も、しっかりした根を持たなければ、花を咲かせることはできないのです」と話された。そして、「信仰の根とは何でしょうか。それはイエスです」と語り、「イエスという根にしっかりつながり、祈りと秘跡を通してその根元に水をやることで、この春、花開く復活祭を迎えるように」と信者たちに希望を述べられた。

 ミサ聖祭をめぐるカテケーシスで、「交わりの儀」の「聖体拝領」について考察され、まず、「キリストは、私たちをご自分と一致させるために、み言葉と聖体を通してご自身を与えられ、私たちはキリストによって養われるために、エウカリスチアを記念します」とし、「最後の晩餐でご自分の体と血を弟子たちに与えられたイエスは、今日も、司祭と助祭、正式に任命された聖体授与の臨時の奉仕者の手を通して、兄弟たちに命のパンと、救いの杯を与え続けています」と語られた。

 司祭は聖別されたパンを信者たちに示した後、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」という言葉と共に、喜びと聖性の源であるイエスとの親密な一致を体験するよう、信者たちを聖体拝領に招くが、「この招きは、私たちを喜びに満たすと共に、信仰に照らして、私たちの良心を問い、自分の罪深さを意識させ、罪からの救いを願わうように導くもの」であり、「それゆえに、私たちは信仰のうちに『神の子羊、世の罪を除きたもう主』に向かい、『主よ、私はあなたをお迎えするような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、私の魂は癒されます(日本の教会の典礼では=あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう=)』と祈るのです」。

 聖体拝領の意味について、「聖体を拝領する ために行列を作って進むのは私たちですが、実際には、キリストご自身から私たちに会いに来られ、私たちをご自身に似た者にすることを望まれるのです」「『聖体に養われる』とは、私たちが受け取るものに似るように変容させられること。聖体を拝領する度に、私たちはイエスにおいて変容され、イエスにより似た者となります」「パンとぶどう酒が主の体と血に変化したように、聖体を拝領する者は、信仰を通して、『生きたエウカリスチア(聖餐)』へと変容されるのです」と説かれ、司祭は、聖体を信者たちに授ける時、「キリストのからだ」と言い、信者たちは「アーメン」と答えて感謝を表し、キリストと一致するための努力を自覚するが、「キリストと一致しながら、エゴイズムから抜け出し、すべての人がイエスのもとにただ一つとなること、これが聖体拝領の素晴らしさでです」と強調された。

 そして、「教会は、信者がミサでキリストの御体を拝領することを熱心に願い、聖体礼拝は、しるしの観点からは(「カトリック・アイ」注:パン=キリストの体=とぶどう酒=キリストの血=の)両形態のもとになされることで、より充実した形式を備えるが、カトリックの教義では、パンの形態だけの拝領でも両形態と同じ恵みが与えられると教えています」と説明され、聖体拝領時の具体的な所作について「通常、信徒は行列を作って聖体拝領へと進み、司教協議会が定めるところに従い、崇敬をもって立って聖体を拝領するか、あるいは跪いて拝領します。その際、聖体を口で受けるか、許可のある所では、手の上に受けることができます」と話された。

 さらに、聖体拝領後の沈黙の祈りは「聖体を受けた恵みを心のうちに大切に守るために必要なこと。沈黙の時を少し長くとり、心の中でイエスと話すことが、私たちにとって大きな助けになります」「その際、詩編や賛歌を歌うこともできますが、これらも私たちが主と共にいるための助けになる」と述べられた。

 感謝の典礼は、聖体拝領後の拝領祈願によって終わるが、そこで司祭は全会衆を代表し、神に向かい、その食卓に招かれたことを感謝し、受け取ったものがわたしたちの命を変容させることを祈る。教皇は「エウカリスチアは、私たちがキリスト者として生き、よい実を実らせることができるように、私たちを強めてくれます」と締めくくられた。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

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