◎教皇連続講話【主の祈り】②「父よ」「お父さん」で始まるのは

(2018.12.12 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは12日の一般謁見で、先週に続いて「主の祈り」についてのカテキズムをなさった。その内容は以下の通り(翻訳・Sr岡立子)。

 「愛する兄弟姉妹たち、先週始めた、「主の祈り」についてのカテキズムの歩みを続けましょう。

 イエスは、ご自分の弟子たちの口に、短く、大胆な、七つの要求domandeから成る祈りを載せました―七という数は、聖書の中で、偶然ではありません。それは、充満(完全pienezza)を示します―。

 私は、大胆な、と言いました。なぜなら、もしそれを、キリストが示唆したのでなければ、おそらく、私たちの中で誰も―というより、最も有名な神学者たちの中でも誰も―このような方法で、敢えて神に祈ろうとはしないでしょうから。

 実際イエスは、ご自分の弟子たちに、神に近づくように、神に、信頼をもって、いくつかの嘆願を向けるよう、招きます:何よりもまず、神に関して、それから、私たちに関して。

 「主の祈り」の中には、何の前置きもありません。イエスは、主の「機嫌を取る」ための決まり文句formuleは教えません。それどころか、服従や恐れのバリア(壁)を砕いて、神に祈るよう招きます。「全能の方」とか、「いと高き方」とか、「みじめな者である私たちから遠く離れた方」とか呼びながら、神に祈らないでください。そうではありません。

 そのようには言わず、単純に、「父(お父さん)」と言います。子供がパパ(お父ちゃん)に向かうように、まったくの単純さをもって。そして、この「父(お父さん)」という言葉は、親密さ、子としての信頼を表しています。

 「主の祈り」は、人間の具体的な現実の中に、その根をはっています。例えば、わたしたちに、糧を、日々の糧を嘆願させます:単純な、しかし本質的な要求。それは、信仰が、生活からかけ離れた「飾りの(うわべの)」問いかけ―その他のすべての要求が満たされたときに口に出す―ではないことを示しています。

 ことによると、祈りは、生活そのものから始まるとも言えます。イエスが私たちに教える祈りは、おなかがいっぱいになった後、人間の暮らしの中で始まるのではありません。そうではなく、祈りは、人間がいるところどこにでも宿っています。おなかがすいている人、泣いている人、闘っている人、苦しんでいる人、「なぜ」と問いかけている、あらゆる人がいるところに。

 私たちの最初の祈りは、ある意味で、最初の呼吸に寄り添った産声だったと言えます。あの、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声の中に、わたしたちの人生すべての運命が、告げられていますー私たちの、絶え間ない飢え、絶え間ない渇き、幸福の探求…。

 イエスは、祈りの中で、人間らしさを消すことを、麻痺させることを望みません。イエスは、問いかけ、要求を鎮める(和らげる)こと―すべてを耐えることを学びながら―を望みません。イエスは、そうではなく、あらゆる苦しみ、あらゆる不安が、天に向かって投げ出され、対話となることを望んでいます。

 ある人が、信仰をもつことは、叫びの習慣un’abitudine al gridoであると言いました。私たちはみな、福音の中のバルティマイのようにならなければなりません(マルコ福音書10章46-52節参照)。

 ティマイの子、バルティマイの福音の箇所を思い起こしましょう。エリコの門の前で物乞いをしていた目の見えない人のことを。

 彼の周りには、たくさんの賢い人たち(常識ある人々brava gente)がいて、彼に黙るように命じました。「黙りなさい、主が通られます。黙っていなさい。邪魔しないでくださ。先生は忙しいのです、先生を邪魔しないでください。あなたは叫びながら、自分を煩わしくしています。邪魔しないでください」。

 しかし彼は、これらの助言を聞きませんでした:聖なる執拗さで、彼のみじめな状態が、最終的にイエスと出会うことが出来るよう、強く求めましたpretendeva che la sua misera condizione potesse finalmente incontrareGesù。そして、より強く叫びました!教養のある人は「やめなさい、お願いです、彼は先生です!あなたはみっともない姿をさらしています!」。彼は叫びました。目が見えるようになりたかったから、癒されたかったからです。「イエスよ、わたしを憐れんでください!」(47節)。

 イエスは、彼に、視力を再び与え、言いました:「あなたの信仰が、あなたを救った」(52節)。彼の癒しにとっての、決定的なことは、あの祈り、あの「信仰をもって叫ばれた嘆願」ー彼を黙らせようとしたたくさんの人の「常識」よりも強く叫ばれた嘆願ーであったことを説明するかのように。

 祈りは、救いに先立つだけでなく、何らかの方法で、すでに救いを含んでいます。なぜなら、たくさんの耐え難い状況からの出口を信じない人の絶望から、解放するからです。確かに、信じる者たちは、神を賛美する必要も感じます。福音は私たちに、イエスの心―父への感謝の驚きに満ちた―からあふれ出る歓喜の叫びを、私たちに伝えています(マタイ福音書11章25-27節参照)。

 最初のキリスト者たちは、「主の祈り」のテキストに、栄唱una dossologiaを加える必要さえ感じました。それは、「力と栄光は世々にあなたのものだからです」(ディダケーDidaché=「十二使徒の教訓」。ギリシャ語の本来の意味は「教え」「教訓」。1世紀ごろ、シリアかパレスチナのキリスト教共同体で使われていた、信徒の生活および教会の営みに関しての実際的勧告のマニュアルで、古くから存在は知られていたが、近代になって、ギリシャ正教のニコメディア(トルコ)大司教、フリュエンニオスによって写本が発見された=8章2節)。

 けれど、私たちの誰も、過去に、誰かが示したセオリー(学説)を支持しません。つまり、嘆願の祈りが信仰の弱い形であり、より真実の祈りは、純粋な賛美、何の要求の負荷もなしに、神を求める賛美であるという説…。違います、それは本当ではありません。嘆願の祈りは真実です。自発的です。「父」であり、善い方であり、全能である神への信仰の行為です。それは、小さく、罪深く、助けを必要としている私を信じる行為です。ですから、何かを願う祈りは、非常にに気高いものです。

 神は、私たちに計り知れない慈しみをもっている父、子供たちが恐れることなくご自分に話すのを望む父、です。ご自分を直接「父」と呼びながら、あるいは、困難の中で、「主よ、どうしてですか?」と言いながら。

 だから私たちは、神にすべてを語ることが出来ます―生活の中で、ゆがめられたこと、不可解なことでも―。主は、私たちと共にいつもいる、と約束しました―私たちの、地上での最後の日々まで。

 「主の祈り」を祈りましょう。次のように始めながら。単純に「父よ」、あるいは「お父さん(お父ちゃん)」と。神は私たちを理解し、私たちをとても愛しておられます」。

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2018年12月13日