◎教皇連続講話「主の祈り」⑬イエスのご受難の際の、三つの祈り-苦痛の極限で、主の愛は絶頂に達する

(2019.4.17 VaticanNews Robin Gomes)

   教皇フランシスコは17日の一般謁見のカテキーシスで「主の祈り」の解説を続けられ、今回は聖週間に当たって、キリストがご受難の際になさった三つの祈りを取り上げられた。

 

最後の晩餐で-「栄光で私をかがやかせてください」

 

 最初は最後の晩餐での祈り。ここでイエスは「天を見上げて言われた。『父よ、時が来ました。あなたの息子を輝かせてください』、そして、『世が作られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください」(ヨハネ福音書17章1-5節参照)と祈られた。

 ここで教皇は、矛盾しているように見えるイエスの祈り-「受難」が迫っている時に「栄光」を願うこと-を指摘されたうえで、「聖書で表現される『栄光』は、神の啓示、人々にもたらされる主の現存と救いの特別の、決定的な明示」であり、イエスは、十字架に挙げられるように、復活祭において栄光を与えられる顕現、とされた。

 そして、このようにして神はご自身の栄光を明らかにされ、最後のベールを取り去り、私たちを今までになかったような驚きに導かれる。「私たちは、神の栄光が、全き愛-純粋で、束縛されることなく、全ての限界と尺度を超えた、考えることのできないような愛ーだということを知るのです」と説かれた。そのうえで、教皇は、全てのキリスト教徒に、父に対して願われたように、「神は愛」であることを、私たちも受け入れられるように、と祈ることを強く求められた。

 そして、私たちはしばしば、神を「父」ではなく「主人」、「慈しみ深い救い主」ではなく「厳しい裁判官」と見ているが、復活の日に、「神は、私たちとの距離を縮め、私たちの愛をお求めになる愛の謙遜の中にご自分を明示されます」、そして「私たちが、心からの愛をもって、すべてを生きる時に、私たちは神に栄光をもたらすのです。なぜなら、『真の栄光は、愛の栄光』だからです。ただ愛だけが、この世界に命を与えるのです」と強調された。

 さらに、教皇は、この「栄光」は、「世俗的な栄光-感嘆され、賞賛され、喝さいを浴び、関心の的になるような-とは正反対であり、逆説的に、神の栄光は拍手喝さいの無い、聴衆もいないもの」とされ、また、復活日に、私たちは、子に栄光をもたらす父、父に栄光をもたらす子ーそのいずれもがご自身に栄光を与えることはないーことを知る、とされたうえで、キリスト教徒たちに、「自分が神の、あるいは自分の栄光を生きているか、栄光を受け、あるいはまた与えることを望んでいるかどうか、を検証するように求められた。

 

ゲッセマネの園で-「アッバ、父よ」

 

 次に、教皇は、最後の晩餐の後、「ゲッセマネの園でのイエスの祈り」にテーマを移された。弟子たちが寝入っている間に、ユダが兵士たちを連れてやってくる。イエスは、自分を待ち構えている裏切り、恥辱、苦痛、そして失敗に、”恐れと苦しみ”を覚えられる。悲しみと惨めさのどん底の中で、イエスは、「最も柔らかく、心地よい言葉ー”アッバ”、すなわち、”父よ”」と御父に呼び掛ける。

 試練の中で、イエスは私たちにお教えになる-痛みを耐え抜く強さを得るために、祈りの中で父を受け入れるように、と。教皇は「試練の最中に、祈ることは、救い、信頼、そして安らぎをもたらします」と話された。見捨てられ、惨めな状態にあっても、イエスは孤独ではない。父と共におられる。

 だが一方で、”自分のゲッセマネの園”で、私たちは、イエスのなさったように”父”に叫び声をあげ、父に自分をゆだねる代わりに、しばしば、独りぼっちのままでいることを選ぶ-自分の殻に閉じこもり続けることで、深く深く自分の中に入っていく苦痛な内向きの道へのトンネルを掘ってしまう。

 教皇は、「私たちの最大の問題は苦痛ではなく、苦痛にどのように対応するか、なのです」とされ、「出口が得られるのは、祈りによってであり、孤独でいることではありません。なぜなら、祈りは”つながり”であり”信頼”だからです… イエスは全てを父に委ねられ、ご自分の苦闘の中で、父に思いをゆだね、父を頼りにしました。私たち一人ひとりが自分のゲッセマネを持っているのを思い起こし、父に祈りましょう」と信徒たちに呼び掛けた。

十字架上の苦痛の極限の中で-「父よ、彼らをお赦しください」

 

 そして、イエスの三つ目の祈りとして、教皇は、ルカ福音書の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(23章24節)を示された。十字架につけられた時、イエスはご自分に悪意を示した者たち、処刑者たちのために祈られた。それは苦痛が一番ひどくなった時だったー手首と足は釘で刺し抜かれ、そして、苦痛が極限に達した時、愛は絶頂に達する。赦し、計り知れない力をもった賜物、そして、悪の環が断ち切られる。

 講話の終わりに、教皇は、キリスト教徒たちに強くお勧めになった-神の栄光のために愛をもって日々を生きることができるように、試練の最中に主に”父よ”と呼び掛け、自分を委ねる方法を知ることができるように、主との出会いの中で、赦しと人を赦す勇気をいただけるように、主の恵みを祈りなさい、と。そして、付け加えられた。「父は私たちをお赦しになり、私たちに人を赦す勇気をお与えになるのです」。

(翻訳《カトリック・あい」南條俊二・翻訳文中の福音書の引用部分は原則として「聖書協会 共同訳」を使用しています)

 

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2019年4月18日