・Sr.岡のマリアの風 ㊷土曜日のランダムな独り言…

  何か書かなければいけないのだけど、頭が働かない。真っ白、というわけではない。なんだろう…混沌…というか。

   混沌は、秩序のまえの状態なのだろう。混沌に秩序をもたらすのは、神の「霊」だ。混沌と秩序…天地創造の出来事は、今日まで、ずっと繰り返されている、と言えるかもしれない。

  言葉の混乱-バベルの塔-から、多様な言葉が一つの「ことば」を語る-聖霊降臨-へ。

  ばらばらに逃げ去った弟子たちの真ん中に、復活のイエスが来たとき、赦しから和解、そして派遣へと、弟子たちの心はもう一度、一つの方向へと向けられていく。弟子たち-わたしたち-の心の真ん中に、キリストのための場所を差し出すとき、キリストの夢は、わたしたちの夢となり、わたしたちは、その一つの夢の実現のための共働者となる。

   パパ・フランシスコは、「神のために場所を空けてください」と呼びかける。それは、何も特別なときではなく、毎日の普通の生活の中で、わたしの空間、時を、神のために差し出すこと。わたしたちの中で、神が働くことが出来るようにすること。わたしの、今日の中で、主語が「わたしが(好きなように)」ではなく、「神が望むように」となること。

 自分が好きなことをし尽くしたとき、わたしが好きなように生きた人生の後に、何が残るか?

  「わたしがしたいこと」は、「あなたがしたいこと」と必ずしも同じではない。ひじょうにしばしば、異なる。わたしがしたいように生きるとき、望もうと望むまいと、わたしの周りにいる人のしたいことは無視されていく。それでも、みんなが、「わたしがしたいように」生きるならば??

   パパ・フランシスコは、真の平和は、一人ひとりの心の中から生まれる、と言う。迫害され、裏切られ、見捨てられ、殺されたイエスが、復活した後、弟子たちに最初に言った言葉は「あなた方に平和があるように」だった。闇の中で、イエスの心の中に、真の平和があったからこそ、言えた言葉だろう。

   混沌の中の秩序。闇の中の光。それは、神の霊のはたらきだ。

   イエスの心、顔、表情は、いわゆる「真福ハ端」(マタイ5章1~12節)の中に透けて見える、とパパは言う。わたしたちはまさに、そのイエスの顔(表情)が、わたしたちの中に透けて見えるようにしなければならない、と。

 「善い知らせを告げる」(福音宣教)は、だから、宣伝ではなく、わたしの真ん中にイエスを宿して、人々に運ぶことに他ならない。それはまさに、お告げを受け、イエスを宿し、そのイエスの現存に突き動かされ、ユダの山地を急ぎ、エリサベトに会いに行く、小さく貧しいマリアの姿だ。マリアは何も宣伝しない。でも、マリアの中にイエスが透けて見え、エリサベトは喜びに満たされ、彼女の胎の子も喜び踊る。

 マリアは、それを自慢するどころか、賛美し、感謝する。それが「マリアの賛歌(マニフィカト)」だ。

 混沌から秩序へ。神の霊が造り出す秩序こそ、「平和」なのだろう。

 書かなければならない原稿がある。10月末締め切り。平和について書くためには、何よりも先ず、神の霊に自分の空間、時を明け渡しなさい、と言われているような気がする。

 祈りつつ…

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2019年9月21日