・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑩神への愛、シンボルとしての悩ましいほどの美女

 14世紀のペルシャの大詩人ハーフェズは、神への愛を歌い上げるのに、女性や葡萄酒をシンボルとして使う。美しく気ままな女性を神の属性である威厳(力)と美の体現者として、また捉え難き神の象徴として描き、さらに葡萄酒の陶酔を神の与える至福の象徴として扱う。象徴としての両者が組み合わさって、葡萄酒を客人にふるまう美女(ペルシャ語で「サーギィ」)の誕生となる。

 ハーフェズは美女(サーギィ)に迫り、彼女のしぐさに至福の瞬間(時)を覚えたかと思うと、突然落胆と失望に押しやられる。その振る舞いに一喜一憂する様子が繰り返し歌われる。美女の振る舞いは怪しく魅力的であり、また冷淡かつ頑なである。美女との振る舞いの描写は、人の恋愛と見間違えるばかりである。女性の美は、顔、唇、目・瞳、睫毛、黒髪・うなじ、えくぼに象徴される。

 「月のごとく太陽のごとき汝の顔 汝の黒髪に隠れて それは陽の光を遮る雲のよう」と苦難を予感しつつ、「ハーフェズよ 汝のさまよえる心はどこにあるのか しなやかに結ばれた (美女の)黒髪の束の中にある」というわけで、美女を切り離してはあり得ない人生である。

 まずはあやしくも悩ましいほどの美女の魅力である。「汝の甘い唇のごとく 心地よい生命の泉のほとり 汝の注ぐ甘き飲み物を前にしては 砂糖の甘みも敵わない絶対に-(永遠の)生命の泉の水は甘美な味、美女がその水を飲ませてくれるならばこれ以上の飲み物(至上の幸福)はない、ということになる。

 ハーフェズの詩の魅力とむつかしさの一旦は意味の多重性にあるが、これも一例である。この詩句は別の意味にも解釈されるが、それを理解するためにはペルシャ・アラブ文学の常識が必要になる。外国人にはむつかしいわけである。むつかしいことを承知の上で、一例として紹介すれば、上記詩句は次のような意味にもなる。

 ネザーミというペルシャの大詩人の作に「ホスローとシーリン」という悲恋物語があるが、もともとはアラブ世界の説話である。ホスローというペルシャの王子が、シーリンというキリスト教徒の娘に恋をする。それはシーリンが湖のほとりで入浴している姿を偶然目撃してからである。その美しさに一目惚れ、二人は愛し合うが結ばれず悲恋となる。シェークスピアの「ロメオとジュリエット」に比肩されるが、ハーフェズの上記の詩句は、この物語を踏まえたものである。

 「汝の甘い唇のごとく 心地よい生命の泉のほとり 汝の注ぐ甘き飲み物を前にしては 砂糖の甘みも敵わない絶対に」

 「汝」とは美女シーリンであり、シーリンは一般名詞として「甘い」という意味である。シーリンが入浴していた泉は生命の泉を呼ばれ、その水を飲めば永遠の生命が与えられる、と言われる。「砂糖」は、シーリンとの恋に絶望したホスローが一時心を寄せた女性の名前でもある。(「砂糖」はアラビア語でシュカル、英語のsugarの語源でもある。)上記の詩句は、恋人シーリンの甘美さ・魅力には、ホスローが一時心を寄せた女性「シュカル(砂糖)」など全く及ばない、ということになる。

 誰もが知る説話を交えることで、読者の理解は増し、詩人の思いはいっそう強調される。しかしながら、求める美女は甚だ厄介な存在であり、思うようには捉えられない。さればこそ、人生の苦闘とその詩的表現への昇華となる。

 「汝が漆黒の睫毛は 何千回も我が信仰を試すもの 怪しげに移ろう汝の目、汝の苦難はすべて我が代わりに受けよう」と覚悟する。

 黒い睫毛も移ろう目つきも、いずれも美女の特性、その魅力の表象であり、神への愛に生きるためには、美女が試みるあらゆる苦難に耐える意気込みを披歴するハーフェズである。

 (ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)(駒野欽一=国際大学特任教授、元イラン大使)

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