・菊地大司教の日記㉗6月-土曜日は六本木、日曜は築地・今月の予定・・

2018年6月 3日 (日)

土曜日は六本木、日曜は築地

土曜日は午前11時から、六本木のフランシスカンチャペルセンターで、東京教区内のそれぞれの小教区にあるフィリピン出身信徒の共同体の集まりであるGFGC (Gathering of Filipino Groups and Communities)の総会ミサでした。

Fccgfgc1801 この集まりは、何か独立した団体と言うよりも、基本的には各小教区共同体の枠組みの中で活動しているフィリピン人信徒のグループや共同体が、緩やかに集まっている組織です。

 ですから、各地の小教区において、その小教区共同体との関わりの中で活動することを目指している点で、私が理想としている小教区共同体における多様性と一致を具現化しているものだと感じます。

ミサは素晴らしい歌でした。ミサ後は、フィリピン文化に欠かせない(?)、写真撮影タイム。すべてのグループが入れ割り立ち替わり、私や司祭団を囲んで、写真を撮り続けました。

 ミサ後は地下のホールで、これまたフィリピン文化にとって欠かせない、持ち寄りの食事タイム。

 その後に、このグループについてのプレゼンテーションを皆で聞き、私から、これからの東京教区における滞日外国人司牧の方向性についての講演をし、最後には質疑応答となりました。

 参加してくださった皆さん、ありがとう。皆がそれぞれの場で、主から呼ばれ派遣された福音宣教者であることを常に心に刻んでいてください。

Tsukiji1804 そしてキリストの聖体の主日である今日は、築地教会で9時半の主日ミサでした。築地教会は、カテドラルが関口に定められるまで、初代から4代までの教区長の時代に、カテドラルとされていた教会です。教会は聖路加国際病院のすぐ隣り。近隣の都心部にあるホテルから、多くの海外からの観光客がミサに参加されていました。

Tsukiji1802 今日のミサは、すでに亡くなられた初代から第7代までの前任司教様方の追悼ミサを兼ね、祭壇の前に歴代の写真が飾られました。

 またミサ中には、二人の小学生の女の子が、初聖体を受けられました。おめでとうございます。ミサ後に、この二人を囲んで、旧幼稚園舎を改装したホールで茶話会となりました。特に幼児洗礼から育ってきた信徒には、初聖体は重要な秘跡であり、信仰育成の通過点です。今日、主ご自身が聖体を通じてともに歩みを始められた、その主のやさしさと愛に信頼しながら、そして主の「私を忘れないでいなさい」という言葉を胸に刻んで、次のステップである堅信の時まで、大切に信仰を生きてください。

2018年5月31日 (木)

聖母のご訪問@5月も終わりです

 5月最後の日は、聖母マリアのご訪問の祝日です。典礼の暦が改訂される前は他の時期に合ったようですが、現在は聖母の月である5月の最後を締めくくる祝日として、定められています。Visitation17
イエスの母となるマリアは、洗礼者ヨハネの母であるエリザベトを訪問されました。現在その地は、エルサレム郊外のエインカレム(エン・カレム)とされ、丘の上に聖母訪問の教会が建ち(写真上)、構内には各国語でマグニフィカトが掲示されています。

 ちなみに谷を挟んで反対側の丘の上には洗礼者ヨハネが誕生した教会があり、こちらにはベネディクトゥス(ザカリアの讃歌)が各国語で掲示されています。

 ところで、教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」も他の教皇文書と同様、最後は聖母マリアへの言及で締めくくられています。ただし、「福音の喜び」における聖母への言及部分は、結構な分量となっており、教会の福音宣教への姿勢に関して教皇フランシスコが「聖母の存在を重要」だと考えていることが理解されます。

 教皇は、「聖霊とともにマリアは民の中につねにおられます。マリアは、福音を宣べ伝える教会の母です」と、単に「教会の母」という伝統的な称号に留まらず、「福音を宣べ伝える教会の母」という呼び方をします。その上で、聖母マリアは、福音宣教の業において、「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方(同勧告286項)だと指摘します。すなわち、教会の福音宣教において、聖母は脇役ではなくてその中心に位置している重要な存在であることが示唆されているのです。

 さらに教皇フランシスコは、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(同288項)とも述べています。

 ここで指摘されている、「マリアという生き方」が福音宣教にとって重要な姿勢であるという指摘に注目したいと思います。いったい「マリアという生き方」という言葉で何を語っているのでしょうか。

 カテキズムには次のような指摘があります。「マリアは、しみやしわのない花嫁としての教会の神秘、つまり、その聖性を、私たちすべての者に先立って現しました。『教会のマリア的な面がペトロ的な面に先立っている』のはこのためです。(カトリック教会のカテキズム773項)」

 教会のペトロ的な面とは、ペトロの後継者であるローマ教皇に代表されるような使徒的な側面、目に見える地上の組織という側面です。

 教会のマリア的な面については、教皇ヨハネパウロ二世が使徒的書簡「女性の尊厳と使命」の中でこう指摘しています。「聖性の段階において教会の『かたどり』となるものは、ナザレのマリアであることを思い起こします。マリアは聖性への道において皆に『先行』するものです。彼女において『教会は、すでに完成に到達し、しみもしわもないもの』でした(27項)」。

 つまり聖母マリアこそはキリスト者が完成を目指して進むときに模範となる存在であり、教会のあるべき姿、「かたどり」なのだという指摘です。ですから教会にはマリア的な面があるというのです。

 教皇フランシスコは、教会のマリア的な面がペトロ的な面に先行することを強調しつつ、同時にマリア的な面こそが福音宣教をする教会にとっては不可欠であることをいっそう強調されていると考えることが出来ます。それほどまでに、教皇フランシスコが大切だと考える福音宣教における教会のマリア的な面は、「マリアという生き方」という言葉に表されています。

 聖母マリアがマグニフィカトにおいて「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い上げる理由は何でしょうか。それはそのすぐ後に記されている言葉から明らかです。それは主が「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったから」に他なりません。

 教皇フランシスコはこの言葉に、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれである」ことを見て取ります。そして続けます。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりしません(「福音の喜び」288項)」。

 聖母マリアの人生を見れば、それは決して弱さのうちに恐れているような生き方ではありません。それどころか、神から選ばれ救い主の母となるというすさまじいまでの人生の転換点にあって、恐れることなくその運命を受け入れ、主イエスとともに歩み、その受難の苦しみをともにしながら死と復活に立ち会い、そして聖霊降臨の時に弟子たちとともに祈ることで、教会の歴史の始まりにも重要な位置を占めるのです。それほどの選びを受けた聖母マリアは、あくまでもその力を誇ることなく、謙虚さと優しさのうちに生きて行かれます。

 教皇の言葉は、現代社会が優先するさまざまな価値観への警鐘であることがしばしばですが、この部分にも、いったい本当に力のあるものはだれなのかという基準への警告が含まれているといえるでしょう。今の世界では、いったいどういう人が強いものだと考えられているのか。その判断基準は本当の強さに基づいているのか。本当の強さとは、謙虚さと優しさという徳のうちにあるのではないか。

 聖母の生きる姿に倣い、神のみ手にすべてをゆだねるところにすべては始まるという生き方。それはあきらめた弱い生き方ではなく、力ある生き方であることを、聖母は示しています。

明日から6月です。6月の主な予定を記しておきます。

  • 1日(金)板橋教会初金ミサ(10時)

  • 2日(土)フィリピン共同体・GFGCミサ(六本木、11時)

  • 3日(日)築地教会ミサ(9時半)

  • 4日~6日新潟教区司祭の集い(秋田県内)

  • 7日(木)常任司教委員会ほか(潮見)

  • 8日(金)日本カトリック大学連盟総会な

  • 9日(土)日本カトリック大学連盟ミサ(11時)、ロゴス点字図書館文化教室講演会(14時、ニコラバレ)

  • 10日(日)神田教会ミサ(10時)

  • 11日~14日カリタスアジア年次総会(バンコク)

  • 16日(土)故市川嘉男師納骨式(府中墓地、11時

  • 17日(日)吉祥寺教会堅信式(10時半)

  • 18日(月)司教顧問会ほか(教区本部)

  • 19日(火)カリタスジャパン会議(潮見)

  • 20日(水)横浜教区女性の会パスカ、ミサなど(10時半、関口)、(福)ブドウの木(ロゴス点字図書館)評議員会(14時、潮見)、オルガンコンサート挨拶(19時、関口)

  • 21日(木)カリタスジャパン会議(9時半、潮見)、(福)ゲマインダハウス評議員会(18時半、名古屋)

  • 23日(土)ペトロの家後援会ミサ(13時、関口)

  • 24日(日)麹町教会堅信式(15時半)

  • 25日(月)司祭金銀祝ミサ(11時、関口)

  • 26日(火)カリタスジャパン委員会(10時、潮見)

  • 27日~30日 ローマ

5月20日 教区合同堅信式@聖霊降臨の主日

 20日の聖霊降臨の主日は、東京カテドラルの関口教会で、午後2時半から教区合同堅信式が行われました。

 いくつの教会から信徒の方が来られたのかは数え忘れたのですが、(もちろん公式な記録は残っています)、少なくとも7つくらいの小教区から、206人の方が集まり、堅信の秘跡を受けられました。私にとって、200人を超える堅信式は、ガーナで働いていた30年ほど前以来、久しぶりのことでした。

 そのためにカテドラルに皆さん来られたのですから、司教が堅信を授けないわけには行きません。私ひとりですべての方に堅信を授けました。ですからミサ中の堅信の秘跡の部分だけで1時間以上かかり、結局2時半に始まったミサが終わり、記念撮影も終わったら、すでに5時を過ぎていました。参加した皆さん、おめでとうございます。そしてお疲れ様でした。カテドラルに一緒に集まり、教区の共同体の一部としてともに歩んでいることを肌で感じていただけたのであれば、幸いです。

 以下、堅信式ミサの説教の原稿です。

私たちは、信仰に生きています。私たちが生きていくためには、例えば食事を誰かに代わりに食べてもらうことができないように、信仰に生きることも、誰かに変わってもらうことはできず、私たち一人ひとりの個人的な関わりと決断が必要です。その意味で、信仰に生きると言うことは、プライベートな個人的な事柄と言うこともできるでしょう。
しかし、第二バチカン公会議の教会憲章には、こう記されています。
「神は、人々を個別的に、まったく相互の関わりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に仕える一つの民として確立することを望んだ。(9)」
そして教皇フランシスコも、「福音のよろこび」の中で、こう言われます。
「神は人々を個々人としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。一人で救われる人はいません。」(「福音の喜び」113)
わたしたちは、個人として信じると決断して受けたこの信仰を、一人で孤立して生きるのではなく、共同体の中でともに生きていくのです。それは神ご自身が、わたしたちを、一つの民、「神の民」として呼び集められたからに他なりません。教会にとって、信仰者が共に生きる共同体の存在はとても大切なものです。共同体なしに、教会はあり得ません。信仰者は個人として責任を持って信仰に生きるのですが、同時にその信仰を共同体の中で育むのです。
聖霊降臨の主日にあたり、多くの方がこのミサの中で堅信の秘跡を受けられます。聖霊の賜物をこの秘跡を通じて受けることで、キリスト教入信の秘跡が完結します。聖霊の賜物はそれぞれの方に、それぞれ固有の生き方の可能性を与えます。堅信の秘跡を受けることによって、いわば大人の信徒になるのですから、神からいただいた恵みに応える大人としての責務を自覚して行動してください。
五旬祭の日に、弟子たちは一つになって集まっていたと、第一朗読に記されていました。そこには共同体として一致している弟子たちの姿が描かれています。同時に集まりからは、主イエスを失い、戸惑いと恐れのうちに、社会の現実から自らを切り離し隠れようとしている、消極的な姿勢も垣間見ることができます。
しかし、その消極的だった弟子たちは、聖霊を受けることによって、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と記されています。
聖霊を受けることで、急に外国語がペラペラになるのであれば、そんな素晴らしいことはないのですが、残念ながらそういうことはなかなか起こらない。ではこの弟子たちに起こった変化には、どういう意味があったのか。
この弟子たちの様子を目撃した人々の言葉にこうあります。「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。
すなわち弟子たちは聖霊に満たされることによって、神の業を語り始めたのだけれど、それは人々が理解できる言葉であったということです。私は、たぶん、外国語を話したと言うことよりも、人々がわかる言葉で、福音を語り始めたことの方が大切であるように思います。
堅信の秘跡を受ける信仰者は、大人の信徒としての道を歩み始めます。大人の信仰には、与えられた賜物に応えていく責任が伴います。その責任とは、主イエス御自身が弟子たちを通じて私たちに与えられている、福音宣教の命令です。大人の信徒の責任は、福音宣教の務めを果たすこと、すなわち、神の業を人々がわかる言葉で語ることであります。
聖霊を受けた弟子たちがそうであったように、私たちも教会共同体において聖霊を受け、そこから外に向かって派遣されていくのです。ですから問題は、派遣されて出た社会の現実の中で、果たして私たちは、人々が理解できる言葉で福音を語っているのかどうかであります。
私は口べただから、何を語って良いのかわからない。そうかも知れません。実は、福音宣教は、雄弁に語ることだけなのではありません。問題は聖霊の賜物を受けて、どのように生き.その生きる姿勢であかしをするのかであります。
わたしたちは、自分の生きる姿を通じて、福音をあかしいたします。それがわたしたちの福音宣教です。
わたしたちは、ほかの方々との関わりの中で、福音をあかしいたします。それがわたしたちの福音宣教です。
わたしたちは、愛の奉仕の業を行うことで、福音をあかしいたします。それがわたしたちの福音宣教です。
本日の第二の朗読、ガラテヤの教会への手紙でパウロは、霊の望むところと、肉の望むところは相反しているのだ。私たちは霊の導きに従って生きるのだ、と教えます。
肉の望むところとしてパウロは、具体的な様々な罪を掲げます。それらはすべて見てみると、結局は自分の欲望を中心とした、全くもって自分中心の利己的な欲望やそれに基づく罪ばかりであります。
それに対してパウロは、霊の結ぶ実として、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を掲げます。これらは、自分の欲望を中心にするのではなく、誰か相手に対して良くしよう、仕えよう、奉仕しようとするときに必要な徳であります。他者中心の徳です。
すなわち私たちが、聖霊に促されて社会の現実の中で福音をあかしするとき、その言葉と行いは、自分中心ではなく、困難を抱えている人を中心に据えた、他者のために自らを犠牲にする行いによらなければなりません。まさしく、イエスご自身の人生は、他者のために自らを犠牲にする人生でありました。
一人ひとりの能力には限界があります。私たちはひとりでは完璧にはなることができません。でも私たちには互いを支え合う信仰の共同体があります。そしてなによりも、私たちを支え導く聖霊の照らしがあります。聖霊の導きに信頼しながら、そして共同体の支えに力づけられながら、勇気を持って、自らの言葉と行いで、福音をあかしして参りましょう。

 5月21・22日新潟―日本カトリック女性団体連盟第44回新潟総会

 この一週間は、なんとも忙しい一週間でした。21日の月曜日と22日の火曜日は新潟。23日の水曜日と24日の木曜日は軽井沢。そして25日の金曜日は仙台。さらに26日の土曜日は東京で宣教司牧評議会。今日の日曜日、三位一体の主日は、志村教会で堅信式でありました。

 新潟から軽井沢へ回って仙台へ行くためには、新幹線を乗り継いでいたのでは時間とお金がかかりすぎるので、とりあえず新潟と軽井沢へは自分で運転していくことに。関口を出発すると、本当に一度右折するだけで、まっすぐに練馬インターから関越道へ。道路がそのまままっすぐに関越道になるので、一度も右左折しません。何を言っているかというと、いわゆる都市伝説で、関口教会の近くにある故田中角栄邸から新潟の西山にある実家まで、車で移動するには三回しか曲がらない、といわれているのです。今回走ってみて、なるほどと思いました。実際私も、新潟中央インターで降りたので、関口から新潟教会前まで四回しか右左折しませんでした。

  新潟へ出かけたのは、日本カトリック女性団体連盟(日カ連)の第44回新潟総会に参加するため。昨年、まだ新潟教区司教であったときに、講演するように頼まれていました。

  21日は夕方の懇親会から参加。顧問の浜口司教とともに、舞台に『引きずり出されて』、仮装のうえで踊らさせられました。私が人生で一番苦手としているのが踊り、ダンス。そのまま、山形教会の千原神父の職人芸とも言うべきギター演奏で、歌まで歌わさせられました。歌は、ダ  ンスに比べれば、何百倍も得意なので構いません。

  翌22日は、朝から講演会。「いのちへのまなざし」をメインテーマに、どうして教会は人を助けるのか、カリタスジャパンでの活動で学んだことを中心にお話しさせていただきました。

   講演会後は派遣ミサ。新潟市内や近隣の司祭も参加してくださり、私と浜口司教の共同司式で、ミサを捧げました。参加してくださった全国の女性団体の方々、ありがとうございます。また準備に当たってくださった新潟の女性団体の皆様や小教区の皆様、ご苦労様でした。素晴らしい大会でした。

   残念ながら東京からは日カ連に加盟していないので、できれば何らかの形で、将来的に、東京のカトリックの女性団体も、全国とつながることができればと期待しています。

23・24日-男子修道会と宣教会の管区長、責任上長の全国会議

   水曜日と木曜日は、軽井沢の宣教クララ会修道院を会場に、全国で働く男子修道会と宣教会の管区長や責任上長の全国会議。修道会などは日本管区として独立しているところは『管区長』ですが、会員の減少から、多の国の地区と一緒になって管区を構成している会では、『地区長』などのタイトルを持っておられます。ほとんどの会が、東京に何らかの拠点を持っておられますが、例えば神言会やカルメル会のように、管区本部が名古屋にあったり、そのほかの町(例えば淳心会は姫路)にあるものもあります。

    今回でかけた理由は、これまた二年越しで、会長の柴田神父様(アウグスチノ会)から、講演を頼まれていたため。日本の教会で修道会が果たす役割について、質疑応答もあって、一時間のお話を三回。いろいろと意見交換もできました。  それぞれの修道会が会員の減少や高齢化という悩みを抱えるなかで、これからの日本の教会の福音宣教にどのような役割を果たしていくのかについて、今回同伴してくださった勝谷司教も交えて、良い話し合いができたと思います。初日には教皇大使も来られ、皆ど意見を交わして行かれました。

25日-仙台教区の東北大震災復興支援の会議

 金曜日は定例の仙台教区の東北大震災復興支援の会議。7年が経過し、全国の教会としての支援活動である震災から10年目が視野に入る中で、例えば大槌のように閉鎖となったボランティアベースや、活動を地元に移管した宮古での札幌教区の活動なども出てきています。釜石のベースは、すでにNPO法人として独立しました。これから、10年以降にどのように地元に引き継いでいくのか、方策を考える時期になってきました。もっとも、福島は事情が異なり、まだまだ先が見えません。東京教区ではCTVCが中心になって南相馬市の原町教会敷地内の拠点を設置しています。今後これをどのように地元に根付かせていくのかが、課題となってきますが、10年と言わずさらに長期の関わりが、必要だと感じています。

27日-志村教会での堅信式

  そして今日の日曜日、志村教会での堅信式。志村教会は、深水神父様が担当されています。ミサには100人近い方が集まり聖堂はいっぱい。東京教区の標準から言うと、小さい部類の小教区だと思いますが、例えば新潟教区であれば、十分に大きな小教区です。

 今日は9名の方が堅信を受けられました.。またそのうちのお一人は、今日が洗礼式。またお一人は今日が初聖体でもありました。堅信を受けられた方との関係で、イエズス会の竹内神父様(写真下)も共同司式に加わってくださいました。

ミサ後には、先日教区の司祭団でもお話ししたのと同じパワーポイント資料を使って、アフリカでの宣教の体験についてお話しさせていただき、その後、皆で祝賀会。堅信を受けられた皆さん、本当におめでとう。

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