・菊地大司教の日記㊻ 7月8月の主な予定・聖ペトロと聖パウロのお祝い、キリストの聖体の主日@築地、麹町

2019年7月 2日 (火)

7月8月の主な予定

7月と8月の主な予定です。なお、大司教に御用の際は、教区本部事務局次長のディンド神父に、まずご相談ください。
  • 7月3日(水)新潟教区司祭の集まり (新潟教会)
  • 7月4日(木)常任司教委員会 (潮見)、神学院常任委員会(上石神井)
  • 7月5日(金)神学院常任委員会(上石神井)、聖体奉仕会 (秋田)
  • 7月6日(土)聖体奉仕会 (秋田)
  • 7月7日(日)赤羽教会堅信式 (9時)
  • 7月8日(月)~11日(木)司教総会 (潮見)
  • 7月14日(日)荻窪教会主日ミサ (10時)
  • 7月17日(水)18日(木)東京教会管区会議 (仙台教区)
  • 7月19日(金)臨時常任司教委員会(潮見)、拡大青少年委員会 (真生会館)
  • 7月20日(土)船橋学習センターガリラヤ訪問
  • 7月21日(日)高円寺教会堅信式 (9時半)、中国センターミサ (14時半、上野)
  • 7月22日(月)ロゴス点字図書館会議 (午後、潮見)
  • 7月23日(火)神学院養成関連会議 (午後、潮見)
  • 7月24日(水)大分教区カトリック幼稚園連盟研修会 (宮崎)
  • 7月26日(金)名古屋教区カトリック幼児教育連盟研修会 (名古屋)
  • 7月27日(土)上智大学神学部講座 (13:00)
  • 7月28日(日)ベトナム共同体祈りの会とミサ (10時、マリアの御心会)

 

  • 8月2日(金)3日(土)日本カトリック医療団体協議会大会 (長崎)
  • 8月5日(月)6日(火)広島教区平和行事
  • 8月7日(水)新潟教区カトリック保育者研修会 (新潟)
  • 8月10日(土)11日(日)12日(月)東京教区平和旬間諸行事 (詳細は後日別途記載)
  • 8月13日(火)臨時常任司教委員会 (11時、潮見)
  • 8月15日(木)聖母被昇天祭ミサ (18時、東京カテドラル)
  • 8月18日(日)宮古教会主日ミサ (岩手県宮古市)
  • 8月23日(金)仙台サポート会議 (仙台)
  • 8月24日(土)日本カテキスタ会信仰養成講座 (9時から、若葉修道院)
  • 8月26日(月)27日(火)カリタスジャパン会議
  • 8月28日(水)ロゴス点字図書館会議 (午後、潮見)
  • 8月29日(木)~31日(土)東京教区神学生合宿

聖ペトロ・パウロのお祝い@金銀祝とペトロの家

    今年は、聖ペトロ・パウロのお祝いを二回いたしました。一回目は6月24日午前11時に、東京カテドラルを会場にして、教区で働いてくださっている神父様方の司祭叙階ダイアモンド・金・銀のそれぞれのお祝いのミサを、聖ペトロ・パウロの祝日の典礼で捧げさせていただきました。

   もともと、土井枢機卿にはじまり、白柳枢機卿、そして前任の岡田大司教と、東京の大司教はこの80年ほど霊名がペトロでありました。ですから聖ペトロ・パウロの祝日に当たる6月29日に一番近い月曜日に皆が集まり、お祝いのミサをしていたとのことです。その中で、その年に記念日を迎えられる司祭のお祝いも含めてきたと。ところが、ここに来て、大司教はペトロではなく、タルチシオです。祝日は8月です。どうするか思案しましたが、恒例のお祝い事ですからこれまで通り6月に行うことにしております。

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   当日は多くの司祭に集まっていただき、記念日を迎える司祭の中からも、それぞれ数名の参加がありました。残念なことにこの日は荒れた梅雨の天気で大雨が降り、多くの司祭や信徒の方が参加を断念された模様です。節目の年を迎えられた神父様方に、心からお祝いも仕上げ るとともに、これからもどうぞよろしくお願いします。神様のかわらぬ守りと導きを祈ります。以下一番下は、当日の説教の原稿です。

   そして6月29日の午後2時半からは、東京教区の引退された司祭方の家「ペトロの家」の、後援会の方々とともに捧げるミサでした。ペトロの家は、高齢で現役を退かれた司祭や、病気療養中の司祭が暮らされる家で、高度なケアが必要となる前の段階で自立しておられる方々を中心に共同生活を営んでいる家です。修道会出身の私などには、なにか修道院共同体のようにもみえるところです。

常日頃から、ボランティアや祈りや献金で、ペトロの家を支えてくださる方々をお招きして、感謝のミサを捧げ、その後は神父様方と懇談会をもよしました。70名を超える方がおいでくださり、聖堂に入りきれないほどでした。みなさまの日頃のご支援とお祈りに、感謝申し上げます。

   司祭は引退するのではなく、そのいのちが尽きる日まで、司祭として生き続けます。役職を果たすことがなくなっても、それが司祭としての引退ではありません。ベットの上に寝たきりになろうが、車椅子であろうが、生きている限り、司祭は司祭としての務めをそれぞれにとって可能のかたちで果たし、その生き様を持って、福音をあかし続Peterhouse1901けています。その意味でも、ペトロの家のように、ともに支え合いながら、祈りの生活を持って共同体を作っている姿は、福音のあかしとして、重要だと思います。これからも、ペトロの家で生活される司祭のために、お祈りください。

以下、6月24日のカテドラルでのミサの説教の原稿です。

  「それではあなた方は私を何者だというのか」
わたしたちはこの主からの問いかけに、自信をもって回答する言葉を持ち合わせているでしょうか。いくらでも学んだ知識を基にして、模範的な回答を並べることはできるかも知れません。でもそれは、結局のところ、誰かによって生み出され、わたしに与えられた知識でしかありません。

  「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と言うイエスの問いかけに対して、弟子たちは様々に回答をいたします。それらの回答は、皆どこかの誰かがそう言っていたという伝聞の知識であります。
しかし一通りどこからか聞いてきた情報の開示が終わるのを待ったイエスは、「それではあなた方は私を何者だというのか」と問いかけます。

   イエスのこの言葉には、「そこら中で聞いてきたことを、そのまま繰り返すことは許さないぞ」と言う迫力があります。「どこからか聞いてきた知識は今出し尽くしただろう。もうそれに引きずられてはならない。自分の心の奥底にある本当の思いを言いなさい」と迫る、迫力があります。

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   イエスに迫られて、わたしたち自身はいったいなにをどのように答えるのでしょうか。しどろもどろになりながら絞り出す回答は、本音であればあるほど、模範解答とはかけ離れた、自分自身の心の奥底に潜む信仰の叫びであるのかも知れません。

   私たち信仰者の人生は、終わりの時まで、このイエスの迫力ある問いかけに、自分はどのように答えることができるのかを模索し続ける旅路でもあると思います。とりわけ聖職者にあっては、わたしたちが人生のすべてをかけて付き従おうとする主なのですから、その方が自分にとって何者なのか、人生のすべての時にその答えを追い求めて生きなくてはなりません。

   2019年に、司祭叙階の銀祝や金祝、そしてダイアモンド祝などをお祝いされる神父様方に、心からお祝いを申し上げます。司祭叙階されてから25年、そしてさらなる25年、さらにはその先までと、司祭としての人生の長い道のりは、常にこのイエスからの問いかけに答えようとする模索の旅路ではなかったかと思います。その模索の積み重ねが、それぞれの神父様の霊性を深めて来られたのだろうと推測いたします。25年、また50年、さらにその先へと続く司祭としてのお働きに、心から感謝申し上げるとともに、これからさらに教会の牧者として、またイエスの弟子として、人生の終わりまで豊かな模索の旅路を続けられますように、神様の祝福と導きをお祈りいたします。(叙階銀祝の猪熊師とガクタン師)

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   司祭は叙階の秘跡によって、「最高永遠の祭司であるキリストにかたどられて、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別される」と、教会憲章に記されています(28)。もちろん小教区での司牧や典礼を執り行うことは重要であり、また司祭に固有の役割でもありますが、それとともに、いやそれ以上に重要な司祭の務めは、福音を証しして生きること、つまり福音宣教であろうと思います。

   自らの日々の生活を通じて、自らの日々の言葉と行いを通じて、まさしく「それではあなた方は私を何者だというのか」と言う主イエスの問いかけへの答えを力強く宣言できるような、そういう生き方が司祭には求められているのではないかと思います。

   いまの日本社会にあって福音を宣べ伝えようとする司祭には、使徒たちの時代のような、または日本の宣教初期のような、肉体的な迫害という苦しみはありません。しかしそこには、肉体的な迫害に勝るとも劣らない精神的な挑戦、すなわち徹底的な宗教への無関心と、それを生み出すすさまじい世俗化、超越者への畏敬の欠如、いのちへの尊厳の軽視、などという様々な挑戦が存在しています。とりわけ、その始まりから終わりまで、徹底的に守り抜かれなければならない賜物である私たちのいのちが、これほどまでに軽く扱われ、その価値をこの世の価値観によって決めつけられている現実には、大きな危機感を覚えます。

   わたしたちは、社会の勝ち組、負け組などという言葉が飛び交い、互いに助け合うことや困窮する人に手を差し伸べることには意味がない、自己責任だなどとまで言うような社会で、互いに助け合う者としての福音を証ししようとしています。

    自分たちの生活を守るためには、異質な存在を排除し、時に武力を行使することも致し方がないと考える社会の中で、神の平和の確立、神の秩序の実現を求めています。

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  今年の復活の主日の、ウルビ・エト・オルビのメッセージで、教皇様は次のように言われました。
「現代の多くの苦しみに対して冷淡で無関心な者として、いのちの主がわたしたちのことをご覧になりませんように。わたしたちを、壁ではなく橋を築く者にしてください。・・・墓の入り口を開け放ち復活したキリストが、わたしたちの心を、困窮している人、無防備な人、貧しい人、失業した人、社会の片隅に追いやられた人、さらにはパンと逃れ場を求め、自分の尊厳が認められるよう望みながらわたしたちの扉をたたいている人に対して開いてくださいますように」

   わたしたちは愚直に、そして誠実に、主イエスの「それではあなた方は私を何者だというのか」という問いかけに対する答えの模索に、全力を傾けて生きていきたいと思います。

   この世の常識にとっては愚かしいことであっても、夢物語だといわれても、勇気を失うことなく、福音をあかし続けていきたいと思います。

  その始めから終わりまで、一つの例外もなくいのちの尊厳が守り抜かれるように主張し続け、社会にあって生きる希望と喜びを生み出す存在でありたいと思います。

  司祭の長年の働きが、希望と喜びの源となりますように、生ける神の子、主イエスに、これからも勇気を持って付き従ってまいりましょう。

2019年6月27日 (木)

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 キリストの聖体の主日は、毎年恒例なのですが、午前中に築地教会で歴代教区長の追悼ミサを捧げました。

 築地教会は、東京で一番最初に建てられた教会で、1877年にオズーフ司教が日本北教区の司教座を置かれました。1920年に司教座が関口教会に移るまで、カテドラルとしての役割を果たしていた教会です。

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 現在は、近隣のホテルに泊る海外からの観光客も多くミサに訪れる教会ですが、その歴史のある聖堂は、今年の末頃の完成を目指して、耐震修復工事中です。そのため、ミサは信徒会館二階ホールで行われました。

 現在の主任司祭はレオ神父。大司教秘書のディンド神父と三人の共同司式ミサでは、お二人が初聖体を受けられました。おめでとうございます。

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 そして同じ日の午後3時半からは、麹町のイグナチオ教会での堅信式です。141名の方が堅信の秘跡を受けられ、英主任司祭と李助任司祭に加え、司牧に協力してくださるイエズス会の司祭たちも共同司式。

 ミサでは入祭の挨拶の後、灌水式も行われました。イグナチオ教会では、毎年100人を優に超える方が堅信を受けられます。交通の便が良いこともありますが、多くの協力司祭と、シスター方、信徒の方がチームを組んで、入門講座や堅信の準備、さらには結婚講座の充実に取り組んでおられる努力の成果であろうと思います。これからも、充実した信仰養成の努力を続けられますように。

 ミサ後には、ホールに場所を移して、堅信式のお祝いも行われました。皆さん、おめでとうございます。これからも教会での活躍を期待しています。

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 以下は、当日のイグナチオ教会での説教を、ある方が録音から文字おこししてくださったものです。

 今日の御ミサの中で、堅信の秘跡を受けられる方々が141名おられると伺いました。141名の堅信を受けられる方々に、心からお祝いを申し上げたいと思います。

 141名もいるということは、そこには141通りの信仰の出会いの物語があり、141通りの信仰の歩みがそれぞれあるのだと思います。みな同じイエス・キリストを信じているというところでは変わらないのでしょうけれども、イエス様にどこでどのように出会ったのか、そしてイエス様をどれくらい理解しているのか、というあたりでは一人一人に違いがあることだと思います。でもその141通りの違うイエス様との出会い、イエス様における信仰、その違いがあるけれども、一つのことでは みな同じように役割を与えられていると思います。

 その役割は一体何なのかといえば、先ほど朗読でパウロのコリントの教会への手紙が読まれましたが、 今日はキリストの聖体、御聖体の祝日でありますので、パウロのコリントの教会への手紙は、最後の晩餐における主イエス・キリストによるご聖体の制定の物語でありました。そしてそれはわたしたちがミサに預かる度ごとに耳にしている、司祭が聖変化の時に唱えるあの言葉でありますけれども、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」そして「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」 パンはご自分の体、そして杯に満ちたぶどう酒はご自分の血であると言われ、ご自分の体をわたしたちのために渡してくださった。そのご聖体の制定の出来事が起こった、最後の晩餐が今日のパウロのコリント人への手紙の中に記されています。

 問題はそこに書かれている「記念として」と書いてあります。「記念」とは何とか記念日「わたしの記念としてこのように行いなさい」「飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」記念と書いてあります。ミサの中でも記念という言葉を司祭は唱えます。「わたしの記念としてこれを行いなさい。」記念とは何をどうしようと言っているのか。

 ミサの中でも、さらりとこの部分は過ぎ去ってしまう言葉だと思います。でも考えてみたら、イエス様ご自身はもうこれで最後だ。 弟子たちと生きている間に食事を共にするのは最後。すなわち弟子たちに教えを伝えるのは、これが最後のチャンスだということをよく知っておられたわけです。その上でこれが最後だという思いを込めて、弟子たちに対して記念として行う。その記念とは何なのか。

 「忘れるな」ということです。わたしが今まで語ってきたことを、わたしが行ってきたことを、あなた方が目の当たりにしてきた出来事を、決して忘れてくれるな。というイエス様の切なる願いがこの記念としてという言葉には込められていると思います。そしてその記念は誕生日とか、何かの出来事の記念日とか、自分の内輪でお祝いをするものではないのです。あの最後の晩餐の日に、イエス様はこんなことを言ったんだ。すごいな、と言って自分の心の中だけでお祝いをすることではなくて、実はこの記念は外に向かっての記念なのです。

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 どうしてそう言えるかというと、そのパウロのコリント人への手紙の続きの部分に、パウロはイエス様の言葉に続けて「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」と記しています。決してパウロは、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、」内輪でお祝いするんです。とは言われないんです。「主の死を告げ知らせるのです。」 と記しています。

 すなわちこの記念は、ああ、すごいことがあった。と言って、自分の心の中でそれを覚えているだけにとどまらず、そこから外に出て行って、何が起こったのか、何が言われたのか、何が伝えられたのかを他の人たちに告げ知らせていく。他の人たちにそれを教えていく。それが記念の意味であります。

 従ってご聖体を受ける時にわたしたちは、ただ単にイエス様がわたしたちに来てくださった。イエス様がわたしと一緒にいてくださるといって、自分の心を満足させる。それも重要なことだし、主がいつもいてくださるということを心で感じる、それもとても重要なことです。けれども そこにとどまっていたのでは、イエス様が最後の晩餐に言われた記念としてそれを行えというところには足りないわけです。わたしたちはあのイエス様の言葉に従っていくためには、イエス様が来られるまで、つまり世の終わりまで何が言われたのか、何が伝えられたのか、何が起こったのかを多くの人達に宣べ伝えていく義務を背負って生きているんです。

 今日、堅信を受けられるお一人お一人は、聖霊はその秘跡によって豊かに与えられる。そして聖霊による様々な賜物が与えられることになります。あちらの台にはろうそくが並べてあって、聖霊の七つの賜物が記されています。弱い人間であり、力も足りない人間であるわたしたちが、イエス様がおっしゃったことを、たくさんの人に告げ知らせるなんて、とてもとてもできることではないと、おじけづく時に、この堅信の秘跡によって与えられる聖霊の力がわたしたちを後ろから押してくれるんです。

 聖霊を受けたから、急に今日からスーパーマンに変わるわけではないです。聖霊を受けたら急に言葉ができるようになるとか、何かすごい力をもらう とかはないのです。そうではなくて、わたしは何と弱いんだと思った時に、わたしは何もできないと思った時に、聖霊が後ろから一生懸命支えてくれるんです。後ろから後押しをしてくれるんです。何を後押ししてくれるかというと、イエス様が何を言われたのか、イエス様が何をされたのか、わたしたちに何を残されたのか、それを他の人たちに伝えようとする、その心意気を後ろから聖霊が一生懸命になって支えてくれる。

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 堅信を受けられるお一人お一人は、是非とも今日からその聖霊の力を後ろから受けて、 勇気を抱いて、 イエス様の言葉を伝えていく。どう伝えていくのかはお一人お一人それぞれ生きておられる現実の中で考えていただけたらいいと思います。お一人お一人が、日々の生活の中で語る言葉、行いによって 福音の証しをしていっていただきたいと思います。かつては堅信を受けると、キリストの兵士になるんだという言い方もしました。今は堅信を受けると成熟した大人の信徒になるのだという人もいます。まさしくその通りだと思います。一人一人に与えられた義務を、務めを、勇気を持ってしっかりと果たしていこうとする。大人の信徒としてのこれからの毎日の生活を歩んでいただければと思います+

(菊地功=菊池・いさお=東京大司教)

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2019年7月1日