・Sr.岡のマリアの風㊵ 「委ねる」と簡単に言うけれど…

 「造り主である主よ、あなたにわたしのすべての苦しみを委ねます。そうすれば、主よ、あなたは、わたしに一番よいようにしてくださいます… 」

 詩編作者とともに、わたしたちは毎日、このように祈る。自分が「元気」なとき、つまり、まだ自分の力で何かが出来るときは、「委ね」も何となく「割引」、「駆け引き」になっているのかもしれない。「わたしはここまでしました。あとは主よ、あなたに委ねます わたしも、やれるだけのことをやったんですよ、分かってくださいね」というニュアンスを含めて。

 自分がいろいろな意味で、 元気でない ときは、「駆け引き」どころではない。自分の方からは何も出来ないことを、とことん経験する。自分の無力さに呆然とする。前に進みたくても、力が出ない…。そのようなとき、「委ね」は、まさに、「駆け引き無し、100%の委ね」になる。

 6月末から、出張でローマ滞在中である。出発前に風邪をひいて、治りきらないうちにローマに来た。とにかく力が出ない。気力がない。仕事はあるのに、自分のイニシアティブでは何も出来ない。時間をかけて休むしかない。そんな状態の中で、「委ねる祈り」の日々を経験した。

  滞在しているフランシスコ会の修道院から、ラテラノ大聖堂と、聖マリア大聖堂は歩いて数分の距離。朝夕の比較的涼しいうちに(それでも暑い!)、大聖堂を訪問し、何も考えず、神とその民との、数千年の長い歩みの中に、「今の、小さなわたし」の存在を置く。そのようにして、祈る。  少し元気になってくると、教皇庁立国際マリアン・アカデミー(PAMI)の事務所の一角で、ぼちぼちと仕事を始める。

 先日は、ルーマニアから来た、ギリシャ・カトリック教会の司祭が、PAMIの事務所でビザンチン典礼のミサを二日間捧げ わたしもそれにあずかった。長い祈りが、ゆっくり、朗々と歌われる。祈りの中で、参列しているわたしの名前も呼ばれる。共同体、家族、友人、恩人たちが何度も思い起こされる。一時間半くらいの儀式。すべてイタリア語だったので、唱えられている祈りの意味を理解することが出来、深い祈りと交わりの時を共有した。

 また、国際マリアン・アカデミーのアジア部門の責任者、インド人のデニス神父も訪れ、PAMI責任者のステファノ神父(わたしの先輩)と共に、アジアでの活動について話し合った。国際的視野でアジアのことを見るので、自分たちだけでは考えもつかない、さまざまな可能性が見えてくる。

 PAMIの事務所には、毎日、さまざまな人が訪れる。司祭、修道者だけでなく、信徒、他の宗教の信徒。国籍もさまざま。ここにいるだけで、国際マリアン・アカデミーが目指していること、そのために実際に立ち向かっている課題、世界中の、アカデミーの協働者たちとのプロジェクト…を、リアルタイムで経験することが出来る。それは、メール通信などでは捉えることの出来ない、言葉になる前の、種が蒔かれた「土地」のようなものだ。これから、いろいろな形で芽を出し、さまざまな実りを結ぶだろう。しかしその力は、すでに地面の中の種が内包している。まだ言葉にはならない。

 でも、沈黙の中で確かに何かを「語りかけている」。「委ねる」しかない、「元気ではない」ときのわたし。元気いっぱいのときには聞こえない、沈黙の中の声を、ゆっくりと吸収しているのかもしれない。自分の小さな世界から「脱出する」(解放される)ために、こういう時間も必要なのだと、しみじみと感じている。

 ゆっくりと休みながら、もう少し深く、主の声がわたしの中に入ってくるに委ねたい。祈りつつ。

  (岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2019年6月30日