Sr.石野のバチカン放送今昔⑯ 「ヨハネ・パウロ二世と日本語」

 

 1980年12月3日、ヨハネ・パウロ二世の日本行きが公表されてから数日が過ぎた日のことだった。午後6時少し前、バチカン国務庁次官のモンセニョール・レから日本語のオフィスに電話があった。「神父が一人必要なので、話したい」。

 ちょうどその時、日本語課に勤務していた神父さまが番組の録音に出ていたので、その旨伝え、帰り次第、電話をさしあげます、と答えた。相手は、一方的に自分で言いたいことだけを立て板に水のごとくに話して、こちらの返事が終わるか終わらないかのうちにガチャンと電話を切る。なんとせわしない人、そう思いながらも、わたしにはピンときた。「教皇さまの日本訪問に備えて、日本語を学ぶお手伝いの出来る神父さんを探しているのだ」ということが。

 果たしてそうだった。N神父さまはそれから時々、教皇のお住まいにあがり、日本語を学ぶお手伝いをした。最初は「ミサの一部分だけを日本語で」ということだったが、教皇さまの日本語力の進歩は目覚ましく、わずかの日数でミサ全体を日本語で唱えられるようになられた。

 そればかりではない、ミサ中の説教も、日本各地で行った13の講話のすべても流暢な日本語でお読みになることが出来るようになられた。東京に着かれて、司教座大聖堂の前で「親愛なる日本のみなさん・・・」という、朗々とした力強い声、歯切れのよい流暢な日本語で第一声を放ったとき、わたしはバチカンで聞いていた時とは違う感激に胸がふるえ、目からは涙が流れ落ちた。その時のことを、今も、新たな感激と共に思い出す。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

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2017年10月25日 | カテゴリー :