「世界広報の日」の教皇メッセージ「悪いニュースによる〝恐怖の連鎖〟を止め、建設的なコミュニケーションを」

2017年5月21日はカトリック教会の51回目の「世界広報の日」にあたっている。この日のために、教皇フランシスコは以下のメッセージを事前に発表されている。

 

コミュニケーションの実りから栄養を得ている人々に柔らかく良質なパンを提供するために専門職や個人的な交わりを通して、大量の情報を日々、〝挽いている〟皆さんに対して、このメッセージを伝え、励ましたいと思います。他者に対して先入観を抱かずに、出会いの文化を育むことで、確かな信頼をもって現実に目を向けられるよう助ける〝建設的なコミュニケーション〟を、皆さんに心からお願いします。

 テクノロジーの進歩によるメディアの普及により、非常に多くの人々が情報を即座に共有し、その情報を世界の隅々にまで伝えることができるようになりました。それらの情報は良いものにも悪いものにも、また真実のものにも偽りのものにもなりえます。わたしたちの教父は、水の力で絶え間なく動く水車の石うすに人間の頭脳をたとえました。しかし小麦をひくか、毒麦をひくかを決めるのは、水車小屋のあるじです。人間の頭脳は絶え間なく働いており、受けたものを「ひく」のを止めることはできません。しかし何を与えるのかを決めるのは私たちです(聖ヨハネス・カッシアヌス「レオンティウスへの手紙」参照)。

 不安の悪循環を断ち切り、〝悪いニュース〟(戦争、テロ、スキャンダル、人間によるあらゆる過ち)に焦点を当てる風習から生じる〝恐怖の連鎖〟を止めるべきだ、と私は確信しています。それは、苦しみに満ちた悲しい出来事を無視するような誤った情報を広めたり、悪事に目をつむる単純な楽天主義に傾倒したりすることとは違います。私は、〝不満と諦め〟という感情を克服するよう皆さんに求めます。不安と諦めは〝無関心と恐怖〟を生み出し、「悪は止められない」という考えをもたらします。

 マスコミの世界には「良いニュースはあまり注目されないが、痛ましい悲劇や不可思議な悪行は容易に脚光を浴びる」という認識が蔓延しています。そこには「良心を麻痺させ、人々を悲観的にさせようとする誘惑」が存在しています。

 このような現状認識に立って、私は、建設的で開かれたコミュニケーション手段の追求に貢献したいと願います。悪に主役を務めさせるのではなく、情報の受け手が積極的で責任ある行動をとるように働きかけながら、実現可能な解決策を示すことに努めるコミュニケーション手段です。「良い知らせ」の論理に基づく情報を現代の人々に伝えるよう皆さんにお願いします。

良い知らせ
人生は出来事を整然と並べた単なる年代記ではなく、語られることを待ち望む一つの歴史です。それを語る際には、重要なものを選んで集めることのできる、解釈の鍵となるものを選ぶ必要があります。現実そのものの意味は、ただ一つではありません。すべてのものが、どのように物事を見るかによって、すなわち物事を見る際に用いる「レンズ」によって、変わります。レンズを変えれば、現実も違って見えます。

 では、適切な「レンズ」を用いて現実を読み解くには、どうしたらよいでしょうか。私たちキリスト者が用いるレンズは、「神の子イエス・キリストの福音」(マルコ1・1)からもたらされる「至高の良き知らせ」にほかなりません。聖マルコは冒頭にこの言葉を記してから、イエスに関する「良き知らせ」を伝え始めます。それはイエスに関する情報以上のもの、すなわち「イエスご自身」という良き知らせです。実際、福音書を読み進めると、この名称が内容にふさわしいこと、そして何よりも、その内容がイエスご自身であることが分かります。

 イエスご自身であるこの良い知らせが良いのは、苦しみを免れるからではなく、苦しみを神と人々へのイエスの愛の一部として、より広い観点から捉えているからです。神はキリストのうちに、人間のあらゆる状態に連帯し、私たちは孤独ではないことを明らかにしてくださいます。神は決してご自分の子供を忘れないからです。「恐れるな、私はあなたと共にいる」(イザヤ43・5)。これは、ご自分の民の歴史につねにかかわっておられる神の慰めのことばです。神は「私はあなたと共にいる」と約束し、最愛の御子のうちに人間としての死を受け入れるほどに、私たちのあらゆる弱さを引き受けてくださいます。キリストのうちにあれば、暗闇と死さえも光といのちに出会う場になります。人生の中で失敗に苦しむ場こそが、すべての人に届く希望が生まれる場所です。希望は決して私たちを欺きません。神の愛が私たちの心に注がれ(ローマ5・5参照)、埋められた種から草木が育つように、新しいいのちを芽生えさせるからです。

 このように考えると、世界の歴史に起きているあらゆる新しい悲劇は、これから起こりうる良い知らせの舞台にもなります。愛は常に寄り添うすべを見いだし、思いやりのある心、くじけない顔、作り出すことのできる手を奮い立たせるからです。

み国の種への信頼
イエスはたとえ話を用いて、福音に基づく考え方へと弟子たちと群衆を導き、愛は死んで復活するという教えを学ぶのに適した「レンズ」を与えています。イエスはたびたび、地に落ちて死んで、初めてその生命力を発揮する種に、み国をたとえます(マルコ4・1-34参照)。み国の秘めた力を伝えるために比喩やたとえ話を用いる方法は、重要性や緊急性を損なうものではなく、聴衆がそのことを受け入れ、自分自身に当てはめるための自由な「余白」を残す、いつくしみ深い方法です。

 それはまた、過越の神秘のはかりしれない尊厳を表すために、とりわけ適した方法でもあります。キリストにおける新たないのちの逆説的な美を伝えるために――理念よりも――イメージに訴えているのです。その新たないのちにおいては、敵意と十字架は神の救いを阻むものではなく成就させるものであり、弱さは人間のあらゆる力よりも強く、失敗は愛のうちにすべてを最高の形で成し遂げる前の前奏曲です。「人が土に種をまいて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」(マルコ4・26-27)。み国への希望は、まさにこのように熟し、深まります。

 み国は、表面からは見えなくとも静かに根をはる種のように、すでに私たちの中にあります。聖霊によって視覚を研ぎ澄まされた人々には、み国が芽吹いているのが見えます。至るところに生えている毒麦で、み国の喜びが奪われないようにします。

聖霊の地平
イエスご自身である福音に根ざした希望は、私たちが目を上げて、主の昇天の祭日の典礼祭儀で主を観想するように促しています。たとえ主が私たちから遠ざかっていくように思えても、実際には希望の地平はさらに広がっています。一人ひとりの人間は、人類を天に上げてくださるキリストのうちに、完全な自由をもって「イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです」(ヘブライ10・19-20)。 「聖霊の力」によって私たちは、人類があがなわれ、新しくされたことを「地の果てに至るまで」(使徒言行録1・7-8参照)伝える「あかし人」になることができるのです。

 み国の種と復活の教えに信頼を置くことは、コミュニケーション手段の形成にもつながります。その信頼のおかげで私たちは、あらゆる出来事や一人ひとりの顔の中に良い知らせを見いだし、それらに光を当てることは可能であるという確信のもとに、現代のあらゆるコミュニケーション手段を用いて活動することができるのです。

 信仰をもって聖霊の導きに身をゆだねる人は、神がこの世界の劇的な状況の中で、いかに救いの歴史を織りなされておられるかを、神と人間の間に起きているあらゆる出来事の中に認識し、識別することができます。希望は「聖なる歴史が織りなす糸」であり、織り手は「慰め主である聖霊」にほかなりません。希望は、最も謙虚な徳です。生活の奥底に埋もれていても、パン生地全体を膨らませるパン種のようなものだからです。私たちは福音を読み直すことで希望を育みます。福音は、神の愛の映しである諸聖人の生涯の中で、何度も〝増刷〟されてきました。聖霊は今も、多くの活発な「媒体」を通して、「み国への願い」という種を私たちの中に撒き続けています。それは「歴史の出来事の中で福音の導きに身をゆだね、この世の闇の中の灯台のように道を照らし、信頼と希望の新しい道を切り開いている人々」の働きを通してなされるのです。

(以上は、カトリック中央協議会が翻訳したものを「カトリック・あい」が一部手直しした)

 
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2017年5月21日