(評論)10月に行われる「家庭」についての世界の司教協議会会長会議、教皇は何を意図しているのか(Crux)

(2026.3.21  Crux  Editor-in-Chief   Charles Collins)

   3月11日、バチカンの聖ペトロ広場での水曜恒例一般謁見で、教皇レオ14世は、前任のフランシスコが発出され物議を醸した文書の一つ、使徒的勧告「Amoris Laetitia」について議論するため、10月に世界の司教協議会会長を招集して会議を開くことを発表された。

 21世紀の家庭生活の様々な側面に関する2回にわたる世界代表司教会議(シノドス)を経て2016年5月、公式に発表された256ページに及ぶこの使徒的勧告は、キリスト教の家庭生活と結婚の秘跡に関するフランシスコ教皇の考えを提示していた。

 議論を呼んだのは、勧告の第8章にある一節だ。この章は「弱さと共に歩み、見極め、統合する」というテーマを扱い、カトリック教会がしばしば「不規則な状況」と呼ぶ、通常は教会法上無効な婚姻関係にあるカップルについて論じていた。

 この305項でフランシスコは、「条件付けや情状酌量の要素があることから、客観的には罪の状態にあっても―主観的には罪の意識がない、あるいは完全にはそうではない場合でも―その人は神の恵みの中に生き、愛し、恵みと愛の生活の中で成長し、そのために教会の助けを受けることができるのです」と述べて居られたが、論争の的となったのは、その段落に付された脚注、すなわち脚注番号351だ。

 この脚注には、「特定のケースにおいては… 秘跡による助けが含まれることもある」とされている。多くの関係者は、この主張を、「無効な結婚をしている夫婦が性的に結ばれている限り、秘跡を受けることはできない、という長年にわたるカトリックの定めを実質的に無効にするもの」と受け止めた。

 そして、4人の枢機卿がフランシスコ教皇に対し、この一節の真意を明確にするよう求める5つの『ドゥビア』(一連の質問)を送ったが、フランシスコは、これらの質問に答えることはなかった。少なくとも直接的に、あるいは自身の名義で答えることはなかったのだが、時折、側近や他の人々から寄せられた数多くの意見のうちのどれか一つに同意しているかのような印象を与える発言や行動をとったり、インタビューで批判者たちの反応について「眠れなくなるほど気にしてはいない」と述べたりはされていた。

 今、それから10年が経ち、フランシスコ教皇の後継者であり、在位1年目の新教皇であるレオ14世は、「2026年10月に世界各国の司教協議会会長をローマに招集する」という決定を発表した。「今日の家庭に福音を宣べ伝えるために取るべき措置」を見極めるのが狙いだ。教皇レオ14世の書簡によると、10月の会議は『Amoris Laetitia」を参照し、「世界各地の教会で現在行われている取り組みを考慮に入れて行われる」という。

 書簡では、物議を醸した脚注がある第8章についても具体的に言及されており、AP通信は「教皇レオ、民事再婚後の聖体拝領に関するフランシスコの2016年の分裂を招く文書を支持」と報じたが、実際にはレオ教皇は、法的に認められていない結婚関係にある人々への秘跡へのアクセスに関する記述には言及しなかった。小説ほどの長さがある文書の中の、全23ページに及ぶ第8章にある脚注に過ぎなかった。 レオ教皇の書簡は、子供の教育の改善について述べた第7章にも言及している(とはいえ、誰も興味を示していないようだが。)

 いずれにしても、何かが動き出している。だが一体、何が動き出しているのだろうか? 就任以来、人々は。新教皇の言動について注視してきた。

 
 フランシスコ教皇は、カトリック教会で”物議を醸す存在”だった。高位聖職者の”リベラル”派に親和的で、”保守的”な前任者たちとは根本的に異なる道を歩み、質問に対する気さくな返答で頻繁に物議を醸してきました。”型破りな教皇”を自ら演出し、それを証明するかのように新聞記事の見出しを飾り続けた、と言っても過言ではない。メディアの世界で言うところの「記事のネタには最適」な人物だった。 そして、12年間にわたってカトリック教会をリードされ、レオ14世を選出したコンクラーベで投票権を持つ枢機卿の大多数を任命していた。だから、レオ14世の在位1年目において大きな注目を集めてきたのは、「新教皇は前任者と同じようになるのか、それともより保守的な立場をとるのか」という点だった。バチカンの動向を注視する人々は、レオ14世教皇の在位初期の行方を「読み解く」べく、その一言一句、一挙手一投足を綿密に分析してきた。

 

 

 教皇レオ14世は昨年5月の就任からこれまで、慎重な姿勢を貫き、フランシスコ教皇の言葉を頻繁に引用する一方で、ベネディクト16世や聖ヨハネ・パウロ2世の言葉も引用してきた。19日のメッセージの中で、レオ教皇はヨハネ・パウロ二世の1981年の使徒的勧告『 Familiaris Consortio』に明確に言及した。この勧告は家族に関する、フランシスコの勧告に先立つ使徒的勧告であり、多くの観察者(全員がフランシスコ教皇の執拗な批判者というわけではない)の目には、フランシスコ教皇によって軽視されたものと見なされていたものだった。

 レオ教皇による世界の司教協議会会長への会議の呼びかけは、間違いなく「シノダル(共働性)の実践」の一つだ。教皇は、言葉の上では「互いに耳を傾け合いながら前進する」ための「シノダルの識別」を呼びかけており、それはフランシスコの『Amoris Laetitia』に照らし、世界各地の教会で現在行われていることを考慮に入れつつ、「今日の家庭に福音を宣べ伝えるために取るべき措置」に向けたものだ。それは、まさにフランシスコの教えそのものと言える。

 一方で、この10月に予定される会合は、いかなる意味でも世界代表司教会議(シノドス)の正式な会議とは見なされないもののようだ。少なくとも教皇の所管には、シノドスについての言及はない。シノドスの臨時総会-司教協議会会長たちが主要な参加者となるだろう―であれば、少なくとも2週間は続くはずだ。だから、10月の会合をめぐっては、様々な憶測が飛び交っている。

 

 

 10年前に発表されたフランシスコ教皇の使徒的勧告は長文かつ詳細なもので、現代の教会が直面する家庭と結婚の問題を提示していたが、この本一冊分の文書に関する報道や、カトリックの論客たちの反応は、文字通り”ある脚注”によって影がくなった。(皮肉屋の中には、カトリック教会初のイエズス会出身の教皇が、この問題に関して、”イエズス会的”なやり方を取っている、と指摘する者もいた。)

 教皇レオ14世は、自らに好機を創出しようとしているのかもしれない。つまり、『Amoris Laetitia』に含まれる、ある章の1段落にある1文や、それに付随していた1つの脚注以外の、文字通り「その他すべて」のうち、少なくとも一部を浮き彫りにするためにだ。

 新教皇は、『Amoris Laetitia』第8章の悪名高い一節や、それが引き起こした論争について、明示的に言及することを厳格に避けてきたが、カトリックの結婚の聖性については言及した。今年1月26日、主に婚姻無効の案件を扱うバチカンの裁判所であるローマ・ロタに対し、教皇は、「正義の真理と愛徳との密接なつながりについて、いくつかの考察を提示したい」と述べた。そして、「これらは対立する二つの原則ではなく、また純粋に実際的な基準に従ってバランスを取るべき価値でもない。これらは本質的に結びついた二つの側面であり、愛であり真理である神の神秘そのものの中に、最も深い調和を見出すのです」と語っていた。

 

 

 教皇は、客観的な真理の要求と愛の配慮との間にしばしば生じる「弁証法的緊張」について語っている。「信徒たちの、しばしば困難に満ちた浮き沈みに過度に同調することで、真理が危険なほど相対化されてしまうリスクがあるのです… 実際、誤解された同情は、たとえ表面的には牧会的熱意に動機づけられているように見えても、司法職に固有の真理を明らかにするという不可欠な側面を覆い隠してしまう危険性があります」と裁判官たちに警告した。

 この「誤解された思いやり」という言葉は、特に注意深い観察者の関心を引いたかもしれない。なぜなら、それはフランシスコ教皇に対する”穏健な批判者”たちが、悪名高い脚注351の表現に帰した可能性のある動機の一つを要約しているからだ。しかし、レオ教皇は、この問題を専門の法学者たちに向けた専門的な演説の中で語って似すぎない。。

 

 

 10月の会合を告知する教皇の書簡の中にも、興味深い兆候がいくつか見受けられる。「私たちの時代は急速な変化に特徴づけられています… その変化は10年以上も前から、主が福音の宣教と証し、という教会の使命に参加する任務を託された家庭に対し、特別な司牧的配慮を払うことを必要する、というものでした」と。

 念のため申し添えると、教皇の書簡の最後には、前述の1981年の『Familiaris Consortio』についての独自の脚注が付いている。

 また、現代の家族が直面する課題に対する教会の取り組みについて、「主が結婚と家庭生活に招かれる人々が、キリストにおいて夫婦の愛を十分に生きることができるよう、また、若者たちが教会の中で結婚という召命の美しさに惹かれることができるよう、その取り組みは刷新され、深められなければなりません」とも語っているが、書簡のこの一節には、一切脚注が付けられていない。

 カトリック信徒にとって、10月の会議の前に、教皇が提示する「兆し」を読み解くための期間が7か月ある。その間、常に念頭に置いておくべきことは、結局のところ、離婚して民事再婚した人々への聖体拝領の問題は、その文書の脚注にすらならない可能性がある、ということだ。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2026年3月22日