批判勢力を越えて-新年は教皇の使徒的勧告「愛の喜び」を実践する年( CRUX 評論)


 教皇フランシスコが2016年4月に使徒的勧告「Amoris Laetitia(愛の喜び=カトリック中央協議会が以前に翻訳・出版した使徒的勧告「Evangelii Gaudium」のタイトルは「福音の喜び」と訳されていたので、そのつながりから、「愛の喜び」としました=「カトリック・あい」)」を発表してから、9か月が経とうとしています。

 2013年3月に教皇に就任されたフランシスコは、同年11月に使徒的勧告「福音の喜び」で現代世界に生きる教会共同体の基本原則ともいえるものを示され、それをもとに、具体的な実践編として、まず、全世界の人々にとって基本となる家庭をめぐる様々な問題を教会共同体がどのように受け止め、対応すべきかについて、2014年10月、2015年10月の2度にわたって、全世界司教会議(シノドス)を開いて、活発で開かれた議論を求めました。そして、その成果となった最終文書を踏まえて、「愛の喜び」とまとめられたのです。

 教皇は、さらに、2018年に、「若者」の現状と教会の対応の在り方についてシノドスを開催することを予定され、その準備のために、2017年春には、日本を含めて世界の全教会に、報告や提案をまとめるようにお求めになるはずです。

 教会を現代世界に生き、その光となり、人々に愛と勇気を与える力となる共同体にするために、年末に80歳となられた教皇は多くの抵抗を乗り越え、全力を尽くしておられます。残念ながら、日本の教会は、いまだに「愛の喜び」の日本語版を手にすることができず、当然ながら、理解も関心も低く、教皇が進められている大きな流れから取り残されているように見えます。しかし、不平を言っていても始まりません。英語版、独仏版などはいつでも、インターネットなどで入手できますし、「愛の喜び」をもとにした分かち合いのためのガイドブックも米国などで出版され、アマゾンなどで容易に購入することができます。

 「カトリック・あい」では、すでに、「愛の喜び」のエッセンスをまとめて別掲していますが、これからも、皆様に参考となる情報をお伝えしていきたいと考えています。新年は、まず、Cruxで年末に掲載された以下の評論を翻訳しました。ご参考にしていただければ幸いです。(「カトリック・あい」代表・南條俊二)

 「『愛の喜び』、批判を越えて、前進すべき時だ」

 (2016.12.11 Crux contributing editor アウステン・イヴェライ )

   昨年まで2回開かれた全世界司教会議(シノドス)での協議とその成果を否定する形で出てきた四人の枢機卿に率いられた批判勢力は許される抗議の一線を超え、第二バチカン公会議を裏切ったと教皇ヨハネ・パウロ二世を批判した人々に次第に類似してきている。だが、教会は、2回のシノドスの成果として教皇が公布された使徒的勧告「愛の喜び」を具体化する道を進まねばならない。

   ほとんどが現役を引退している枢機卿4人が先頭に立ち、正当化された反フランシスコの反乱は、新たな悪意のこもった論調を呼んだ。一線を越えたのだ。私は、礼儀正しさや敬意の一線を越えた、と言っているのではない。4人の枢機卿が、教皇フランシスコが(9か月前の2016年4月に)公布した使徒的勧告「Amoris Laetitia(愛の喜び)」を批判する教皇あての手紙を公表し、公に非難することで彼を脅した時に、一線を越えたのだ。それ以来、4人を支持する幾人かの記者の礼儀を欠き、軽蔑するような論調は新たなスキャンダルの探りを入れている。

  だが、論調よりもはるかに重要なのは、そうした批判が一線を越えて、〝異議〟を唱える領域に踏み込んだことだ。「異議」は「不同意」と同義ではない。カトリック信者はしばしば、教皇の決定や声明に「不同意」を表明し、教皇の神学的見解に反対し、あるいは、教皇の優先権を受け入れない。そして、教皇フランシスコはそうした「不同意」について寛容なだけでなく、積極的に激励している。だが、「異議」はそれとは違う。異議は、教皇による統治の正当性に疑問を呈することにつながり、聖ペトロの後継者のもとでの教会の成長は聖霊の働きの成果である、ということに疑問を投げかけるものだ。

  「異議」は今に始まったものではない。半世紀前に開かれた第二バチカン公会議の際に、公会議が示そうとする司牧方針に反対するグループが異議を唱えた。公会議の成果となった典礼の刷新や信教の自由、教会一致促進などについても同様だった。

  その一方で、彼らは、ヨハネ・パウロ二世教皇のもとで、彼が公会議に背く判断をするのを受け入れていた。女性の司祭叙階、司祭の独身義務の廃止、避妊など新たな領域の問題に取り組むことに反対した。

 そして今、教皇フランシスコのもとで、(世界における多様な「家庭」の現状と教会の対応を協議するため2014年、2015年の二度にわたって開かれた)シノドス(全世界司教会議)とその成果をもとにした「愛の喜び」に反対している。異論を唱える人々がほとんどいつも最後には互いを見たり、思ったりして終わるが、4人の枢機卿とその支持者たちは日々、ヨハネ・パウロ二世とベネディクト16世の統治下で進歩的な改革を主張した〝院外団〟に似てきている。

 彼らは、教皇に反対することが重大な問題であることを知っている。だから、4人の枢機卿たちが異議を唱えた時、支持者たちは、良心と絶対的であるとするいかなるもの‐‐変わらない伝統についての思い、あるいは第二バチカン公会議についての彼らなりの解釈―を裏切れない、という圧力を受け、悲しみと痛みを抱いたのだった。

 支持者たちに共通しているのは、ほとんどが一般信徒で、教育を受けた、富裕国か途上国の富裕層に属する人々だということだ。大部分が知識人で道理にかなったことを重んじる法律家、教育者、文筆家である。彼らにとって完全に自明と思われること―若干名の名誉司教たちに支持された、疑問の余地なく最優先されるべき諸原則のもとに論理的に展開される主張、回答を強く求めて叫びをあげるまでになるような―は、ほとんど常に、ローマからの沈黙に出会う。

 その時点で、彼らは怒り、我を失い、憤りに凝り固まった。中には、真の教会は他にある、あるいはどこにもない、と言って、カトリック教会と決別する者も出るだろうが、大部分の者は「指先で信仰にしがみついている」とか、「まだカトリック信者であり続けている―私を追い出そうと教皇は全力を挙げるだろうが」 と言うように、憤りながら教会にとどまる。背信の痛みを感じながら、進歩的な、あるいは伝統的な典礼と真正なウエブサイトに身を寄せ、院外団と同志の集まりの中から、書簡や反対の請願を発出し、教皇がこれをする、あれをするということに「忠実なカトリック教徒」として、無益な要求をする。しかし、彼らが、議論の場を持つべきであり、回答すべき問題があり、解決すべき課題があると言い張っても、列車は駅を出ており、彼らはプラットホームに残されて、手を振っているのだ。

 第二バチカン公会議は司牧に改革の道を開いた。ヨハネ・パウロ2世は連続性の解釈学に基づいて公会議を理解することで教会を一致させた。公会議の方針と彼の対応のいずれに対しても強い抵抗があったが、大半のカトリック信者はその動きを、聖ペトロが教会のために活動したように、時のしるしに対する教理的に忠実な対応として、筋の通ったものとして認めた。

 今もそれは真実である。大半のカトリック信者は、過去二回のシノドスとその成果である教皇フランシスコの使徒的勧告「愛の喜び」を、我々の時代に合った、聖霊に導かれた対応―結婚を作り直し、結婚の失敗によって傷ついた人々を癒す手立て―として受け取っているのだ。それが、なぜ、フランシスコが、前任者ベネディクト16世が女性を助祭に叙階するようにとの陳情に対して答えたようには、4人の枢機卿たちの異議に答えなかった理由である。なぜならは、カトリック教会は、協議と霊的な識別に基ずいて物事を進めるという固有のメカニズムをもっている(注・教皇はそれを踏まえて行動している)からだ。

 別の言い方をすれば、それがコンクラーベ(教皇選出のための枢機卿会議)であろうとシノドス(全世界司教会議)であろうと、カトリック教会は、聖霊が働けるように、様々な意見を述べる〝院外活動〟を保証している。

 「第二バチカン公会議以来このかた、教会の識別の過程を通して聖霊の働きが存在している」という真実を傷つけることなくして、フランシスコは4人の枢機卿たちに直接答えることができない―遠回しには数知れないほど答えてきたが。教皇が先週、ベルギーのキリスト教週刊誌に語ったように、「愛の喜び」で示した内容はどれも、議論を呼んでいる第8章も含めて、極めて率直で開かれた議論のうえで結果を出したシノドスで、出席者の3分の2の賛同を得ているのだ。カトリック信者がよく使う格言に、 Roma locuta, causa finita(ローマが語り、訴訟は終わった)がある。そして、〝訴訟〟は今回、さらにそれ以上に終わりを告げている。なぜならば、語ったのが教皇一人ではなく、全世界の教会だからだ。

 4人の枢機卿の異議に応えるのは、シノドスで決着した問題を蒸し返すために、時計の針を元に戻したり、シノドスの議論の過程を否認したりするのと同じくらい好ましくないことである。シノドスで何があったか振り返ってみよう。二年間に二回開かれたシノドスでの議論の初めにあたって、離婚・再婚者に対して聖体拝領を認めるか否かの問題について解決を望む二つのグループがあった。一つのグループは、その秘跡を受けるための正当な道を開くことを希望し、もう一つのグループは、ヨハネ・パウロ2世が1980年に出した使徒的勧告「現代世界における家庭の役割」にある(一度結婚した二人が兄弟姉妹として共に暮らすことを約束しない限り、秘跡を受けることは認めないという)教えと指針を再確認することを希望した。

  4人の枢機卿がフランシスコに対してとったのとちょうど同じ、この課題にイエスかノーの判断を求める意見に対して、シノドスはそれを拒否した。シノドスは、ヨハネ・パウロ2世の「家庭の役割」の一般的な諸原則を確認したが、離婚・再婚者たちが置かれた状況をもとにした判断についてのヨハネ・パウロ2世の教えをさらに推し進める一方、すべてのケースに秘跡の回復禁止を適用することを否定した。シノドスは、3分の2の多数で、秘跡についての定めにある婚姻非解消の原則を維持することを期待する一方で、非難に足ることがない状況に対しては司祭の判断にゆだねるように、教会法を適用する場合の十分な司牧上の自由裁量を認めることを判断した。

 その状況とはどのようなものか。教皇フランシスコの使徒的勧告「愛の喜び」では、その内容に具体的に踏み込んでいない。それが、4人の枢機卿とその支持者たちが「この勧告の文章は曖昧で、混乱を招く」と異議を唱えるすきを与えた。だが、どうすれば、詭弁の手引き書にならないような、具体的な文章が作れるのだろう?

 要は、新たな法律がない、新たな教理がない、新たな規範がない、ということだが、シノドスがそのように判断したから、そうなったのだ。クリストフ・シェーンボルン枢機卿が言うように、「あらゆるケースに適用できるような一般的な規範は存在しない」。彼はさらにこう付け加えている。「一般的な規範は、とても明確であると同時に、すべてのケースに余すところなく適用することができないのだ」。それが問題の核心だ。

 シノドスは神の教えを守った。どのようにしたら、そうしないようにできたろうか?それはイエス・キリストの定めた掟―だが、キリストがしたように、適用する際の個々の裁量が確保され、掟は必要だが、十分ではなく、人それぞれの事情を尊重して適用することが認められている。使徒的勧告「愛の喜び」は、シノドスの決着の中身を取り入れ、全教会に、このような識別の仕方を認める付則のメカニズムを策定するように求め、このように述べている。「個々のカップルが経験したこれまでの足取りに耳を傾け、どこに罪が障害や傷を生んだのか、どこに神の慈しみが必要なのかを見届けましょう」。

 そのようにすることで、何が起きるのだろうか?二人の関係が終わり、合法的な結婚に回帰するかも知れない。結婚が無効となるかも知れない。ある場合には、小教区に再び迎え入れられるが、秘跡を受けることは認められないかも知れない。またある場合には、兄弟姉妹として暮らすことが求められ、そうすることで秘跡をまた受けられるようになるかも知れない。そして、稀なケースとして、本人に過失がないことが疑いないとして、秘跡を受けることが認められるようになることもありうる。

たとえば、結婚を無効とすることができない、以前のような結婚生活ができない、新たな夫婦関係のもとで子供が出来た、自身の判断で回心してあらたな状況が生まれた、「不倫」の認識が現実味を欠いている、などのケースだ。(トーマス・リーズ神父は、ヨハネ・パウロ2世は「家庭の役割」でそのような区別を念頭に置いていたことを示唆している。)

最近、筆者がインタビューした南米のある司教は、教皇フランシスコの使徒的勧告「愛の喜び」でこの問題を扱った第8章について聞いたところ、「私はそれについて話すことができない。個々のケースが異なるからです」と語った。新たな本を執筆するために会った別の司教たち、枢機卿たちが明らかにした見解は、「愛の喜び」が求めていることは現場の司祭だけが理解できる、ということだった。

個々人の人生における罪と美徳の業の複雑さを理解する者だけが、逆説を理解する。あらゆる状況の下で規範を同じように、平等に適用するように主張することは、神が最上位に置く慈しみの掟-個々人を掟よりも前に置くこと-に逆らうことだ。

 4人の枢機卿は、そのような逆説を排除するように用心深く組み立てた2つの問いかけで、シノドスのこの問題についての決着を拒否し、そうする中で、聖霊の働きの有効性を否定したのだ。彼らは、報道の自由の論理と結婚についての教会の教えを擁護するために、2回開かれたうちの最初のシノドスに押し掛けたヒステリックな集団に回帰しようとしている。だが、シノドスは司牧神学の古い伝統を支持する論理を拒否した。4人に対して-そのうちの3人は2回のシノドスに先立って書物を出版し、「何も変えるべきではない」と主張していた。(4人のうち、バーク枢機卿は、結婚の無効手続きのいかなる改定も結婚を損なうという理由から拒否する、と主張して、バチカンの最高裁判所長官の職を解かれている。)そして、彼らはこれからもこれまでの姿勢を取り続けるだろう。そしてまた、一般信徒の中のエリート知識人やジャーナリストと言われる人々も、「結婚解消を禁じるカトリック教会の教えの体系は一つの帰結として取り払われることはない」と書き立て、「使徒的勧告『愛の喜び』が言明していることは実際に口に出せない」という念の入った批判をしていくだろう。

  堅固な客観的実在を求めて英国国教会の教義上の泥沼から抜け出し、光を多色に分けるプリズムを通してシノドスを見た若い改宗者にとって、これは容易なことではない。離婚とネットワーク文化に対して結婚制度の擁護に懸命になり、結婚が破たんした人々の痛みを、自分が幸せ過ぎて見過ごすような古強者の文化人にとっても、同じことが言える。そして、教皇フランシスコが「法律博士」と呼ぶ、相対主義の世界に圧倒され、あるいは汚染されることを恐れ、罪がとても重大と考え注意がそれだけに向けられる人々も、受け入れるのが容易ではない。彼らは、「愛の喜び」が、ヨハネ・パウロ2世の回勅「真理の輝き―道徳的諸問題について」で示した客観的真理の確認を損なうのではないか、と疑っている。(損なってはいないが、「真理の擁護」から「魂への神の愛の働き」に焦点を移しているのは、確かだ)。

 多くの人は善人で賢く、信仰にあふれたカトリック信者だ。彼らは教会を守り、「善」と「真」を推進することを望んでいる。中には友もいる。彼らの友として、私は言わなければならない。「あなた方は不安と恐れの中で、識別による聖霊に満たされた手順を踏むことを拒み、異議を唱える道に落ち込む誘惑を受けているのだ」と。(彼らは、「シノドスは〝操作〟され、〝反対が抑圧〟された。だから、政治的な会議に過ぎない」と批判する。だが、それは批判とは言えない。異論を唱える人々が互いに言い合うのに必要な作り話だ。)それよりも、もっと重要なのことを、友に警告したい。「列車は駅を離れ、教会は進み続けている。このままでは、あなた方は、ヨハネ・パウロ2世の時代の『裏切られた進歩』と同じ結末を迎え、あなた方を福音の哀れな使者にするような怒りに固まってしまうだろう」。

 ちょうど先週、バチカンの聖職者省が世界の神学校の在り方についての包括的な文書を発表した。将来の司祭は、「愛の喜び」で育てられ、「あらゆる状況のもとで、例えどんなに困難な問題に出会っても、澄んだ心を開き、思いやりをもって寄り添い、律法に凝り固まったり、厳格さに取りつかれることなく、福音の美しさと願いを表し」ながら、人々と共に歩むことを学ぶことになるだろう。ずっと後になって、4人の枢機卿たちの異論表明は教皇座の歴史の脚注に書かれる以上のものではなくなり、ニューヨークタイムスのコラムでロス・ドーサットが予見したカトリック教会の分裂は実現しないで終わる。次の世代の司祭たちは「愛の喜び」の教えを実践に適用し、緊張をもたらす異論のやかましい、怒りの声は遠い記憶のなかに消えていくだろう。

 フランシスコは、とくに赤い帽子をかぶった4人組が異論を表明するのを予想し、実際にそれを受けて悲しんだ。だが、危機を感じたり、衝撃を受けたりはしなかった。教皇と親交のあるアントニオ・スパドロ師によれば、教皇は彼らの異論は聖霊に満たされた取り組みの外で起きた事、と受け止めている。教皇は、異論を唱えた人々が塹壕を掘り、その多くが、渋い顔をして、そこに閉じこもることを知っている。そして、彼ら以外の信者たちが結婚と家庭のための新たな司牧の戦略を作り上げることもだ。だが、教皇はまた、それは彼ら自らの選択であり、異論を唱えた人々がどちらを選ぶかを知っている。そして、聖霊の業に忠実であるために、自分自身の選択が4人の枢機卿を無視して、前進することだ、ということを、教皇は知っているのだ。(翻訳・南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」(欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。最近、映画化され、日本でも全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、ご紹介しています。

 

 

 

 

 

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2016年12月31日