・第二バチカン公会議55周年-まかれた種は木となり、花を咲かせ…

(「天の国は、からし種に似ている…どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作る…」(マタイ福音書13章31,32節)=南條俊二撮影)

(2020.7.2 VaticanNews  Sergio Centofanti=バチカン広報局副局長)

 「偉大な恵み」「教会生活のための真の預言」「新たな聖霊降臨」…これらは、教皇ヨハネ・パウロ2世と教皇ベネディクト16世が、第二バチカン公会議に対して用いた表現の一部だ。

 公会議でまかれた種が木になり、聖霊の働きを通して、実を結び続けている… 今年の12月8日、第二バチカン公会議の閉幕55周年を迎える。教会共同体において今、新たな議論が起きており、そのいくつかは公会議の成果から離れ、あるいは、その成果の重要性を低めようとしているーつまり、改めて第二バチカン公会議とその成果について改めて振り返る重大な時期を迎えているのだ。

 

*新たな聖霊降臨

 第二バチカン公会議について、教皇フランシスコは「新たな聖霊降臨」というインパクトのある表現をしている。

 教皇は、この公会議に、ヨゼフ・フリングス枢機卿を補佐する専門家、そして神学専門家として参加した”生き証人”。その教皇が2013年2月のローマの司祭たちとの集まりで、当時を振り返り、 「すべてが新たにされ、新たな聖霊降臨、教会の新たな時代の到来を、私たちは望んでいました」と述べられた。

 続けて、「(注:第二バチカン公会議に出席した人々の間には)教会の当時の姿について、前に進んでいない、との思いがありました。教会は衰退しており、未来の先駆けというよりも、過去の遺物のように思われました」としたうえで、「公会議で、このような姿が改められ変わることを、教会が再び、明日のための力、今日のための力になることを希望していました」と語られた。

 さらに教皇は、2012年10月10日の一般謁見で聖ヨハネ・パウロ二世が語った言葉を引用し、第二バチカン公会議を「20世紀に教会に授けられた偉大な賜物」と定義した。この公会議に「始まった新たな世紀において、私たちの進むべき方向を知る羅針盤を見出します(ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡Novo millennio ineunte,(新千年期の初めに=2001年1月6日発出)57項参照)」と。そして、言明されたー「公会議の『真の原動力』は聖霊。『新たな教会』ではなく『教会の新たな時代』を創るための、『新たな聖霊降臨』と言えるのです」。

*前教皇が語る二つの解釈学-「断裂」と「継続の中の刷新」

 公会議が明確に示したのは、世代から次の世代へと伝えられてきた教義の真の発展は、聖霊に導かれ、共に歩む人々によって実現されるということだった。 それは、2005年12月22日の前教皇ベネディクト16世の教皇庁職員に対する講演の核心になっている。

 講演で前教皇は、二つの解釈学ー「断裂の解釈学」と「継続の中の刷新の解釈学」ーについて語られた。に 前教皇はまず、「適正な解釈」とは、教会を「時とともに向上し、発展するが、常に同じであり続ける主体、旅する神の民の一つの主体」と見なすこと、としたうえで、「忠誠とダイナミズムの統合」について語り、「忠誠は動きにあり、静止してはいない。同じ道に沿って進む旅。芽を出し、木に育ち、枝を広げ、花を咲かせ、実をつけるようになる種。生きている植物のように一方で枝を伸ばし、もう一方で切られることのない根を張る…」と。

 

*カトリック教会の歴史における継続と非継続

 だが、カトリック教会には過去にいくつかの劇的な変化が起きている。「継続における刷新」について、どうやって説得力のある説明ができるだろうか。

 使徒ペトロを例にとって説明できるだろうーペトロが初めて異邦人たちに洗礼を授けた時、聖霊の賜物が彼らに注がれたが、それに先立って、彼は一緒にいたユダヤ人の信者たちに「神は人を分け隔てなさらない… どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(使徒言行録10章34-35節)と語った。彼らは(注:割礼を受けていない異邦人に洗礼を授けた)ペトロを非難したが、彼の言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を崇めた…(使徒言行録11章18節)。

 私たちに何をすべきかを示され、私たちを動かし、私たちを前に進めるのは、聖霊だ。 2000年の歴史で、教会には多くの解釈の変化があったー洗礼を受けていない人々の救済に関する教義、心理の名の下に振るわれる暴力、女性と一般信徒に関する問題、信仰と科学の関係、聖書の解釈、カトリック以外のキリスト教徒、ユダヤ教徒、そして他宗教の信徒との関係、信教の自由、公民の領域と宗教者の領域の区別、などだ。

 ベネディクト16世は先の講演で、このことについて言及し、特定の問題について「事実上の非継続が明らかになっている」と述べた。たとえば、一定の継続性を証明する哲学的、神学的、あるいは歴史的な文脈をもとにした説明を考慮せずに言えば、ある時点、でカトリック信者でない人々に信教の自由は許されず、後になって許された。だから、実際には(注:「継続」とは)非常に異なる対応があったのだ。

*公会議が取り戻した教会の歴史的財産

 ベネディクト16世は語っているー「私たちは、以前よりも実際的に理解することを学ぶ必要」があり、それには「寛容な心」が求められ、「認識することを学ぶ必要があった」。…聖霊降臨の後でさえ、なお新しいことを学ばねばならなかったペトロのように、「本当に私は気づきます」… 私たちは自分のポケットに真実を持たず、物としての真実を”所有”していない。むしろ「真実に属している」と言っていい。それ以上に、キリスト教の真実は”概念”ではなく、語り続けられる”生ける神”なのだ。

 また、信教の自由に関する公会議の宣言に言及して、ベネディクト16世は次のように述べている-「第二バチカン公会議は、宗教の自由に関する宣言をもって、近代国家に不可欠な原則を認識し、手中にすることで、教会の最も根底にある歴史的財産を取り戻しました。そうすることで、教会は、いつの時代も、イエスご自身の教え、そして”殉教者の教会”と完全に一致していることを認識するのです」。

 さらに、「第二バチカン公会議…は、いくつかの歴史的決定を見直し、あるいは修正さえしましたが、この明らかな非継続の中で、教会の最も本質的な性質と真の独自性を守り、深めました。教会は、公会議の前も後も同じ教会、唯一の、聖なる、普遍的で使徒的な、旅する教会です」と前教皇は付け加えた。

*霊的な継続性

 こうして、継続性は単に論理的、合理的、あるいは歴史的な視点から語られるものでないことを、もっとよく知ることができる。ずっとよく、である。それは唯一の神の民が、聖霊の導きに従って、共に歩むという、「霊的な継続性」だ。

 「断裂の解釈学」は、破裂の解釈学は、教会共同体から離れ、急に止まったり、先に進み過ぎたりして結束を破る人々によって支持されている。前教皇は二つの極論について、2012年10月の「信仰の年」の初めに当たってのミサの説教で、「時代錯誤の懐古趣味」と「先走り過ぎ」という言葉で表現している。このような人々はダイナミックな忠誠を求める聖霊に耳を傾けず、自分自身の考えに従い、古いものに、あるいは新しいものに、ひたすらしがみつき、天の国の使徒たちがするような、新旧の合わせ方も知ることがない。

 

*教皇フランシスコの新しさ

 偉大な教皇たちの後に、教皇フランシスコが”現場”に着いた。彼は前任者たちの足跡をたどっている。それは”成長する種子”。教会は前に進む。

 前任者のベネディクト16世始め多くのペトロの後継者が体験したように、彼についても多くの歪曲され、あるいは嘘のニュースが流された。だが、教義と教会の掟、秘跡、命を守ることと家族、教育に関する原則ーこれらのどれも変わることがない。神学的で枢要な徳目も、あるいは七つの大罪も変わらない。

 教皇フランシスコの継続性の新しさをよりよく理解し、歪曲や虚偽を乗り越えるためには、彼が出した使徒的勧告「Evangelii gaudium(福音の喜び)」を読む必要がある。

 勧告は次のように始まるー「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの差し出す救いを受け入れる人は、罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです。喜びは、常にイエス・キリストとともに生み出され、新たにされます」。一番最初に来るのは、私たちの救い主、イエスと出会う喜びなのだ。

 

*親密さと愛情のこもった”歓迎”のスタイル

   教皇フランシスコは、私たちに、「福音が本来持っている新鮮さを取り戻し、それをすべての人に伝えること」を勧めておられる。本質的なもの-神と隣人の愛-に集中し、「数多くの教義をばらばらに伝えることに憑りつかれた」ような信仰宣言のやり方を避けるように、私たちに願われる。そして、「この基本的な核心で、輝き出るのは、亡くなられ、死者の中から蘇られたイエス・キリストにおいて宣明された神の救いの愛の素晴らしさ、なのです」と語られる。

 そして、この第一の宣言を「何回も繰り返す」ことを求められるー「イエス・キリストはあなたを愛しておられます。あなたを救うために命を捧げられました。そして今、彼はあなたの傍にいて、あなたを教え導き、力づけ、自由にしてくださいます」。

 また、私たちの行動様式として、「親近感、対話への用意、忍耐、温かさ、そして偏向した判断をしない歓迎の態度」を求められる。フランシスコが重視するのは、「他の人の聖域の前でサンダルを脱ぐように教える「共に歩むためのコツ」であり、「キリスト教徒の人生で癒し、自由にし、成長を促す、思いやりの眼差し」をもって、他の人々を見ることだ。

*聖体拝領は”完璧な人への報酬”ではない、”弱い人への栄養剤”だ

 教皇フランシスコはまた、開かれた教会を望んでおられるー「いかなる理由でも秘跡の扉を閉じるべきではありません」。そして、聖体拝領は「秘跡を満たすものではありますが、完璧な人への報酬”ではありません。”弱い人への強力な薬、栄養剤”です」。こうした確信は、忍耐と大胆さをもって考えることが私たちに求められる、という司牧的な結論だ。

 「私たちはしばしば、その賜物の世話役ではなく、裁定者として行動するが、教会は高速道路の料金所ではない。教会は父の家であり、どの人、問題を抱えている人にも場所が用意されているのです」。それで、使徒的勧告「Amoris laetitia (家庭における愛の喜び)」では、識別の手法をとるように、違法な状態で暮らす人々に秘跡への参加を、ケースバーケースで考えるように提示している。それは、人間の救済とイエスの慈悲を願うことで、人々を仲間に入れ、共に歩むための第一歩だ。

 道徳的に許されない不貞行為をした女性に起きるように、規範は冷酷非情なものになることがある。現代の問題の中には、2000年前のユダヤで律法学者とファリサイ派の人々がイエスに問いかけた言葉を思い起こさせるものがあるー「先生、この女は姦淫をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(ヨハネ福音書8章4-5節)。イエスがどう答えたか、私たちは皆、知っている。

 

*聖ヨハネ・パウロ二世教皇「公会議は実を結ぶ」

 教皇フランシスコは打にバチカン公会議の道をたどり続ける以上のことはしていない。聖霊が語り続けるから、霊的な継続性が保たれているのだ。

 「(注:第二バチカン公会議を招集された)ヨハネ23世が植えられた”小さな種”は…は成長して、今や主のブドウ畑に、威厳のある強大な枝を広げる樹木となりました」と聖ヨハネ・パウロ2世は2000年2月に語っている。

 「そして、すでの多くの実がなっており、今後、何年かの間にさらに多くの実がなるでしょう。新たな季節が私たちの前に始まっています… 第二バチカン公会議は、教会の活動のための本当に預言的なメッセージとなりました。今始まったばかりの第三の千年期に、何年も続くことでしょう」。

 

*聖ヨハネ23世教皇「教会は慈しみの香油を好む」

 それは今日も昨日と同じだ。 1962年10月11日に第二バチカン公会議を招集した聖ヨハネ23世教皇は、このように語られている。

 「私たちを妨げる特定の意見を耳にすることが時々あります。それは、賞賛すべき信仰への熱意によって火を付けられたにもかかわらず、出来事を評価する際に十分な慎重さと判断を欠いている人々が表明する意見です。彼らは、世界で今起きていることに苦難と災害しか見ることができません。私たちがいる現代は、過去の時代と比べて決定的に悪くなっている、と繰り返し言います」

 「人が彼らの態度をみれば『歴史-人生の偉大な教師-は彼らに何も教えていない』と思うでしょう。彼らは、以前の公会議の時には、教義、道徳、そして教会の正当な自由に関する限り、すべてそうであった、と想像しているように見えます。このような終末の預言者たち-いつも、さらに酷い災害の発生を予想し、世の終わりがすぐに来るかのように言う人々-に同意せねばならないかのように、私たちは感じてしまいます」。

 そして、教義的ないくつもの誤りについて、こう指摘されているー「教会はいつも、このような誤りに反対し、あらん限りの厳しさで非難することもしばしばでした。しかし今日、キリストの花嫁である教会は、厳しさの力よりも慈しみの香油を好みます。現代に必要とされていることは、あからさまに非難するよりも、教義の主旨をもっと十分に説明することで、最もよく達成される、と信じているのです」。

*聖パウロ六世教皇「教会のために」

 第二バチカン公会議が閉幕した1965年12月8日、聖パウロ6世は、全世界に向けて、このように確信を持って語られた。

 「カトリック教会にとって、誰もよそ者でなく、排除されず、はるか遠くの存在ではありません… 私たちの世界中に向けて挨拶は、あなた方-私たちを知らない方々、私たちを理解していない方々、私たちを便利な、必要な、あるいは友好的な存在と見なさない方々-のところに届きます。また、おそらく自分は良いことをしていると思っているが、私たちと反対の立場を取っている方々にも、届きます。偽りがなく、控えめだが、希望に満ちた挨拶、そして信じてください-この挨拶は、尊敬と愛に満ちているのです。ご覧ください。これが私たちの挨拶です」

 「この挨拶が、私たちの心の中の神の慈しみの新たな火花、公会議がまとめ、慈しみによって刺激を受けた原則、教義、提案を燃え立たせる火花、となりますように、教会と世界に、思想、活動、行動、道徳的な力の刷新、そして希望と喜びを、生みますように-それが、この公会議のまさに目指したことだったのです」。

*困難な現代に必要な「善い言葉」

 現在、カトリック教会が紛争や分裂の影響を特に受けている中で、聖パウロの当時のキリスト教共同体への勧告を思い起こすことは有益だ。

 パウロはガラティアの信徒たちに「律法全体が『隣人を自分のように愛しなさい』という一句において全うされている」と述べ、「私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」と言明した(ガラテヤの信徒への手紙5章14-16節)。

 さらに、エフェソの信徒たちは、こう述べている。

 「悪い言葉を一切、口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。神の聖霊を悲しませてはなりません… 恨み、憤り、怒り、わめき、冒瀆はすべて、一切の悪意と共に捨て去りなさい。互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに許し合いなさい」(エフェソの信徒への手紙4章29-32節)。

 私たちが、言い逃れをせず、この言葉を実践しようとしたら、何が起こるだろうか?

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=文中の聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

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 【第二バチカン公会議】

 公会議は、全世界の司教が教会の最高指導者として集まり、信仰とキリスト教っ生活について規範となる議決をするカトリック教会の最高会議。教皇が召集、主宰し、会議の決定を承認する形をとる。第1回は325年のニカイア公会議で、第二バチカン公会議は21回目。20世紀に開かれた最初で最後の公会議。

 「現代世界に開かれた教会」を切望する聖ヨハネ23世教皇によって1962年10月11日に招集され、途中で後を継いだ聖パウロ6世によって会議が続けられた後、1965年12月8日に閉幕した。典礼憲章、教会憲章、現代世界憲章など16の文書を制定し、その後の教会の方向を定めた。

 だが、会議参加者の多くが世を去り、現在の世界の教会関係者、信徒、司祭、さらには司教の間にもその記憶が薄らぐ中で、公会議以前の教会を懐かしむ”抵抗勢力”も増え、改めて第二バチカン公会議の精神と制定された憲章など文書を学びなおし、現代の教会に適用する努力が求められている。(「カトリック・あい」)

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2020年7月6日