(2025.5.5 Crux editor John L. Allen Jr.)

ローマ発 – 多くの枢機卿が互いに知らない者同士であるコンクラーベでは、おそらく親しみやすさが重視されるだろう。ある人物がよく知られ、立場が確立されていればいるほど、他の枢機卿たちがその人物を有力な候補者とみなす確率が高くなる。
その基準に照らしてみると、マルコム・ランジス枢機卿は、ただ単にその場に居合わせたというだけで、潜在的な候補者と見なされるだろう。彼は15年間、枢機卿であり、それ以前はバチカンの役人であり、12年前の教皇フランシスコを選出したコンクラーベの直前には教皇候補として注目されていた。
アルバート・マルコム・ランジット・パタベンディゲ・ドンという正式名を持つ彼は、1947年、スリランカの小さな町ポルガハウェラで14人兄弟の長男として生まれた。2006年のインタビューの中で彼は、自分の召命は、自分の小教区で奉仕していた無原罪マリア修道会のフランス人宣教師の模範によってかき立てられた、と語っている。
教皇庁立ウルバノ大学で神学の学士号を取得した後、1978年に権威ある教皇庁立聖書学院で「ヘブライ人への手紙」を中心とした論文で免許状を取得した。後に枢機卿となるカルロ・マリア・マルティーニとアルベルト・ヴァンホイ両師(いずれもイエズス会士)に師事。エルサレムのヘブライ大学でも博士号を取得した。
1991年、ランジスは43歳の若さでコロンボの補助司教となった。1994年、若い司教であったランジスは、スリランカの神学者ティッサ・バラスリヤの神学的研究を非難する委員会を率い、彼が原罪とキリストの神性に疑問を呈し、女性が聖職に就くことを支持したことを非難した。そして、当時のヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世)と接触し、支持を得た。
ランジスは1995年1月のヨハネ・パウロ二世のスリランカ訪問をコーディネートし、その9か月後にはラトナプラの初代司教に任命されたことから、その功績を推し量ることができる。
また、ランジスは宗教間対話を推進してきた。(スリランカでは仏教が支配的な宗教だが、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒も多く、キリスト教徒は人口2,000万人のおよそ7%を占めている)。
2001年、バチカンの福音宣教省で働いた後、2004年、インドネシアと東ティモールの教皇大使として派遣され、スリランカ人として初めて教皇大使を務めた。バチカンの外交団出身でもないため、異例の人事だったが、福音宣教省の上司など一部の高位聖職者から「保守的すぎる」と見なされていたことから、「追放」されたのではないかとの見方もあった。だが、9か月後、新教皇となったべネディクト16世がバチカンに呼び戻し、典礼秘跡省のナンバー2に就けた。
その後4年間、彼は典礼の進歩派にとって厄介者のような存在となった。彼は、ミサ中に手で聖体を受けることについて、「第二バチカン公会議(1962-65年)では想定されておらず、一部の国で違法に導入された後に広まった」と批判。2007年、ベネディクト16世が旧ラテン語ミサの広範な祭儀を許可した際、それを実施するために迅速に対応しなかった司教たちを公然と非難し、「教皇への不服従….さらには反逆」だ」と非難した。
彼はバチカンでは、 「il piccolo Ratzinger(小さなラッツィンガー)」と呼ばれた。その理由は、彼の背の低さと、法王に選出される前と後のラッツィンガーの立場との親密さである。
4年後、彼はバチカンを離れ、コロンボの大司教となった。これは、彼が「教会の伝統主義派に近すぎる」という理由で、”2度目の追放”になったという見方もあったが、「ベネディクト16世は、教区長として司牧の経験を積ませ、アジア全域で自分の指南役となることを意図し、正真正銘の昇進だ」と主張する者もいた。彼は時間を無駄にしなかった。着任して4か月後、コロンボ大司教区で新しい典礼規則を発布し、「聖体は、舌の上とひざまずいた姿勢で受けること」を信徒に義務づけ、信徒が説教することを禁じ、司祭がカトリックの礼拝に他宗教の習慣を持ち込むことを禁止した。
それ以来、ランジスは教義や性道徳に関しては厳格な保守派の立場を明確にする一方、カトリックの社会教説の平和と正義の要素も受け入れている。
「典礼への愛と貧しい人々への愛は、私の人生の羅針盤でした」と彼は語った。かつて、「自分は信奉者ではないが、経済グローバリゼーションの新自由主義モデルに抗議する”ノー・グローバル”運動の価値観の一部を共有している」と述べたことがある。
2015年、彼は教皇フランシスコのスリランカ訪問を成功させたが、それはスリランカの深刻な経済危機と政治的不安定を背景にしたものだった。2019年の復活祭の日曜日に起きた一連のテロ攻撃で命を落とした約300人の生存者や遺族を含め、暴力や迫害の犠牲者のために強い声を上げてきた。2022年に深刻な財政・制度危機が発生する中、彼は当時のゴタバヤ・ラジャパクサ大統領に辞任と新たな選挙の実施を要求し、まさにそれが実現した。
*ランジスを教皇に推す理由は何か?
最も基本的なことだが、彼は発展途上国全体のカトリックの理念を体現している。 貧困、気候変動、移民といった社会正義の問題には強く、その面で「進歩的」だ。だが、教義上の問題や性的道徳の問題には断固として「保守的」だ。その意味で、彼は、世界の3分の2を代表する人物と見なされるだろう。この 「3分の2 」は、最近では、世界のカトリック人口13億人のほぼ4分の3を占めている。
彼はバチカンでの経験が豊富なので、全くの初心者のような”実地訓練”は必要ないだろう。次期教皇は、とりわけバチカンの悲惨な財政状況に対処できる、強力な総裁でなければならない、と誰もが考えていることを考えれば、これは真の財産だ。
従来のハンディキャップのカテゴリーでは、彼は見事にパスしている。ひとつには、彼は10か国語に堪能だと言われており、明らかに世界的な機関を率いるための言語的な能力を備えている。77歳という年齢も、過去2人のローマ法王の平均年齢(選出時、それぞれ78歳と76歳)にぴったり当てはまる。
*不利な点は?
最も基本的なことだが、彼のスタンスは、一部の選挙民の快適なレベルに対して「右に寄り過ぎている」と見なされる可能性がある。さらに、「古いラテン語のミサを復活させる可能性がある」ということは、教皇フランシスコの遺産を直接否定することになりかねない。
また、彼がバチカンから2度も”追放”されたことを心配する者がいるかもしれない。実際の動機がどうであれ、その歴史は、多くの人々が多様な陣営をまとめ、教会内部の緊張を調停できる教皇を求めている時に、彼が”羽目を外した実績“があることを一部の枢機卿は否定的に受け取るかもしれない。
最後に、ランジスの時代は過ぎ去っており、12年前に”一矢報いた人物”をであり、今再び教皇として検討することは、前進というより、むしろ後退を意味する、という感覚が一部には根強くあるのかもしれない。その評価がどのようなものであれ、2013年にアルゼンチンのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿にも同じようなことが言われ、その結果どうなったかは周知の通りだ。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)