
・・・・・・・・・・
Q: この新しい使徒的勧告の主要テーマは?
A: 副題が示す通り、主要テーマは「貧しい人々への愛」です。しかし単に愛するだけでなく、どのように愛し、彼らと共に働くかが問われています。彼らと共に福音を読み解くとは?彼らのための社会ではなく、彼らと共に社会を築くとは?貧しい人々が教会の中心的存在であることをいかに明確にするか?
Q:これらは故フランシスコ教皇が特に重視したテーマであり、この新たな勧告は教皇レオと共同で執筆された共働の成果だ。この文書で、フランシスコ教皇の教導権を継承している部分と、新たな要素は何でしょうか?
A: この使徒的勧告の文中のどこがフランシスコ教皇によるものかレオ教皇によるものかを特定するのは非常に難しい。ほぼ不可能だと言えます。この文書の大いなる長所は、非常に一貫していることです。二人の教皇の間に大きな連続性がある。これはフランシスコの教皇職の最終的な文書ではなく、共同文書であり、私の見解では、レオの教皇職のためのプログラムでもあるのです。
Q:この文書の主な見どころは?
A:貧しい人々への献身に関する神学的分析が非常に重要だと思う。私たちは時に、こう考えます―「そうだ。教会に行き、イエスを敬い、ミサに参列し、善良な人間であるためには貧しい者を助ける必要がある」と。つまり、貧しい者への献身を「信仰の結果」と見なすのです。
レオ14世教皇はここで、「貧しい者への献身、貧しい者と共に生き、貧しい者のように生きることこそが、啓示を受け取る場所であり、福音を受け取る場所だ」と教えています。貧しい者との出会いを通してでなければ、それを成し遂げる場所は他にありません。私にとってこれは非常に、非常に重要です。私は、「キリスト教徒だから、貧しい者を気にかける」のではない。まず第一に貧しい者を気にかけ、それから啓示を受ける。そうして初めて真の神が誰であるかを知るのです。
Q:フランシスコ会士であるあなた自身、貧しさの誓いを立てておられる。誓約した、あるいは自ら選んだ貧しさとは、多くの人が自らの意思に反して日々苦しむ貧しさとは、どう違うのか?
A:若い修道士だった頃、非常に重要な経験をしました。ホームレスの人々と働くグループに参加し、「私は修道者です」と自己紹介した。その後、一人の男性が近づいてきて、「それが何を意味するのですか」と尋ねました。私が「貞潔、従順、貧しさの誓いを立てた者を意味します」と説明すると、彼は私の首筋をつかんで言ったのです。「貧しさについて説教するな。お前には何も分かっていない」と。
私にとってこれは非常に強い体験であり、今もなお、私の人生と神学研究の中で鮮明に生き続けています。私は貧しい人々と共に働くが、彼らの生活の実態は知らない。橋の下で眠ることの現実も、空腹の現実も知らない。本当に知らないのです。だから私は彼らの声に耳を傾けなければならない。彼らが自らの人生を、そして福音書をどう読んでいるかを私に説明できるように。私にとって『選ばれた』貧しさとは別のものです。それは力を持たない人々に、空っぽの手で近づく方法です。
Q:あなたは先ほど、「キリスト教徒はある意味で、貧しい者のように生きるよう召されている」と言われましたが、どういう意味でしょう、どうやって実践すればいいのでしょうか?
A:私にとってそれは一種の方向性であり、人生における「落ち着きのなさ」とも言えます。自分自身の関係や金銭などに閉じこもらないことを意味します。誰かが「壊れたガラスを、部屋に置いておくべきだ」と勧めました。「外で眠り、生きている人々がいることを忘れないためだ」と。この「落ち着きのなさ」を持って生きれば、人と出会い、共に歩み、導かれる機会を得られると思います。
貧しい人々に教えに行くこともできます。おそらく私たちは何かを教えることができる。福音を理解する手助けをすることなどです。同時に、「自分が全てを知っているわけではない」ことを自覚して、彼らのもとへ行く必要があります。私たちが知らないことを彼らに尋ねなければなりません。彼らが人生をどう見ているか、福音をどう捉えているかを説明してもらうのです。
Q:最後に、この使徒的勧告から人々が何を持ち帰ることを希望しますか?
A:「貧しい者を恐れるな。彼らは真の福音を与えてくれる」ということです。