・「貧しい人たちをどのように愛し、共に働くかが問われている」使徒的勧告『Dilexi te』でル・メトー師語る

Frédéric-Marie Le Méhauté, OFM, presents ‘Dilexi te’ in the Holy See Press Office on 9 October 2025.

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Q:この文書の主な見どころは?

A:貧しい人々への献身に関する神学的分析が非常に重要だと思う。私たちは時に、こう考えます―「そうだ。教会に行き、イエスを敬い、ミサに参列し、善良な人間であるためには貧しい者を助ける必要がある」と。つまり、貧しい者への献身を「信仰の結果」と見なすのです。

レオ14世教皇はここで、「貧しい者への献身、貧しい者と共に生き、貧しい者のように生きることこそが、啓示を受け取る場所であり、福音を受け取る場所だ」と教えています。貧しい者との出会いを通してでなければ、それを成し遂げる場所は他にありません。私にとってこれは非常に、非常に重要です。私は、「キリスト教徒だから、貧しい者を気にかける」のではない。まず第一に貧しい者を気にかけ、それから啓示を受ける。そうして初めて真の神が誰であるかを知るのです。

Q:フランシスコ会士であるあなた自身、貧しさの誓いを立てておられる。誓約した、あるいは自ら選んだ貧しさとは、多くの人が自らの意思に反して日々苦しむ貧しさとは、どう違うのか?

A:若い修道士だった頃、非常に重要な経験をしました。ホームレスの人々と働くグループに参加し、「私は修道者です」と自己紹介した。その後、一人の男性が近づいてきて、「それが何を意味するのですか」と尋ねました。私が「貞潔、従順、貧しさの誓いを立てた者を意味します」と説明すると、彼は私の首筋をつかんで言ったのです。「貧しさについて説教するな。お前には何も分かっていない」と。

私にとってこれは非常に強い体験であり、今もなお、私の人生と神学研究の中で鮮明に生き続けています。私は貧しい人々と共に働くが、彼らの生活の実態は知らない。橋の下で眠ることの現実も、空腹の現実も知らない。本当に知らないのです。だから私は彼らの声に耳を傾けなければならない。彼らが自らの人生を、そして福音書をどう読んでいるかを私に説明できるように。私にとって『選ばれた』貧しさとは別のものです。それは力を持たない人々に、空っぽの手で近づく方法です。

Q:あなたは先ほど、「キリスト教徒はある意味で、貧しい者のように生きるよう召されている」と言われましたが、どういう意味でしょう、どうやって実践すればいいのでしょうか?

A:私にとってそれは一種の方向性であり、人生における「落ち着きのなさ」とも言えます。自分自身の関係や金銭などに閉じこもらないことを意味します。誰かが「壊れたガラスを、部屋に置いておくべきだ」と勧めました。「外で眠り、生きている人々がいることを忘れないためだ」と。この「落ち着きのなさ」を持って生きれば、人と出会い、共に歩み、導かれる機会を得られると思います。

貧しい人々に教えに行くこともできます。おそらく私たちは何かを教えることができる。福音を理解する手助けをすることなどです。同時に、「自分が全てを知っているわけではない」ことを自覚して、彼らのもとへ行く必要があります。私たちが知らないことを彼らに尋ねなければなりません。彼らが人生をどう見ているか、福音をどう捉えているかを説明してもらうのです。

 

 

Q:最後に、この使徒的勧告から人々が何を持ち帰ることを希望しますか?

A:「貧しい者を恐れるな。彼らは真の福音を与えてくれる」ということです。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2025年10月10日