・「教会の未成年者の保護に関する会合」に耳を傾けながら…ーSr岡の「マリアの風」特別編

 要約ではなく、まったくランダムな覚書(引用部分はすべて試訳)として…

 信仰の武具、最大の率直さ、勇気、具体性の精神の武具を身に着けて…会合を導入した教皇フランシスコは、短く、明白だった。

 愛する兄弟たち!未成年者たちに損害を与える、教会の人間によって犯された性的虐待の傷の前に、わたしはあなた方、総主教、枢機卿、大司教、司教、修道会総長、責任者たちの意見を求めたいと思いました。わたしたちがみな、一緒になって、聖霊に耳を傾け、聖霊の導きへの従順さをもって正義を求める小さな人々の叫びを聞くために。わたしたちの集まりの上に、司牧的・教会的責任の重荷がかかっています。それはわたしたちに、この、教会と人類を深く苦しめる悪に、どのように立ち向かったらよいかを、共に(共同で)、誠実さ、徹底さをもって議論するよう求めています。

 パパは、「聖なる神の民」が求めているのは、「単なる予想された刑の宣告ではなく、準備すべき、具体的、効果的な対策である」ことを確認する。だから、「信仰の武具、最大のparresia(率直さ)、勇気、具体性の精神の武具を身に着けて」歩みを始めよう、と招く。そして、これらの日々、しばしば繰り返される祈りで結んでいる:

 聖霊に祈り求めます。これらの日々、わたしたちを支え、わたしたちが、この悪を、自覚(意識)の機会、浄化の機会と変えることができるよう、助けてくださるように。おとめマリアが、児童虐待のスキャンダルが、小さな人々、信徒たちにもたらした深刻な傷を癒すために、わたしたちを照らしてくださいますように。

 この会合の二日前、UISG(世界女子修道会総長会)と、USG(世界男子修道会総長会)が出した共同宣言は言っている:「未成年者の虐待は、どこにおいても、どの時代にも、悪である:この点で交渉(譲渡)の余地はない」。

 そして続ける:わたしたちは恥のために頭を下げよう。そのような虐待が、わたしたちの修道会の中に、わたしたちの教会の中に起こったことに気づいたとき。[…]わたしたちの恥は、さらにより大きい。なぜなら、わたしたちは何が起こっていたのかに気づかなかったから、そして、わたしたちの修道会において権威を持っていた人々が危険の警報を見分けず、または、それらを深刻に考えることが出来なかったから。

 

*会合の前に-2月19日:バチカン放送、イタリア語HP . アンドレア・トルニエッリ記者(『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙)

 会合の前に、アンドレア・トルニエッリAndrea Tornielli記者は、 オッセルバトーレ・ロマーノ 紙 2019年2月21日)の中で この四日間が徴を残すものになるだろう、と書いている:バチカンで開催される、未成年者の保護についての会合は、徴を残すことになるだろう。徴を残すのは、虐待の裂傷(損害)を前にして行わねばならないことに関する、具体的な、不可欠な指示に関する考察だけでなく、虐待を被った未成年者たちの、悲劇的で消すことの出来ない(ぬぐいきれない)結果についての、教会全体の側からの「気づき(意識づけ)」だろう。

 これらの卑劣な暴力の、無防備な犠牲者である子供、青年たちの声は、耳を傾けないままにはされないだろう。彼らの叫びは、あまりにも長い間、理解することを妨げてきた「沈黙」のバリアを破るだろう。

 最近の二人の教皇の個人的な証し―彼らは、系統的に虐待被害者に会い、彼らに耳を傾け、彼らと共に泣き、祈って来た―に続く、最初の目的は、ゆえに、司祭と修道者たちの側からの未成年者たちへの虐待が、嫌悪すべき(憎むべき)行為である、という意識である。それは、信仰教育のために、彼らの両親から司祭たちに託された子供たちの魂を、永遠に刺し貫く(深手を負わせる)行為である。何よりも先ず、それは、法律や規律の問題でも、官僚的なへりくつ(こじつけ)の問題でも、ましてや統計学的問題でもない。

 それは、犠牲者たちに耳を傾けること、彼らの痛ましいドラマ(悲劇)を分かち合おうとすることだ―彼らが被った破壊的な傷を自分のものにするために―。求められるのは、メンタリティーを変えることである これから、決して誰も、見ない振りをしたり、黙殺したり(握りつぶしたり)、隠したり、最小限に抑えたりすることがないように。

 トルニエッリは、続けて会合の展開を説明する。今回初めて、世界的な観点において、このテーマが取り組まれる―さまざまな経験、文化に従って―。第一日目の主要テーマは「司教たちの責任」―彼らの、司牧的、霊的、法的任務において―についてである。二日目は、特に、「気づくこと(意識することrender conto)」、「説明責任」が扱われる―「教会法」との一致において採用されるべき解決法―司牧者たちが任務を怠り、怠慢をもって行動したケースを評価するために―を論議しながら。最後に、三日目は、「透明性」、教会内部での手続き―市民当局に対して、しかし特に、神の民の前で―についてささげられる。神の民にとって、未成年者たちが頻繁に訪れる場所をより安全にすることは不可欠である。

 日曜日は、Sala Reginaでのミサの後に、パパ・フランシスコによって作業が結ばれる。バチカンで行われることは、先ず、教会的出来事、ペトロの後継者とのコムニオ(交わり)における、司牧者たちの間の対話である。そして、このために、犠牲者たちの言葉に耳を傾けることによって伴われた「祈り」が、一つ一つの段階を始めるだろう。作業の最初の三日間は、痛悔の典礼において頂点を迎える。なぜなら、まさに、罪の深淵の前に、そして、このように深刻で嫌悪すべき(いまわしい)罪の前で、信徒たちは、謙虚に赦しを願うよう招かれているから―教会の「からだ」に加えられた傷、また、教会の、福音的証しの可能性に加えられた傷のために。

 さらに、今回の集まりが、「ここ数十年の歩みの締めくくりであり、同時に、教会が、自身だけでなく、社会全体からの虐待の消滅のために実際に働く、新たな一歩となるだろう」と述べている。

 この新しい一歩は、教会にとって、約二十年前に、虐待の傷と戦うための、さらに厳しく効果的な法の導入と共に始まった、一連の長いイニシアティブの中の最後の一歩である。最近発表されたすべての報告書が示しているように、ケース数を激減させた訴訟手続き:実際、浮かび上がる告発は、その大部分が何年も前、新しい規定の発効以前に起こったものに関している。

 バチカンで開催される会合とともに、教会は、このようにして、自分たちのヒエラルキーや、自分たちの共同体に対して道を示すだけでなく、社会全体に、苦しみに満ちた証言と、明確な務めを差し出す。なぜなら、未成年者の保護は、すべての人々に関連することだから。世界中で虐待されている未成年者の、ひじょうに多い数字が示しているように。

*2日目の会合の初めに

 母なる教会が、十字架の子のそばにいなかった… 二日目の会合の初めに、聖職者から虐待を受けた一人の被害者の手紙が、英語で読み上げられた:

 イエスが息を引き取ろうとしていた時、イエスの母は彼と共にいました。わたしが一人の司祭から虐待された時、わたしの母である教会は、わたしを一人ぼっちにしました。わたしが、教会の中の誰かに、わたしの虐待と、わたしの孤独を話したかったとき、みなが隠れてしまいました。わたしは、誰に話したらよいのか分からず、さらに孤独を感じました」

 2月22日の証言:「バチカン放送」、イタリア語HP この言葉は、わたしの心を強く深く打った 裏切られ、見捨てられ、無実の罪で殺されたイエス・キリストの十字架の傍らに、イエスの「母」が立ってい
た。イエスは、「母」に、ご自分のすべての弟子たちを託した。つまり、イエスは、「母」に、ご自分の「貫かれた心」から生まれつつある「新しい神の民―教会―」を託す。十字架の傍らに立つ「母」は、教会の「姿(イコンimago)」であり、同時に、「母」である。「母」は、わが子の「叫び」の中に、すべての子らの「叫び」を聞き、わが子の「傷」の中に、すべての子らの「傷」を見、触れ、まさに「母」として、わが子の中に、すべての子らを抱きしめる。

 それが、巨匠ミケランジェロが死の間際まで制作していたといわれる、「未完成のピエタ」の姿だろう。母と子は、もはや離れることが出来ない。子の「心」は、母の心に重なる。母は子を抱き、子は母を負う。その「母」の姿に原点を見る、わたしたち「教会」が、傷つき叫ぶ子らの、たくさんの十字架の傍らに立つことを怠った。主から託された子らを抱きしめることを、怠った。それが、教会の中での未成年者虐待の「現実」である。

*初日:「人類の傷に触れる」:タグレ枢機卿:

 1日目、「司教らの責務」のテーマについての第一講話で、フィリピン枢機卿、国際カリタス長官でもあるタグレ枢機卿が、主イエス・キリストが、今も「ご自分のからだ(キリストのからだである教会)」の中に、「ご自分の傷(傷つけられた人々)」を負っている、と話した。「教会の中の傷」は、キリストの傷である。傷つけられた人々のからだは、十字架につけられたキリストの、傷を負ったからだである。

 タグレ師は、復活の主の使徒たちへの出現についてのみ言葉(ヨハネ福音書20章19⁻29節)を聞きながら断言する 。「キリストの証人として遣わされる人々は、『人類の傷』に触れなければならない」と。
トマスがどのように感じたかを想像してみましょう。復活の主の傷を見ることにより、彼はイエスを、主として、神として信じるという、最高の告白をしました。イエスの傷を見、触れることは、信仰の行為と告白に本質的です。この親密な出会いから、わたしたちは何を学ぶことが出来るでしょうか?この行為を二度繰り返すことによって、福音作者は明確にしています:わたしたちのキリスト教信仰の核心(中心)、死んで復活したキリストを宣言するために遣わされる人々は、彼らが、絶え間なく人類の傷に触れていて初めて、権威をもってそうすることが出来るのだ、と。これが、わたしたちの職務ministryの徴の
一つです。それは、トマスの真実であり、あらゆる時代、特にわたしたちの時代の教会の真実です」

 さらに、チェコスロバキアの司祭、神学・哲学者であるMsgr. Tomas Halikの言葉を引用しながら、「キリストは彼のところに(トマスのところに)来て、彼にご自分の傷を見せる。これは、復活が、十字架の『消去』、または価値の切り下げではないことを意味している。傷は、傷のまま残る」と指摘する。「キリストの傷は、わたしたちの世界の傷の中に残ります。Msgr. Halikは付け加えます-わたしたちの世界は傷で満ちている。わたしたちの世界の傷に対して、自分の目を閉ざす人々は、『わたしの主よ、わたしの神よ』と言う資格はない、というのがわたしの確信である」。

 Msgr. Tomas Halikにとって、人類の傷の中にキリストの傷を見、触れることは、真の信仰の条件です。彼はさらに言います、「わたしは、わたしが、この世の傷、苦しみに触れるまでは信じない―なぜなら、この世の、そして人類の、すべての痛みに満ちた傷、すべてのみじめさは、キリストの傷であるから!わたしは、わたしが隣人の痛みを真剣に受け取るまで、神に信仰告白する資格をもってはいない。

 人々の苦しみに目を閉じるような信仰は、単なる幻覚である」。信仰は、ただ、人類の傷の中に見、触れられた、十字架にかけられ、復活したキリストの傷からのみ生まれ、また新たに生まれるます。傷ついた(傷を負った)信仰だけが信頼できるのです(Halik)。わたしたちが、虐待によって与えられたすべての傷に目を閉ざすなら、わたしたちは、どのようにキリストへの信仰を告白することが出来るでしょうか?

 タグレ師は、復活のキリストのからだの傷は、キリストがもった、さまざまな「関係」-特に、精神的・身体的に傷を負った人々との―を弟子たちに思い起こす、と言う。

 「イエスの傷は、貧しい人々、病気の人々、徴税人、悪いうわさのある女性、重い皮膚病を患っている人々、騒がしい子供たち、よそ者、外国人たちとの、愛情と思いやり(いつくしみ)に満ちた深い関係の結果です。イエスの傷は、イエスが他の人々の傷に触れた時、彼自身、傷つけられることをゆるした(傷つけられるに任せた)ことの結果です。イエスは、これらの具体的な人々―彼ら自身社会や宗教によって傷つけられていた―を愛したことによって、十字架につけられました。彼らの傷と弱さを共有することによって、イエスは、無情な裁判官ではなく、いつくしみ深い兄弟となりました。パウロはヘブライ人への手紙で明言しています-『キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源』(5章8‐9節)となったのです。

 だから、復活のキリストの傷は、決して弟子たち、さらにはご自分を断罪した人々への冷酷な裁きのしるしではなく、ただただ、それほどまでに、人類の、わたしたちの「弱さ」「罪深さ」をいくつくしみ、わたしたちを愛した、その無償の愛を思い起こす。ですから、「復活の主」の傷は、弟子たちに、人類へのいつくしみのために、傷つけられる準備が出来ている(すすんで傷つけられる)愛を呼び起こしました。

 イエスの傷は、彼が自発的に受け取った(帯びた)、他の人々の傷でした。イエスは、他の人々の上に傷を負わせませんでした(押し付けませんでした)。イエスは、彼らのための愛、彼らとのコムニオ(交わり)によって(の力で)、すすんで傷つけられました。Frederick Gaiserが言ったように、「癒しの牧者は、決して危険から遠く離れず、決して悪や病気―彼がそれらから群れを守ろうとしている―を通しません」。愛といつくしみの傷だけが、癒すことが出来ます」。

 タグレ師は、だから、「キリストの傷―傷つけられた人々の傷―」に近づくことを恐れてはならない、と呼びかける。人々が教会に―そして、この講話の文脈の中では、司牧の責任を持つ司教たち、司祭、修道者たちに―求めているのは、自分自身の名声、損得勘定から「出て行き」、人々の傷に触れることを恐れない、「キリストの真の証人」である、と。

 「虐待とスキャンダルによって傷つけられた人々は、わたしたちが、この時、信仰において強くあることを必要としています。この世は、イエスの復活の真の証人たちを必要としています。彼らは、信仰の最初の行為として、キリストの傷に近寄る人々です。わたしは強調したいと思います:これが、信仰の行為であると」。

 教皇フランシスコは、「恐れ」は、しばしば、わたしたちの内的生活を「麻痺させる」と言っている。今年のWYD(世界青年大会:2019年パナマ)の中で、パパは、「恐れることはない」「神に出来ないことは何もない」という天使の言葉に、「ご覧ください、Fiat(はい)、わたしはここにいます。あなたのお言葉通り、この身になりますように」と答えた「『愛することを恐れない女性』としてのナザレの若い女性、マリア」を若者たちに示しておられる。

 この世が総力を挙げて、「わたし」にとって「より居心地のよい、快適な生活」を示し、周りで起こる災害、犯罪…の恐怖をあおるとき、キリスト者は「恐れず」、若いマリアのように、「神の夢」の実現に自分自身をかけてください、と。

 タグレ師は、「相手に傷つけられるのではないか」という「恐れ」が、いかに相手を、そして最終的には「自分自身」を破壊していくか、を語っている。

 「もしわたしたちが死を否定するなら、わたしたちはそれを他者に負わせる。しかし、わたしたちはまた、それを、わたしたち自身にも負わせる。わたしたちを、真の関係を避け、真の愛―それはいつも、他者に対する明け渡し(身を任せること)と傷つきやすさを伴う―を避ける要因となる、痛みと傷つきやすさへの恐れは、最終的には、わたしたちの―わたしたちの!―内的生活、わたしたちのあらゆる感覚―痛み、喜び、愛をも―を殺す」(RobertoGoizueta 。わたしたちの、愛する能力は死ぬでしょう。

 傷の恐れは、わたしたちを孤立させ、他の人々の必要に無関心にさせます。恐れは、人々を、暴力と、理不尽な振る舞いに至らせます。恐れは、人々を、何の脅威も存在しないとき、彼ら自身を防衛する動機を与えます。復活のイエスの中に、わたしたちは知ります:苦しんでいる人々の傷を見、触れることによって、わたしたちは、わたしたち自身の傷に触れ、イエスの傷に触れることを。わたしたちは、互
いに、兄弟姉妹になります。わたしたちは、人類と被造界に傷を負わせた共通の罪(責任)を認めます。わたしたちは、和解への呼びかけを聞きます。わたしたちは、わたしたちの引き裂かれた世界の中の、復活の主の忍耐強い存在を見ます。

 再び思い起こそう。イエス・キリストは、わたしたちがどんなに彼を裏切っても、見捨てても、無関心であっても、わたしたちを愛することを止めない。まさに、キリストは、罪深いわたしたちを愛し続けたために、十字架につけられた。十字架の傷は、しかし、わたしたちの罪を告発するものではなく、ご自分がどんなにわたしたちを愛していたか、そして、愛し続けているかを、わたしたちに思い起こす傷である。だから、復活のキリストは、十字架の傷を消すことなく、運び続けている。その傷の中に、あらゆる時代の、あらゆる人々の「傷」を運びながら。

 タグレ師は、米国ウィスコンシン大学マディソン校教授であり、赦しに関する社会科学的研究のパイオニア(先駆者)、Dr. Robert Enrightと共同で、マニラ大司教区で取り組んでいるこの危機を、信仰の光の中でどのように取り組むか、という、具体的な「癒しのプロセス」について語りながら、結んでいる。

 「わたしたちは、被害者、家族、罪を犯した司祭と無実の司祭、教会、そして社会の傷を見、触れます。裏切りと権力の乱用によって傷つけられたイエスを見つめながら、わたしたちは、傷つけられた人々―彼らを守らなければならなかった人々によって―の傷を見ます。イエスのうちに、わたしたちは、正義を保ち、赦しの賜物を賛美するいつくしみを経験します。

 教会が、コムニオ(交わり)といつくしみから来る正義の共同体であるように、聖霊において、傷ついた世界への和解の使命を進めることを熱望する教会であるように。再び、十字架につけられ、復活した主が、この時、わたしたちの真ん中に立ち、わたしたちにご自分の傷を見せ、宣言します:「あなた方に平和があるように!」。わたしたちが、この偉大な神秘において、信仰のうちに成長することが出来ますように」。

*2日目:「コムニオ(交わり)」の神秘である教会:ギソーニ氏

 2日目のテーマ:「説明責任」に関して、女性であり、母であり、信徒であるリンダ・ギソーニ氏(教皇庁信徒・家庭・いのち省・家庭局次長)は、講話の冒頭で、わたしたちは、巻き込まれた実際の人々のことを考えることなしに、このテーマ(教会の中での未成年者の保護)について語ることなど出来ない、と述べている。

 「『虐待の犠牲者の証言』に耳を傾けることは、同情(憐憫)の奉仕ではなく、キリストの肉との出会いです―キリストの肉の中に、おそらく決して癒されることのない傷、教皇さま、あなたが言ったように、時効によって無効にされることのない傷が与えられました。わたしたちは、犠牲者や彼らの家族、虐待を与えた人々、仲間、否定する人々、negazionisti[虐待を否定する人々]、不正に告発された人々、無頓着な人々、隠ぺいした人々、語り、行動しようとしたが、黙らされた人々のことを考えることなしに、教会の中の未成年者の保護について語ることなど出来るでしょうか。そして、引き裂かれた『キリストの体』―ご自分の教会―を見ている御父の前で、共に跪かなければならない、と。

 跪くーこれが、これらの日々の主題を扱うためにふさわしい態度でしょう。慈しみ深い御父の前で跪く:御父は、引き裂かれたキリストの体―ご自分の教会―を見、わたしたちに、ご自分の民として、傷の荷を負うように、ご自分の愛の香油でその傷を癒すようにと招いています。

 教皇さま、そしてここに招集された枢機卿、司教さま方、女子修道会、男子修道会の総長の方々、わたしはあなた方に教えることは何もありません。そうではなく、相互に、動的に(有効な)耳を傾け合いながら、共に働くことを決心しましょう。将来において、もはや、この会合の出来事のような騒音を引き起こさないように。そして、神の民である教会が、権限、責任のある、そして愛情のこもった方法で、起こったことに関係する人々を気遣う(ケアする)ように―予防策が、単によく出来たプログラムで終わらず、通常の司牧的態度になるように―」。

 ギソーニ氏は、講話の中で、「説明責任」は、「コムニオ(交わり)」の神秘である教会の、特質の本質の中に探されるべきだ、と指摘する。 それは「教会論」の本質にある「マリア論」を考える上でも、ひじょうに意味深いものだ。

 第二バチカン公会議は、『教会憲章』(1964年)の中で、「コムニオ(交わり)」としての、つまり、この世に対して三位一体の神の交わりの「秘跡」としての教会の本質(第1項参照)を示した。それが深められるのは、1985年の司教臨時総会である:その中で、啓示の光の中で、教会を解釈する暗号であるコムニオ(交わり)のカテゴリー―教会の「秘跡的側面」、三位一体の神秘― が考察されたそれは、教会の「秘跡的側面」、または、教会がその中に自分の顔(表情)を見出す、「三位一体の神秘」―秘跡的形(フォルマ)の中であっても、また類似的に―との関連の中に浮かび上がる。教会は、«veluti amentum» …のような神秘)、または、「神との親密な交わりと全人の一致のしるし、道具」(第二バチカン公会議・教会憲章 1)。

 この「交わりの教会論」の土台の上に立って初めて、教会のあらゆる活動はその意味を得る、と彼女は指摘する そして、今回のケース(未成年者に対する、聖職者、修道者の性的虐待問題)の中で、自分自身の責任に気づくことは、三位一体に土台を置いたコムニオ(交わり)の神秘としての教会、歩みの中にある神の民としての教会の本質自身から生じる要請である、と明言している。

 「交わりの教会論」を土台に、つまりギソーニ氏が言う「自分自身の責任に気づく」というのは、司教だけでなく、司祭、修道者、信徒たち全員にあてられた言葉である。信徒たちも、洗礼の力によって、キリストの「共通祭司職」を生きているからだ(『教会憲章』10参照)。

 女性は、花嫁であり母である教会の「イメージ」-パパ・フランシスコギソーニ氏の講話の後、パパ・フランシスコの発言があった 。パパは、女性として、母親として語ったギソーニ氏の話を聞いて、「教会自身が」自分の傷について語っていると感じた、と述べた。神の民は、「母である教会から生まれた家族」であり、単なる組織ではないことを、「女性である教会に反映されている、女性の天分」をもって語った、と。

 「ギソーニ氏の講話を聞きながら、わたしは、教会が自分自身を語っているように感じました。つまり、わたしたちは皆、教会について語りました。すべての講話の中で。でも、今回は、教会自身が語りました。それは単にスタイル(様式)の問題ではありません。女性である教会に反映されている、女性の天分(素質)。女性を招いて語ってもらうのは、教会のフェミニズム(男女同権主義)の様相には入りません。

 なぜなら、結局は、あらゆるフェミニズムは、スカートをはいた男性優位主義で終わるからです。そうではありません。教会の傷について、女性を招いて語ってもらうのは、教会を招いて、自分自身について、自分の傷について語ってもらうことです。

 そしてこれが、わたしたちが大きな力でしなければならない一歩です-女性は、女性であり、花嫁であり、母である教会のイメージ(像)です。一つのスタイル。このスタイルなしには、わたしたちは、神の民について語るかもしれませんが、組織(制度)として、もしかしたら組合として、しかし、母である教会から生まれた家族としてではありません。

 花嫁・母である教会の神秘は、女性の神秘と深く関わっている。ギソーニ氏が強調した「交わりの教会」―信徒、そして特有な方法で、女性の協働を含めた―は、教会内のフェミニズムの促進というレベルの問題ではない。「女性を、教会の姿として統合することintegrare la donna come figura della Chiesa nel nostro pensiero が大切であるとパパは指摘する。

 ギソーニ氏の考えの理論(ロジック)は、まさに「一人の母親の理論」であり、「女性が子どもを産む時に起こること」についての話で終わりました。それは、花嫁であり母である教会の、女性の(女性特有の)神秘です。それは、「教会において、女性により多くの役割を与える」ということではありません―これは良いことです、しかし、それでは問題は解決されません―それは、わたしたちの考えの中で、女性を、教会の姿として統合することです。そして、教会を、女性のカテゴリーをもっても考えることです。あなたの証しに感謝します」。

 ギソーニ氏自身、バチカン放送のインタビューで、このパパの言葉について語っている。「正直に言って、わたしはこの教皇さまの言葉に感動しました。直ぐに、わたしの普通の現実―妻の現実、二人の娘の現実、小教区での生活の現実―を考えたからです。現実に(実際に)、わたしは「教会」ではありません。でも、わたしは自分自身を教会と感じていますio mi sento Chiesa。わたしは、このわたしの所属性(教会への)に、ひじょうに負っているので、わたしの生活と、わたしの言葉の限界をもって、可能な限りのことを返すことが出来てうれしく思っています。

*3日目、「透明性」についての最後の講話で、ジャーナリストのバレンティナ・アラスラキ氏

 23日、バチカン放送、イタリア語HP-虐待を、事例としてではなく、一人の人間に起こったこととして見つめる-パパは、虐待の事実を、「ケース」としてではなく、「一人の人間」の現実として耳を傾けるよう招く。三日目、「透明性」についての最後の講話で、ジャーナリストのバレンティナ・アラスラキ氏は、母としての立場から話を始めた。

 「わたしたちのお母さんたちは、わたしたちを同じように愛していたけれど、特に、より虚弱な、より弱い子ら―人生の中で、自分の足でしっかり進むことが出来ない子供たち、小さな励ましが必要な子供たち―に献身しました。お母さんにとって、ファーストクラス、またはセカンドクラスの子はいない:より強い子、より傷つけられやすい(攻撃されやすい)子がいるだけだ。わたしはそれを、母として言っている」。

 アラスラキ氏は、「隠ぺい」「秘密主義」は、権力の乱用だと指摘しながら、「透明性」を生きるためのいくつかの提案を差し出している。その一番最初にくるのが、パパ・フランシスコにとっても優先順位である、「犠牲者を第一に置く」ことだ。

 「犠牲者は、数でも、統計でもなく、「人間」です―人生、性、愛情、他の人々への信頼、もしかしたら神への信頼まで破壊された人間、愛する能力さえ破壊された人間―なぜ、犠牲者との出会いがこれほどまでに大切なのでしょうか?それは、知らないことについて、直接的知識のないことについて伝えることは、ひじょうに難しいからです。

 それは、虐待のケースにおいて、さらに明白です。もし犠牲者たちに耳を傾けないなら、もし彼らの苦痛を分かち合わないなら、もし、虐待が、体にだけではなく、彼らの頭(思考)、彼らの心、彼らの信仰の中に生じさせた傷に、手を触れるのでなければ、このテーマについて話すことは出来きません 。それを、わたしたちは見ました。もし、あなた方が彼らを知るならば、これらの人々、これらの犠牲者は、一つの名前を持つでしょう、一つの顔を持つでしょう。そして、彼らと共に持った経験は、問題に取り組む方法だけでなく、伝達する方法、それを解決する方法に反映するでしょう。

 パパはわたしたちに、彼が『サンタ・マルタの家』で、犠牲者たちと定期的に会い、それは彼の優先課題の一つだ、と言いました。あなたがたもそれを行うべきだと思います… 覚えていてください。透明性は、あなた方が行っていることを見せるということです。犠牲者たちを第一に置いて初めて、あなた方は、虐待の傷(損害)を根こそぎにすると決心したと言う時、信頼に値するでしょう」。

 一つの「ケース」ではなく、一人の「人間」(顔と声をもち、あなたの前に立ち、あなたに自分の経験を語っている)に対峙した「教会的出来事」。この記事を掲載している25日付の『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙は 四日間の会合を振り返って「回心のプロセスを表した、たくさんの瞬間を強調することが出来るだろう」と評価した。

 ー発表した人の密度の濃い講話、教皇の閉会の講話の豊かさ、教皇自身が、会合の1日目に伝えた(そして、記者会見の中で十分に解明され、説明された)実践的指示。しかしおそらく、それらすべての中で、二つの瞬間が、本当に「徴を残した」-犠牲者の証言と、その結果としての、23日の悔悛の典礼。後者は、それが、多かれ少なかれ厄介な問題に、実践的解決を見出すための運営会議ではないことを理解させた。

 ここで経験されたことは、教会の出来事un evento ecclesialeであり、その中で教会は、祈りの中で、共に歩くことの中で、そして特に共に跪くことの中で、自分自身を再び見出した。そして、証言は、一つのことを知ることと、それを直接、具体的に、実際に体験することの間に存在する、底知れない相違を示した。一つは、世の中に虐待のケースが存在することに関する、たとえば統計学的なデータを知ることであり、他方は、「ケース」としてではなく、一人の人間―顔と声をもち、あなたの前に立ち、あなたに自分の物語を語る―と対峙することである。

 それは、会合の約200人の参加者が、何度も生きた経験である。そしてこれは、この出来事を、真の「出会い」とした―それを経験した人々を、本当に変え、変容した何か―。悪を、面と向かって見ることは、無関心なまま、すべて同じままで留まらせない。

*4日目閉幕ミサで教皇の講話

 「悪」の現れと向き合っている会合最終日、24日、閉会ミサの後、パパ・フランシスコは祭服を着たままで講話を行った。

 パパは、わたしたちが向き合っているのは「悪」の現れであり、何の言い訳も通用しない、と明言する。教会外での虐待の方が、数の上ではずっと多い、と言う人がいる。だが、教会では、「たった一人の虐待犠牲者がいたとしても、それは常に、最重要課題」だ、とパパは言う。それは、この世に対して、キリストの証人となる、キリストの思いを運ぶ、「神の夢」の実現の協力者となる、というキリスト者の根本的使命への裏切り、つまり、人々に対してだけでなく、神に対しての裏切りだから 。

 パパの言葉は明確だ-

 「教会の目的(目標)は、あらゆる場所の、虐待され、搾取され、忘れられた未成年者たちに、耳を傾けること、守ること、保護すること、世話することです。教会は、そのような目的に達するために、すべてのイデオロギー的(概念的な)論争や、ジャーナリズム的政策―それらはしばしば、子供たちが経験したドラマ(悲劇)自身を、さまざまな利益のために利用します―を超えなければなりません。

 … あらゆる対策の第一の目的は、子供たちを保護し、あらゆる心理的・身体的虐待の犠牲に落ちることを防ぐことです。ですから、機関(団体)を保護(防御)するための、防衛(自己弁護)的・反発的態度と闘うために、メンタリティーを変える必要があります。

 共同体の善の、真摯で果断な探求のために―すべての意味において、虐待の犠牲者たちを優先させながら―。わたしたちの目の前に、つねに、子供たちの無邪気な顔を置かなければなりません。「先生」の言葉を思い起こしながら。『私の名のためにこのような子どもの1人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。しかし、私を信じるこれらの小さな者の1人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである』(マタイ福音書18 章5-7節)。

 講話の終わりに、パパは、日々の目立たぬ生活の中で、絶えず、自分自身とすべての出来事を主のみ手に委ねようと努力し、闘っている「聖なる、忍耐強い、忠実な神の民」こそが、教会の「最高の顔(表情)」だ、と言っている。この民は、真ん中に、自分ではなく、主を置くことを知っている。そして、主を置くことによって、一人一人の兄弟姉妹たちを置くことを知っている。この「聖なる民」こそ、教会を、権力の誘惑、権威の乱用の悪から解放するだろう、と。

 「最後に、この悪を、浄化の機会に変えることの重要性について強調したいと思います。エディト・シュタインを、確信をもって見つめましょう-『最も暗い夜の中に、偉大な預言者や聖人たちが生まれます。しかし、神秘的生活(命)に命を与える流れは、見えないままに留まります。確かに、世の歴史の、決定的な出来事は、歴史の書の中では何も述べられていない魂たちによって、本質的に影響を受けました。そして、それらは、わたしたちの個人的生活の決定的な出来事のために、わたしたちが感謝すべき魂たちです。それは、わたしたちが、隠されていたものがすべて明らかにされる日において初めて知るだろうことです』。

 神の、聖なる忠実な民は、彼らの日常の沈黙の中で、さまざまな形と方法において、主は見捨てないという希望、そして、ご自分の子らの、絶え間ない、そして多くの状況において苦痛に満ちた献身を支えているという、「頑固なcocciuta」希望を、見えるものにし、証ししています。聖霊によって支えられ、命を与えられている、聖なる、忍耐強い、忠実な神の民は、日々の自己譲渡(自分を委ねること)において、自分たちの主を真ん中に置くことを知っている、預言的教会の最高の顔(表情)です。 わたしたちを、聖職者主義clericalismo-それは、これらすべての嫌悪すべき状態の肥沃な土壌である―の傷(損害)から解放するのは、まさに、この聖なる神の民でしょう」。

 結びにパパは、再度、「耳を傾ける」ことから始まる「回心」―個人的・集団的―のための歩みの決心を確認する。

 「犠牲者たち、聖なる母である教会の民、そして全世界に対して、わたしたちが差し出すことが出来る、最良の結果と、最も効果的な解決(決断)は、個人的、集団的回心のための努力、学び、耳を傾け、最も傷つけられやすい(攻撃されやすい)人々を支え、守る謙虚さです。

 わたしは、すべての当局者、一人一人の側からの、未成年者たちの虐待に対する、包括的な闘いのために、心からの訴え(アピール)を行います。なぜなら、それは、地の面から消し去るべき、嫌悪すべき犯罪についてだからです。これは、家庭の中で、わたしたちの社会のさまざまな分野の中で隠されている、たくさんの犠牲者が求めていることです」。

・・・・・・・・・
会合の後、『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙は、パパの結びの講話を考察しながら、フランスの哲学者の言葉を引用している。「悪は説明不可能である、悪は説明の不在である。それは、説明することは出来ないが、語ることが出来る」。この四日間の会合の、重要な意味の一つを表すものだろう。

 人間は「意味」を必要としている。これは、パパの、ほとんど叫びのようなものだ:特に、説明を探すことにおいて手間取り、いつも説明を与えることにおいて準備が出来ている「専門家たち」の、無感覚になっているヨーロッパに向けて。「専門家たち」だけでは十分ではない。それより、悪を見つめ、それを語ることの出来る民が必要である。

 フランスの哲学者Paul Ricoeurは断言した。「悪は、説明不可能である。悪は、説明の不在である。それは、説明することは出来ないが、語ることが出来る」。

 シノドス会議場においてこれらの四日間、民が集まった。世界の隅々からやってきて、耳を傾け、悪の不条理(非常識)によって、そして人々への恐れから、長い年月、口をつぐみ、今日、自分の物語を語ることが出来た人に声を与えた。それは、悪を打ち負かしたことではなく、悪が打ち勝つことは出来ないことを、断固として言うことにつながるだろうプロセスの始まりである。(2019年2月25日付、オッセルバトーレ・ロマーノ紙)。

 人間の権威を超える、神の権威:権威の乱用に対抗してユダヤ教のラビ、Jonathan Sacksは、モーセ五書を解説する書の中で、支配者の上に、神の絶対的権威がない限り、その国はやがて亡びる、と指摘する。神不在の、人間の権力は、人間の心を堕落に導くから。
… イスラエルの民は、シナイ山で、 最も重要な(すべてを含む)神との契約に入った。この契約 brit Sinai は、権力行使の道徳的限界を置いた。わたしたちがトーラーと呼ぶ、その規定codeは、初めて、権力に対する権利の優位the primacy of right over mightを制定した。トーラーに反して行動した王は誰でも、ultra vires(正当な権威を超えて)行動したことになり、意義を唱えられることが出来たcould be challenged。これは、聖書的政策に関する、唯一の、最も重要な事実である。

 ギリシャ的型の民主主義は、つねに、致命的な弱さがある。Alexis deTocquevilleとJohn Stuart Millは、それを「過半数の専制(独裁)政治the tyranny of the majority」と呼んだ。J.L. Talmonはそれを「全体主義の民主主義totalitarian democracy」と呼んだ。過半数の支配は、少数派の権利の保障を含まない。Lord Actonが正当に指摘したように、アテネの衰退を導いたのは、それであった-『国家の法を上回る法がなかった。立法者(法律制定者)は法の上にいた』。

 ユダヤ教では、その反対に、預言者たちは、王がトーラーの条項に反して行動した時、王の権威に異議を唱える(挑戦する)よう遣わされた。典型的例は、神がエリヤに、ナボトのブドウ畑を没収したアハブ王に告げるようにした告発であるー「主は仰せになる:お前は人を殺し、そのうえ、その人の物を自分の物にするのか」(王上21 19

 子らの十字架のもとに立つ、母である教会十字架のもとに立つ、聖母マリア。数えきれない十字架のもとの立つようにと、主から遣わされている、母である教会。十字架にかけられている子らの叫びを聞き、心を動かされ、泣くことを恥としない母。沈黙の中で寄り添う母。ありのままを包み、抱きしめ、いとおしむ母。

  「泣くことの出来る恵み」「恥じることの出来る恵み」を主に願ってください、と、パパ・フランシスコは繰り返す。「やさしさ(慈しみ)の革命」とは、屈辱を受け、へりくだり、自分ではなく相手を真ん中に置くことを知っている人々による、愛の革命である。なぜなら、まさに、主イエス・キリストが、そのようにしてわたしたちを赦し、あがない、救ってくださったのだから。

 わたしたちは、この現実を見失わず、主ご自身がわたしたちに教えている、霊的措置を取らなければなりません:屈辱(卑しめられること)、わたしたち自身への告発(非難)、祈り、痛悔。それは、悪の
霊に打ち勝つための、唯一の方法です。このようにして、イエスはそれに打ち勝ちました…

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

(聖書の日本語は「聖書 聖書協会共同訳」を使用しました「カトリック・あい」)

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2019年2月28日