
(2025.10.9 Vatican News Andrea Tornielli)
教皇レオ14世は最初の使徒的勧告『Dilexi te(私はあなたを愛している)』において、キリスト教啓示と教会伝統の基礎を明らかにした。
その題名からも、教皇レオ14世の最初の使徒的勧告『Dilexi te』は、フランシスコ教皇の最後の回勅『Dilexit nos(主は私を愛されている)』との密接な関連性を示しており、ある意味でその継続を体現している。
これは教会の社会教説に関する文書でもなければ、特定の課題を分析するものでもない。むしろ啓示そのものの基盤を提示し、キリストの愛と貧しい者たちに近づくよう求める主の招きとの強固な結びつきを浮き彫りにする。
貧しい者への愛の中心性は、実は福音そのものの核心であり、したがって特定の教皇や神学的潮流の「個人的関心事」として片付けられるべきでもなければ、キリスト教信仰とその宣教に外在する単なる社会的・人道的帰結として提示されるべきでもない。
「主への愛…は貧しい者への愛と一体である」と教皇レオは記す。それゆえ両者は不可分だ。イエスは言う「あなたがたが、これらの最も小さい兄弟たちの一人にしたことは、私にしたことである」。
したがって教皇は続ける「これは単なる人間的な親切の問題ではなく、啓示である。卑しく無力な者たちとの接触こそが、歴史の主と出会う根本的な道なのだ」。
悲しいことに、キリスト教徒でさえ世俗的な態度やイデオロギー、誤った政治的・経済的アプローチに「陥る」危険がある、と教皇は指摘する。貧しい人々への献身を、あたかも神への愛や礼拝から目をそらすもののように言う人々から時折聞こえる苛立ちは、この文書がいかに時宜を得たものであるかを示している。
「慈善活動を、あたかも少数者の執着事のように軽んじ嘲笑する者たちがいるという事実は」と教皇レオは述べる。「それは、我々が福音書を再読する必要性を私に確信させる。さもなければ、この世の知恵で福音書を置き換えてしまう危険があるからだ」。
聖書の引用と教父たちの洞察を通じて、貧しい人々への愛は「任意のものではなく、真の礼拝の要件である」と改めて思い起こされるのだ。聖ヨハネ・クリュソストモスと聖アウグスティヌスの言葉は今日も教会を照らす。前者は貧しい者の体の中にいるイエスを敬うよう促し、教会外の飢えに倒れるキリストを前にして、祭壇を黄金の器で満たす意味を問う。後者は貧しい者を「主の秘跡的存在」と表現し、貧しい者への配慮こそ信仰の誠実さの具体的な証だと説く— 「神を愛すると言いながら貧しい者に憐れみを持たない者は、偽り者である。」
キリスト教メッセージの本質とのこの結びつきゆえに、『Dilexi te』の最終章では、洗礼を受けた者すべてに向けた呼びかけが記されている。最も弱い立場にある者たちの擁護と支援に、一人ひとりが具体的に取り組むよう促すのだ。「神の民のすべての成員は、たとえ愚か者や純真な者と思われるリスクを冒しても、こうした構造的問題を指摘し告発するために、それぞれの方法で声を上げる義務がある」と。
これは教会と社会双方に深い示唆を与えるメッセージである。現在の経済金融システムとその「罪の構造」は必然ではない。ゆえに「善の力」によって、異なるより公正な社会を構想し構築することは可能だ。「考え方を変えるだけでなく、科学技術の助けを借りて、社会変革のための効果的な政策を発展させることによって」実現できる。
『Dilexi te』はもともとフランシスコによって書き始められた。宗教者として、後に宣教師司教として、生涯の多くを貧しい人々と共に過ごし、彼らから自らを福音化させてきた教皇レオ14世は、これを自らのものとした。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)