(評論)10月に行われる「家庭」についての世界の司教協議会会長会議、教皇は何を意図しているのか(Crux)

(2026.3.21  Crux  Editor-in-Chief   Charles Collins)

   3月11日、バチカンの聖ペトロ広場での水曜恒例一般謁見で、教皇レオ14世は、前任のフランシスコが発出され物議を醸した文書の一つ、使徒的勧告「Amoris Laetitia」について議論するため、10月に世界の司教協議会会長を招集して会議を開くことを発表された。

 21世紀の家庭生活の様々な側面に関する2回にわたる世界代表司教会議(シノドス)を経て2016年5月、公式に発表された256ページに及ぶこの使徒的勧告は、キリスト教の家庭生活と結婚の秘跡に関するフランシスコ教皇の考えを提示していた。

 議論を呼んだのは、勧告の第8章にある一節だ。この章は「弱さと共に歩み、見極め、統合する」というテーマを扱い、カトリック教会がしばしば「不規則な状況」と呼ぶ、通常は教会法上無効な婚姻関係にあるカップルについて論じていた。

 この305項でフランシスコは、「条件付けや情状酌量の要素があることから、客観的には罪の状態にあっても―主観的には罪の意識がない、あるいは完全にはそうではない場合でも―その人は神の恵みの中に生き、愛し、恵みと愛の生活の中で成長し、そのために教会の助けを受けることができるのです」と述べて居られたが、論争の的となったのは、その段落に付された脚注、すなわち脚注番号351だ。

 この脚注には、「特定のケースにおいては… 秘跡による助けが含まれることもある」とされている。多くの関係者は、この主張を、「無効な結婚をしている夫婦が性的に結ばれている限り、秘跡を受けることはできない、という長年にわたるカトリックの定めを実質的に無効にするもの」と受け止めた。

 そして、4人の枢機卿がフランシスコ教皇に対し、この一節の真意を明確にするよう求める5つの『ドゥビア』(一連の質問)を送ったが、フランシスコは、これらの質問に答えることはなかった。少なくとも直接的に、あるいは自身の名義で答えることはなかったのだが、時折、側近や他の人々から寄せられた数多くの意見のうちのどれか一つに同意しているかのような印象を与える発言や行動をとったり、インタビューで批判者たちの反応について「眠れなくなるほど気にしてはいない」と述べたりはされていた。

 今、それから10年が経ち、フランシスコ教皇の後継者であり、在位1年目の新教皇であるレオ14世は、「2026年10月に世界各国の司教協議会会長をローマに招集する」という決定を発表した。「今日の家庭に福音を宣べ伝えるために取るべき措置」を見極めるのが狙いだ。教皇レオ14世の書簡によると、10月の会議は『Amoris Laetitia」を参照し、「世界各地の教会で現在行われている取り組みを考慮に入れて行われる」という。

 書簡では、物議を醸した脚注がある第8章についても具体的に言及されており、AP通信は「教皇レオ、民事再婚後の聖体拝領に関するフランシスコの2016年の分裂を招く文書を支持」と報じたが、実際にはレオ教皇は、法的に認められていない結婚関係にある人々への秘跡へのアクセスに関する記述には言及しなかった。小説ほどの長さがある文書の中の、全23ページに及ぶ第8章にある脚注に過ぎなかった。 レオ教皇の書簡は、子供の教育の改善について述べた第7章にも言及している(とはいえ、誰も興味を示していないようだが。)

 いずれにしても、何かが動き出している。だが一体、何が動き出しているのだろうか? 就任以来、人々は。新教皇の言動について注視してきた。

 
 フランシスコ教皇は、カトリック教会で”物議を醸す存在”だった。高位聖職者の”リベラル”派に親和的で、”保守的”な前任者たちとは根本的に異なる道を歩み、質問に対する気さくな返答で頻繁に物議を醸してきました。”型破りな教皇”を自ら演出し、それを証明するかのように新聞記事の見出しを飾り続けた、と言っても過言ではない。メディアの世界で言うところの「記事のネタには最適」な人物だった。 そして、12年間にわたってカトリック教会をリードされ、レオ14世を選出したコンクラーベで投票権を持つ枢機卿の大多数を任命していた。だから、レオ14世の在位1年目において大きな注目を集めてきたのは、「新教皇は前任者と同じようになるのか、それともより保守的な立場をとるのか」という点だった。バチカンの動向を注視する人々は、レオ14世教皇の在位初期の行方を「読み解く」べく、その一言一句、一挙手一投足を綿密に分析してきた。

 

 

 教皇レオ14世は昨年5月の就任からこれまで、慎重な姿勢を貫き、フランシスコ教皇の言葉を頻繁に引用する一方で、ベネディクト16世や聖ヨハネ・パウロ2世の言葉も引用してきた。19日のメッセージの中で、レオ教皇はヨハネ・パウロ二世の1981年の使徒的勧告『 Familiaris Consortio』に明確に言及した。この勧告は家族に関する、フランシスコの勧告に先立つ使徒的勧告であり、多くの観察者(全員がフランシスコ教皇の執拗な批判者というわけではない)の目には、フランシスコ教皇によって軽視されたものと見なされていたものだった。

 レオ教皇による世界の司教協議会会長への会議の呼びかけは、間違いなく「シノダル(共働性)の実践」の一つだ。教皇は、言葉の上では「互いに耳を傾け合いながら前進する」ための「シノダルの識別」を呼びかけており、それはフランシスコの『Amoris Laetitia』に照らし、世界各地の教会で現在行われていることを考慮に入れつつ、「今日の家庭に福音を宣べ伝えるために取るべき措置」に向けたものだ。それは、まさにフランシスコの教えそのものと言える。

 一方で、この10月に予定される会合は、いかなる意味でも世界代表司教会議(シノドス)の正式な会議とは見なされないもののようだ。少なくとも教皇の所管には、シノドスについての言及はない。シノドスの臨時総会-司教協議会会長たちが主要な参加者となるだろう―であれば、少なくとも2週間は続くはずだ。だから、10月の会合をめぐっては、様々な憶測が飛び交っている。

 

 

 10年前に発表されたフランシスコ教皇の使徒的勧告は長文かつ詳細なもので、現代の教会が直面する家庭と結婚の問題を提示していたが、この本一冊分の文書に関する報道や、カトリックの論客たちの反応は、文字通り”ある脚注”によって影がくなった。(皮肉屋の中には、カトリック教会初のイエズス会出身の教皇が、この問題に関して、”イエズス会的”なやり方を取っている、と指摘する者もいた。)

 教皇レオ14世は、自らに好機を創出しようとしているのかもしれない。つまり、『Amoris Laetitia』に含まれる、ある章の1段落にある1文や、それに付随していた1つの脚注以外の、文字通り「その他すべて」のうち、少なくとも一部を浮き彫りにするためにだ。

 新教皇は、『Amoris Laetitia』第8章の悪名高い一節や、それが引き起こした論争について、明示的に言及することを厳格に避けてきたが、カトリックの結婚の聖性については言及した。今年1月26日、主に婚姻無効の案件を扱うバチカンの裁判所であるローマ・ロタに対し、教皇は、「正義の真理と愛徳との密接なつながりについて、いくつかの考察を提示したい」と述べた。そして、「これらは対立する二つの原則ではなく、また純粋に実際的な基準に従ってバランスを取るべき価値でもない。これらは本質的に結びついた二つの側面であり、愛であり真理である神の神秘そのものの中に、最も深い調和を見出すのです」と語っていた。

 

 

 教皇は、客観的な真理の要求と愛の配慮との間にしばしば生じる「弁証法的緊張」について語っている。「信徒たちの、しばしば困難に満ちた浮き沈みに過度に同調することで、真理が危険なほど相対化されてしまうリスクがあるのです… 実際、誤解された同情は、たとえ表面的には牧会的熱意に動機づけられているように見えても、司法職に固有の真理を明らかにするという不可欠な側面を覆い隠してしまう危険性があります」と裁判官たちに警告した。

 この「誤解された思いやり」という言葉は、特に注意深い観察者の関心を引いたかもしれない。なぜなら、それはフランシスコ教皇に対する”穏健な批判者”たちが、悪名高い脚注351の表現に帰した可能性のある動機の一つを要約しているからだ。しかし、レオ教皇は、この問題を専門の法学者たちに向けた専門的な演説の中で語って似すぎない。。

 

 

 10月の会合を告知する教皇の書簡の中にも、興味深い兆候がいくつか見受けられる。「私たちの時代は急速な変化に特徴づけられています… その変化は10年以上も前から、主が福音の宣教と証し、という教会の使命に参加する任務を託された家庭に対し、特別な司牧的配慮を払うことを必要する、というものでした」と。

 念のため申し添えると、教皇の書簡の最後には、前述の1981年の『Familiaris Consortio』についての独自の脚注が付いている。

 また、現代の家族が直面する課題に対する教会の取り組みについて、「主が結婚と家庭生活に招かれる人々が、キリストにおいて夫婦の愛を十分に生きることができるよう、また、若者たちが教会の中で結婚という召命の美しさに惹かれることができるよう、その取り組みは刷新され、深められなければなりません」とも語っているが、書簡のこの一節には、一切脚注が付けられていない。

 カトリック信徒にとって、10月の会議の前に、教皇が提示する「兆し」を読み解くための期間が7か月ある。その間、常に念頭に置いておくべきことは、結局のところ、離婚して民事再婚した人々への聖体拝領の問題は、その文書の脚注にすらならない可能性がある、ということだ。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年3月22日

・教皇レオ14世の最初の降誕祭、「平和のクリスマス」の一連の行事

Mosaic created by Italian artist Alberto Salietti for the papal apartment in 1955 and featured on the Pope's Christmas cardMosaic created by Italian artist Alberto Salietti for the papal apartment in 1955 and featured on the Pope’s Christmas card 

The Pope's Christmas card

 23日、カステル・ガンドルフォのヴィラ・バルベリーニの外で記者団の質問に答えた際、教皇は善意ある人々に対し「少なくとも救い主の誕生の祭日には、一日だけでも平和が守られるように」と訴えた。この「武装せず、武装解除させる」平和は、教皇選出直後の5月8日に聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーに初めて姿を現された際にも呼びかけたものだ。

 

降誕祭から大晦日にかけて

 

 教皇が主宰する降誕祭の一連の行事は、24日午後10時、聖ペトロ大聖堂で主の降誕の深夜のミサから始まる。韓国、インド、モザンビーク、パラグアイ、ポーランド、ウクライナから集まった10人の子供たちが花を捧げ、大聖堂内の降誕の場面へ向かう行列で教皇に同行する。

 翌25日には、再び大聖堂で午前10時からミサを捧げられる。教皇は、前任者のフランシスコ教皇やベネディクト14世がなさらなかった主の降誕の当日ミサを復活させた。1994年12月25日の聖ヨハネ・パウロ2世によるミサ以来のものだ。

 また25日には、教皇はサン・ピエトロ大聖堂中央バルコニーから。伝統的な「ウルビ・エト・オルビ」祝福を宣言される。

 続いて26日、教会の最初の殉教者である聖ステファノの祝日には、教皇レオは聖ペトロ広場で、正午の祈りを唱えられる。同様に28日の聖家族の祝日にも行う。

 今年の最後の日、31日には、教皇は午前中に一般謁見をされる。大晦日に一般謁見が行われるのは50年前の1975年、聖パウロ6世教皇によるもの以来。同日午後5時、教皇は一年の感謝を込めて第一晩課と『テ・デウム』を司式される。

新年の行事と「希望の聖年」の閉幕

 

 新年の年1月1日、「神の母マリアの祝日」に、教皇は午前10時に聖ペトロ大聖堂で第59回「世界平和の日」ミサを捧げる。続いて、正午の祈りを唱えられる。4日の主日(日本などは「主の公現」の祝日)にも同様になさる。

 続いて6日は「主の公現」の祭日。教皇は午前9時30分にミサを司式され、その後に聖ペトロ大聖堂の聖なる扉が閉じられ、2025年の「希望の聖年」の幕が閉じられる。

 最後に、11日の「主の洗礼」の祝日には、教皇はシスティーナ礼拝堂でミサを捧げ、数人の子供たちに洗礼を授けられる予定だ。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年12月25日

改〇教皇説教師の降誕節講話第3回「教会が、神を知ろうとする歩みの中で、出会いを育めますように」

Father Roberto Pasolini delivers the final Advent sermon for 2025Father Roberto Pasolini delivers the final Advent sermon for 2025  (@VATICAN MEDIA)

(2025.12.19  Vatican News    Tiziana Campisi)

 

 「救いの普遍性:条件なき希望」をテーマとする3回目の待降節瞑想が、教皇出席のもと19日朝にバチカンのパウロ6世ホールで行われた。教皇説教師ロベルト・パゾリーニ神父は講話の中で、「未知なるものへ大胆に心を開いた三賢者の姿勢」に焦点を当てた。

 

 

*キリストの到来を、迎え入れ、広め、世界に捧げるべき光と認識する

 

 講話の冒頭で神父は、「イエス・キリストの到来を、迎え入れ、広め、世界に捧げるべき光として認識することは、クリスマスと聖年が私たちに挑戦を促す課題です」と指摘。

 救いの普遍的顕現、すなわち「真実の光」であるキリストに注意を向け、「キリストは、人間の経験の複雑さ全体を照らし、明らかにし、導くことのできる方であり、人間の疑問や欲望、探求を消し去るのではなく、それらを結びつけ、清め、より豊かな意味へと導く方です」と述べた。

 そして、「世界がこの光を受け入れなかったのは、人々が、『光』よりも『闇』を愛したからです。問題は、光に対する、私たちの意志にある」とし、「光は、必要で、美しいものですが、同時に厳しいもの。光は、偽りを暴き、矛盾を露わにし、見たくないものを認めさせることから、私たちは、しばしばそれを避けようとするのです」と語った。

 続けて神父は、 「イエスは、悪を行う者と善を行う者を対比されるのではなく、悪を行う者と真理を実践する者を対比されます。これは、受肉の光を受け入れるために、既に善い者や完全である必要はなく、人生において真理を実践し始めること、隠れるのをやめ、ありのままの姿を見られることを受け入れることが求められる、ということを意味します。なぜなら、神は表面的な善よりも、私たちの真実に、関心を持たれるからです」と説いた。

 

 

*教会に必要なのは、不完全、矛盾を抱えつつキリストの光の中で生きる、ありのままの姿を見せること

 

 そして、「教会にとって、これは、より大きな真実への旅路に踏み出すことを意味します。道徳的純潔を誇示したり、非の打ちどころのない一貫性を主張することではなく、誠実さをもって自らを現すこと、そして、抵抗しようとすることや自分の脆さを認めることです」とし、「世界が求めるのは、欠点のない組織のイメージでも、何をすべきかを示す新たな説教でもありません。不完全さや矛盾を抱えながらも、キリストの光の中で真に生き、ありのままの姿を見せることを恐れない共同体との出会いにすることが必要なのです」と強調した。

 「例えば、三賢者たちは『主の道を歩む』という独自の方法で真実性を示しました。遠方からやって来て、クリスマスの光を受け入れるには一定の距離が必要だ、ということを示しました。そうするのは、より自由で、深い視線、驚きに満ちた眼差しで、物事をより良く見るためです… 現実を間近に見すぎる習慣は、私たちを、予測可能な判断や過度に固定化された解釈の囚人にしてしまう可能性がある」と指摘。

 このようなことは、教会活動の中心にいて、その責任を担う人々にも起こり得ます。なぜなら、役割や構造、決定事項、緊急課題に対する日常的な慣れが、視野を狭める可能性があるから。そうして、神が世界の生活に御自身を現す新たなしるしを、見逃す危険が生じるのです」と警告した。

*特に、守る責任、導く責任、見極める責任を負う者にとって重要なことは

 また、「クリスマスが、世に光が来たことを祝うのなら、主の公現は、この光は自らを押し付けるのではなく、見出されることを許す…暗闇と探求に満ちた歴史の内に現れ、そして、自らを動かす意志を持つ者たちに自らを捧げる御臨在です。しかし、誰もが同じように見るわけではなく、誰もが同時に認識するわけでもない。キリストの光は、自らを離れ、旅立ち、探求することを受け入れる者たちにのみ、出会いを許すからです。さらにこれは、教会の歩みにおいても同様です。真実であるものすべてが即座に明らかになるわけでもなく、福音的なものすべてが即座に効果を発揮するわけでもない。時に、真理は、『完全に理解される前に従うこと』を求めます」と語った。

 この点について、神父は東方の博士たちの体験を挙げ、「彼らは確固たる確信に支えられて進むのではなく、脆い星に導かれて進みます。しかしその星は、彼らを旅立たせるには十分なものでした… 東からベツレヘムへ来た賢者たちは、私たちにこう教えています—『人の姿をとった神の御顔に出会うためには、旅に出る必要がある』と。これはすべての信徒に当てはまることであり、特に、守る責任、導く責任、見極める責任を負う者にとって重要です。生き続ける渇望がなければ、最も高貴な奉仕でさえ、反復的で自己完結的になり、驚きを失う危険があります」と注意した。

 そして、「賢者たちを導いた星は、同時に、神が歴史の中に御自身を現し続ける、控えめな招きのしるしでもあります。イスラエルの聖書を知らないが天を読み解いた賢者たちは、神が、予期せぬ道、辺境の体験、現実との接触から生じる問いかけを通して語りかけ、その声を待つことも教えてくれます」と付け加えた。

 

*主がおられる場所を知りながら、その方向へ踏み出す力や勇気を持たないことはないか

 三賢者の物語から浮かび上がるもう一つの重要な側面は、「探究の姿勢」だ。神父は「キリストを求めて旅立つことを拒み、じっと留まることは、確信と確立された習慣で構成され、一見安心できる立場に落ち着く誘惑へとつながりかねません。それは時を経て、内面の不動状態へと変容する危険性をはらみ、しばしば自覚することなく、私たちを徐々に孤立させていくのです」と警告。

 「ヘロデ王の話がこれに該当します。彼は注意深く振る舞う—問い、計算し、計画する—ものの、ベツレヘムへ向かいません。起こりうる出来事のリスクと驚きを受け入れず、三博士への派遣任務を委ね、結果の報告を受ける権利を留保したのです。これは、自らをさらけ出すことなく全てを知りたがり、真の関与に伴う結果から守られたままでいたい人々の態度です」とし、「真の関与」を欠いた「知識の豊富さ」への警戒を求めた。

 「私たちは多くのことを知っていますが、距離を置いたままです。予期せぬことから身を守る立場に守られ、現実に触れさせずに観察しているのです」。

 こうして、教会においても、「教義を深く知り、伝統を守り、典礼を丁寧に執り行いながらも、静止したままの状態に陥ることがある」と指摘。「エルサレムの律法学者たちのように、私たちもまた、主が今もなおおられる場所―辺境の地、貧しい人々の間、歴史の傷跡の中に―を知りながら、その方向へ踏み出す力や勇気を見出せないことがあるのです」と警鐘を鳴らした。

*勇気を持って立ち上がり、表に出て、相手に耳を傾けよう

 要するに、神に出会うためには、「最初のステップは常に立ち上がること、すなわち、私たちの内なる避難所、安全地帯、確立された物事の見方から離れることです」と強調。「立ち上がるには勇気が必要です。それは、私たちを守りながらも動けなくさせる座りっぱなしの生活様式を捨て、旅の疲労を受け入れ、まだ明らかではない不確実性に自らをさらすことを意味します」と述べ、三賢者が故郷を離れ、「保証のない距離を、かすかで控えめなしるしだけを頼りに」幼子イエスを目指したように、何を見つけるか分からなくても、先導する光を信頼したこと」を例に挙げた。「これは希望を持つことを意味します」。

 神父はまた、三賢者の謙虚さにも言及。ベツレヘムに到着した彼らは幼子にひれ伏し、再び立ち上がり、探求し、神秘に自らを開いた。「立ち上がり、そしてひざまずくこと、これが信仰の動きです。私たちは、自らを立ち上がらせ、自己の外へ踏み出すのであり、自己を中心に置くためではありません。そして自らを低くするのです。なぜなら、出会うものは、「私たちの制御を超えていると気づくからです」と述べた神父は、「これは神との関係において真実であると同時に、日々の関係性においても真実です… 相手が私たちを驚かせたり、失望させたり、変化したりする時にこそ、自らの見解を押し付けることを止め、真に耳を傾けることを学ぶ必要があるのです」と説いた。

 続けて、「さらに視野を広げれば、これは教会にも当てはまります。教会は、動き、外へ出て、自分から遠く離れた人々や状況と出会うよう召されていると同時に、立ち止まり、視線を低くし、すべてが教会に属するわけでも、支配できるわけでもないことを認めることも、求められているのです。そうすることで、初めて、救いの賜物が、普遍的なものとなり得るのです。教会が自らの安全地帯を離れ、他者の人生を敬意を持って見つめ、そこにも、しばしば予期せぬ形で、キリストの光の一端が輝いていることを認めるように」と語った。

 

 

*私たちは単に生き延びるため、時を過ごすためにこの世に生まれたのではない、すなわち神の子としての命を得るためだ

 

 講話の最後に神父は、「私たちに考えを促すのは『神が、私たちの肉体に宿ることを選ばれたのなら、あらゆる人の命は、消すことのできない光と召命と価値をその内に宿している』ということです。そうして、私たちは、こう結論づける必要があるでしょう-『私たちは単に生き延びるため、あるいは可能な限り最善の方法で時間を過ごすためにこの世に生まれたのではない』と。そうではなくて、『より偉大な命、すなわち神の子としての命を得るために』です… したがって、教会の使命は『キリストの光を世界に差し伸べること』にある。それは、押し付けたり守ったりするものではなく、『差し出されるべき存在』として、誰もが近づけるようにすることです」と指摘。

 「この観点から、宣教とは『出会いを強要する』ことではなく、『出会いを可能にする』ことです。すべての人にキリストの臨在を捧げる教会は、その光を独占せず、反射します。支配するために中心に立つのではなく、引き寄せるために立つのです。まさにそのために、教会は『出会いの場』となり、誰もがキリストを認め、その御前で自らの人生の意味を再発見できる場所となるのです」と強調した。

 そして、この視点は、私たちの宣教のこれまでの習慣を再考することを迫ります。私たちはしばしば、福音宣教とは『欠けているものを持ち込み、空虚を埋め、誤りを正すことだ』と想像しがちです。しかし公現は、別の道を示しています。それは、『他者がすでに内に宿る光、すでに備えている尊厳、すでに持っている賜物を認識する手助けをする道』です。したがって、教会の普遍性とは、キリストを守り、すべての人にキリストを捧げることにあります。それは、『美と善と真理がすでに各人の内に存在し、キリストにおいて成就し、その最も深い意味を見出すよう召されている』という確信をもって、行われるものです」と言明。

 講話の結びをこう述べた—「クリスマスの真の光が『すべての人を照らす』のは、まさに一人ひとりに、その人自身の真実、その人自身の召命、その人自身の神への似姿を示し得るからなのです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年12月20日

〇教皇説教師の待降節黙想・第2回「私たちはどのような『一致』、『信頼できる交わり』を世界に証しすべきか」

Fr. Pasolini delivers his second Advent meditationFr. Pasolini delivers his second Advent meditation  (Vatican Media)

 

・『差異』こそが、『存在』の持つ基本ルール

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年12月13日

〇教皇説教師の待降節黙想・第1回「教会が希望を新たに燃え立たせる時、何よりも終末における主の再臨を黙想する時」

 

 以下、説教の要旨。・・・・・・・・ 待降節は、私たちが「待ちつつ、同時に穏やかで積極的な警戒をもって主の到来を促すよう招かれている」瞬間なのです。

*恵みを認識する

 

「Parousia(パラウシア)」とは、福音記者マタイが福音書第24章で四度用いた用語です。この言葉には二重の意味があります。すなわち「臨在」と「到来」の両方を指すのです。

 イエスはご自身の来臨への期待を、大洪水前のノアの時代になぞらえられました。当時は日常生活が営まれ、ノアただ一人だけが救いの器である箱舟を建造していた時代です。この物語は、現代人が認識すべき本質を理解するために必要な問いを投げかけます。新たな複雑な課題に直面する中、教会は変革の時代において救いの秘跡であり続けるよう召されているのです。

 長年の不正と傷ついた記憶が癒されない限り、多くの地域で平和は幻のままであり、西洋文化においては超越性の感覚が弱まり、効率・富・技術の偶像によって押し潰されています。人工知能の到来は、限界も超越性もない人間という誘惑を増幅させます。

*人類を信頼する神の神秘

 

 しかしながら、認識だけでは不十分です。「神の王国が歴史の中で進み続ける方向性」を自覚し、洗礼で授かった預言的資質に立ち返らねばなりません。同様に、神の恵み、すなわち「教会が謙虚に祝し捧げる普遍的救いの賜物」を認識すべきです。それは「人間の生命が罪の重荷から解放され、死の恐怖から解き放たれるため」に与えられたものです。

 教会の奉仕者たちは、神に慣れすぎて当然のこととして受け取らないよう注意しなければなりません。したがって、各世代は「より良い日々がまだ訪れ得る、そして訪れなければならないという期待を胸に、揺るぎない信頼をもって創造物の前に立ち続けられる神という神秘」を自覚しなければなりません。

*悪の排除

 

 傷ついた被造物に寄り添う神の御顔を再発見するためには、主が人間の心に悪を見出した大洪水の物語に学ぶ必要があります。人間は単なる変化や進化によって悪を克服できません。真実は、人類が自己実現するだけでなく、救われる必要があるということです。

 悪は単に赦されるだけではいけません。それは消し去らねばなりません。そうして初めて、生命はその真実と美しさの中で花開くことができるのです。

 現代の人類が浸っているキャンセル・カルチャーにおける「消し去る」とは、単に全てを破壊し、他者における厄介なものを排除することではありません。私たちは毎日、罪悪感もなく、害を与えることもなく、多くのものを消し去っています。メッセージを削除し、不要なファイルを消し、文書の間違いを修正し、汚れや痕跡、負債を消すのです。むしろ、こうした行為の多くは、人間関係を成熟させ、世界を生きていくに値する場所とするために必要なのです。」

 待降節における消去とは、自らの脆さから出発し、神に心を開き、癒やしていただくことを意味します。

*神を中心に戻すことで、生命は花開く

 

 主は、ノアを見出したように、「神を求める賢者」を見出すことに決して倦みません。ノアは主の恵みを認識したのです。箱舟の男の中に、神は消し去り、新たに始める可能性を見出されます。「人が真の神の御前に生きることに立ち返って初めて、歴史は真に変わるのです。洪水の物語は、私たちが天を再建するとき、すなわち神を中心に戻すときにのみ、生命が再び繁栄することを思い出させてくれます。

 ですから、洪水は単なる破壊ではなく、創造の解体という瞬間を通じた再創造への移行なのです…それは神が確信をもって始められた『ゲーム』そのものを救うための、一時的な『ゲームのルール変更』なのです。

*害を与えない選択

 

 洪水はゆえに「逆説的な生命の再生」です。神は人類を見捨てず、契約のしるしとして雲に虹を掲げられます。主は非暴力の厳粛な宣言と共に武器を置かれます。

 大胆な比喩に思えるかもしれません。神とその恵みの現れについて語るには、ほとんど不適切にさえ感じられるでしょう。しかし、数千年の歴史と進化を経た今も、人類はその模範を真似る術を遠く及んでいない。実際、この地は今もなお、無数の弱く無防備な人々を休む間も与えません、残虐で終わりのない紛争によって引き裂かれ続けているのです。

 このため、能力を持ちながら自発的に他者を傷つけないことを選ぶ人々の決断は心強いものです。なぜなら彼らは、他者を受け入れることによってのみ、私たちの(互いとの)同盟が永続的で真実かつ自由なものとなる、と理解しているからです。

 

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

2025年12月6日

(評論)教皇の前でレバノンの若者たちが証ししたのは、「キリストが留まるために自らを消す」ことだった(Vatican News)

Pope Leo XIV engages with young people during his Apostolic Visit to LebanonPope Leo XIV engages with young people during his Apostolic Visit to Lebanon  (@Vatican Media)Editorial

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年12月3日

【トルコ・レバノン訪問を終えて】「バチカンの役割は、世界各地での和平交渉を”水面下”で働きかけ、武器を置くよう促すこと」ー帰途の機上記者会見で

 

「レバノンの持続的平和実現へ、関係指導者たちへの呼びかけを続ける」

 

 

 

「私を理解するための一冊は『“The practice of the presence of God( 神の臨在の実践)』」

 

 

「欧州にイスラム教を脅威とする人々がいることは承知、キリスト教徒とイスラム教徒が協力し合う必要」

 

 

 

「ドイツの『シノドスの道』、”文化適応”の配慮は必要だが、断絶や分裂があってはならない」

 

 

 

「私のモットー『il illo-唯一なるキリストにおいて、私たちは皆ひとつ』を若者たちに、そして世界の人々に」

 

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年12月3日

【教皇レバノン訪問最終日】「平和を目標としてではなく、道として選ぼう!」ーベイルートを発つ前の歓送式典で

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年12月2日

【教皇レバノン訪問最終日】「どんな困難に直面しても、勇気を保ち続けよう!」-教皇、レバノンの信徒たちにアピール

Pope Leo appeals for peace as he concludes Mass at the Beirut WaterfrontPope Leo appeals for peace as he concludes Mass at the Beirut Waterfront  (@Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年12月2日

【教皇レバノン訪問最終日】「レバノンよ、立ち上がれ!正義と兄弟愛の故郷、レバント全域への平和の預言的なしるしとなれ!」教皇、ミサで呼びかけ

 

(2025.12.2  Vatican News   Devin Watkins)

  レバノン訪問最終日の2日、教皇レオ14世はベイルートのウォーターフロントで約12万人のキリスト教信者たちと共にミサを捧げ、「心の武装を解くように。平和と正義が支配する新たな統一レバノンを築くために」と呼びかけられた。

 ミサの冒頭、アンティオキア・ギリシャ・メルキト総主教ユーセフ・アブシは、レバノンのカトリック教徒の大多数が東方教会に属することを指摘。教皇に対して、東方典礼カトリック教徒への配慮と、レバノンに喜びと平和のメッセージをもたらしたことに感謝を表明した。

 説教で教皇は、レバノンで受けた歓喜に満ちた歓迎を受けたことを感謝され、訪問を許された神を賛美。「多くの人が日常生活で困難な状況に直面しているにもかかわらず、キリスト教徒は常に賛美と感謝の態度を育まねばなりません」と説かれた。

 教皇は聖書で歌われるレバノンの素晴らしさに感動される一方で、「この素晴らしさが、貧困と苦しみ、貴国の歴史に刻まれた傷によって覆い隠されている… あなたがたを苦しめる数多くの問題、脆弱で不安定な政治状況、重くのしかかる深刻な経済危機、そして古代の恐怖を再び呼び覚ました暴力と紛争によっても覆い隠されています」と心を痛められた。

 そして、「こうした懸念や問題の中で、私たちは失望に感謝を押しつぶされ、不安に希望を押しつぶされるかもしれません。しかし主の言葉は、夜の中にある小さな輝く光を見つけ出すよう私たちを招きます。それは感謝の心を開くためであり、この地のために共に取り組むように、私たちを奮い立たせるためです」と強調。

 さらに、「イエスが父なる神に感謝を捧げるのは、その非凡な御業のためではなく、小さな者たち、謙虚な者たちに御自身を現されたためです」とされ、「神の王国は、預言者イザヤによって『幹から生える小さな枝』と表現され、死の只中に再生を約束する小さな希望のしるし。これは、苦難の時期にあっても、芽生え成長する小さな若芽を認識できる目を持ちなさい、という私たちへの示唆でもあります」と語られた。

 また教皇は、「今なおレバノンの夜に、小さな光が輝き始めています… 特にあなたがたの家族に根ざし、キリスト教学校によって育まれた誠実で真摯な信仰がそれです」とされ、人々の物質的・精神的必要に応えようとする教会の多くの教区や運動、そしてレバノン社Around 120,000 faithful attended the Mass at the Beirut Waterfront会で慈善事業を行い、福音を広める数多くの司祭や奉献生活者の活動を挙げられた。

 同時に、教皇は「感謝は、内省的で自己中心的な慰めに留まってはなりません。それは私たちを回心へと導き、希望と愛の約束の中で生きるものであるべきです… 私たちは皆、これらの芽を育むように召されています。落胆せず、暴力の論理や金銭の偶像崇拝に屈せず、広がる悪に直面して諦観に陥ってはなりません」と忠告された。

 続けて教皇はレバノン国民に対し、「この国がかつての栄光を取り戻すために、自分たちの役割を果たすよに」と呼びかけ、「心から武装を解くことこそ、平和への唯一の道。民族や政治的分断という鎧を脱ぎ捨て、宗教的告白を相互の出会いに向けて開き、平和と正義が支配し、すべての人々が互いを兄弟姉妹として認める統一されたレバノンの夢を心に再び呼び起こしてください」と訴えられた。

 説教の最後に教皇は、レバノン国民に対し、神が彼らの手に託した夢を育むよう励まされ、苦難を耐え忍び、希望を持ち続けるよう祈られた。そして、こう結ばれた—「レバノンよ、立ち上がれ!正義と兄弟愛の故郷となれ!レバント(東部地中海沿岸の地域を指す歴史的な名称)全域への平和の預言的なしるしとなれ!」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年12月2日

【教皇レバノン訪問最終日】「イエスはこの場所に宿っておられる、最も弱い立場の人々を忘れないように」-教皇、中東最大の精神障害者病院を訪問

Pope Leo visits the "De la Croix" Hospital in LebanonPope Leo visits the “De la Croix” Hospital in Lebanon  (@Vatican Media)

*弱き者を忘れないように

 

さらに教皇は、病院で行われている活動は「全ての人々、自国のみならず人類全体への明確な戒め。。最も弱い立場にある者を忘れてはなりません」と語られ、「貧困や脆弱性の現実を無視し、偽りの幸福感にしがみついていては、前進する社会は築けません。特にキリスト者として、主イエスの教会として、私たちは、貧しい者たちの世話をするよう召されているのです。これは福音書が一人ひとりに向けた呼びかけです」と説かれた。

 最後に教皇は、集まった全ての人々に、「神が皆に、心を寄せていること」を思い起こさせ、「神は、あなたをご自分の手のひらに載せ、愛をもって共に歩み、あなたを気遣う人々の手と笑顔を通して、その優しさを与えてくださる。一人ひとりに、御子として愛し、気にかけている、と告げておられます。このことを、決してこれを忘れないように」と強く訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年12月2日

【教皇レバノン訪問最終日】教皇、2020年のベイルート港爆発現場で犠牲者の家族と共に祈られる

Pope Leo XIV at the site of the Port of Beirut explosionPope Leo XIV at the site of the Port of Beirut explosion  (@Vatican Media)

*教皇が訪れた地は「犠牲者の遺骸と血が染みついた場所」

 

レバノン国民の生活向上を目指すベイルート財団の理事、ナダ・アブデルサテルは、巻き毛の2歳の男児アイザックの写真を持っていた。彼は最年少の犠牲者だった。

 「私は彼の家族を代表しています。彼は赤ん坊で、爆発で亡くなった時、自宅の椅子に座っていました。アイザックはオーストラリア人。両親もオーストラリア人で、たまたまその時にレバノンにいたのです」とVatican Newsに語るアブデルサテルは、「彼らは私に、今日ここに来て、『アイザックの魂と家族が教皇の祝福を受けられるようにしてほしい』と頼んだのです」と説明した。

 彼女は、犠牲者全員の写真がプリントされた白黒のスカーフを持参し、教皇レオ14世に贈ることを望んでいた。「私たちは教皇フランシスコにも一つ贈りました。教皇レオのこの聖地訪問を記念し、犠牲者の遺骨と血が眠るこの地を祝福するために訪れたことを感謝する意味で、これを贈りたいのです」と述べた。

Nada Abdelsater, Cecile Rukoz and the scarf with the image of the victims

Pope Leo prays with victims’ families at Beirut blast site

On the last day of his Apostolic Visit to Lebanon, Pope Leo XIV prays silently at the site of the 2020 explosion in the Port of Beirut that killed over 200 people.

Silence, heavy with the memories of 4 August 2020, hung over the Port of Beirut on Tuesday.

On that day, the Lebanese capital had been filled with chaos, as an explosion killed more than 200 people, wounded 7,000, and left 300,000 without homes, a tragedy that deepened the political and economic crises already burdening the population.

Yet, on 2 December, the only sounds were the whir of helicopters overhead and the clicks of camera shutters, as Pope Leo XIV stood for several minutes before the monument bearing the names of all the victims as the world looked on.

He then lit a candle, bent to touch a wreath of red roses placed at its base, and raised his hands in prayer.

Behind him were piles of rubble from the blast, and standing against the grey sky was the tattered structure of the grain silos where the explosion originated.

Between the Pope and the debris were the families of victims and survivors from the blast, holding photos of their loved ones.

After praying, the Pope greeted some of them. To this day, almost 6 years on, those responsible for the blast have still not been held accountable.

Pope in land “that has the remains and blood of our victims”

Pope Leo XIV with families of the victims   (@Vatican Media)

Nada Abdelsater, a board member of the Beirut Foundation, which strives to improve the life of the Lebanese people, held in her hand the photo of curly-haired Isaac, a two-year-old boy, the youngest victim.

“I’m representing his family,” she told Vatican News. “He was a baby and in his chair at home when he was killed in the blast. Isaac was Australian; his parents are Australian, they happened to be in Lebanon at the time.”.

“They specifically asked me to be here today so that Isaac’s soul and his family can be blessed by Pope Leo,” she said.

Ms. Abdelsater brought a black-and-white scarf printed with the photos of all the victims, hoping to give it to Pope Leo XIV.

“We gave one to Pope Francis, and we want to give this to Pope Leo as a way to mark his visit to this blessed land, and to acknowledge that he came and blessed this land that holds the remains and the blood of our victims,” she said.

United in prayer in the hope of finding the truth

Next to her stood Cecile Rukoz, a lawyer who lost her 45-year-old younger brother, Joseph, in the blast as he was working inside the port. His young son was also present at the event.

“We are very grateful for this visit from the Pope because he wants to pray for the souls of our martyrs and victims,” Ms. Rukoz said. “We know that he raises his voice for justice, and we need justice for our brothers and all the victims of this explosion.”

Tatiana Hasrouty, a 24-year-old lawyer, recounted how she lost her father in the blast, as he had been working in the silos. For her, the Pope’s visit “seeks to send a message of resilience.”

“I was one of the people who met Pope Francis [in 2024, ed.], and it gave us hope that he was looking at us, that he was listening to us. With the visit of Pope Leo, we now know that the Vatican sees us and feels our pain,” she said.

“He is standing here, in the place where most of the victims died, to pray, and that sends a message of hope to the world, because the families of the victims include not only Christians like us, but also Muslims,” she emphasized. “I think this is the greatest message he is giving us right now: to remain united in prayer and in the hope of finding the truth.”

Nohad Abdou, who lost her nephew, Jaques Baramachian, in the explosion, expressed the same desire. “We want justice; we want to know who is responsible,” she said, her voice breaking with emotion.

She pointed to a white building in the distance where her nephew had lived. “He was at home during the blast, and he passed away along with his friend.”

2025年12月2日

【教皇レバノン訪問第2日】「落胆するな、夢を見、計画を立て、善を行う時間はまだある」教皇、若者たちを激励

 

2025年12月2日

【教皇レバノン訪問第2日】「レバノンは宗教間対話の証人だ」-教皇、キリスト教、異宗教指導者たちと会見

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年12月2日

【教皇レバノン訪問第2日】「心からの回心無くして平和はない」-教皇、聖シャルベルの墓前で祈り

(2025.12.1 Vatican News)In the small stone grotto, the Pope prayed in front of the saint’s resting place

    レバノン訪問2日目の1日朝、教皇レオ14世は聖シャルベルの墓を訪れ、「聖人は、神なしで生きる者には祈りを、騒音の中で生きる者には沈黙を…富を追い求める者には貧しさを教えた」と語られた。

 レバノンでは、毎年、キリスト教徒、イスラム教徒を問わず、何千人もの巡礼者が、聖シャルベル・マクルーフを訪れ、墓前で祈りを捧げる。教皇は、聖マルアン修道院の正門で、修道院長、レバノン・マロン派修道会総長、レバノン大統領夫妻の出迎えを受けられた後、聖シャルベルの墓前で黙祷された。

 ハディ総長による歓迎の挨拶を受けた教皇の講話では、聖シャルベルについて「隠遁され、静かに生きられたが、その名声は世界中に広まりました」と讃え、この隠者が「聖霊によって形作られ、神を知らぬ者には祈りを、騒音に生きる者には沈黙を、見せかけに生きる者には謙虚さを、富を追い求める者には貧しさを教えるために遣わされたのです」と語られた。

*平和への呼びかけ

 レバノンは2019年以降、通貨崩壊、広範な貧困、公共サービスの崩壊、2020年のベイルート港爆発、イスラエルとの継続的な紛争などに苦しみ続けているが、教皇は「私たちは平和を願います。特にレバノンとレバント全域のために。私たちは四っています。聖人たちが我々に思い出させてくれるように。心からの回心なくして平和は存在しないのです」と強調。教会とレバノン、そして世界の願いを、聖シャルベルの執り成しに委ねられ、聖シャルベルへの祈りの唱和と教皇の祝福によって式典は閉幕した。

*教皇から修道院へ奉献用ランプの贈り物

 

  教皇はその後、手作りの銀と青銅の奉納用ランプを修道院に贈られ、「このランプを捧げるにあたって、レバノンとその民を聖シャルベルの保護に託します。彼らが常にキリストの光の中を歩むように。聖シャルベルという賜物を神に感謝しましょう!そして彼の記憶を守ってくれたことに感謝します。主の光の中を歩みましょう!」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

Pope Leo prays at tomb of Saint Charbel Makhlouf

On the second day of his Apostolic Visit to Lebanon, Pope Leo XIV visits the tomb of St. Charbel, saying he taught “prayer to those who live without God, silence to those who live amid noise … and poverty to those who pursue riches.”

Vatican News

Every year, thousands of pilgrims, Christians and Muslims alike, travel to Annaya, Lebanon to pray at the tomb of Saint Charbel Makhlouf.

This morning, December 1, Pope Leo XIV was among them.

At the main entrance to the Monastery of St. Maroun, which houses the tomb, the Pope was greeted by the monastery’s superior and the Superior General of the Lebanese Maronite Order, as well as Lebanon’s President and First Lady.

The Pope then prayed in silence before St. Charbel’s tomb, before a welcome speech was given by the Superior General, Abbot Mahfouz Hady.

Pope Leo delivers his speech at the tomb of St Charbel
Pope Leo delivers his speech at the tomb of St Charbel   (@Vatican Media)

In his own address, delivered in French, the Pope reflected on St. Charbel—“who lived hidden and silent, yet whose fame spread throughout the world”.

The Pope said the hermit had been “shaped by the Holy Spirit” to teach “prayer to those who live without God, silence to those who live amid noise, modesty to those who live for appearances, and poverty to those who pursue riches.”

A call for peace

In a country which since 2019 has been mired in a severe crisis—currency collapse, widespread poverty, failing public services, the 2020 Beirut port explosion, and ongoing conflict with Israel—the Pope brought a message of hope and peace.

“We ask for peace,” he said. “We implore it especially for Lebanon and for the whole Levant. But we know—and the saints remind us—that there is no peace without the conversion of hearts.”

Pope Leo XIV thus entrusted the needs of the Church, Lebanon, and the world to Saint Charbel’s intercession.

A recitation of a prayer to Saint Charbel and a papal blessing brought an end to the ceremony, which was attended by Lebanon’s President, Joseph Aoun, and his wife.

A gift from the Pope

Pope Leo then presented the monastery with a handcrafted silver-bronze votive lamp.

“In offering this lamp,” the Pope said, “I entrust Lebanon and its people to the protection of Saint Charbel, that they may always walk in the light of Christ. Let us thank God for the gift of Saint Charbel! And thank you for preserving his memory. Walk in the light of the Lord!”

2025年12月2日