シノドス総会第一会期・総括文書・日本語試訳終了・追加改訂あり(11月28日現在)

*「カトリック・あい」からお断り

 「世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第一会期の総括文書は、2023年10月29日に総会第一会議が閉幕した後、Vatican Newsには短い概要が同日に掲載されたのみのまま、時間が経過し、11月10日になって、ようやく英語版を含む公式の総括文書全文がバチカンの公式ホームページで確認されました。

 総会第一会期でどのような議論があり、どこまで参加者の意見が一致たのか、しなかったのか、提言にする内容はどうだっかのか、など、これからの私たちの”シノドスの道”の歩み、そして来年10月の総会第二会期につなぐ、極めて重要なものと考えます。このため、「カトリック・あい」では総括文書の全文の早期入手に努め、信頼できるルートからイタリア語の原文を基にした英語版全文を入手して、10月30日から、試訳ができた箇所から掲載を始め、日本語も有志の方々の協力を得て、試訳を行い、11月14日に終了、試訳全文を掲載しました。

 その中で、11月10日までに、バチカンから英語訳を含む公式文書が出されたことを確認し、入手しましたので、別途、公式英語版として掲載しました。既に試訳済みの箇所については、今後、公式英語版と比較、精査のうえ、必要であれば文章表現に修正を考えたいと思います。よろしくご理解お願いいたします。

 なお、お読みになっていて、誤訳あるいは活字の転換ミスなどがあれば、ご指摘いただければ幸いです(andynanjo@gmail.comあてに)。なお、文中の聖書の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用しています。

(代表・南條俊二)

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世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第一期(2023年10月4‐29日)

「使命においてシノダル(共働的)な教会」

(目次)

・はじめに

第1部 シノダルな教会の顔

1.シノダリティ: 経験と理解

2.三位一体によって集められ、送られる

3.信仰共同体に入る: キリスト教への入信

4.貧しい人々、教会の旅の主人公

5.教会はあらゆる階級、言語、民族、国家から

6.東方典礼教会とラテン典礼教会の伝統

 7.キリスト教一致への途上にあって

第2部 皆が弟子、皆が宣教師

8.教会は使命

 9.教会の活動と使命における女性

10. 奉献生活と信徒の集合体:カリスマのしるし

11.シノドス的教会における助祭と司祭

 12.教会の交わりにおける司教

 13.司教団の中のローマ司教。

第3部 絆を紡ぎ、共同体社会を作る

14.育成へシノドス的アプローチ

15.教会の識別力と未解決の問題

16. 耳を傾け、寄り添う教会のために

17.デジタル環境における福音宣教

18.参加団体

19.全教会の交わりにおける教会のグループ化

20.代表司教会議と教会会議

・旅を続けるにあたって

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(本文

・はじめに

(公式英語版をもとに2023年11月12日改訳)

 親愛なる姉妹、兄弟の皆さん、

 「私たちは皆… 一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受けています」(コリントの信徒への手紙Ⅰ・12章13節)— これは、2023年10月4日から28日まで「シノダル(共働的)な教会のために。交わり、参加、使命」をテーマに開かれたシノドス総会第1会期で私たちが得た、喜びと感謝に満ちた経験です。洗礼という共通の恵みによって、背景、言語、文化が様々に違っても、私たちは心を一つにし、魂を一つにしてこの総会の日々を過ごすことができました。

   聖歌隊のように、私たちはさまざまな声と魂を一致させて歌おうとしました。 聖霊は私たちに、神だけが生み出すことのできる調和を体験するようにしてくれました。それは引き裂かれ分断された世界における賜物であり、証しです。

   私たちが参加する今回の総会は、世界中で新旧の戦争が猛威を振るい、無数の犠牲者の不条理なドラマが見られる中で開かれました。 私たちの中で響く貧しい人たちの、避難を強いられた人たちの、暴力と気候変動の壊滅的な影響に苦しめられている人たちの叫び。

   このような人たちの叫びを、メディアを通してだけでなく、これらの悲劇に個人的に家族や人々を通して関わった多くの人々の証言を通して、私たちは聞いています。私たちは皆、常に、自分たちの教会がどのようにして和解、希望、正義、そして平和の道を育むことができるのかを考えながら、この叫びを、自分の心と祈りに取り込んでいます。

 今回の総会は、ローマで、私たちの信仰を確認したペテロの後継者(教皇)を中心に行われ、教皇は私たちの信仰を固め、使命に果敢に取り組むよう促されました。

   この総会の日々をエキュメニカルな徹夜祭で始めることができたのは恵みでした―ペトロの墓で、教皇とともに、教会の指導者たち、他のキリスト教諸宗派とキリスト生共同体の代表たちが共に祈ったのです。
一致は神の聖なる教会の中で静かに醸成されています。 私たちはそれを自分の目で見、喜びに満ちて証言します。 「兄弟が共に住むことは何という幸せ、何という麗しさ」(詩編133章1節)。

  教皇の求めで、総会では神の民のメンバーが共に、司教の周りに集いました。 司教たちは、皆一致し、ローマ司教(教皇)と共に、教会が交わりであることを証ししました。
信徒たち、修道者たち、助祭たちと司祭たちは、司教たちと共に、教会すべてと教会のすべての人が関わることを意図する歩みの証人となりました。

   彼らの参加は、総会が他と切り離されたひとつの催しではなく、”シノドスの道”において不可欠な部分であり、必要なステップであることを、思い起こさせました。
総会で表明された発言の多様さ、立場の数多さは、シノダリティ(共働性)を受け入れることを学び、それを実現するために最もふさわしいやり方を追い求める教会の姿を明らかにしました。

 私たちが、この総会に至る“シノドスの道”の旅を2021年10月9日に始めてから 2 年以上が経ちました。2021年10月9日に旅が始まった後、ペースは異なるものの、世界のすべての教会は、教区、国、大陸の各段階で「他者に耳を傾ける」プロセスに取り組み、その結果はそれぞれのとりまとめの文書に記録されました。

   (全世界レベルの)この総会は、教会全体が、識別をするために(これまでの各レベルで)祈りと対話=聖霊が私たちに求めているやり方―のうちに行われた討議の成果を受け取ることから始まりました。総会は、2024年10月の第二会期で作業を完成し、教皇にその成果を提出するまで続きます。

   教会の伝統に根ざした旅全体は、教会の伝統に基礎を置き、公会議の教えに照らして行われます。 実際、第二バチカン公会議は、世界と教会の分野に蒔かれた種のようなものでした。 それが発芽し成長する土壌は、信者たちの日常生活、あらゆる人々と文化の教会の経験、聖性についての多くの証言、そして神学者の考察でした。

 2021年から2024年の現在の“シノドス(の旅)″は、その種のエネルギーを引き出し、潜在的な可能性を発展させ続けています。この旅は、神の神秘と民としての教会についての第二バチカン公会議の教えを実践するよう、求められているのです。

   洗礼を受けたすべての人々が、さまざまな召命において、私たちが福音をより良く理解し実践できるよう助け、貢献したことを高く評価します。この意味で、それは公会議をさらに受け継ぎ、その霊感を育て、今日の世界のためにその預言的な力を再起動するという真の行為を成り立たせます。

 約1か月にわたる今総会の討議を経て、今、主は、私たちが(自分の担当する)教会に戻り、(総会での)私たちの働きの成果を皆さんに伝え、共に旅を続けるように、求めておられます。

   ここローマに集まった私たちは、人数は多くありませんでしたが、教皇が呼びかけられたシノドスの旅の狙いは、洗礼を受けたすべての人を関わらせることにあります。 私たちはそうなることを切望しており、その実現に全力を尽くすことを望んでいます。

 この総括文書で、私たちは、この総会の日々を特徴づける対話、祈り、そして討議に現れた主な要素を集めました。 私たちの個人的な物語は、どの構文も十分にとらえきれない生きた経験で、この総括文書を豊かなものにします。そうすることで私たちは、「耳と傾け」「沈黙し」「分かち合い」「祈る」経験のの豊かさを証言することができるでしょう。

   また、(他者の意見に)反論しようとする誘惑にすぐに負けず、異なる意見に耳を傾けるのは容易でない、ということにも私たちは共感するでしょう。 他者への贈り物として、そして絶対的なあるいは確かなものとしてではなく、貢献を申し出ることも同様です。

 しかし、主の恵みは、私たちをそれができるように導いてくださっています-限界があるにもかかわらず。そして、これは私たちにとって、真のシノダリティ(共働性)の経験でした。 実践することで、私たちはそれをよりよく理解し、その価値を把握しました。実際、私たちが理解したのは、多様なカリスマ、召命、奉仕活動の中で、洗礼を受けた人々として共に歩むことが、私たちの地域社会だけでなく、世界にとっても重要だ、ということです。

 福音的な連帯は、ランプのようなもので、「升の下に置くのではなく、家にあるすべてのものを照らすために燭台の上に置かれる」(マタイ福音書 5章15節 参照)必要があります。
今日、世界はこれまで以上に、この証しを必要としています。 私たちは、イエスの弟子として、傷ついた人類に神の愛と優しさを示し、伝える責任を果たすことを怠ってはなりません。

 今総会での討議は、Instrumentum Laboris(準備要綱)に書かれたロードマップに従って進められました。この要綱によって、総会は、シノダルな教会の特徴的なしるしと、そこに含まれる交わり、使命、参加の原動力について再考することができました。提示された課題の功罪について議論し、深い研究が必要なテーマを特定し、一連の初歩的ないくつかの提言を前に進めることができました。

   討議の進展状況を受け、総括文書は、準備要綱の内容すべてを、長々と繰り返し述べることはしていません。私たちが優先すべきと判断した問題とテーマに新たな弾みをつけています。 この総括文書は最終的な結論ではなく、進行中の識別の手段となるものです。

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 この総括文書は3部構成になっています。

 第1部は「シノドス的な教会の顔」を概説し、シノダリティ(共働性)の実践と理解、そしてその神学的根拠を提示します。ここでは、シノダリティのスタイルが、三位一体の観想に由来し、教会における統一性と多様性によって広がった霊的経験として、何よりも第一に示されます。

 「皆が弟子、皆が宣教師」と題された第 2 部は、教会の活動と使命に関わるすべての人々と、その他の人々との関係を扱います。 この部分では、シノダリティは、主に神の民の共同の旅として、また王国の到来に奉仕するカリスマと聖職の実りある対話として提示されます。

 第3 部には「絆を紡ぎ、共同体社会を作る」というタイトルが付けられています。 ここで、シノダリティは主に、諸教会間の交流と世界との対話を可能にする一連のプロセスと組織体のネットワークとして、提示されます。

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 3つの部のそれぞれの章は、それぞれ、総会の対話から生まれた「convergences(まとまったこと)」「matters for consideration( なお検討を要すること)」「proposals(提言)」に分けてまとめられています。

 「まとまったこと」は、熟考が示す具体的な点を特定し、私たちの(進むべき)道を見つけるのに役立つ地図のようなものです。

  「さらに検討を要すること」は、神学的、司牧的、正典的な理解を深め続ける必要があることについて要点をまとめたものです。取るべき方向をもっと良く理解するために、立ち止まる必要のある交差点のようなものです。

  「提言」は、進むことが可能な道を示しています。suggested(提案されているもの)、 recommended(推奨されているもの)、あるいは、requested with some strength and determination(一定の力と決意を込めて要請されているもの)もあります。

 来年10月の総会第2期までの期間、(世界各国の)司教協議会と東方カトリック教会の高位聖職者の機関は、現地の諸教会とシノドス事務局との間の連絡役として機能し、考察を進めるために重要な役割を果たすことになります。

 総会第1会期でまとまったところから出発して、最も緊急性が高いと考えられる問題や提言に焦点を当てることが求められています。司牧的、神学的な課題の深化を督励し、教会法上の含意を示すよう求められています。

 私たちは、ローマで共に働いた日々に経験した、互いに耳を傾け、誠実に意見を交わした雰囲気が、神の国の良い種の育成する奉仕によって、私たちの地域社会や世界を通して広がるよう、希望に支えられ、強い熱意を心から伝えます。

(ここまで、翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二・改訂)

 

第1部     シノダル(共働的)な教会の顔

1.シノダリティ(共働性):経験と理解

【一致 したこと】

a) 私たちは、教会のシノダル(共働的)な側面を新たに認識するよう招かれている。シノドス(代表司教会議)の実践は、新約聖書と初代教会で証明されています。その後、それらは異なるキリスト教会や伝統の中で特定の歴史的な形態をとるようになりました。第二バチカン公会議によって「改革」されたが、教皇フランシスコは教会に再びそれを更新*するよう勧めています。

  *注*updated:第2バチカン公会議は、ローマ教皇ヨハネ23世のもとで開かれ、後を継いだパウロ6世によって遂行されたカトリック教会公会議。公会議史上初めて世界五大陸から投票権を持つ参加者 (公会議教父) が集まり、まさに普遍公会議というにふさわしいものとなり、教会の現代化をテーマに多くの議論がなされ、教会憲章、典礼憲章、教義憲章はじめ多くの教令、宣言が出され、以後の教会の刷新の原動力となるなど、第2バチカン公会議は20世紀のカトリック教会において最も重要な出来事であり、現代に至るまで大きな影響力をもっている。したがって、「更新」や「改革」といった言葉が適切であると言える。

 2021年から2024年にかけての”シノドスの道”*も、このプロセスの一環です。神の聖なる民は、シノドスを通して、神のことばに根ざしつつ、喜びのうちに、時には疲労さえも伴う出会いの瞬間に織り込まれる「祈り、耳を傾け、語る」というシノダルな方法が、私たちは皆、キリストにある兄弟姉妹であるという深い自覚につながることを発見したのです。

*注*「Synod」という言葉は2021年10月に教皇フランシスコがその歩みを始められて以来、様々な意味に使われ、いまだに関係者の間でそれが続いている。「カトリック・あい」では、その意味を文脈の中で明確にするため、2021年10月からの小教区レベル、教区レベル、各国レベル、各地域(大陸)レベル、そして世界レベル(世界代表司教会議=シノドス=総会)に至る全体を「シノドスの道(synodal way, synodal path)」 とし、世界代表司教会議を「シノドス」、現在の総会を「世界代表司教会議(シノドス)総会」という表記で統一することで、訳の混乱が起きないように工夫した。

 それは、一人ひとりが洗礼によってもたらされた尊厳の担い手であり、福音化という共通の使命のための共同責任を担うように呼びかけられた、神の忠実な民としての私たちのアイデンティティに対する意識の高まりです。

b) このプロセスは、神の家であり家族である教会に対する私たちの経験と願いを新たにするものです。「シノダリティ」と「シノダル」という用語は、まさにこのような経験と、より人々に近く、官僚的でなく、もっと関わり合いのある教会への願いを表すものであり、より明確化される必要のある初歩的な理解を示しています。

 それは、若者たちに捧げられた2018年のシノドス総会*において、若者たちが「取り戻したい」と言明した教会です。

 *注*2018年10月28日 ローマに若者が300人参加した他、インターネットでも若者による意見が集められた。インターネットを通した質問書に、世界のおよそ10万人の青少年が回答を寄せた。

c) パウロ6世記念ホールで円卓を囲んで小グループに座るという、聖書の婚宴のイメージ(ヨハネの黙示録19章9節)に匹敵する配置で始まる総会の開催方法そのものが、シノドス教会を象徴しており、神の言葉を中心とするシノドスの源泉であり頂点である聖体のイメージです。その中で、異なる文化、言語、儀式、考え方、そして現実が、聖霊の導きの下、真摯な探求の中で共に実り豊かに関わることができるのです。

 *注*Paul VI Hall:1971年完成。ローマにある建物で、毎週水曜日朝の教皇の一般謁見の聖ペトロ広場の代わりとして利用される。

d) 私たちの中には、戦争、殉教、迫害、飢餓の犠牲となった人々の姉妹や兄弟がいた。シノドスのプロセスに参加することが不可能なことも多かった、これらの人々の苦境は、私たちの交流と祈りの中に入り込み、彼らとの交わりの感覚と平和をつくり出す者としての決意を育んでくれました。

 *注*In our midst:私たちの中に(この場に集まっている)「我々」とも訳する。

e) 総会では、このシノドスのプロセスの間に聖霊が教会に注いでくださった多くの賜物の中で、希望、癒し、和解、信頼の回復について頻繁に語られました。教会で虐待を受け、傷つけられてきた人々を含め、すべての人に耳を傾け、寄り添う姿勢は、長い間、見えないと感じてきた多くの人々を見えるようにしました。和解と正義に向けて、私たちはまだ長い道のりを歩まなければなりませんが、そのためには、そのような虐待を可能にした組織的な状況に対処し、具体的な懺悔の行動を起こすことが必要です。

f) 私たちは、”シノダリティ “という言葉が神の民の多くの人々にとって馴染みのない言葉であることを知っています。その中には、教会の教えが変更され、父による使徒信仰から遠ざかり、今日でさえも、神を求めて飢え渇いている人々の期待を裏切ることになるのではないかという危惧もあります。しかしながら、私たちは、シノダリティは生きた伝統のダイナミズムであると確信しています。

g) 教皇フランシスコは、代表民主主義の価値を低く評価することなく、シノドスが教会的・霊的な本質を欠いた多数決の審議機関となり、教会の本質的なヒエラルキーを危うくするのではないかという一部の人々の懸念に応えています。中には、変更を余儀なくされることを恐れる人もいれば、何も変わらず、生きている伝統のリズムで動く勇気があまりにも乏しくなることを恐れる人もいます。

 * 注*representative democracy 代表民主主義

 また、戸惑いや反発の中には、権力とそれに伴う特権を失うことへの恐怖が隠されていることもあるでしょう。いずれにせよ、どのような文化的背景においても、「シノダル(共働的」や 「シノダリティ (共働性)」という言葉は、交わり、宣教、参加を明確にする教会のあり方を示しています。この例として、アマゾン地域シノドス(代表司教会議=CEAMA)が挙げられますが、これは同地域における宣教的シノダル・プロセスの結果です。

h) シノダリティとは、キリスト者はキリストとともに、また全人類とともに御国に向かって歩むことや理解することができます。福音宣教を志すシノダリティは、教会生活のさまざまなレベルの集まり、互いの声に耳を傾けること、対話、共同体的な識別、キリストが聖霊のうちに生きてご自身を現存させてくださることの表現としての合意形成、差別化された共同責任において決定することを含みます。

i)経験と出会いを通して、私たちはこの認識を共にすることで成長してきました。第一は、私たちが、長年にわたって分かち合ってきた経験が正真正銘のキリスト教的なものであり、その豊かさと深さのすべてを受け入れるべきであるということです。第二は、「シノダル」と「シノダリティ」という言葉には、異なる文化においてその意味のレベルをより注意深く明確を必要とするというものでした。必要な明確化を施した際に、シノダルな視点は教会の未来を象徴するものであるという点で、実質的な一致が見られました。

【さらに検討を要すること】

j) すでに行われてきた内省的な作業に基づいて、司牧的な使い方から神学的、教会法的な使い方まで、さまざまなレベルでシノダリティの意味を明確にする必要があります。漠然としすぎたり汎用に聞こえたり、一時的なもののように思われるリスクを回避する必要があります。同様に、シノダリティと聖体拝領の関係、シノダリティと合議制の関係も明確にする必要があると考えられています。

k) 東方キリスト教の伝統とラテン語の伝統との間の会同の実践と理解の違いを、現在進行中の”シノドスの道”も含めて、両者の間の対話を促進することによって高めたいという願望が現れた。

*注*Encounters:出会い、遭遇。文脈に沿って、「対話」とした。

l) 特に、人々が共同体として共に歩むことに慣れている文化的背景におけるシノダルな生活の多くの表現が引き出されるべきである。このような観点から、シノダルの実践は、内向きな個人主義、ポピュリズムが分裂し、均質化し平坦化するグローバリゼーションに対する教会の預言的な対応の一環であると言えます。それはこれらの問題を解決するものではないが、希望に満ち、多様な視点を統合し、さらに探求され、照らされる必要のある、代替的なあり方と行動を提供する必要があると言えます。

*注*この総括文書は、「内向きな個人主義、ポピュリズム、グローバリゼーション」を社会的な否定的傾向だ、とし、教会におけるシノダルな生活の実践が、その対応であることを示唆している。それは、協力と一致を促進し、分裂と均質化に対抗することによって、希望に満ち、多様な視点を統合し、さらに探求・照明される必要がある存在だ、としている。

【提言】

m) 生きた経験の豊かさと深さから、シノダルの旅に参加する人々の数を増やし、これまでに現れた参加への障害や、一部の人々が抱いている不信感や恐れを克服することを優先事項として示します。

n) 今後1年間、助祭、司祭、司教がシノドスのプロセスにもっと積極的に参加する方法を開拓する必要がある。シノドス教会は、彼らの声、経験、貢献なしには成り立たない。私たちは、彼らの一部がシノダリティ化に抵抗する理由を理解する必要がある。

o) 最後に、シノドス文化がより世代を超えたものになる必要性が強く浮かび上がり、若者が家族、仲間、牧師たちと、デジタルコンテンツ(digital channels)を含めて自由に発言できる場が必要であることが示された。

p) 第二バチカン公会議以降の研究の豊かな継承と、特に国際神学委員会の『教会の生活と宣教におけるシノダリティに関する文書』(2018年)と『教会の生活におけるセンスス・フィデイ』(2014年)の文書*を活用しながら、来年の今総会第二会期に先立ち、シノダリティの概念と実践の用語的・概念的理解を深める神学的作業を適切な場で推進することを提言します。

*注*この二つの国際神学委員会の文書の日本語訳は今年5月に出版された「カトリック教会は刷新できるか」(田中昇など編・訳、教友社)でご覧になれる。

 

r)東方教会典礼法典の改訂の時期が来ているようである。したがって、そのための予備的研究を開始すべきなのです。

 

 

 

2.三位一体によって集められ、送られる

【一致したこと】

a) 第二バチカン公会議が言及しているように、教会は「父と子と聖霊の一致に基づいて一つに集められた民」です(第二バチカン公会議・教会憲章4項参照)

 御父は、御子の遣わしと聖霊の賜物を通して、我々を “私 “から “私たち ” へと移し、世界に尽くすように求められる交わりと宣教のダイナミズムに、関与させてくださるのです。シノダリティは、神が人類と出会うために訪れる三位一体的なダイナミズムを、霊的な態度や教会的なプロセスに翻訳*します。そのためには、洗礼を受けたすべての人が、それぞれの召命、神の恵み、聖職者の相互的な実践に献身することが必要です。

 そうすることによってのみ、教会は真の意味で、自分自身の中と世界との “対話 “となり(参照:Ecclesiam suam 67)、イエスに倣い**、すべての人間と肩を並べて歩むことができるのです。

*注*translates:ベネディクト16世著作「イエス・キリストの神」三位一体の神についての省察(訳:星野泰昭)において、「十字架の神秘に翻訳されなければなりません」としているのを参照。原文:Für uns Menschen heißt Schenken, Sichselbergeben, immer auch Kreuz.(Das trinitarische Ge- heimnis übersetzt sich in der Welt in ein Kreuzesgeheim- nis: Dort ist die Fruchtbarkeit, aus der der Heilige Geist kommt. (独)übersetztは(英)translateに相当する。

**the style of Jesus.:イエスのスタイルだと日本語だと軽く見えるので「イエスに倣い」とした。

b) その起源から、教会のシノドスの旅は、神がすべてのうちにすべてのものになられる時に、完全になされるであろう御国へと向けられています。教会的兄弟愛の証しと、最も貧しい人々への奉仕のための宣教的献身は、それらのしるしであり道具でもある神秘の証しには、決して及びません。

 教会は、自らを宣教の中心に据えるためにシノドスの構成を省みるのではなく、たとえその構成上の不完全さの中にあっても、御国の到来への奉仕を最もよく果たすために、シノドスの構成を省みるのです。教会のシノドスの旅の中心は、神の国とその最終的な完成にあります。教会は、自らを宣教の中心に据えるためではなく、たとえ不完全な状態であっても、神の国の到来によりよく奉仕するために、そのシノダル的な構成を振り返るのです。友愛に満ちた一致と、最も小さい人々への宣教的献身という教会の証しは、その御国のしるしであり、道具なのです。

c) キリスト教共同体の刷新*は、恵みの優位性を認識することによってのみ可能である。もし霊的な深みが欠けているのなら、シノダリティはうわべだけの「刷新」にとどまってしまいます。 私たちに求められているのは、他の場所で得た霊的経験を共同体のプロセスに反映させることだけでなく、共同体の友愛関係が神との真の交流の場であり、形であることをより深く経験することです。この意味において、シノダルの視点は、伝統の豊かな霊的な遺産を活かしつつ、その形式を新たにすることに貢献します。それは参加に開かれた祈り、共に生きるという識別、分かち合いから生まれ、奉仕として放たれる宣教的エネルギーなどです。

*注*renewal:三箇所あるが、文脈と日本語の自然さを優先して翻訳した。

 その起源から、教会における”シノドスの道”の歩みは、恵みの重要性を認識することによって、キリスト教共同体の刷新を志向しています。霊的な深みがなければ、シノダリティは単なる表面的なものとなってしまう。私たちは、神と真正に出会う場所と形として、友愛関係を優先するよう求められているのです。シノダルな視点は、伝統の霊的遺産に基礎を置きながら、その形式を変革することにも貢献します。これには、参加を歓迎する祈り、共に実践する識別、そして分かち合いから生まれ、奉仕を通して現れる宣教のエネルギーが含まれます。

d) 聖霊による会話は、その限界はあるとしても、聖霊が教会に何を語っておられるかを見極め、真摯に耳を傾けることを可能にする、実りある手段です。その実践は、喜び、畏敬の念、感謝の念を呼び起こし、個人、グループ、そして教会を変容させる刷新の道として経験されてきました。

 「対話」という言葉は、単なる会話以上のものを表現しています。それは、思考と感情を調和的に織り交ぜ、分かち合う生命世界を生み出すものです。だからこそ、対話による関与は重要な意味を持つと言えるのです。それは、共同体にとって重要な問題に対処し、決定するために連帯して集うという実践によって結ばれた、異なる民族や文化に見られる人類学的なデータです。恩寵はこの人間的経験を結実させます。「聖霊にあって」対話をするということは、聖霊がそのまぎれもない声を聞かせ、真に福音的な雰囲気の中で、信仰の光を分かち合い、神の意志を求める経験を生きることを意味するのです。

 まとめ:キリスト教共同体の刷新は、真摯な対話と聖霊との関わりを通してのみ可能となります。この種の対話は、単なる対話を超え、信仰の光の中で分かち合い、神の御心を求め、聖霊の声が聞こえるような本来の福音的な雰囲気を作り出すことを含みます。それは、個人、グループ、そして教会全体に影響を与える変容的な経験なのです。

e) シノダリティは宣教を使命としているので、キリスト教共同体は、他宗教、他信条、他文化の男女と友愛を分かち合うことが不可欠であり、一方では自己言及や自己保身のリスクを避け、他方ではアイデンティティの喪失のリスクを避けなければなりません。対話、相互学習、共に歩むという論理は、福音宣教、貧しい人々への奉仕活動、共通の家庭への配慮、神学的研究を特徴づけるものでなければならず、教会の司牧スタイルとなります。

【さらに検討を要すること】

f) 御父の御心に真に耳を傾けることを実現するためには、聖霊の自由と新しさへの言及が、「ただ一度」(ヘブライ10:10)であるイエス・キリストの出来事と適切に調整されるように、神学的観点から教会的識別の基準を深める必要があると思われます。そのためにはまず、聖書に記されている神の言葉に耳を傾けること、伝統と教会の教導職を受け入れること、そして時代のしるしを預言的に読み取ることの関係を、明確にする必要があります。

*注*once and for all:「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです」(ヘブライ人への手紙10章10節)

g) そのためには、理性と感情の間の還元主義や二元論を克服し、信仰体験の知的次元と情緒的次元を並列させるのではなく、統合することができる人間学的・霊的ビジョンを促進することが極めて重要です。

h) 聖霊による対話が、神学的思考と人文科学と社会科学(the humanities and social sciences)の貢献をどのように統合できるのか、特に「見る」「判断」「行動」 によって精査することや、「認識」「解釈」「選択」の手順によって行われる他の教会的識別のモデルに照らし合わせた場合でも、明確にすることが重要です。

*注*other models of ecclesial:「他の教会的」とは、f〜hによって教会内の識別に対するより広範で包括的なアプローチの必要性を強調するために、言及されている。神学的思考と人文科学と社会科学などのさまざまな視点や学問分野を照らし合わせ、様々な状況や文脈の中で神の御心を識別し理解するために用いることのできる様々な方法論や枠組みがあることを示唆している。

i)「Lectio Divina(神の読書)」*と、古今東西のさまざまな霊的伝統が識別の実践に提供しうる貢献を発展させるべきなのです。実際、聖霊が何世紀にもわたって示唆し、教会の霊的遺産の一部である、複数の形式やスタイル、方法や基準を評価することは適切なのです。

*注*Lectio Divinaは、神の言葉を深く味わうために聖書で祈る瞑想的な方法。 初期教会の時代にさかのぼり、6世紀の聖ベネディクトによって修道生活の慣行として確立された。

 

【提言】

 j ) 教会の生活の中で、聖霊による対話や その他の形式の識別を試み、適応させ、文化や文脈に応じ て、さまざまな霊的伝統の豊かさを大切にすることを提案します。適切な形の同伴*がこの実践を促進し、その論理を理解し、起こりうる抵抗を克服する助けとなります。

 *注*Appropriate forms of accompaniment:日本語の場合、「適切な理解」「適切な共感」と方法や手段として記すことが通常だが、form(形)は日本語の場合は、具体的な形や外見を指すことが一般的だが、西洋圏(キリスト教圏)では、ある目的や目標に対して適切な形式や方法を指す場合がある。

l)司牧の場においても、教会生活の具体性を照らし出すために、状況に応じて適切な方法で、識別の実践を行うことが重要です。それによって、共同体に存在するカリスマをよりよく認識し、 任務や 使命を賢明に委ね、単なる活動の計画を超え、聖霊の光に照らされた司牧の道 を設計することが可能になります。

3. 信仰共同体に入る: キリスト教への入信

【一致したこと】

a) キリスト教への入信は、主が、教会の務めを通して私たちに復活祭信仰を示し、私たちを三位一体的、教会的な交わりの中に入れてくださる旅程です。この旅程は、それが行われる年齢や、東洋と西洋の伝統にふさわしい強調点の違いによって、実に多様な形をとっています。もっとも**、御言葉に耳を傾けること、生活を改めること、典礼を祝うこと、共同体とその使命の中に溶け込むことは、常にこの旅程に絡み合っています。まさにこの理由から、求道者の旅は、その段階と歩みの漸進性をもって、すべての教会的歩みのパラダイムとなるのです。

*注*この文脈では、キリスト教のinitiation processが異なる伝統や年齢によって異なる特徴や重点を持つことを指している。つまり、異なる伝統等によって、initiationの形式や重視される点が異なるということを言っている。**英語分ではhoweverとある。 前述の内容と対照的な要素や制約を導入する際に使われる単語だが、キリスト教入信の旅は、様々な形式をとりいれるが、その中には東西の伝統に固有の重点があるとし、それを述べた後に、聖書の言葉、聴衆の生活の変革、ミサの祝福、共同体への参加などを含みcatechumenal journeyは、段階的な進行によって、全ての共同体の歩みによって関わって絡み合っているものとしているので、使い方として「しかし」という逆接ではない。よって、「もっとも」と訳した。

b) 入信は、実に多様な召命や教会の務めに触れることをもたらします。そこには、子どもたちとともに歩むことによって、子どもたちに歩むことを教える教会の母性的な顔が表れています。「母性的な一面を持つ教会」は子どもたちの声に耳を傾け、子どもたちの疑問や質問に答えながら、一人ひとりの歴史、言語、文化がもたらす新しさによって豊かにされるのです。この司牧的行為の実践の中で、キリスト教共同体は、多くの場合、十分に意識されることなく、合一性の最初の形態を経験するのです。

*注*”maternal face”と”she”: カトリック教会における教会とは、父性的な性格を持つとされる。司教や神父などの聖職者は、父親のような役割を果たし、信徒を導く。しかし、教会もまた母性的な性格を持つと考えられており、信仰の親元としての保護や教育など、母親のような役割も果たすとされている。「彼女」と訳すると違和感があるので、「母性的な一面を持つ教会」とした。

c) カリスマや宣教の区別以前に、「奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け」(コリントの信徒への手紙1・12章13節)とあるように、洗礼を受けたすべての人には、各人の召命に従って、尊厳の真の平等と、宣教に対する共通の責任があります。「この油があなたがたに、すべてのことを教えます」(ヨハネの手紙1・2章27節)。

 聖霊の油注ぎによって、信者は皆、福音の真理に対する直感(信仰の感覚:sensus fidei )を持っています。それは、神の存在に対するある種の親近感と、信仰の真理に適合するものを直感的に把握する適性から成っているのです。シノドスの道はこの賜物を高め、特定の教義や実践が使徒的信仰に属するかどうかを決定する確かな基準である、信者たちの同意(consensus fidelium)の存在を検証することを可能にします。

d) 堅信は聖霊降臨の恵みを教会に永続させます。聖霊の賜物の豊かさで信徒を豊かにし、共通の洗礼の尊厳に根ざした特定の召命を宣教の奉仕の中で発展させるように呼びかけます。その重要性はより強調され、教会のシノダル(共働的)な顔(synodal face)を描く多様なカリスマと宣教との関連において位置づけられなければなりません。

f) 聖体から、教会の一致とキリスト教共同体の多様性、秘跡の神秘の一致と典礼の伝統の多様性、祝典の一致と召命、カリスマ、奉仕活動の多様性など、一致と多様性を明確に表現することを学ぶことになります。聖霊によって生み出される調和は画一的なものではなく、すべての教会的賜物が共通の啓発のために意図されたものであることを、聖体以上に示すものはないのです。

【さらに検討を要すること】

g) 洗礼の秘跡は、キリスト教の入信の論理から切り離して理解することはできないし、個人主義的に理解することもできません。従って、キリスト教の入信についてのより統一的なビジョンからもたらされる会衆制の理解への貢献をさらに探求する必要があります。

h) 信仰の感覚の成熟には、洗礼を受けるだけでなく、聖餐の恵みを真正なる弟子としての生活へと発展させることが必要であり、それによって、支配的な考え方の表れであるもの、文化的な影響であるもの、あるいはいかなる場合にも聖霊の働きや福音と矛盾するものから見分けることができるようになります。これは、適切な神学的考察によって深める必要があります。

i) シノダリティに関する考察は、聖霊の恵みがペンテコステ(聖霊降臨日)の調和の中で多様な賜物とカリスマを明確にする堅信についての理解に新たな洞察を与えることができます。様々な教会経験に照らし、この秘跡の準備と祝典をより実りあるものにし、すべての信徒が共同体形成、世界における宣教、 信仰のあかしへの呼びかけを呼び覚ますための方法を研究すべきなのです。

j) 司牧の神学的観点から、教会で指導を受けるための(catechumenal)論理が、結婚準備、職業的・社会的に積極的に関わることによる選択に伴い、あるいは聖職への養成など、教会の共同体全体が関与しなければならない他の司牧の道をどのように照らし出すことができるかについて、研究を続けることが重要です。

【提言】

k) 聖体がシノダリティ(共働性)を形づくるものであるなら、最初の一歩は、その賜物にふさわしく、真正な友愛をもって祝福することによって、その恵みに敬意を表わすことです。真正をもって祝われる典礼は、弟子としての自覚と友愛の最初の、そして基本的な学びの場になります。あらゆる養成の取り組みを行う前に、私たちはその力強い素晴らしさと、その身振りの高貴な意味合いによって自分自身を形成することを許さねばなりません。

l) 第二のステップは、典礼言語を信徒にとってより親しみやすいものにし、文化の多様性の中でより具体化する必要性が広く報告されていることに言及しています。伝統との連続性や典礼の形成の必要性を疑問視することなく、この問題についての考察と、教皇フランシスコのmotu proprio(自発教令)「Magnum principium」*に沿った司教協議会へのより大きな責任の帰属が求められています。

*注*教皇フランシスコが2017年9月3日付で使徒的書簡の形で発出した自発教令。 1983年の教会法典を修正し、典礼本文の現代語への翻訳の責任と権限を、各国、各地域の司教協議会に移管し、バチカンの典礼秘跡省の役割を制限した。

 

m) 第三のステップは、ミサの祭儀だけに限定することなく、あらゆる形式の共同祈願を高めるという司牧的取り組みであります。典礼の祈りの他の表現、また、その土地の文化的才能を生かした民衆的な敬虔の実践は、すべての信徒の参加を促進し、信徒にキリスト教の神秘を徐々に紹介し、教会にあまり馴染みのない人々を主との出会いに近づける上で、非常に重要な要素です。人々の敬虔なる形のうちで、聖母マリアへの献身は、多くの人々の信仰を支え、育むことができるという点で、特に際立っています。

4. 貧しい人々、教会の旅の主人公

【まとまったこと】

a) 教会は貧しい人々に愛を求めます。愛とは、尊敬、受容、承認を意味しており、それなくして、食料、金銭、福祉を提供することは、確かに重要ではあるが、人の尊厳を十分に考慮しない援助の一形態となってしまいます。尊重と承認は、個人の能力を活性化するための強力な手段であり、その結果、一人ひとりの人は、他者の福祉行為の対象ではなく、自分自身の成長の道の主体となるのです。

b) 貧しい人々への優先的配慮は、キリスト論的信仰に暗黙のうちに含まれています- イエスは貧しく謙遜であったが、貧しい人々と親しくし、貧しい人々と共に歩み、貧しい人々と食卓を共にし、貧困の原因を訴えられました。教会にとって、貧しい人々や捨てられた人々のための選択肢は、文化的、社会的、政治的、哲学的なものである前に、神学的なものなのです。聖ヨハネ・パウロ二世にとって、神はまず彼らに慈悲を与えます。この神の選択は、「イエス・キリストにも見られるもの」(フィリピの信徒への手紙2章5節)を育むように召されているすべてのキリスト者の生活の中で結果をもたらします。

c) 貧困の種類はひとつだけではありません。貧しい人々のさまざまな顔の中には、尊厳ある生活を送るための必需品を欠く、すべての人々の顔があります。それは、移民や難民、先住民族、原住民族、アフリカ系住民、暴力や虐待に苦しむ人々、特に女性や依存症の人々、発言権を組織的に否定されるマイノリティ、見捨てられた高齢者、人種差別、搾取、人身売買の被害者、特に未成年者、搾取される労働者、経済的に排除された人々、その他周辺地域に住む人々のことです。

 弱者の中で最も弱い立場にあり、そのために絶え間ない擁護が必要なのは、胎内にいる胎児とその母親だといえるでしょう。今総会は、さまざまな大陸の多くの国々を苦しめている戦争とテロリズムによって生み出された「新しい貧困層」の叫びを認識し、その原因となっている腐敗した政治・経済体制を非難します。

d) 私たちの世界は、物質的な貧困のさまざまな形態とともに、精神的な貧困の形態も知っています。自分自身への過度なこだわりは、他者を脅威とみなし、個人主義に閉じこもることにつながることになります。これまで述べてきたように、物質的な貧困と精神的な貧困は、結びつけば互いのニーズに対する答えを見つけることができるでしょう。共に歩むということは、シノドス教会の視点を具体化することであり、福音の言葉「心の貧しい人々は幸いである」(マタイによる福音書5章3節)の完全な意味を私たちに明らかにすることなのです。

e) 貧しい人々と共に立つということは、私たちの共通の故郷と関わりを持つことにおいても彼らと共に関わるということなのです。今総会の開会に合わせて教皇フランシスコが発表された使徒的勧告『Laudate Deum』が指摘するように、対応の欠如は、生態系の危機と特に気候変動を人類の生存に対する脅威にしています。 気候変動の影響に最もさらされている国々の教会は、方向転換の緊急性を強く認識しており、このことは、地球上の他の教会の旅路への貢献です。

f) 教会の使命は、貧困と排除の原因に取り組むことです。これには、貧しい人々や排除された人々の権利を守るための行動も含まれ、個人、政府、企業、社会構造のいずれによって行われたにせよ、不正を公に糾弾することが必要かもしれません。そのためには、彼らの要求や視点に耳を傾けることが不可欠であり、彼らの言葉を用いて彼らの声を代弁するのです。

g) キリスト者は、教会の社会教義からインスピレーションを受け、さまざまな形(市民社会組織への参加、労働組合、民衆運動、民衆に根差した団体、政治の分野など)で活動しながら、共同体の構築と生命の尊厳の擁護に積極的に参加することを約束する義務があります。教会は、彼らの行動に深い感謝を表明するでしょう。共同体は、慈愛と奉仕の純粋な精神をもって、これらの分野で働く人々を支援します。彼らの活動は、福音を宣べ伝え、神の国の到来に協力するという教会の使命の一部なのです。

h) 貧しい人々の中で、キリスト者の共同体は、裕福な人であったキリストが、私たちのために貧しくなってくださり、その貧しさによって私たちが裕福になるようにしてくださったキリストの顔と肉体に出会うのです(コリント信徒への手紙2・8章9節参照)。それは、彼らと親しくなるだけでなく、彼らから学ぶことでもあります。シノドスとは、道であるお方とともに歩むことであるとすれば、シノダルな教会は、貧しい人々をその生活のあらゆる側面の中心に置く必要があります。彼らの生活が主と似ていることから、貧しい人々は賜物として受けた救いの前触れとなり、福音の喜びの証人となるのです。

【なお検討を要すること】

i) 世界のある地域では、教会は貧しく、貧しい人々とともに、貧しい人々のためにある。教会の慈愛の” モノ ” として、貧しい人々を “彼ら” と “私たち” の観点から見てしまうという、注意深く避けなければならないリスクが常にあります。貧しい人々を中心に置き、彼らから学ぶことは、教会がもっとすべきことなのです。

*注*Object: “object”は「対象」という意味であり、「モノ」とも解釈される。例えば「貧しい人を対象に支援する」としたいときは“Supporting disadvantaged individuals.” Individual(個人)の複数形にするなどがある。Peopleも可能だが、文脈による。

j) 不公正な状況に対する預言的な糾弾と、為政者への働きかけは、外交的な手段に訴える必要がありますが、明晰さと実りを失わないように、動的な緊張関係を保たなければなりません。特に、教会機構が公的または私的な資金を使用することが、福音の要求のために発言する自由を制約しないように注意しなければなりません。

*注*policy makers:政策立案者のことを「為政者」と言い換えた。

k) 教育、医療、社会福祉の分野で、いかなる差別も排除もなく活動することは、教会の構成として、最も弱い人々の統合と社会への参加を促進する教会の明確なしるしです。 この分野で活動する団体は、自らをキリスト教共同体の表現としているからこそ、非人道的なスタイルの慈善活動を避けるよう強く求められています。また、これらの共同体は、ネットワークを作り、協調することが強く求められています。

*注*They are also: they areが共同体を指しているのか、非人間的な慈善活動かを明確にし、alsoで同時にという意味も兼ねて、共同体が、キリスト教共同体の表現としているからこそ、非人道的な慈善活動を避けるのと同時に、ネットワークを作り、協調することを強く求めるとした。

l) 教会は、その整合性を誠実に示すために、その関連機関で働く人々に対する正義の要求をどのように満たしているかを誠実に調べなければならなりません。

m)シノダル的な教会において、連帯意識は、異なる地域の地方教会間の贈り物の交換や資源の共有というレベルでも発揮されます。これらは、関係するキリスト教共同体間の絆を生み出すことによって、教会の一致を促進する関係です。

   私たちは、聖職者に恵まれない教会を助けるためにやってくる司祭が、単なる機能的な救済策ではなく、彼らを派遣する教会と彼らを受け入れる教会の成長のための資源となるように、確保されるべき条件に焦点を当てる必要があります。   同様に、経済援助が福祉主義に陥ることなく、福音的連帯を促進し、透明で信頼できる方法で管理されるように努力することが必要です。

*注*Welfarism:何故、welfarism(福祉主義)が否定的に書かれているかについて。福祉主義は、個人や社会全体の福祉や幸福を追求するために、経済的な支援やサービスを提供する考え方。この文脈で「福祉主義」を否定的に言及しているのは、単純な経済的支援や援助に留まらず、より包括的で文化的なアプローチが必要だという意味だ。この文脈では、福祉主義が問題とされている理由は、次の二つの点が書かれている。①福祉主義に頼るだけでなく、教会の発展を促し、成長を実現するためのより包括的な戦略が求められる②経済援助が福祉主義にdegenerate(退化)しないようにする必要があるという指摘が書かれてある。この文脈では単なる援助に頼るだけでなく、援助を通じて共に成長し、透明性と信頼性を確保することが求められている。これらの理由から、「福祉主義」自体は問題ないが、単なる経済的な援助や慈善事業にとどまらず、より包括的かつ持続可能なアプローチが求められている。

【提案】

n) 教会の社会教理は、あまりに知られていない資源であり、再び力を入れる必要があります。地域の教会は、その内容をよりよく知らせるだけでなく、その霊感を行動に移す実践を通して、その充足を促進することを約束しましょう。

o)貧しい人々や社会から疎外された人々に出会い、生活を分かち合い、奉仕する経験を、キリスト教共同体が提供するすべての養成過程の不可欠な一部とします。

p)司祭職の再考の一環として、貧しい人々への奉仕をより強く志向するように促進させます。

q) integral ecology*の聖書的・神学的基礎が、教会の教え、典礼、実践の中に、より明確かつ注意深く統合されますように。

*注*integral ecology:2015年に出された教皇フランシスコの環境回勅「Laudato-si」の中心的な考え。「すべてのものはすべてのものと密接に関わっていて、無関心でいられるものなどなにひとつない」を基本とする概念。

5. 教会はあらゆる階級、言語、民族、国家から

【一致したこと

a) キリスト者は、特定の文化で生活し、言葉と秘跡の中でキリストを自らの内にもたらします。慈愛の奉仕に取り組むことによって、キリストの秘義を謙遜と喜びをもって歓迎し、そのようにして、彼らは 「あらゆる部族と言葉の違う民」(黙示録5章9節)の教会となるのです。

b) 教会が存在する文化的、歴史的、地域的背景は、霊的、物質的に異なる必要を明らかにします。このことは、地域教会の文化、宣教の優先項目、各教会がシノダルな対話に持ち込む関心事や賜物、そして彼らが自分たちを表現する言語を形作っています。今総会を通して、私たちは教会であることの多様な表現を直接、しかも喜びをもって体験することができました。

c) 教会は、ますます多文化的、多宗教的な文脈の中で生きており、そこでは、社会を構成する他のグループとともに、宗教と文化の間の対話に関与することが不可欠です。このような文脈の中で教会の使命を生きることは、橋をかけるような存在であり、相互理解を培い、伴走し、耳を傾け、学ぶ福音化に携わろうとする存在、奉仕、宣教のスタイルが必要です。集会では何度か、「靴を脱いで」対等な立場で相手との出会いに臨む、というイメージが、謙遜と神聖な空間への敬意のしるしとして響くことです。

*注*taking off one’s shoes:この文脈では、他の宗教や文化との関わりにおいても、同様の謙虚さと尊重の姿勢が求められると意味している。「靴を脱ぐ」ことは、日本、及びアジア圏では礼儀だが、諸外国では失礼にもあたる。他の人々や文化との出会いにおいて、互いを平等な存在として尊重し、お互いを理解し合うための態度を示す際の「比喩表現」ではなく、具体的なアクションの一例として言及される。

d) 人口移動は、異文化共同体としての地域教会を作り変える現実です。移住者や難民の多くは、根こそぎ奪われ、戦争や暴力の傷を負っているが、彼らを受け入れる共同体にとっては、再生と豊かさの源となり、地理的に離れた教会と直接的なつながりを築く機会となることが多いのです。

  移住者に対する敵対的な態度がますます強まる中、私たちは、開かれた歓迎を実践し、新しい生活計画の建設に同行し、民族間の真の異文化交わりを築くよう求められています。移民の典礼的伝統と宗教的実践を尊重することは、真の歓迎の不可欠な部分になります。

*注*・the wounds of uprooting:根ざしていた環境を奪われるという意味ですが、文脈から次の戦争や暴力の傷を受ける状況から奪われているということである。

e) 宣教師たちは、福音を世界に伝えるためにその生涯を捧げてきました。彼らの努力は福音の力を雄弁に物語ります。しかし、「宣教」という言葉が、痛ましい歴史的遺産をはらんでいる文脈では、今日の交わりを妨げているような状況では特別な注意と感受性が必要です。

 一部の地域では、福音の宣教が植民地化や大量虐殺と結びつけられていました。このような文脈で福音を伝えるには、犯した過ちを認め、これらの問題に対する新たな感受性を学び、植民地主義を超えてキリスト教的アイデンティティを築こうとする世代に同伴することが必要です。尊敬と謙遜さは、私たちが互いに補い合い、異文化との出会いがキリスト教共同体の信仰の生き方や考え方を豊かにすることを認識するための基本的な態度です。

f) 教会は、すべての人々の間の交わりを築く一環として、諸宗教間の対話の必要性を教え、その実践を奨励します。暴力と分断の世界にあって、社会正義、平和、和解、共通の家庭への配慮に向けた協調的で友愛的な連帯の中で、人類の一致、共通の起源、共通の運命への証しは、これまで以上に急務とされています。教会は、聖霊があらゆる宗教、信念、文化を持つ人々の声を通して語りかけることができることを認識しています。

【さらに検討を要すること】

g)  教会であることの多様な表現の豊かさに対する感受性を養うことが必要です。このためには、教会全体としての姿と、その地域に根ざした姿との間にダイナミックなバランスを見出すこと、教会の一致の絆を尊重することと、多様性を妨げるような均質化の危険性との間にダイナミックなバランスを見出すことが必要になります。意味や優先事項は異なる文脈の中で変化するため、分権化*や中間的な存在**の形態を特定し、推進する必要があります。

*注*Decentralization:分権化とは、中央から地方や地域の組織や団体に権力や機能を分散させることを指す。これにより、地域の特性やニーズに応じた柔軟な対応が可能になる。

** intermediate instances:中間的な存在とは、中央集権的な組織や地方自治体と地域の間に位置する組織や団体のことを指す。これにより、地域レベルと中央レベルの連携や協力を図りながら、より効果的な意思決定や政策実施を行うことができる。

 文脈として、教会は異なる文脈や地域の特性を考慮し、分権化や中間的な存在を推進することで、地域のニーズに柔軟に対応しつつ、統一性を保ちつつ多様性を尊重することが求められる。

h)  教会は典礼生活や道徳的・社会的・神学的考察といった重要な分野における分極化や不信感の影響を受けています。私たちは、対話を通してそれらの原因を認識し、それらを克服するために、勇気をもって交わりの活性化と和解のプロセスを行う必要があります。

i)  私たちの地域教会では、福音化を理解するさまざまな方法の間に緊張が生じることがあります。それは、生活のあかし、人類の進歩への献身、信仰や文化との対話、福音の明確な宣教に焦点を当てたものです。同様に、明確にイエス・キリストを宣べ伝えることと、それぞれの文化がすでに持っている「種子としての御言葉(semina Verbi)」*を求めて、その特徴を大切にすることとの間にも緊張が生じます。

j)  福音のメッセージと伝道者の文化との間に起こりうる混乱は、探求されるべき問題の一つとして言及されます。

k)  一段と激しくなっている武器の取引とその使用がもたらす紛争の広がりは、今総会のいくつかの作業部会で提起され、非暴力的な方法で紛争に対処するための、より慎重な考察と訓練の問題を切り開いています。これは、他宗教との対話と協力を含め、キリスト者が今日の世界に対してなしうる正当な貢献です。

【提言】

l)  幅広い多様な文脈の中で、親しみやすく美しい方法で人々の心と心に語りかけるために、私たちが用いる言葉の問題に改めて注意を向けることが必要です。

m) 地方分権の形態を試すという観点から、その管理と評価のための共通の枠組みを定義し、関係するすべての人々とその役割を明らかにする必要があります。首尾一貫性を保つために、分権化に関する検討プロセスは、さまざまなレベルで関係する全ての関与する関係者の同意と貢献が得られるよう、シノダルなスタイルで行われねばなりません。

n) 先住民族との司牧的関わりには、彼らのために行われる支援に限らず、共に歩む旅に沿った新しいパラダイムが必要です。先住民のあらゆるレベルでの意思決定プロセスへの参加は、より活力に満ちた宣教的な教会に貢献することです*。

*注*New paradigms are needed for pastoral engagement with indigenous peoples, along the lines of a journey together and not an action done to them or for them.について:先住民族に対する支援や関与の形をより分散させることで、彼ら自身の自発性や主体性を尊重することを提案している。前文からも読み取れるように従来の中央集権的なアプローチではなく、彼ら自身が持つ知識、リソース、文化に基づく取り組みを促進することを目指す。

o) 今総会では、第2バチカン公会議の教え、公会議後の教理、教会の社会教説について、よりよく知ることが求められました。 私たちは、交わり、奉仕と対話において効果的な教会の教会であることをより明確にするために、私たちの異なる伝統をよりよく知る必要があります。

p) 移民や難民の数が増加する一方で、彼らを受け入れる意欲が減少し、外国人に対する猜疑のまなざしが強まる世界において、教会は、特に司牧養成プログラムにおいて、人種差別や外国人嫌悪と闘いながら、対話と出会いの文化の教育に断固とした姿勢で取り組むことが適切です。移住者の統合のためのプロジェクトに関与することも同様に必要です。

q) 人種的正義の分野における対話と識別への新たな取り組みを推奨します。教会内に人種的不公正を生み出し、あるいは維持するシステムが特定され、闘わなければなりません。癒しと和解のプロセスは、人種差別の罪を根絶するために、その影響を受けている人々の助けを借りて開始されねばなりません。

(ここまで「カトリック・あい」Chris Kyogetsu 試訳)

 

6.東方典礼教会とラテン典礼教会の伝統

 

【一致したこと】

a) 東方典礼教会のうち、ペトロの後継者と完全な交わりの関係にある教会は、典礼的・神学的・教会論的、正典的な独自性を享受しており、それは全教会を大いに豊かにしています。とりわけこれらの教会の、多様性の中の一致という経験は、シノダリティの理解と実践にあたり貴重な貢献となりえます。
b)  歴史を通して、これらの教会に与えられた自治の程度は様々な段階を経てきました。ラテン典礼化など、今では時代遅れとされる慣習や手続もあります。ここ数十年、これらの教会の特殊性、区別、自治を認める道はかなり発展してきました。
c)  東方典礼カトリックの地域からラテン典礼教会が主流の地域への信徒の大規模な移住は、司牧上の重要な問題提起となっています。もし現在の傾向が続き、あるいは強まれば、東方典礼カトリック教会は、ディアスポラにいる信徒の方が教会法上の管轄領内の信徒より多くなるかもしれません。 いくつかの理由から、移住国に東方諸教会の位階組織を設けても、問題の対処としては不十分です。しかし地域のラテン典礼教会はシノダリティの名のもとに、移住してきた東方典礼教会信徒が同化の過程を経ることなく、アイデンティティを保ち固有の伝統を培えるよう支援する必要があります。
 【さらに検討を要すること】
d) 私たちは、東方典礼カトリック教会の経験がシノダリティの理解と実践にもたらす貢献について、更に研究を進めることを提案します。
e)  諸教会の司教会議で選出された管轄領内の司教に承認を与える教皇の役割、および教会法上の管轄領外の司教の教皇による任命に関しては、いくつかの困難が残っています。また、総主教の管轄権を総主教領の外にまで拡大する要請もまた、教皇庁との協議と対話にかかっています。
f)  異なる典礼のカトリック諸教会の信徒が存在する地域では、多様性の中の一致を、目に見える効果的なかたちにするモデルを見つける必要があります。
g) キリスト者の一致につき東方典礼カトリック教会がなしうる貢献と、諸宗教間・文化間対話で東方典礼カトリック教会が果たしうる役割について、私たちは考える必要があります。
【提言】
h) まず第一に、教皇への要望として、東方カトリック教会の総主教および大司教の常設評議の設立が挙げられました。
i) 東方典礼カトリック教会、そのアイデンティティと使命、また、戦争と大規模移住の状況における司牧的・典礼的課題への取り組みに特化した特別シノドスの召集を求める声もありました。
j) 更なる研究が必要な課題に取り組み、進むべき方針を示す提案をまとめるため、東方典礼とラテン典礼の神学者、歴史学者、教会法学者からなる共同委員会を設立する必要があります。
k) ローマ教皇庁の諸省で東方典礼カトリック教会の教会員が十分に代表される必要があります。東方典礼カトリック教会の視点からの貢献によって全教会を豊かにし、問題が生じたときに対処する助けとし、さまざまなレベルでの対話に参加することができるようにするためです。

l) 東方典礼教会の信者の伝統を尊重するような受容の形態を育むため、ディアスポラにいる東方典礼聖職者とラテン典礼聖職者の関係は強化されるべきであり、互いの伝統に対する相互の知識と認識は促進されるべきです。

 7.キリスト教一致への途上にあって

【まとまったこと】

 

a)  シノドス総会第一会期は、深いエキュメニズムの表現とともに幕を開けました。「共に」の祈祷会には、教皇フランシスコと並んで、他のキリスト教宗派の指導者や代表者が数多く出席し、信仰の一致と賜物の交換の精神をもって共に歩もうという、明確で確かな決意の表れとなりました。   この非常に意義深い出来事によって、私たちはエキュメニカルなカイロス(タイミング)にあることを認識し、私たちを結びつけるものは私たちを分かつものよりも偉大であることを再確認することができました。なぜなら、私たちにとって「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられ」(エフェ4:5-6)ることは共通だからです。b)  洗礼は、シノダリティの原理の根幹にあるものですが、エキュメニズムの基礎を構成してもいます。洗礼を通じて、すべてのキリスト者はsensus fidei(信仰の感覚)を分かち合っています。そのため、シノドス総会が識別プロセスで行ったのと同様に、どのような伝統に属する信徒であっても注意深く耳を傾けられるべきです。エキュメニカルな次元抜きのシノダリティはありえません。

c)  エキュメニズムは何よりもまず霊的刷新の問題であり、また悔い改めと記憶の癒しのプロセスを要求します。異なる教会の伝統に属するキリスト者が友情、祈り、そして特に貧困に苦しむ人々への奉仕を分かち合ったという証を耳にして、総会は感動で包まれました。

  最も小さい者への献身は絆を固くし、キリストを信じる全ての人を既に結び付けているものに焦点を当てる助けとなります。したがって、エキュメニズムが何よりもまず日常生活で実践されることが重要です。神学的・制度的対話では、信頼が深まり心が開かれるような雰囲気のなか、忍耐強く相互理解を織り上げる作業が続きます。

d)  世界の少なからぬ地域には、異なる宗派に属していながらもイエス・キリストへの信仰のために命を捧げるキリスト者たちによる「血のエキュメニズム」が存在します。彼らの殉教の証はどのような言葉よりも雄弁です。一致は主の十字架から生まれるのです。

e)  すべてのキリスト者の間の協力もまた、現代の司牧的課題に応えるために不可欠です。世俗化された社会において、それは福音の声により大きな力を与えます。貧困の状況においては、正義、平和、そして最も小さい者の尊厳のために力を合わせられるよう、人々を駆り立てます。どのような場合においても、それは集団、民族、国家を互いに対立させる憎しみ、分裂、戦争の文化を癒すための重要な資源です。

f)   異なる教会や教会共同体に属するキリスト者の結婚(混宗婚姻)は、交わりの知恵を成熟させ互いを福音化することが出来るという事実になりえます。

【さらに検討を要すること】

g)  私たちの総会は、異なるキリスト教の伝統が教会のシノダル(共働的)な成り立ちの理解する多様な方法を認識することができました。正教会では、シノダリティは司教のみが持つ権威の合議体的行使(聖シノド)を表すものとして、厳密に理解されています。
   広義のシノダリティとは、教会の生活と使命にすべての信徒が積極的に参加することを指します。他の教会共同体での用法に関する言及もあり、私たちの議論を豊かにしてくれました。これらはすべて、更なる研究が必要です。
h)  もう一つのテーマは、様々なレベル(地域、広域、全世界)におけるシノダリティとプライマシー(優越性)の相互依存関係です。このテーマについては、共に歴史を読み直して、ステレオタイプや偏見を克服する必要があります。
 
    現在行われているエキュメニカルな対話は、最初の千年紀の慣行を踏まえて、シノダリティとプライマシーが互いに関連し、補完し、切り離すことのできない現実であることを、よりよく理解させてくれます。この繊細な点の解明は、聖ヨハネ・パウロ二世が回勅「キリスト者の一致」で願ったように、一致への奉仕におけるペトロの務めの理解の仕方に影響を及ぼします。
i)  聖体のホスピタリティ(communicatio in sacris:典礼への共同参加)の課題は、神学的、教会法的、司牧的視点から、秘跡的交わりと教会的交わりの繋がりを踏まえて、更に検討する必要があります。この課題は特に、信仰を異にするカップルにとって重要です。混宗婚姻についてのより広範な考察の必要性を提起するものです。
j)  また、「超教派」の共同体や、キリスト教に触発された「リバイバル」運動といった現象についても、もともとカトリック信者であった人たちが大勢いることを考慮し、考察が促されました。

【提言】

k)  2025年は、すべてのキリスト者を結びつける信仰の象徴が策定されたニカイア公会議(325年)(からの1700年目の)記念すべき年です。この出来事を共同で記念することは、過去、論争となった問題が公会議でどのように共に議論され解決されたかを、よりよく理解することにもつながるでしょう。
l)  また2025年には、摂理的なことに、すべてのキリスト教宗派で復活祭の日付が一致します。総会では、復活祭の日付を共通にすることで、主の復活、私たちの生命、私たちの救いを同じ日に祝うことができるようにしたいという強い希望が表明されました。
m)  また、カトリックの”シノドスの道”に他の教派のキリスト者をあらゆるレベルで引き続き参加させ、2024 年の総会第2会期に、さらに多くの友好使節を招くことが望まれています。
n)  現代世界における共通の使命に関するエキュメニカルなシノドスを召集するという提案も、一部から出されています。

o)  エキュメニカルな殉教史の編纂が改めて提案されています。

第2部 皆が弟子、皆が宣教師

 

8.教会は使命

【まとまったこと】

a) 教会には使命があるというよりも、教会こそが使命であることを、私たちは確認します。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(ヨハネ福音書20章21節)—教会は父の使者であるキリストから自らの使命を受け取ります。

 教会は聖霊に支えられ、導かれながら、イエスの宣教に根ざして貧しい人々を優先しつつ、福音を知らない人々、福音を受け入れない人々に福音を告げ知らせ、福音をあかしします。このようにして、教会は神の国の到来に貢献し、その「芽となり、始まりとなる」( ※第二バチカン公会議「教会憲章」5項参照)のです。(ここまで、「カトリック・あい」岩井田泰・試訳)

b) キリスト教の入信の秘跡は、イエスのすべての弟子に、教会の使命に対する責任を与えます。男性信徒と女性信徒、男女の修道者、叙階された司祭は、同等の尊厳を持っています。彼らはさまざまなカリスマと召命を受け、さまざまな役割と機能を発揮しており、すべて聖霊によって召され、養われて、キリストにあって一つの体を形成しています。

  すべての弟子、すべての宣教師は、地域社会の友愛的な活力の中で、福音宣教の甘く心地よい喜びを経験しています。 共同責任の行使はシノダリティ(共働性)にとって不可欠であり、教会のあらゆるレベルで必要です。 すべてのキリスト教徒この世界での使命を持っています。
c) 家庭はあらゆるキリスト教共同体の根幹です。 両親、祖父母、そして家族で信仰を分かち合い、生きているすべての人が、第一の宣教師です。家庭は、命と愛の共同体として、信仰とキリスト教の実践における特権的な教育の場であり、共同体内での特別な配慮が必要です。教会共同体内での仕事やその使命への奉仕などの仕事と、家庭生活の要求とを調和させなければならない親にとっては、特に支援が必要です。
d) 宣教が教会全体を巻き込む恵みであるなら、信徒はあらゆる環境や日常の最も普通の状況において、それを実現するために重要な方法で貢献することになります。
 
   世界中に大きな影響を与えるデジタル環境の文化、若者文化、仕事の世界、ビジネスと政治、芸術と文化、科学研究、教育と訓練、一般家庭の世話、そして特別な方法での公共生活への参加… 信徒たちは、自分がいる場所では、日常生活の中でイエス・キリストを証しし、他の人たちとその信仰を明確に分かち合うことが求められています。 特に若者たちは、才能と弱さを持ち合わせていますが、イエスとの友情を育むにしたがって、仲間の間で福音の使徒となっていきます。
e) 信徒はまた、キリスト教共同体内でますます存在感を増し、積極的に奉仕するようになっています。 彼らの多くは司牧的な共同体を組織し、活性化させ、信仰教育者、神学者や司祭育成者、精神療法者やカテキスタとして働き、さまざまな教区や教区の団体に参加しています。
 
   多くの地域で、キリスト教共同体の生活と教会の使命は、カテキスタの存在にかかっています。 さらに、一般の人々が安全を守り、管理する役割を果たします。 彼らの貢献は教会の使命にとって不可欠です。 したがって、必要な技法の習得に注意を払う必要があります。
f) 信徒のカリスマは、その多様性にかかわらず、教会に対する聖霊の賜物であり、それが引き出され、認識され、十分に評価されなければなりません。
  状況によっては、司祭の不足を補うために信徒が使われることが起き、信徒の使徒職としての適切な性格が損なわれる危険性があります。他の状況では、司祭がすべてを取り仕切り、信徒のカリスマ性や奉仕が無視されたり、十分に活用されなかったりすることが起きます。
  今総会の多くの参加者が表明したように、信徒を「聖職者化」し、神の民の不平等と分裂を永続させる一種の”信徒エリート”を生み出す危険もあります。
g)第二バチカン公会議文書「教会の宣教活動に関する教令」の実践は、宣教師だけでなく、祈り、物品の分かち合い、証しをするよう刺激される共同体全体を巻き込むため、教会の相互の豊かさを実現します。
   聖職者が不足している教会であっても、この取り組みを放棄すべきではありませんが、一方で、叙階され​​た奉仕への召命が開花している教会は、真に福音的な論理に基づいて司牧協力に心を開くことが可能です。

  すべての宣教師(男性信徒と女性信徒、男性と女性の修道者、助祭と司祭、特に海外宣教師の会とFidei Donum*の宣教師たちは、自らの使命を受け、知識の絆を築き、賜物を交換するための重要な人的資源です。*注*「Fidei Donum」は、1957年にピオ12世教皇が出した回勅。アフリカを中心に宣教活動の現状を述べ、カトリック教会の宣教活動を支援するために、世界中の司教に対して、自分たちの信仰を広めるために、神の真理の火を広めることを呼びかけた。

h) 教会の使命は、特にその共同体的で宣教的な性格が前面に押し出される場合には、聖体祭儀によって、継続的に新たにされ、育まれます。

【さらに検討を要すること】
i) 宣教の観点からカリスマと奉仕職との関係について神学的理解を深め続ける必要があります。
j) 第二バチカン公会議とそれに続く教導職は、「一時的、あるいは世俗的な現実の神聖化」という観点から信徒に独特の使命を提示しています。
  司牧の実践の具体性においては、小教区、教区、そして最近では世界レベルでも、信徒が教会内での任務や奉仕を任されることが増えています。
  神学的考察と規範の規定は、これらの重要な進展と調和しなければならず、教会の使命の統一性の認識を損なう可能性のある二元論を避けるように努めねばなりません。
k) 受洗したすべての人の使命に対する共同責任を促進する際に、私たちは障害のある人々の使徒的能力を認識します。彼らがもたらした人類の計り知れない富から来る福音宣教への貢献を大切にしたい、と考えています。 彼らが苦しみ、疎外、差別を経験し、時にはキリスト教共同体の内部においてさえも、苦しんでいることを認識しています。
l) 共同体社会が信徒のカリスマと奉仕活動を引き出し、認識し、活気づけ、それらをシノダル(共働的)な教会の宣教活動に組み込むことができるよう、司牧の仕組みを再編成する必要があります。
  司牧者たちの指導の下、共同体社会は人々を(宣教の場に)派遣し、支援することができるようになります。そうして、司牧者たちは、教会の内部で行われる活動や組織の要請だけでなく、信者たちが社会、家庭、仕事の場で使命を果たせるように、自分たちが奉仕すべきだと考えるでしょう。
m) 今総会の準備文書 で使われた「”an all ministerial Church(全員が聖職者である教会)」という表現は、誤解を招く可能性があります。 曖昧な点を明確にするために、その意味についてさらに検討を加える必要があります。
【提言
n) 現地の教会の必要に応じて、若者を特別に関与させた奉仕活動を確立するために、さらなる創造性が必要であると認識されています。 すでに典礼で果たしている役割に限定されない奉仕を、朗読奉仕に拡大することを考えることもできます。
 このようにして、神の言葉の真の宣教を確立でき、そこに、適切な状況では説教も含まれる可能性があります。 家庭生活を支援することに尽力する夫婦や、結婚の秘跡の準備に協力する人々による奉仕を(注:制度として)確立する可能性も検討されるべきです。
o) 現地の教会は、共同体社会を豊かにするカリスマや奉仕活動が目に見えるようにし、共同体社会で認められるための形式や機会を設ける必要があります。これは、司牧的使命が委ねられている典礼の儀式として行われることも考えられます。
(ここまで、「カトリック・あい」南條俊二試訳)

 

9.教会の活動と使命における女性

【まとまったこと】

a) 私たちは、神の姿に似せて、男と女に作られています。当初から、創造は一致と相違を明確に示し、女性と男性に、「共有の自然、召命、運命と、はっきり異なる人間の経験」を授けました。聖典は、女性と男性の相互の補完性と依存関係、そして神の創造計画の中心にある男女間の約束について記しています。イエスは女性を、ご自分の対話者とみなしておられました。例えばベタニアのマリアのように、イエスは神の国について女性と語られ、弟子として女性を温かく迎え入られました。この女性たちは、イエスの癒し、解放、識別の力を体験し、ガリラヤからエルサレムまでの道を彼と共に歩きました(ルカ福音書8章1-3節参照)。イエスは、マグダラのマリアという1人の女性に、復活祭の朝に復活を知らせる役割を委ねました。

b) キリストにおいて、女性と男性は、同じ洗礼の尊厳を身にまとっており(ガラテヤの信徒への手紙3章28節参照)、多様な霊の賜物を等しく受けています。私たちは愛の交わり、つまりキリストにおいて競争しない関係へ、そして教会活動のあらゆるレベルで共同責任を示すことへ、共に招かれています。教皇フランシスコが私たちに語られたように、私たちは共に「Beatitudes(至福の教え=山上の垂訓)の力に招かれ集められた人々」なのです。

c) 今総会の間中、非常に有意義な女男間の相互依存を体験しました。共に私たちは前段階のシノドスのプロセスで下した重要な決断に同調し、司牧、秘跡の観点から、女性信徒に寄り添い、理解する更に断固とした教会側の取り組みを求めます。若い女性として、母として、友情関係において、あらゆる年代の家庭生活、仕事の世界、奉献生活での関係においてなど、人生の様々な段階で、女性たちは聖性に向けて旅する霊的体験を分かち合いたいと願っています。

 性暴力、経済的不平等、女性をモノとして扱う傾向が依然として存在する社会で、女性たちは正義を求めて叫んでいます。彼女たちは、人身売買、強制移住、戦争の傷を負っています。司牧的な寄り添いと、女性に対する積極的な擁護は、密接に連携する必要があります。

d) 女性は教会に出席する人の大半を占め、多くの場合、家庭においては信仰の最初の宣教師です。奉献生活を営む女性は、観想生活においても使徒的生活においても、私たちの只中にある、根本的かつ特徴的な賜物、しるし、証です。女性の宣教師、聖人、神学者、神秘家の長い歴史は、現代の男女にとって、力強い霊感と栄養の源でもあります。

e) 信仰の人であり神の母でもあるナザレのマリアは、すべての人にとって今も、神学的、教会的、霊的意義の唯一無二の源です。神に注意深く耳を傾け常に精霊に心を開いておくようにという普遍的な招きを、マリアは私たちに思い出させてくれます。マリアは、産み育てる喜びを知り、そして痛みと苦しみに耐えました。マリアは貧困状態で出産し、難民となり、息子が残虐に殺される悲しみを経験しましたが、復活の荘厳さと聖霊降臨の栄光も知りました。

f) 多くの女性が司祭と司教の働きに深い感謝の意を表明しましたが、傷を負わせる教会についても語りました。聖職者主義、優越主義的精神、権威の誤用が、教会の顔に傷をつけ、その交わりに打撃を与え続けています。効果的な構造変化の土台として、深い霊的回心が必要です。性的虐待や、権力と権威の乱用は、正義、癒し、和解を強く求め続けます。どのようにすれば、教会はすべての人を守ることができる場所になれるのか、私たちは問いかけました。

g) 教会での男女間の関係において尊厳と正義が損なわれる時、世界へ向けた私たちの主張の信頼性は弱まります。シノドスの道は、関係の刷新と構造変革の必要性を示しています。それによって、私たちは、一般信徒および奉献生活を営む男女、助祭、司祭、司教と共に、すべての人の参加と貢献を、使命の働きにおいて共同責任を負うべき弟子たちとして、今よりも喜びをもって受け入れることができるでしょう。

h) 今総会は、「女性について一つの論点、あるいは問題点として話す」という間違いを、繰り返さないよう求めます。そうではなく私たちは、従属、排除、競争なしに、男女を共に主人公として見る神の計画の範囲を、より深く理解するために、「男女が共に対話する教会」を促進したいと切望しているのです。

【さらに検討を要すること】

i) 女性の積極的な貢献が認められ、尊重されて、教会の活動と使命のすべての領域において、女性の司牧的指導力が拡大されるようにとの明白な要請を、世界中の教会が表明してきました。あらゆる人の賜物とカリスマ性をより正しく表現し、司牧的な必要性により良い形で対応するため、教会は、どうしたらもっと多くの女性を、現在の役割と奉仕職に加えられるでしょうか? 新たな奉仕職が必要なら、それを誰が見極めて、どのレベルで、どのような方法で行うのでしょうか?

j) 助祭職を女性に開放することについて、総会では様々な意見がありました。「伝統との断絶」だと考えるので、受け入れられない、という意見がある一方で、「初代教会の慣行を回復することになる」と支持する意見があり、「時代の兆候に対する適切かつ必要な対応であり、伝統に忠実で、教会に新たなエネルギーと活力を求める多くの人々の心に響くだろう」と積極的に受け入れようとする参加者もいました。また、「憂慮されるような人類学的混乱を伴うのではないか」と懸念する声の一方、「女性に助祭職が認められれば、教会は時代の精神と融合することになるだろう」と理解を示す声もありました。

k) この問題に関する議論は、助祭職の神学についての、さらに広範な反省にも関連しています(この総括文書の「 シノドス的教会における助祭と司祭」参照)。

【提言】

l) 地域教会は、その社会的状況の中で最も過小評価されている女性たちに耳を傾け、寄り添い、手を差し伸べる活動を広げることが奨励されます。

m) 女性が意思決定プロセスに参加でき、司牧や奉仕職において責任ある役割を担えるようにすることは、急務です。ローマ教皇は、教皇庁での責任のある地位に女性の数を大幅に増やしました。同じことが、奉献生活や司教区において、教会活動の他のレベルでも起こるべきです。それに応じて教会法に規定を設けることが必要です。

n) 教皇が特別に設置した委員会の結果の検討と、既に行われている神学的、歴史的、釈義的な研究を活用し、助祭職を女性に解放することに関する神学的、司牧的研究は継続するべきです。可能であれば、この研究の結果は次の議会で発表されるべきです。

o) 特に奉献生活を営む女性がしばしば安価な労働力とみなされる教会内の事例を含め、雇用差別や不当な報酬の事例にも対処する必要があります。

p) 神学研究および養成プログラムへの女性のアクセスを大幅に拡大する必要があります。叙階聖職者の構成をより良いものにするため、女性がセミナー講師や研修プログラムにも加わることを提案します。

q) 典礼文書や教会文書において、男女を平等に扱う言葉を使用することや、女性の体験をより広範囲に描く包括的な言葉や図、物語を含めることにも、もっと注意を払う必要があります。

r) 女性が適切な養成を受けて、すべての教会法上のプロセスにおいて裁判官になれるようにすることを、私たちは提案します。

10. 奉献生活と信徒協会および活動:カリスマのしるし

【一致したこと】

a) 教会は、最高に素晴らしいものから最もありふれたものまで、カリスマの賜物の恩恵を常に受けてきました。それを通して、喜びと感謝の気持ちで、聖霊が教会を若返らせ、刷新します。神がご自身の使命を支え、指揮し、教え導く神の助けを、聖なる神の民はこのカリスマの内に感じます。

b) 教会のカリスマ的側面は、豊かで多様な形の奉献生活において明らかにされます。その証しは、いつの時代も教会共同体の活動を刷新することに貢献してきており、繰り返し生じる世俗の誘惑に抗う手段を提供します。独特な形の祈りであれ、人々の間の奉仕であれ、共同体生活の形を通して、観想生活の孤独の内に、あるいは新しい文化の最前線で、宗教生活を送る多様な家族が、主に従うことの素晴らしさとキリストにおける聖性を実証しています。奉献生活者は、しばしば真っ先に重要な歴史の変化を感じ取り霊の招きを聞き入れてきました。今日も、教会は彼らの預言的な声と行動を必要としています。

 キリスト教共同体は、奉献生活の共同体において十分に試行され何世紀にもわたって成熟させてきたシノドス的生活と識別の実践を認め、それに注意を払いたいと願っています。それらのことから私たちはいかにシノドスの道を歩むかについての知恵を学ぶことができるのを知っています。構造を刷新し、生活様式を見直し、新しい形の奉仕と貧しい人々への寄り添いを活性化するため、多くの修道会は、管区長および総会の指導の下に、聖霊における対話、あるいは同様の識別を、実践しています。しかしながら、他の場合には、対話の余地を与えない権威主義的なスタイルに固執しているようです。

c) 穏やかな感謝の気持ちで、神の民は、新たな教会共同体へと開花してきた長い歴史を持つ共同体における刷新の種に気づいています。信徒協会、教会の活動、新たな共同体は、すべての受洗者の共同責任が成熟する貴重なしるしです。それが特に価値をもつ理由は、異なる召命間の交わりを促進すること、福音を伝える推進力、経済的、社会的に周辺的な地位に追いやられた人々に寄り添うことを、共通善の促進を通して、彼らが経験するからです。それらはしばしば、シノドス的な交わりと使命への参加のモデルです。

d) 宗教生活を送る人々や信徒協会のメンバーの、特に女性が経験する様々な種類の虐待の事例は、権威の行使に問題があることを示しており、断固とした適切な介入を必要としています。

【さらに検討を要すること】

e) 教会の教導職には、教会の活動と使命における聖職階級制の賜物とカリスマ的賜物の重要性について教育する充実した機関があります。これは、教会の理解と神学的反省の拡大を求めています。それゆえキリスト教研究の重要性と、この教育の具体的な司牧的意味について、あらためて検討してみる価値があります。

f) 教会での様々なカリスマ的表現が強調するのは、神の民が、最も小さき兄弟姉妹に寄り添う預言的存在であることと、人生のより深い意味の霊的側面を現代文化にもたらすことに、献身することです。奉仕生活、信徒協会、教会の活動、新たな共同体が、預言的な存在と共に、既存の聖性への道を良くしながら、地域教会の交わりと使命の奉仕に彼らのカリスマをどのように役立てられるのか、もっと深く理解する必要性があります。

【提言】

g)  1978年(にバチカン司教省と奉献・使徒的生活会省の長官の連名で発出された)文書「Mutuae Relations」で示された「司教と修道会の相互関係に関する指導原則」を改訂するべき時が来ていると私たちは思います。すべての関係者を交えて、シノダル(共働的)なやり方でこの改訂が行われることを提言します。

h) 同じ目標に向けて、司教協議会および修道会総長会議が集い連携できるような場と手段を、シノダルな精神で、整備する必要があります。

i) 個々の地域教会と、教会のグループの両方のレベルで、宣教師のシノダリティの促進に必要なのは、信徒協会、教会の活動、新たな共同体の代表者たちが結集できる協議会と諮問機関を設立・配置して、彼らの活動と地域教会の活動との間に持続する関係を築くことです。

j) あらゆるレベルの神学的養成、特に聖職者の養成においては、教会のカリスマ的側面を目立たせる点について観察し、必要ならそれを強化すべきです。

(ここまで、「カトリック・あい」新井忍・試訳改訂)

11.シノドス的教会における助祭と司祭

【まとまったこと】

a)  司祭は司教の主要な協力者であり、司教とともに一つの司祭団を形成します(教会憲章第28章参照)。助祭は奉仕のために叙階され、みことば、典礼、特に慈善のディアコニア(奉仕職)において神の民に仕えます(教会憲章29項「助祭」参照)。彼らに対して、シノドス総会はまず深い感謝をささげます。彼らが孤独と孤立を経験するかもしれないという認識のもと、シノドス総会は、キリスト教共同体が祈り、友情、協力によって彼らを支えるよう勧告します。

b)  助祭と司祭は、小教区、福音宣教、貧しい人々や社会から疎外された人々の間、文化や教育の世界、また異邦人への宣教、神学研究、黙想センターや霊的刷新の場、その他諸々、多様な司牧の場で奉仕しています。シノドス教会において、叙階された聖職者は、人々に寄り添い、すべての人を歓迎し、すべての人に耳を傾ける態度で、神の民への奉仕を生き、深い個人的霊性と祈りの生活を培うよう呼ばれています。とりわけ、「神の形でありながら… 自分を無にして、僕の形をとり」(フィリピの信徒への手紙 2章6-7節)イエスを模範として、権威の行使につき考え直すよう求められています。総会は、多くの司祭と助祭がその献身を通して、よき羊飼いでありしもべであるキリストを現存させていることを評価します。

c)  奉仕と使命に対する障害の一つは、聖職者主義です。聖職者主義は、神の召命に対する誤解から生じており、召命を奉仕というよりも特権とみなすもので、自分自身が責任を負うことを拒否する世俗的なやり方の権力行使に現れ出ます。このような司祭召命の歪みには、養成の初期段階から、神の民との密接なかかわりを確保することで、また最も困窮している人々への具体的な奉仕学習経験を通して、対抗しなければなりません。今日の司祭の務めは、司教や司祭団と調和し、他の奉仕活動やカリスマとの深い交わりの中で果たされる以外、考えられないものです。残念ながら、聖職者主義は、聖職者だけでなく、信徒にも現れうる態度です。

d)  共同責任の中で叙階職にたずさわるには、自分の能力と限界を自覚することが必要です。のため、人間形成に対する現実的なアプローチが、弟子養成のための形成と同様に、文化的・霊的な次元の形成と統合されるようにすることが重要です。この点で、青年の召命が育まれる原点である出身家庭やキリスト教共同体、また青年の成長に寄り添う他の家庭の貢献は軽視できません。

【なお検討を要すること】

e)  シノドス的教会での奉仕のための全受洗者の養成という観点からみて、助祭と司祭の養成には特別な注意が求められます。神学校や司祭養成の他のプログラムが、共同体の日常生活と結びついたものであるようにとの要望が、今総会では広く表明されました。私たちは、権威主義的な態度につながり、召命の真の成長を妨げる、形式主義やイデオロギーのリスクを避ける必要があります。養成プログラムの見直しには、広範な議論と健闘が要されます。

f)  司祭の独身制については、さまざまな意見が表明されています。預言性に富みキリストを深く証しするものとして、独身制の価値はすべての人が認めるところです。一方、独身制の司祭職にとっての神学的妥当性が、ラテン典礼教会における規律的義務性を即意味するのか、特に教会的・文化的背景から困難な場合について疑問を呈する声もあります。この議論は新しいものではありませんが、さらに考察が必要です。

【提言】

g ) ラテン典礼の教会では、終身助祭制度は教会的背景によって異なる方法で実施されてきました。ある地方教会では全く導入されておらず、またある地方教会では、助祭が司祭不足を補うための一種の救済策と見なされているという懸念があります。助祭職が、共同体の貧しい人々や困窮している人々への奉仕よりも、典礼で表現されていることもあります。そこで、第二バチカン公会議後の助祭職の実施について評価を行うことが推奨されます。

h)  神学的見地からは、助祭職を司祭へのアクセスの段階としてだけでなく、何よりもまずそれ自体として理解する必要があります。助祭職の基本形態を「終身」と形容して「過渡的」なものと区別することには、今なお十分に理解されていない視点の変化が表れています。

i)  助祭職の神学をめぐる不確実性は、ラテン典礼教会では助祭職が固有の終身的位階として再建されたのが第二バチカン公会議以降だったという事実に起因しています。より深く研究すれば、女性の助祭職への道という問題に光を当てることになるでしょう。

j)  教会の宣教的、シノドス的側面を考慮した叙階職養成の徹底的な見直しが求められています。これは、養成の構成を決定するRatio fundamentalis(基本綱要)を見直すことも意味します。また同時に私たちは、司祭と助祭の継続的な養成に関して、シノドス的形式を確実に採用するよう推奨します。

k)  透明性と説明責任の文化は、私たちがシノドス教会を築いて前進するためにきわめて重要です。私たちは、司祭と助祭が職務の遂行にあたりどのように責務を果たしているか、定期的に監査するためのプロセスと体制を考案するよう、地方教会に求めます。コミュニティを巻き込むよう配慮すれば、参加型組織や司牧訪問などの既存の制度を、この作業の出発点にできるでしょう。これらの制度の形式は、支障や事務の負担とならないよう、地域の状況や多様な文化に合わせる必要があります。どのようなプロセスが必要かの見きわめについては、地域レベルあるいは大陸レベルでの考慮が可能でしょう。

l)  ケースバイケースで、状況に応じて、職を離れた司祭をその養成と経験を活かせる司牧奉仕に再参加させることが可能か、検討すべきです。

(ここまで、「カトリック・あい」岩井田泰試訳)

12 教会の交わりにおける司教

 

【まとまったこと】

a) 第二バチカン公会議によれば、司教は、使徒たちの後継者として、諸教会の間で、また全体教会と共に、地方教会の中で実現される交わりの奉仕に当たるよう置かれています。それゆえ司教の姿は、彼に任された神の民の一部分—すなわち信徒、司祭団、助祭、奉献生活者—で編まれた諸関係、そして他の司教、ローマ司教との交わりの中でのみ理解されます。そして。それは絶えず、宣教に向けられているものです。

b) 司教*は、自分の教会で、福音宣教と典礼祭儀に責任を持つ第一の人です。キリスト者共同体を導き、貧しさを経験している人々や最も傷ついている人々を守るための司牧ケアを促進する。一致の見える原理として司教は、各種各様のカリスマと役務を識別し調整する仕事を持つ。それは福音宣教と共同体の共通善のため聖霊によって送り出されたものです。この役務はシノダル(共働的)な仕方で実行されます。すなわち統治が共同責任によって担われ、信仰深い神の民に聴くことによって教えを説き、謙虚さと回心によって聖化と祭儀執行がなされる時、シノダルな仕方といえるのです。

*注*「教会憲章」20項に「司教たちは…教えの教師、聖なる祭儀の祭司、統治の役務者として、群れの牧者となっている」と書かれている。

c) 司教は地方教会で、シノダルな過程を生かし活性化していくという不可欠の役目を持っています―「すべての人々の、幾人かの、一人の」間の相互性を促進しながら、「一人」の司教の役務は、「全」信徒の参加、及び、より直接に識別と決定の過程に関わる「幾人か」の貢献を重んじる(重く受けとめる)ことによって。 司教自らが採用するシノダルなアプローチと、彼が行使する権威の様式は、司祭と助祭、男女の一般信徒と奉献生活者がどのようにシノダルな過程に参加するかに決定的に影響するだろう。司教は全員のためのシノダリティの模範として召されているのです。

d) 教会が神の家族として捉えられる文脈の中で、司教はすべての人に対する父と見なされます。しかしながら、世俗化された社会の中で、彼の権威がどのように体験されるかに関しては危機があります。司教職の秘跡的な性格を見失わないことが重要です。司教の姿が市民社会的な権威者の姿と同一化されることがないために。

e) 司教たちへの期待はしばしば高すぎるし、また多くの司教が統治や司法的なことへの関与で荷が重すぎると感じていると語っており、このため彼らは自分たちの役目を十分に果たすことに困難を感じています。司教も自分自身の弱さや限界に対処すべきですが、時として、人間的あるいは霊的に必要なサポートを欠いています。ある種の孤独感を持っていることもまれではありません。それゆえ、一方で司教の役割、使命の本質的な要素に再び焦点を当てること、他方で司教たちの間や司教と司祭の間の真の兄弟性をはぐくむことが重要です。
(ここまで、「カトリック・あい」山口好信・試訳)

【なお検討を要すること】

f) 神学的なレベルで、司教と現地教会との相互関係の重要性を大幅に深化する必要があります。司教は現地教会を導くと同時に、その歴史、伝統、カリスマの豊かさを認識し、保全するよう求められています。

g) 叙階の秘跡と管轄権との関係の問題は、より深く研究される必要があります。このような研究の目的は、教会憲章や、使徒憲章Praedicate Evangelium(福音を述べ伝えよ)のような最近の教えの検討を通じて、司教の共同責任の原則の根底にある神学的・典礼的基準を明確にし、共同責任の範囲、形態、意味を決定することにあります。

h) 一部の司教は、司教団内の完全な合意が得られていない信仰と道徳の問題について発言するよう求められると、不快を呈します。司教の合議制と神学的・司牧的見解の多様性との関係について、さらなる考察が必要です。

i) シノドス的教会にとって不可欠なのは、未成年者や弱い立場の人々の保護を目的とする手続における透明性と尊重の文化を確立することです。虐待防止に特化した組織をさらに発展させることが必要です。虐待の取り扱いというデリケートな問題は、多くの司教を、父としての役割と裁判官としての役割を両立させなければならないという困難な立場に置きます。司法的任務を、教会法により規定される他の機関に委ねることの妥当性を検討すべきです。

【提言】

j) 司教の権威のあり方、教区の資産の経済的管理、参加型機関の機能、あらゆる種類の虐待からの保護につき、司教の業績を定期的に見直すための構造とプロセスを、法的に定めて導入することが必要です。説明責任の文化は、共同責任を促進し虐待を防止する、シノドス教会の不可欠な要素です。

k) 司教評議会(教会法473条4項)や教区司牧評議会・東方教会司教管区司牧評議会(教会法511条、東方典礼教会法272条)の義務化、また共同責任を行使する教区の機関を法的意味も含めてより運営しやすいものにすることが求められています。l) 総会は、教皇大使の権限と司教協議会の参加とのバランスを取りながら、司教候補者を選ぶ基準を見直すよう求めます。また、選考プロセスにおいて不当な圧力にさらされることのないよう留意しつつ、神の民との協議を拡大すること、より多くの信徒や奉献生活者を協議のプロセスに参加させることも要求されています。

m) 多くの司教は、首都教区(教会管区)や地区について、機能の再考と構造の強化の必要があると表明しています。それらが、領域における合議制の具体的表現となり、また友愛、相互支援、透明性、より広範な協議を通じて、司教の間で当たり前の慣行となるようにとの目的です。

(ここまで、「カトリック・あい」岩井田泰試訳)

 

 

13.司教団の中のローマ司教

【まとまったこと】

a) シノドス的な原動力は、ローマ司教の務めについても新たな光を投げかけました。シノダリティ(共働性)とは実に、地域、広域、全世界のレベルで、共同体的(全員)、合議体的(何人か)、個人的(ひとり)な教会のもつ側面を、協和音的に1つにまとめることです。この様な見方において、神の民全体を含む共同体的要素と司教の務めの合議体的側面がそうであるように、ローマ司教のペトロの務めは、シノドス的な原動力に本来備わっています。それゆえ、シノダリティ、合議制、primacy(司教の裁治権)は相互に関係しています。ちょうどシノダリティと合議制が司教の裁治権の行使を暗示するように、司教の裁治権はその両方の行使を前提とします。

b) すべてのキリスト者の一致を促進することは、ローマ司教の務めに不可欠な要素です。エキュメニカルな旅は、ペトロの後継者の務めに対する理解をこれまでも深めてきましたし、今後もそうし続けなければなりません。聖ヨハネ・パウロ二世が回勅「Ut unum sint(キリスト者の一致)」でなさった招きに応じることは、エキュメニカルな対話の成果と同様に、優越性、合議制、シノダリティと、それらの相互関係についての普遍的な理解を助けてくれます。

c) 教皇庁の改革は、カトリック教会のシノドスの旅の重要な要素です。(教皇フランシスコが改革の仕上げとして出された)使徒憲章「Praedicate Evangelium‎‎(福音を宣べ伝える)」は、「教皇庁は教皇と司教の間にあるものではなく、むしろ、それぞれの本質に適したやり方で、いつでも両方の役に立てるようにする」と断言しています。教皇庁は、「交わりの活動」と「健全な地方分権化」に基づいて改革を進めます。省の多くのメンバーが教区司教であるという事実は、教会の普遍性を表しており、教皇庁と地域教会の関係を築くべきです。この使徒憲章を効果的に実施することで、異なる省の間で、それぞれの省の中で、教皇庁内のより大きなシダリティが育つかもしれません。

【さらに検討を要すること】

d)シノドス的な教会内の司教職に対する新たな理解がローマ司教の務めや教皇庁の役割にどう影響するのか、それを見抜く更なる洞察が必要です。この課題は、教会運営において共同責任を実行にうつす方法に重大な影響を及ぼします。全世界レベルでは、教会法典および東方教会典礼法典には、教皇の務めをより合議体的に果たすための規定があります。これらの規定は、実行する上でさらに改良し、両文書の今後の改訂において強化できるかもしれません。

e)シノダリティは、枢機卿がパウロの務めにおいて共働できる方法と、通例のおよび臨時の枢機卿会議で彼らの合議体的な識別を促進できる方法を明らかにすることができます。

f)枢機卿会の会員がお互いに知り合って交わりの絆を育てるのに最も適した方法について研究することは、教会の利益のために重要です。

【提言】

g)「使徒たちの敷居への訪問」は、地域教会の主任司祭が、ローマ司教と、そして教皇庁で彼に最も近い協力者たちと、関係を持つ最高の機会です。この訪問が行われる手順を見直して、交わりと、合議制およびシノダリティの真の実践を推進する、開かれた相互交流のための機会にしましょう。

h) 教会のシノドス的構成の観点から、多様な状況に今以上に配慮し、地域教会の声にもっと注意深く傾聴するため、教皇庁の省は司教の協議をさらに高める必要があります。

i) 活動を円滑に進め完全なものにするため、教皇代理者の仕事を、使命を遂行した国々の地域教会が評価する手順を確立するのが適切と思われます。

j) ペトロの務めに奉仕するシノドス的な評議会として、枢機卿顧問団の経験を充実させ強化することを提案します。

k) 第二バチカン公会議の教えを踏まえると、教皇庁の高位聖職者を司教として任命するのが適切かどうか、注意深く評価する必要があります。

(ここまで「カトリック・あい」新井忍・試訳)

第3部 絆を紡ぎ、共同体社会を作る

14.育成へ、シノドス的アプローチ

【まとまったこと】

a)  自己形成に気を配ることは、洗礼を受けたすべての人が主の賜物を受け、いただいた才能を開花させ、すべての人に奉仕するように求められていることの答えです。主が弟子を育てるのに費やされた時間は、目立たないが宣教のための決定的な教会活動の重要性を明らかにしています。 私たちは、この分野に携わるすべての人々に感謝と激励の言葉をかけ、教会のシノドスの旅から生まれてきた新しい要素を理解するよう勧められている、と感じています。

b)  イエスが弟子たちを育てるのにとられた方法は、私たちが参考にすべきモデルを提供してくれます。 彼は単に何かを教えただけではなく、弟子たちと生活を共にされました。ご自分の祈りで、弟子たちに「私たちに祈りを教えてください」という質問をさせました。(ご自分の話を聞こうと集まった)群衆に食事を与えることで、貧しい人々をばらばらにさせてはならない、と教えられました。エルサレムに向かって歩くことで、十字架への道を示されました。福音から私たちが学ぶのは、育成とは、能力構築だけではなく、敗北や失敗さえも実りあるものにできる神の国の論理への転換なのです。

c )  神の聖なる民は、(神の愛を受ける?)客体であるだけでなく、何よりもまず共同責任を負う育成の主体です。 実際、私たちの最初の育成は、家庭から始まります。家庭の中で、私たちは、両親や祖父母の言葉、実際には、その土地の言葉で、最初の「信仰宣言」を受け取ることも少なくありません。教会の奉仕に従事する人々の貢献は、地域社会にとって欠かせない教育連携における素朴な人々の知恵と、織り交ぜられねなりません。これはシノダル(共働的)な感覚で理解される教育の、第一のしるしです。

d)  キリスト教の入門には、育成の道に関する主要なガイドラインがあります。育成の中心となるのは、kerygma、つまり私たちに新しい命の賜物をくださるイエス・キリストとの出会い、を深めることです。求道者の論理は、私たちは皆、聖性に召された罪人であることを思い起させます。それが、私たちが、和解の秘跡によって完成をもたらす回心の旅に参加し、多数の証人の助けを受けて聖性への強い希望を育む理由です。

e)  神の民の育成が行われる場は数多くあります。 神学的な育成に加えて、多くの特定のスキルの訓練があります-共同責任を鍛え、耳を傾け、識別し、キリスト教諸派や諸宗教との対話をし、貧しい人々への奉仕と”共通の家”の世話、「デジタル宣教師」としての活動、識別の促進と聖霊における会話、合意形成と紛争解決など。子どもと青少年の教理面での育成には特別な注意が払われるべきであり、教会共同体の積極的な参加が必要です。

f)  シノダル(共働的)な教会の育成は、シノダル的な方法で行うことが求められます。神の民全体が共に歩みながら、共に育成されるのです。 司牧の非常に多くの分野で見られる「他人任せの性向」を改める必要があります。シノダルな教会実現のカギは、神の民が家庭、職場、教会、社会、知的領域において、洗礼の召命を十分に実践できるようにすること、彼または彼女自身のカリスマ性と使命に応じて教会の使命に積極的に参加できるようにすること、です。

【さらに検討を要すること】

g) 私たちは、若者の成長の旅を共にし、独身と聖別された純潔に召された人々の情緒的な成熟を助けるために、情緒教育と性教育のテーマを深めることを勧めます。これらの分野での育成は、人生のすべての時期において必要な助けです。

 h) 人々の貢献を単に並べるのではなく、より成熟したものにまとめる人間的経験を理解するためには、人文科学、特に心理学と神学の間の対話を深めることが重要です。

i)従来のいくつものシノドス総会で要求が出されてきたように、神の民は聖職者の育成に十分に関与する必要があります。教会における女性の貢献と家族の貢献をどのように高めるかに、特に注意を払いながら、育成プログラムについて幅広い見直しが必要です。

j) 司教協議会は、デジタル技術の活用推進を含め、利用可能なすべての人的、物的資源を活用して、生涯学習の文化を共に創造するために、地域で活動することが奨励されます。

【提言】

k) シノダリティ(共働性)に照らして、可能な限り、神の民全体(信徒、聖職者、司祭)を対象とした共同育成の諸提案が支持される必要があります。地方レベルで共同育成プロジェクトを奨励するかどうかは教区の責任です。私たちは諸々の司教協議会に対し、地域レベルで協力し、デジタル技術の活用推進を含む、利用可能なすべての人的、物的資源を活用して、継続的な育成の文化を共同で作り上げていくことを奨励します.

l) 従来のいくつものシノドス総会で要求が出されてきたように、神の民のさまざまな構成者が、司祭の育成過程に関与すること。特に重要なのは女性たちの参加です。

m) 司祭候補者の適切な選考過程が必要であり、それに準備プログラムの必要条件が満たされる必要があります。

n) 聖職者の育成は、さまざまな状況において、シノダル(共働的)な教会と一貫性をもつものとして考えられるべきです。 そのためには、司祭候補者が具体的な手続きに入る前に、キリスト教共同体についての初歩的ではあるが、実際の経験を積むことが求められます。育成の旅は、信者たちの普通の生活から切り離された、人工的な環境によるものであってはならなりません。 聖職に就くための育成の諸要件をしっかりと守ることによって、説教、秘跡の奉仕、慈善活動のための、神の民への真の奉仕の精神を育むことになります。
関連して司祭と終身助祭に関する現行「Ratio Fndamentalis Institutionis Sacerdotalis(聖職者養成の根本方針)」*を見直することが、必要になるかも知れません。

  *注*原文では「the RatioFundamentalis 」としか書かれていないが、「RatioFundamentalis Institutionis Sacerdotalis(司祭養成の根本方針)」を指していると判断される。これだけの表記で、総会参加者も含めてどれだけの司祭、信徒が理解するだろうか?

o) 次回のシノドス総会第2会期の準備として、司祭の初期段階およびそれに続く育成の責任者との協議を実施し、シノドス過程の受け入れを評価し、シノダル(共働的)な教会にふさわしい形で権限が行使されるために必要な変更が提言されている。

15. 教会の識別力と未解決の問題

【まとまったこと】

a) 聖霊における会話の経験は、参加者全員にとって豊かなものでした。 特に、自分の意見を自由に表現し、互いの意見に耳を傾けることを重視する意思疎通の図り方が高く評価されました。 これによって、一方の主張の繰り返しに基づく議論を急ぎ過ぎ、相手の説明を理解するための場と時間が残されなくなることを避けることができます。

b) この基本的な態度は、デジタル技術と人工知能の人類学的な影響、非暴力と自衛、奉仕に関連した問題、身体性と性に関連した問題など、教会内でも物議を醸している問題を掘り下げるための好ましい状況を生み出します。

c) これらの分野やその他の分野で、真の教会的識別力を養うには、神の言葉と教導職に照らして、広範な情報データベースと明確に反映する要素を統合する必要があります。従来の公式の安易さに逃げ込まないようにするには、人文科学や社会科学の観点との比較、哲学的な考察、神学的な精緻化を進める必要があります。

d) 考察を続けることが重要な問題の中には、愛と真理の関係、そして、それが多くの物議を醸す問題に及ぼす影響の問題があります。このような関係は、取り組むべき問題である前に、キリストの啓示に宿る恵みです。なぜなら、イエスは、詩篇にある「慈しみとまことは出会い、義と平和が口づけをする。まことは地から芽生え、義は天から目を注ぐ」(85章11-12節)という言葉を成就なさったからです。

e) 福音書には、イエスが歴史や当時の状況の中で人々と出会っておられることが示されています。イエスは決して、偏見やレッテルを貼ることから始めることをなさらず、たとえ誤解や拒絶にさらされる犠牲を払ってでも、心から関わる真の関係から始められます。たとえそれが声にならないものであっても、困難にある人々の助けを求める叫びを、常に聞いておられます。愛を伝え、自信を取り戻すような振る舞いをなさいます。 ご自身の存在によって、人々に新しい人生を可能にします。イエスに出会う人々は大きく変わります。このようなことが起こるのは、イエスが担っておられる真理は、観念ではなく、私たちの中にある神の存在そのものだからです。そしてイエスが行動をもって示される愛は、単なる感情ではなく、歴史を変える王国の正義なのです。

f) この明確な福音のビジョンを司牧的選択に移す際に、私たちが出会う難しさは、私たちが福音に従って生きる能力を欠いているしるしを見せつけ、私たちの個人的、共同体的な回心なしには助けを求める人たちを支援できないことを思い起させます。もし私たちが、教義を厳しく批判的な態度で使うなら、福音を裏切ることになります。

 私たちが"安易な憐れみ”を実践するなら、神の愛は伝わりません。真理と愛の一致は、真の兄弟姉妹の場合のように、相手の困難を自分のものとして引き受けることを意味します。 だからこそ、このような一致は、忍耐強く、同行する歩む道を歩むことによってのみ、達成できるのです。

g) 性同一性や性的指向、人生の終わり、困難な結婚生活の状況、人工知能に関連する倫理問題など、いくつかの問題は、新たな問題を引き起こすことから、一般社会だけでなく、教会でも物議を醸しています。私たちが開発した人類学的カテゴリーでは、科学の経験や知識から現れる要素の複雑さを把握するには不十分な場合があり、改良とさらなる研究が必要です。

 人々と教会本体を傷つけるような単純化した判断に屈することなく、熟考に必要な時間を取り、それに最善のエネルギーを注ぐことが重要です。多くの示唆が教導職によってすでに提供されており、適切な司牧的取り組みに反映されるのを待っています。 また、さらなる解明が必要な場合には、祈りと回心によって自身に取り込まれたイエスの振る舞いが、私たちに進むべき道を示してくれます。

【さらに検討を要すること】

h) 私たちは、その霊感を尊重する教会の実践を目指し、イエスが目撃した愛と真理の本来の織り合わせ方について、教会で考察を続ける必要性を認識しています。

i ) 私たちは、さまざまな知識分野の専門家が、専門知識を真の教会奉仕に役立てる霊的な知恵を成熟させることを奨励します。 この分野におけるシノダリティ(共働性)は、「使命を果たすために、多様なアプローチで、目的を調和させて共に考える意欲」として表現されます。

j) 神の聖なる民の日々の経験から出発し、彼らに奉仕する方法を知る神学的および文化的研究を可能にする条件を特定する必要があります。

【提言】

k) 私たちは、神の言葉、教会の教え、神学的考察に照らし、そしてこのシノドス総会の経験を尊重しながら、論争を生んでいる教義上、司牧上、倫理上の問題について、共通の識別を可能にする取り組みを促進することを提言します。これは、議論の機密性を保護し、議論の率直さを促進する制度的環境の中で、さまざまなスキルや背景を持つ専門家の間で徹底的に協議することによって、また、上記の論争の影響を直接受けた人々の声を聴く機会を必要に応じて設けることで達成でるでしょう。 このような作業は、来るべきシノドス総会第二会期を視野に入れて、始められるべきです。

(ここまで「カトリック・あい」南條俊二試訳)

 

16. 耳を傾け、寄り添う教会のために

【一致したこと】

a)  今総会の期間も含めて、シノドスの道の旅の最初の2年間において、「耳を傾ける」ことは、私たちの体験を最もよく表わしている言葉です

。「耳を傾ける」には、聴く立場と聴かれる立場があります。それは、深く、人としての実存性を示し、自分自身も貢献をされながら、他者の旅に貢献する、という相互依存の力強い原動力となります。b) シノドスの旅の教区レベルの段階で、参加した多くの人々、特に教会や社会で周縁に追いやられて苦しんでいる人々にとって、教会の人々から教会で「話を聞かせください」と求められたことは大変な驚きでした。しっかりと耳を傾けてもらうことは、人としての尊厳が確認され、認知される、という体験であり、人々と共同体が共に関与する強力な手段となります。

c) 生活の中心にイエスを置く時、私たちはある程度、自分を空にすることが求められます。この視点から、「耳を澄ます」は、喜んで自分の場所を相手のために残して置くことを意味するのです。私たちは聖霊との力強い対話の中で既にこのことを体験しています。それぞれに、自分の限界や、ものの見方に偏向があることを分かるようにするために、厳しい訓練が必要になります。この訓練によって、耳を澄ませば、共同体という枠を超えて人々に語りかける聖霊の声が聞こえるようになり、変化や回心をもたらす旅を歩み始めることができるのです。

 d) 「耳を傾ける」にはキリスト論的重要さがあります。それは、イエスの出会った人々に対する姿勢をしてなさった態度を取り入れることを意味します(フィリピの信徒への手紙2章6-11節参照)。「耳を傾ける」には、教会的な有意性もあります。なぜなら、単に自分たちの名ではなく、共同体の名のもとに行動する信徒たちの行動を通して「耳を傾ける」のは、教会だからです。

e)  ”シノドスの道”のプロセスで、教会は、「耳を傾けてくれるように、寄り添ってくれるように」と願う多くの人々やグループに出会いました。私たちは真っ先に若者たちに言及しました。「「聴いて欲しい、寄り添って欲しい」という彼らの要求は、彼らに捧げられた2018年の世界代表司教会議(シノドス)総会、として今総会の議場に響き渡り、若者たちのために優先する選択肢の必要を確認しました

f)  教会が、特別な配慮と感受性をもって耳を傾ける必要があるのは、教会から任命された聖職者やそれ以外の人々による性的な、精神的な、経済的な、制度的な、そして、権力による、そして良心を悪用した虐待の犠牲者の声です。真に彼らの声に耳を傾けることは、癒し、悔い改め、正義、そして和解への道に必要な、根本的要素となります。

 g)  今総会は、結婚や性的倫理に関する教会の伝統と教導権に忠実になされた選択として、独身を受け入れたすべての人たちに、親密さと支援を表明します。彼らはそれを命の源として認識しています。キリスト教共同体は、彼らに寄り添い、耳を傾け、彼らに約束において共に歩むよう求められています。

h)  婚姻の形、身元、性別ゆえに、教会で、軽視されたり、のけ者にされていると感じている人たちもまた、聴かれること、共に歩んでくれることを、様々な仕方で求めています。 教会で傷つけられたり、無視されたり、あるはそのように感じている人たちが、安全だと感じ、自分たちの話を聞いてもらえ、敬意を払ってもらえる、裁かれていると感じる心配のない、「家」と呼べる場所を希望している、そうした人たちに、深い愛と同情が、今総会では、感じられました。耳を傾けることは、神の御心を捜し求めて共に歩むための前提条件になります。今総会は、キリスト教徒は常に、一人ひとりの人の尊厳に敬意を払わねばならない、ということを改めて表明します。

 i)  不公平な社会の中で貧困、排除、軽蔑といったさまざまな苦しみを味わっている人々は、愛し、耳を傾け、共に歩む存在として、教会に目を向けます。耳を傾けることで、教会は、貧困、排除、軽視の現実を理解し、苦しんでいる人たちに友情をもって接することができるようになります。重要なのは、そうすることがまた、教会が、苦しむ人たちによって福音化することを可能にすることです。彼らに耳を傾けることで、教会は彼らのものの見方を理解し、彼らの側に具体的に身を置き、彼らによって福音化されるようになるのです。

 私たちは、刑務所にいる人たちに耳を傾け、寄り添う奉仕に携わっている全ての人に感謝し、激励します。刑務所にいる人たちは、特に、主の慈悲深い愛を経験し、共同体社会から孤立してないと感じることを、必要としています。奉仕者たちは教会を代表して、「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ福音書25章36節)という神の御言葉を実践しているのです。

j)  多くの人々が、しばしば見捨てられたように感じるほどの孤独の状態を体験しています。高齢者や病気の人たちはしばしば、社会の中で存在が認められません。私たちは、小教区やキリスト教共同体が彼ら寄り添い、耳を傾けるように、強く求めます。 「いつ、病気をなさったり、牢におられたのを見て、お訪ねしたでしょうか」(マタイ福音書25章39節)という福音の御言葉に触発された慈しみの業には、関わりのある人々にとっても、共同 体の連帯をさらに広げていくためにも、重要な意味があるのです。 

k)  最後に、教会は、容易に声を聴くことのできる人たちだけではなく、誰の声にも耳を傾けたいと思っています。いくつかの地域で、文化的、社会的な理由から、若者、女性、少数者といった特定のグループの人々が、公的な、あるいは教会という場で自由に自己表現することを、もっと難しく感じているかもしれません。抑圧的で独裁的な政治体制の下での生活は、そうした自由も浸食されていきます。キリスト教共同体でも、権威の使い方が開放的であるよりも抑圧的になるとき、同じことが起きる可能性があります。

【さらに検討を要すること】

l) 「耳を傾ける」ことは、無条件の受け入れを求めます。これは福音の宣言について妥協する、あるいは、提案された意見や立場を何でも支持する、という意味ではありません。主イエスは条件を付けずに人々に耳を傾け、彼らのために新たな地平を開かれました。そして、彼らと共に救いの良き知らせを分かち合うために、私たちも同じことをするように求められているのです。m) 全世界の多くの地域に広がっている、小さなキリスト教共同体は、洗礼を受けた人々に、また彼らの間で、耳を傾ける慣行を育てています。都会的な環境の中で、彼らがどのようにして耳を傾けることができるか、を探求することで、潜在的な力を高めるように求められています。

【提言】

n)  「排除されている」と感じている人たちにとって、もっと親しみやすい存在として教会が体験できるようにするために、私たちは何を変える必要があるのでしょうか。耳を傾け、共に歩むことは、個々人の行動というだけでなく、教会活動の一つの形です。ですから、教会員は、霊的な寄り添いを十分に活用し、異なったレベルのキリスト教共同体の通常の司牧計画の立案と活動の構成の中に、場を探す必要があります。シノダル(共働的)な教会は、耳を傾ける教会である必要があり、その約束の言葉は、実践されねばなりません。

o)  私たちはゼロからこの作業を始めるわけではありません。数多くの機関と組織が「耳を傾ける」いう重要な作業をしています。その中には、貧しい人々、周縁に追いやられている人々、移住者、難民などに対するカリタスの寄り添うための作業、そして、奉献生活者や一般信徒の共同体と連携したその他の多くの寄り添いがあります。さらに統合的なやり方で、彼らの作業と現地の教会共同体を連携させ、この作業を、委託作業としてではなく、全共同体の大切な役割として理解されることが可能になります。p)  耳を傾け、寄り添う奉仕をさまざまな形で実践する人たちには、彼らが繋がりを持つ人たちの経験を考慮に入れた、十分な編成をする必要があります。また、彼らが、共同体から支援されていると感じられることも必要です。共同体の側も、自分たちのために行なわれる奉仕の意義を十分に認識し、耳を傾けることの成果を受け取るようにするべきです。 私たちは、この奉仕をさらに卓越したものにするために、耳を傾け、寄り添う部署の設置を提案します。部署についての協議には、教会共同体を関与させるべきです。

q)  SECAM (アフリカ・マダガスカル司教協議会)は、一夫多妻制の問題点についての神学的および司牧的な識別と、信仰を持つようになっている一夫多妻の人々への寄り添いを促進する促進するように奨励されています。

 

17. デジタル環境における福音宣教

【まとまったこと】

a)  デジタル文化は、私たちの現実の受け止め方において、私たち自身の、お互いの、私たちを取り巻く環境の、さらに神との関わり方においての根本的な変化を象徴しています。デジタル環境は、私たちの学習プロセス、時間の認識、空間、肉体、人間関係、そして考え方の大部分を変えます。「現実」と「仮想」の二元論では、人々の、特に最も若い、いわゆる「デジタル世代の人々」の現実と体験を適切に説明することはできません。

b) 従って、デジタル文化は、現代の文化において明確に区分けされた宣教地域というよりも、教会の証人となる重要な側面を持っています。これが、デジタル文化がシノダル(共働的)な教会において特別な意味を持つ理由です。

c)  宣教師たちは常にキリストと共に新天地に出かけ、聖霊の働きに導かれ、(宣教に)駆り立てられました。今日、人々が(人生の)意味と愛を求める、携帯電話とタブレットを含めたあらゆる場所で、現在の文化に働きかけるのは、私たちの役目なのです。

d)  まず初めに、このことを理解しなければ、デジタル文化における福音宣教はできません。若い人々、この世代の神学生、司祭、奉献生活をする男女には、デジタル文化の経験を積んでいる場合がよくあるで、デジタル環境の中で教会の使命を遂行し、司牧者も含めた教会共同体の人々に寄り添い、デジタル文化の活力に精通するのに最適です。

e)  シノドスの道の歩みで、「デジタル・シノドス」の取り組み(プロジェクト「教会はあなたに耳を傾ける」)は、次のことの潜在的な力を示しています。それは、宣教の鍵となる目的のためのデジタル環境、それに関わる人々の独創力と視野の広さ、そして、訓練、寄り添い、対等な者同士の話し合いと協力の重要さによってそれらを提供すること、です。

【なお検討を要すること】

f)  インターネットは、子供たちや家庭の生活の中にますます浸透しています。私たちの生活の質を向上する可能性が極めて高い反面、脅迫、偽情報、性的搾取、依存症などの危害や損害をもたらす可能性があります。キリスト教共同体には、オンライン空間が安全であるだけでなく、霊性に活力を与えるのを確実にするような、家庭支援の方法の検討が緊急に求められています。

g)  価値のある有用な教会関連のオンラインの取り組みが多くあり、優れた教理教育や信仰育成に貢献しています。しかし、残念なことに、信仰に関連した事柄について表面的で、分断をもたらすような、さらには悪意に満ちた姿勢をとるサイトもあります。教会として、個々の”デジタル宣教師”として、私たちのオンラインへの参加が、相手の人たちにとって成長をもたらす体験となることを、いかにして確かなものとするか、私たちは自分自身に問いかける責務があります。

h)  オンラインによる福音宣教の取り組みは、その到達範囲が、伝統的に理解されてきた領域の境界を超えます。このことは、どのようにしたら新しい取り組みを規制できるか、そして、管理責任があるのは教会のどの部署なのか、という重要な問題を提起します。

i)  私たちはまた、現在の小教区と教区の構成を刷新するための「新しいデジタル宣教のフロンティア」の影響についても考えねばなりません。拡大を続けるデジタルの世界で、私たちはどのようにして、現状維持を求める罠に陥らずに、新しい形の宣教の実践のためのエネルギーを解放することができるのか?

j)  新型コロナウィルスの世界的大流行に刺激された,オンラインによる創造的な司牧上の取り組みは、高齢の、脆弱な地域社会のメンバーたちが経験している孤立や孤独がもたらす影響を減少させる助けとなりました。カトリックの教育機関も、(コロナ感染防止のために余儀なくされた)施設の閉鎖中に、信仰養成と教理教育を続けるために、オンライン・プラットフォーム(情報の提供者とそれを利用するユーザーを結びつける場)を効果的に利用しました。このような体験が私たちに教えているのは何か、デジタル環境の中で、教会の使命にとって(オンラインの活用を)続ける利点は何か、をよく考えるのは好ましいことです。

k)  素晴らしさを熱心に追求する多くの若い人たちは、オンライン空間を選び、私たちが招こうとしていた教会の物理的空間を放棄しています。このことが意味するのは、彼らの関心を引き寄せる信仰養成と教理教育のための新たな方法を見い出す必要がある、ということです。これは司牧上、検討すべき課題です。

【提言】

l)  すでに行われているデジタル宣教を、教会が認知し、そのための訓練と共働を提供すること、さらに、そこで行なわれる会議を円滑にすることを、私たちは提言します。

m)  重要なのは、他宗教の信者や信仰を持たない人々も含めた、インターネット・メディアで影響力のある人の協力のネットワークを構築すること、それだけでなく、人間の尊厳、正義、そして"共通の家(地球)"のケアを促進するという共通の利害(目的・理念)においての、協力です

18. 参加する組織体

【まとまったこと】

a)  誠実な神の民のメンバーとして、洗礼を受けたすべての人は、彼、彼女それぞれの召命、経験、能力に応じて福音宣教の使命を果たす共同責任をもちます。そのために、福音を伝えることが素晴らしく、励ましとなる喜びの経験となるように、すべての人がキリスト教共同体と全教会の改革の行程の構想を練り、決定することに貢献します。

 シノダリティ(共働性)には、具体的な形をもつ組織体の構成と機能において、目的としての使命があります。その使命のための共同責任は、「イエスの名において真に集められたものであること」を事実として証しし、参加する組織体を官僚的なもつれや世俗的な力の論理から解放し、集まることを実りあるものにします。

b)  近年の教導職(特に第2バチカン公会議で決議された文書「教会憲章」と教皇フランシスコの使徒的勧告「福音の喜び」)に照らし、あらゆる福音宣教における共同責任は、奉仕を行なうキリスト教共同体とそれに含まれる組織のすべての、そして、それぞれがキリストの体である教会すべての、構築の根底となる尺度でなければなりません。(コリントの信徒への手紙Ⅰ・12章4-31節参照)。

 世界中で宣教活動をしている一般信徒たちの責任についての適切な認識をもとにすれば、キリスト教共同体の世話を司教たちや司祭たちに任せる、という口実にはなりえません。

c)卓越した権威は、神の御言葉にあります。その権威は、参加組織体のすべての集会、すべての協議、すべての意思決定プロセスに、ひらめきを与えるに違いありません。そのために必要なのは、すべての段階で、集会が、聖体祭儀から主の意図と力をいただき、祈りのうちに聴き、分かち合う御言葉の光の中で行なわれることです。

d) シノダル(共働的)な宣教共同体の識別や意思決定のための様々な会議は、使徒的な役割を持つ男女-教会に頻繁に参加することによるのではなく、日常生活で真の福音的な証しをすることで、際立っている人々―に参加の場を提供しなければなりません。

 神の民は、宣教師的であればあるほど、すでに、この世界とその片隅に住み、宣教の使命を果たしている人々、あるいは彼らに共感する宣教に参加する組織体と言葉を交わすことが、もっとできるようになります。

【なお検討を要すること】

e)  今総会で分かち合ったことを踏まえて、私たちが重要だと感じているのは、特に、当事者たちが「自分はそれを行うのに適当でない」と感じるときに、どのようにしてさまざまな会議への参加を促したらよいか、をよく考えることです。

 シノダリティ(共働性)は、教会の使命を果たすための識別と意思決定の過程に、めいめいのメンバーが関わることで育っていきます。その意味で、私たちは、成長しつつある教会で、御言葉と感謝の祭儀を中心にした日々の触れ合いの中で生きる沢山の小さなキリスト教徒の共同体によって啓発され、励まされます。

f) 参加する組織体の構成に関して、教皇フランシスコが使徒的勧告「AmorisLaetitia(家庭における・愛の喜び)」の中で託された作業を、さらに先延ばしすることはできません。複雑な愛情関係に生きるキリスト教徒の男性たち、女性たちの参加は「さまざまな教会奉仕に、あっていいのです。

 ですから、典礼、司牧、教育、組織と言った領域で、まさに今行われている、乗り越えることのできる、様々な形の”排除”についての『識別』が必要になります」(「(家庭における)愛の喜び」299項参照)。ここで問題とされている識別は、現地教会でも見られることがありますが、小教区や教区の共同体からの排除にも、関係しています。

g)  教会の交わりにおける宣教活動の独創性の観点から―私たちはどのようにして、シノダリティ(共働性)のもつ協議と熟考の二つの側面を編み合わせていくのか? 神の民のカリスマと聖職の構成を基礎に置いて―私たちはどのようにして、様々な参加組織体の中で助言、識別、決定の作業をまとめていくのか?

【提言】

h) 福音宣教に関する能動的な主体として神の民を理解することをもとに、キリスト教共同体と現地教会に設けられる司牧評議会の強制的な性格を成文化します。同様に、洗礼の恵みによって「信徒が決定について、識別の役割を果たすことができる」ということを認識し、彼らが適切に参加する組織体を強化することが望ましい。

i)  参加する組織体は、責任を果たす人々の説明責任の元となる行動を体験する最初の実例となります。私たちは彼らとの関わりを温かく歓迎し支援する一方で、今度は、彼らが示す共同体に対して「説明責任」の文化を実践するように勧めます。

19. 全教会の交わりにおける教会のグループ化

【まとまったこと】

a)  聖霊が共同の利益のためにその賜物を豊に分配しています。そのために私たちは、教会の交わりの中で、それぞれの教会が提供できるものが多くある、と確信しています。私たちが教会をキリストの体として見ると、教会に属する様々なメンバーは互いに依存し、同じキリストの体を分かち合っている、ということをより容易に理解できます。

 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリントの信徒への手紙1・12章26節)と聖書に書かれています。

 ですから、私たちはこの見方から生まれる、霊的な生き方―謙遜、寛容、尊敬、分かち合い-を発展させたいと思っています。

 同じように、霊的な豊かさ、宣教する弟子たちが、互いの知識の交流によって成長し、必要なものを構築しようとする意欲が重要になります。

b)  現地教会のグループ化の問題は、教会におけるシノダリティ(共働性)を十分に発揮することが基本であることを証明しています。現地教会のグループ化を含めて、シノダリティ(共働性)と合議性の事例をどのように構成するか、という問題に応えて、総会は、”シノドスの道”の旅の第一段階で適切に実施するために、司教協議会と大陸レベルの会合で行なわれた識別の重要性について合意しました。

c)  現地の 教会側の視点から組織体を理解した場合、教会法と東方教会の教会法において、組織体がいかに、より効果的にその機能を果たしてきたかが、”シノドスの道”の過程で分かりました。

 「教会」とは「諸々の教会の交わり」である、という事実は、司牧者としての司牧上の構成的な側面として、各司教がすべての教会(教皇パウロ 6 世が1969 年 に出された回勅「Sollicitudoomnium ecclesiarum(すべての教会の配慮)」に配慮して実践することを求めています。

d)  シノドスの旅の第一段階では、司教協議会が決定的な役割を果たしました。大陸レベルでの会議でシノダリティ(共働性)と合議性の必要を明らかにしました。これらの段階で活動している組織体 は、それぞれの地域の現実と文化受容の過程を尊重しながら、シノダリティ(共働性)の実践に貢献しています。総会は、このようにすれば教会の統治における画一化や中央集権化のリスクを克服できるとの確信を表明しました。

 

【なお検討を要すること】

e) 新しい教会の構築をする前に、私たちは既存の組織を強化し、活性化する必要があります。同様に、教会がさらに十分にシノダル(共働的)な性格を帯びるように、教会のグループ化に関係する改革の意味について、教会の教会的、教会法的な学びが必要なこと。

f) 最初の千年紀の教会の共働的な慣行をもとに、例えば、司教協議会のような、新しく設けられた制度と調和させながら、いかにして現在の教会法の順序に従って古い制度を回復させるかについての研究をするよう提案すること。

g) 司教協議会の教義的、教会法的 な本質は、現地の組織で起きた教義上の問題も含めて、合議的な対処の可能性を認めつつ、さらなる学びが必要とします。そうすることで、ヨハネ・パウロ二世教皇の自発教令 Apostolos suosついての考察を再開すること。

h)  このほどオーストラリアの教会会議総会で得られた主の賜物の例に倣い、神の民のより多くの参加が実現するように、(総会や地方の)特定の評議会に関する教会法を改定すること。

 

【提言】

i)  教会規範ですでに規定されている構成の中で、地域の現地教会群の交わりの場として、私たちは、教会管区あるいは首都教区の回復、強化をすべきです。

j)   関係当局は、教会のグループ構成に関して必要とされる洞察に従って、教区、国、大陸レベルにおけるシノダリティ(共働性)を推進すべきです。

k)  どの司教協議会にも属さない司教の便宜を図るために、国境を越えた教会群の間の交わりを促進するため、必要とされる地域に、国際的な教会管区の創設を提案します。

l) 東方カトリック教会の聖職階級制度も存在するラテン典礼の諸国において、東方教会の司教たちを、その独自の法典で確立された統治権を維持する形で、各国の司教協議会に含めることを推奨します。

m)  各大陸の会議の教会法的な形状は、それぞれの大陸の特性に敬意を払いつつ、神の民の多様性を提起する代表者たちと共に、司教協議会の参加と教会群の参加を十分に考慮するような形で機能させるべきです。

 

(ここまで、「カトリック・あい」田中典子試訳・2023.11.28改訂)

20. 世界代表司教会議と教会会議

【まとまったこと】

a) 「共に歩む」という経験は疲労と感じさせるものであったとしても、今総会で、私たちは、神の民であることの福音的な喜びを感じました。 シノドスの旅のこの段階での新たな経験は、総じて喜びを持って受け入れられました。

 最も明白なものに、(教皇フランシスコが2018年9月に発表されたシノドスをめぐる使徒憲章「エピスコパリス・コムニオ(司教の一致)」に示されているように)シノドス総会が”イベント”から”プロセス”に移行したことがありました。

 (総会における)司教たちと並んで、女性も男性も含めた他の教会員の存在、 兄弟姉妹である参加者の活発な存在、 総会の準備のための霊的な黙想、聖ペトロ大聖堂での聖体祭儀、 祈りの雰囲気と聖霊における会話の方法、 そしてパウロ六世ホールでの会議の際の配置などです。

b) この世界代表司教会議は、その卓越した司教主導の性格を維持しつつ、この機会に、教会生活のシノダル(共働的)な側面(全員の参加)と合議の側面(教会全体への司教の配慮)、そして主席司教の側面(ローマ司教、聖体の証人の奉仕)の間の、本質的なつながりを明確にしました。

c)  シノドス(共働)の道の歩みは、これまでも、そして今も、私たちを勇気づける恵みの時です。 神は、教会の生活と使命を導くことのできる、教会の新しい文化を経験する機会を、私たちに提供してくださっています。しかし、宣教におけるシノダリティ(共働性)への個人としての回心が欠けていれば、共同責任の仕組みを作り出すだけでは十分ではないことを、私たちは思い起こしました。

 シノドスの道の歩みは、教会のあらゆるレベルで、その奉仕とカリスマによって参加するように呼ばれている人々の個々の責任を軽くするものではなく、むしろ、いっそう重い責任が求められます。

【さらに検討を要すること】。

d)  司教以外の教会員がシノドスの旅の証人として、総会に参加したことは高く評価されました。 しかし、この総会の司教的性格からみて、「正規の参加者」としての参加がもたらす会議への影響については、依然として疑問が残っています。参加者の中には、 「司教の具体的な役割が十分に理解されない恐れがある」との見方もあります。 司教でない参加者が総会に出席を求められる基準を、明確にする必要があります。

e)  2021年11月の第1回ラテンアメリカ・カリブ地域司教協議会総会、ブラジルのOrganisms of the People of God (神の民の有機体)、オーストラリア教会総会などの経験が報告されました。決定の精緻化と司教の具体的な役割に対する、神の民の全成員の貢献を(不当な分離なしに)区別しながら、将来的に「シノダリティ(共働性)」と「合議性」をどのようにまとめていくかについて、見極め、深化することが、課題として残されています。

 共働性、合議性、そして司教の裁治権の関連は、固定的あるいは直線的に解釈されるべきではなく、according to a dynamic circularity, in a differentiated coresponsibility(区別された共同責任における動的な循環に従って)解釈されるべきです。

f) 地域レベルでは、連続的な手順(教会会議とそれに続く司教会議)を考えることは可能ですが、カトリック教会全体からみて、このような手順がどのように提案されるか、明確にすることが適切である、と考えられます。

 総会参加者の中には、「この総会で採用された方式が、そうした要請に応えている」と確信する人がいる一方で、「識別を結論付けるために、教会会議に続いて司教会議を開くこと」を提案する人も、「シノドス総会の参加者の役割を、司教に委ねるのがいい」とする人もいます。

g) さまざまな分野の専門家、特に神学者や教会法学者によってなされた今総会の作業とシノダル(共働的)な教会のプロセスへの貢献も、意義あるものでした。

h) シノドスの道の歩みとインターネットおよびメディアの間の相互作用についても熟考する必要があります。

【提言】

i) 教会のあらゆるレベルにおけるシノドスの道の歩みは、吟味される必要があります。

j) 世界代表司教会議(シノドス)第 16 回通常総会の第一会期の成果は、吟味される必要があります。

  *注*英語訳で「evaluate」となっている箇所は、日本語では一般的に「評価する」と訳されることが多いが、語感としては、「前向きに讃える」というニュアンスが含まれる傾向がある。英語の本来の意味は「価値を付ける」であり、良い悪いの判断は含まれまい。したがって、ここでの訳は「吟味」あるいは「査定」とする方が、ここでは適切であると判断した。

・旅を続けるにあたって

(2023年11月15日改訳)

 「神の王国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか?」 (マルコ福音書 4章30節)

 主の言葉は、教会のあらゆる言葉よりも優先します。 弟子たちの言葉は、それが教会会議の言葉であっても、イエスご自身の言葉の反響にすぎません。
神の統治を宣べ伝えるために、イエスは、たとえ話で話すことを選ばれました。人間生活での日常の体験—自然界、職場、日々の様々なこと—の中に、神の神秘を明らかにするイメージを見出されました。

 そうして、イエスは、「神の統治は、私たちを超越しているが、私たちから遠く離れてはいない」ということを、私たちが知るようにされました。私たちがそれをこの世の様々なことの中に、神の統治を見るか、それとも、決して見ないのでしょうか。

  イエスは、地に落ちる一粒の種の中に、ご自分の運命が示されているのを知っておられました-価値のないもの、あるいは朽ちることが定められているもの、だが、 生命の力、止めることのできない強い力、もつ-予想することのできない、Paschal(過ぎ越し)であることを。それは命を与えること、多くの人のパンとなること、御聖体となる運命のパンとなることを定められた強い力です。

 今日、支配することを求めて人々が互いに争い、見えるものに心を奪われている”文化”の中で、教会は、イエスの言葉を繰り返し、全力を挙げてその言葉に命を吹き込むように求められています。

 「何をもって神の国と比べることができるだろうか、(神の国を表現するのに)どのようなたとえを使うことができるだろうか」。

 私たちの主の質問は、私たちの前に今置かれている仕事に光を当てます。その仕事は、複数の分野に分散し、そのすべてを効率性と手続き主義の論理に帰することではありません。

 大事なことは、この総括文書にある多くの言葉や提案の中から、小さな種でありながら未来を担う思われるものをつかみ、それをどのようにして、多くの人のために生育し、実らせることのできる土に植えたらいいか、思いめぐらすことです。

 「どうしてそんなことがありえましょうか?」(ルカ福音書1章34節)—天使から「あなたはイエスを身ごもる」と告げられたマリアは、こう尋ねました。 答えは 1 つしかありません。「聖霊の影の中に留まり、その力に包まれるようにすること」です。

 今から2024年10月のシノドス総会第 2 会期までの期間を見据えて、これまでの旅と、それを祝福してくださった恵みを、主に感謝しましょう。

 私たちは次の段階を、旅を続ける忠実な神の民への確かな希望と慰めのしるしである聖母マリアのとりなし、そして今日、私たちがその祝日を祝う聖使徒シモンとユダのとりなしに委ねます。 私たちは皆、この総括文書が記述している小さな種を歓迎するよう招かれているのです。

 Adsumus Sancte Spiritus!(聖霊よ、私たちはあなたの前に立っています!)

2023年10月28日、使徒である聖シモンとユダの祝日、ローマにて

(ここまで「カトリック・あい」南條俊二試訳・改訂)

(編集総括「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2023年10月30日