・「『シノドス』と『シノダリティ』ー日本のキリスト者と教会の生活に影響を及ぼしている問題は何か」ー駐日バチカン大使の春の司教総会での挨拶

(2023.7.1 カトリック・あい)

 教皇が、世界の聖職者、一般信徒すべてが互いに耳を傾け、共に働き、福音宣教の道を共に歩むように、という強い思いを込めて、2021年10月から始められた”シノドスの道”は、今年と来年の10月に開く世界代表司教会議(シノドス)総会で大詰めを迎える。

 シノドス事務局が、世界の小教区、信者グループなどから始まったこれまでの歩みをもとに、総会の討議要綱を6月20日に発表した機会に、今年2月の日本の司教総会に出席したレオ・ボッカルディ駐日バチカン大使の挨拶の全文を以下に紹介する。

 全文は、中央協議会のホームページに3月15日から掲載されているが、検索が難しいこともあり、日本のほとんどの信者の目には触れていないと思われるが、その内容は、”シノドスの道”の歩み方にとどまらず、取り組みに極めて消極的な日本の教会、そのリーダーたちに強く反省を求める内容となっている。

司教総会開会式における教皇大使の挨拶「シノドスとシノダリティについて」 2023年2月13日

 兄弟である司教の皆さま

 皆さまとお目にかかり、皆さまの2023年通常総会の議案から示唆されたいくつかの考えを共有できることは、私にとって常に喜びです。ご紹介したい論考は「シノドスとシノダリティ」です。

 おそらく皆さんは、「それが今回の総会の諸テーマとどう関係するのか」と尋ねられることでしょう。私の論考は、議案に書かれていることからではなく、むしろ議案に明示的に書かれていないことから生まれるものです。

 この司教総会では、聖職者の生涯養成、司教協議会事務局の刷新、学校教育委員会、2022年度の決算、典礼の諸課題などが議論されると聞いています。

 そこで、私は自問します。「今日、日本のキリスト者と教会の生活に影響を及ぼしている問題は、何だろうか」と。

 このように問うことで、(日本の司教団や教会を)批判するつもりは毛頭ありません。ただ、第3千年期において神が教会にお望みになる道としての「シノダリティの道」を教えてくださっている教皇フランシスコの教導職を伝えたいのです。この道は、第二バチカン公会議が『教会憲章』の中で「神の民である教会」のモデルとカテゴリーにおいて示したように、教会のアイデンティティ、構造、使命の見直しを伴うものです。私の挨拶は”教会論の講義”ではなく、共通した考察をするための刺激に過ぎません。

 最近、「シノドス(「カトリック・あい」注:大使が言われたいのは「代表司教会議」と思われる)」と「シノダリティ(同様に、「共働性」を念頭に置いていると思われる)」についてよく耳にするようになりましたが、この二つの言葉は何を意味しているでしょう。

 一つ明らかなことがあります。「シノドス」と「シノダリティ」は同義ではありません。「シノドス」は具体的な出来事であり、「シノダリティ」は教会生活のいくつかの特性を示す概念です。「シノダリティ」とは、教会が生きて働く、いやむしろ、「教会が生きて働くべき、特定の形態」です。「シノドス」には始まりと終わりがあり、「シノダリティ」は今日の教会の宣教スタイルです。多くの「シノドス」は、おそらく「シノダリティ」なしで開催されました。

 もし私たちが「シノダリティ」とはどういうことかをよく理解したければ、『教会憲章』第2章(神の民について)に戻り、司教、司祭、修道者、男女信徒を含む「神の民」というカテゴリーに立ち戻らねばなりません。教皇、司教、司祭、助祭、修道者について、たとえば「第3奉献文」にあるように、別個の現実として語ることは、依然として不適切であるように思われます。

 「聖なる父よ… 私たちの罪の赦しとなるこのいけにえが、全世界に平和と救いのためになりますように。地上を旅するあなたの教会、教皇○○○○、わたしたちの司教○○○○、司教団とすべての奉仕者を導き、あなたの民となったすべての人の信仰と愛を強めてください」。しかし、あがなわれた人々の中には、教皇、司教、その他の人々も含まれているのではないでしょうか。聖アウグスティヌスが言ったように、私は、「個人として、あなたのための一人の司教であり、あなたと共にいる一人のキリスト者だ」と感じています。

 


*教会における通常の生き方、働き方としての「シノダリティ」

 では、「シノダリティ」とは、何を意味するのでしょうか。国際神学委員会の文書「教会の生活と宣教におけるシノダリティ」(2018年)がそれをよく説明しています。「シノダリティ」は「教会論に関する論文の章、ましてや流行、スローガン、私たちの会議で使われたり開発されたりする新しい用語」などではなく、「教会の本性、形態、スタイル、使命」を表しています(30項)。教会の構造的側面」として、また「神が第3千年期の教会に期待する旅」(31項)として、すべての人は、それぞれが教会の中で担っている役割の中でそれを築く(32項)ように求められており、それは、「偶発的にではなく構造的」(33項)に、教会生活のあらゆるレベルでそれを促進すること(34項)によって実現されるものです。

 教会の「シノダリティ(共働性)」を自らの教皇職の親石とした教皇フランシスコの教導職に照らして、「シノドス的教会」を特徴づけるものを当然、不完全な形ではありますが、総合的に概説することができるでしょう。

 教会は次のような場合に、「シノダリティ」的と言えると思います。

1.個人として、また共同体として祈りながら生きる、神の言葉を読み、それを熱心に聴くことを、教会生活の中心、そしてあらゆる司牧活動の中心に置く限りにおいて、愛と信仰の証しのうちに成長(35項)する場合。

2.聖霊に注意深く耳を傾け、司教も信者も含んだ神の民が、彼らのうちに住む「信仰の感覚(sensus fidei)」のおかげ(36項)で、今日聖霊が「各教会に何を言っているか」を識別(37項)し、福音を告げ知らせる新たな方法、手段、言語を見出す(38項)ことができる場合。

3.役割や奉仕職におけるいかなる区別に関して、「すべての洗礼を受けた人の尊厳と平等は、本来的で基本的な事実だ」と考えることを、実践の中で示す(39項)場合。

4.心の耳をもち(40項)、現代の男女、とりわけキリストの肉である(42項)貧しい人々(41項)、そして苦しむすべての人々(43項)の喜びと希望、悲しみと苦悩に耳を傾け、彼らと分かち合う場合。

5.人間の痛み、喜び、希望をご自分のものとして感じ、人間を解放するために「降りて行く」(出エジプト記3章7−8節)神のように、識別し、しかし共感し、恐れず、偏見なく、勇気をもって、今日の世界を見つめる場合(44項)。

6.宣教者として出向いて行く姿勢をとり、香部屋に居残り、孤立して閉じこもるエリート主義のグループを形成することを好まず(45項)、教会のさまざまな構成部門の中で、兄弟的姉妹的な姿でともに歩み、将来世代のために、よりすばらしく、より人間らしい価値を生み出すよう貢献(46項)する場合。

7.譲歩としてではなく、権利として男女信徒の声に耳を傾け(47項)、共同体生活へ参加するために組織の成熟を刺激し促進(48項)する場合。

8.聖職者が常に唯一の「資格のある主体」であり、「残りの信者たち」が常に唯一の「その主体の行為を受け入れる立場にある」ような「福音化の図式」を不適切だ、と考える(49項)場合。

9.信仰において誤ることができない神の民は、主が教会のために開く新たな道を識別するための自分の「鼻」をもっているので、「教えの教会(ecclesia docens)」と「学びの教会(ecclesia discerns)」の区別をあまり厳格なものとしない(50項)場合。

10.司祭と信徒の間の対話と交流を促し、最終的に”山小屋の持ち主”が常に司祭となるリスクを回避する、トップダウンでも歪曲でもない、道具と構造を備える方法を知っている(51項)場合。

11.対話と識別によって、絶えず表現され調和に至るまで円滑にされるべき意見の多様性を排除するのではなく、誰もがかけがえのない貢献を与える多様性の調和の中で、一致して歩む(53項)場合。

12.中世の教会で使われ、使徒職の実践や聖伝と考えられていた、「すべての人に関係するものは、すべての人によって取り扱われ、承認されなければならない」という原則を、新たなやり方で再び採用し、教会生活の3分野(信仰、秘跡、統治)に適用する(54項)場合。

13.ある時は、先頭に立って道を示し、人々に希望を支え、また別の時には、ひたすら慈しみ深い親密さを示しながら皆の中に立ち、またある状況では、人々の後を歩き、取り残された人々を助ける、そのような司牧者が奉仕している(55項)場合。

14.それによって福音化の新しい段階が始まり、著しく変化した世界と文化に対して、もっと適した新たな形で福音を宣べ伝える責任を負った第二バチカン公会議を、完全に引き受ける(56項)ために、あらゆるレベルで活動する(57項)場合。

 結論として、まず最初に来る「神の民」(全員)というカテゴリーの豊かさを、私たちは再発見しなければならない、と思います。次に司教たち(一部)が来て、最後にローマの司教(=教皇一人)が来るのです。これは、「三つの異なる別々の教会的主体がある」という現在の概念を超えるものです。

 あらたな概念では、「『諸教会の教会』というモデルの中で、普遍性は実現される」という、「地方教会の教会論」の受容を真剣に理解することが重要です。つまり、世界のそれぞれの現地で活動する教会が、「独自の味わいと特徴」を持ったキリスト教生活のスタイルの中で、教会として存在し、行動する中で生み出すべき道を受容する、ということです。

 共同責任として権限を執行するわけです。つまり、祈り、聞き、分析し、対話し、識別し、助言するという組織的な祈りとコミュニケーションのダイナミズムを通して、聞き、識別し、入念に検討し、決定する、という「合意の文化」をもつのです。”シノドスの道”の旅の目的は、単に「出会いを通して互いをよく知る」ことではなく、「司牧上の決定を下せるように、共に働く」ことです。

 結論として、私は次のように言いたいと思います。「シノドス(この場合は、「世界代表司教会議」と思われる)や司教協議会といった司教たちの組織に参加することで、「神の民を教会位階の中に組み込む」のではない。教会位階こそが、「神の民の中に身を置き、すべての信者の声に耳を傾けながら、信者の一人として生きていく」ように、求められているのです。

 教皇大使 レオ・ボッカルディ大司教

(「カトリック・あい」編集)

 

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2023年7月1日