(評論)共に歩む教会に必要なのは互いの信頼、そのための努力が見えない+読者の声

 まず、この公示文書を読んでの印象は、誰に対して、何の目的で、何のことを言おうとしているのか分かる「東京教区の皆さま」がどれほどいるのか、ということである。

 そもそも「東京教区の皆さま」とは誰のことを指しているのか。司祭か、聖職者か、それとも一般信徒か、それら全員を指しているのか。さらに、文書の出だしの「東京教区司祭」神父、という表現も理解できる人は少ないだろう。「修道会司祭」でないことはおおよその察しが付く人もいるかも知れないが。もっと分からないのは、「当教区信徒との関係において、司祭として不適切な言動」だ。何をして「不適切」とするのか、定義されずに使われているためだ。

 そして、「事実関係の聴き取り」「第三者委員会の調査結果」の結果、としているが、教区の誰が、あるいはどの担当部署が聴き取りをしたのかはっきりしないし、「第三者委員会」に至っては、どのような機能を果たす目的で、どのような構成でなされる組織なのか、そもそも、そのような委員会の存在さえ、一般信徒はもちろん、司祭の中でさえ知らされていない人がいるようだ。

 それらの結果に基づき、「謹慎」させ、「必要な研修」を受けさせる、というが、それはどのような規定に基づき、どのような「謹慎」をいつまでさせるのか、「必要な研修」とはどこで、誰が、あるいはどのような機関が行うのか、も説明はない。それより何より、教区の指導者が問題司祭に対してなすべきは、「回心」させることではないか。謹慎させたり、研修を受けさせても、当人が心から回心しなければ意味はない。

 要するに、「東京教区の皆さま」に、「東京教区司祭」神父が関係者に多大な精神的苦痛を与えたことを、管理責任者として謝罪し、二度とこのようなことを繰り返さないように全力を尽くす、という決意が全く見えない。はっきり言えば他人事、分かってもらえなくてもいい、これまでの教区人事などで、この問題を知っている人に「対応をどうしたのか」という疑問を残さないために、この公示文書で決着を図ろう、という考えなのだろうか。「再発防止等の努力に…」と言うが、この措置の対象となる案件があいまいのままでは、何を再発防止するのか分からないし、説得力を欠く。そして何より、この公示文書には、「心」が感じられない。

 教皇フランシスコが提唱しておられる司教、司祭、聖職者、一般信徒が共に歩む「シノダル(共働的)な教会」のために、まず必要なのは、互いの信頼、思いやり、そのために、可能な限りの説明責任を果たすことではないか。

 「カトリック・あい」は、この公示文書にある「東京教区司祭」神父も、彼の「司祭として不適切な言動」も把握している。これまでの教区人事などを見ればおおよその察しがつく人もいるかも知れない。仮に、それらを具体的に明らかにすることが、関係者をさらに傷つけることになる、と判断して、このような理解しがたい表現にしたのであれば、そのような説明がされてしかるべきだし、「司祭として不適切な言動」に対する措置の具体的な規定、関連して、調査機関や「第三者委員会」の目的、機能、委員の構成などは、今回の案件とかかわりなく、明らかにする必要がある。

 東京教区や札幌教区などの複数の修道会司祭で「不適切な言動」で一般信徒を傷つけたを被害者が訴えている案件も複数把握しているが、どれも加害者とされている司祭や「不適切な言動}当時所属していた修道会は、無視、否定、あるいは隠蔽を図ろうとする動きもある、と聞いている。そうした中で、このような、危機意識の欠けた、理解困難、誠意の欠けた説明不十分な文書一本ですまそうとするなら、被害者とされている信徒はもとより、「共に歩む教会」を目指して日々、努力を重ねている聖職者、一般信徒の、教会、修道会のリーダーへの信頼が遠のいてしまうことを、深く懸念する。

(「カトリック・あい」南條俊二/2024.5.12記

【読者から】

*「信徒に司祭として不適切な言動」をした神父を謹慎、研修措置ーカトリック東京教区長が+評論」の評論は、正鵠を得たものです。「カトリック・あい」の「教皇のことば」 5月5日付『☩「あらゆる償いは、自分の罪を認めることから始まる」-(性的虐待という)取り返しのつかない行為への対応を話し合う国際会議で』の教皇の言葉に共感を覚えます。

 加害者の司祭が被害者に面と向かって謝罪し、被害者本人から許しを得たのかさえ疑問です。第三者委員会はもとより、懲罰委員会の存在すら明らかになっていないのは組織として決定的な欠陥です。一片の東京教区公示文書の「当教区は、事実関係の聴き取り,および第三者委員会の調査の結果に基づき、同神父には謹慎させ、必要な研修を受けさせます。」が十分に尽くされるかどうか、信徒の疑いの念はぬぐい切れないでしょう。

(首都圏に住むT.T)

*5月12日付けの記事を読んで、前回の「アドリミナ報告」同様愕然としています。ここまで日本のカトリック指導者が堕ちてしまったのかという嘆きです。東京大司教区の「公示文書」を読んでも、文書の目的が一切わかりません。他教区の信者や一般市民には、何のことかさっぱり分からないでしょう。こういう形でしか対応できないところに教区の病巣がありそうです。評論で指摘されているように「分かってもらえなくてもいい」「決着を図る」ための形式的文書に見えます。被害者の権利を充分に守りながら、真相を解明して再発防止を図るという真剣さが欠けているようです。これでは類似のことが再発するでしょう。

 評論の中で「第三者委員会」について触れられていますが、私の所属する教区の現状を紹介します。4年前(2020年4月)に「性虐待防止宣言」と「性虐待防止及び被害者支援に関する規程」の二つが教区文書として公表されました。後者の文書には「第三者委員会」設置の規定があります。しかし、弁護士・ケアの専門家などの委員が誰なのか、委員会が活動しているのか一切不明です。委員の任期が2年になっていますが、再任されたかどうかも分かりません。「規程さえ作れば、それで良し」という発想です。性暴行を含むハラスメントの問題に真剣に取り組む姿勢はないということです。

 今回の東京大司教区の公示文書の内容を見て、日本のカトリック教会の衰退を象徴していると感じています。社会から遊離して、信者が教会から遠のきつつある現状を刷新する必要があります。

(西の信者より)

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2024年5月13日