(2025.1.29 カトリック・あい)
聖職者による性的暴力被害者が加害者とされる男(元司祭)が所属していた修道会、神言会日本管区(本部・名古屋市)に損害賠償求める裁判の第7回が1月29日、東京地裁第615号法廷で開かれた。
裁判後の説明会・原告支援者集会で、原告弁護人が明らかにしたところによると、前回昨年12月の裁判で、被告・神言会の補助参加人となっている加害者とされる男の代理人が新たに「本訴訟において、(補助参加人)は自分の氏名が公表されないよう望んでおり、訴訟記録の閲覧を制限してもらいたい」と申し立てていたが、裁判長が昨年末までに、これを却下した。
その理由について裁判長は、「カトリックの聖職者による性的虐待は世界中で大きな問題となっている」と認識しており、「氏名を伏せる必要がある」とは判断できない、と述べているという。
性犯罪の加害者とされる人物が匿名で、被害者が実名の裁判というのは、世界的に聖職者による性的虐待が大きな問題となっている中で、これまであまり例がない。しかも、すでに実名が第三者にも明らかにされ、報道されているにもかかわらず、裁判の途中でこのような申し立てをするということは「被告側の不誠実を上塗りするような行為」との批判が関係者の多くから出されていた。
今回の裁判長の判断は、そのような、日本国内にとどまらず、世界的に深刻な問題となっている性的虐待への現状認識を示すものとして、今後の裁判の行方にも関係すると注目される。
*「司祭の”職務”はミサなど秘跡に限る」と被告・神言会が主張?
また29日の公判後の原告弁護人の説明会では、前回公判に被告・神言会日本管区の代理弁護人から提出された書面の内容が明らかにされた。それによると、被告側は、司祭の職務について、洗礼、赦し、塗油などの秘跡、ミサなど教会内で行うこと、病者の塗油に限っては教会外で行うこと、とされており、被告とされている司祭(当時)がした、という教会外での「行為」について、当時所属していた神言会に責任を問うことはできない、と反論している。
これについて、原告弁護人の秋田一惠弁護士は、「修道会司祭は、入会の際、従順、貞潔、清貧の誓いを立てているはず。時間、場所に関係なく、神に仕え、この三つの誓いを守る存在。それを否定するような主張は、”異端”を宣言している、と言えるのではないか。枢機卿を輩出している修道会が、カトリックの教義と異なることを宣言している、と判断せざるを得ない。このような論理立ては、反論とはみなされない」と強く批判した。
また、これまでの公判で被告・神言会側が、バルガス神父について「不同意性交をした事実はない」と全面否定してきたにもかかわらず、わざわざ、司祭の”職務”を理由にして、神言会に責任がない、というような”反論”をしたことについて、関係者の間には、「見方を変えれば、司祭がそうした行為をした、ということを認めた、と解釈することもできるのではないか」と、その意図を測りかねる声も出ている。
次回公判は3月19日、午後3時30分から同じ615法廷で予定されている。
【これまでの経過】
この裁判は1年前、神言会に所属し、当時、長崎大司教区内の小教区司牧を委嘱されていたチリ人神父が女性信徒に対し不同意性交を強いていたとして、被害信徒が神言会日本管区の監督責任を問い損害賠償を求める訴えを起こしたことから始まった。
被害者の主婦・田中時枝さんが裁判所に提出した訴状によれば、長崎・西町教会で助任司祭を務めていたバルガス神父は2012年、「ゆるしの秘跡」を受けた田中さんの告解内容を聴くと「やり直さなければだめだ」と性交を迫り、以後約4年間にわたり被害者女性をマインドコントロール下に置いて、不同意強制性交を重ねていた。
マインドコントロールを脱した田中さんは、その司祭を監督・指導する立場にある神言修道会の上長に事情を打ち明け相談した。修道会は、加害者とされるバルガス神父から事情を聴いたものの、「被害者には謝罪など誠意のある対応を見せず、何の救済措置も取らなかった」という。
当初、神言修道会側は、「(自会所属・バルガス神父による性虐待という)そんな話は知らない… 知らなかった事案については監督しようがない」と主張していた。だが、その後、「バルガス神父が不同意性交をした事実はない」と全面否定し、「原告が修道会の監督責任を問うことはできない」と否認に踏み込んだ。
その一方で神言会はバルガス神父の司祭職をはく奪して修道会から事実上追放した。そして、第3回審理までの準備書面のやり取りを通じて、バルガス神父(正確には『元神父』)は首都圏で、田中さん以外の女性信者と一緒に暮らしていることが、判明していた。そして第4回目の審理に、バルガス神父が「補助参加人」となり、その代理の弁護士2名が、被告側に加わり、原告の代理人弁護士1人に対して、被告側の代理人弁護士は3人、という体制が続いている。