・第33回「世界青年の日」(3月25日)に向けた教皇メッセージ

教皇フランシスコはこのほど、3月25日の世界青年の日に向けたメッセージを発表された。

 カトリック中央協議会の翻訳によるメッセージ全文以下の通り。

親愛なる若者の皆さん

 2018年の世界青年の日は、2019年1月に開催されるワールドユースデー・パナマ大会に備える歩みをさらに一歩進めるものです。わたしたちの巡礼におけるこの新たな行程は、「若者、信仰、そして召命の識別」というテーマのもとに行われる世界代表司教会議(シノドス)通常総会と同じ年度に行われます。これは幸運な一致です。教会のまなざしと祈りと思いは、若者の皆さんに向けられています。そして皆さんが自分は神への、教会への、そして世界への大切なたまものであることを認識し、とりわけ「受け入れる」よう望んでいます。

 ご存じのようにわたしたちは、神が御子の母としてお選びになったナザレのおとめマリアの模範と取り次ぎのもとに、この旅を進めることにしました。マリアはシノドスに向けて、そしてワールドユースデー・パナマ大会に向けてわたしたちに寄り添っておられます。昨年は、「力あるかたが、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1・49)というマリアの賛歌の一節の導きのもとに、過去を思い起こすよう促されましたが、今年は、ご自分の呼びかけに応えるのに必要な勇気を与え、恵みを注いでくださる神の声を、マリアとともに聞こうと努めます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(ルカ1・30)。これは神の使いである大天使ガブリエルが、ガリラヤ地方にある小さな村のごく普通の少女マリアに告げたことばです。

1.恐れることはない

 突然、天使が現れ、「おめでとう、恵まれたかた。主があなたとともにおられる」(ルカ1・28)という謎めいたあいさつをしたのですから、マリアはひどく戸惑ったことでしょう。また、それまで知らなかった自分の真の姿と召命を初めて告げられ、さぞ驚いたことでしょう。マリアは、他の聖書の登場人物と同じように、神の召命の神秘の前で震えます。神はご自分の計画の偉大さを瞬く間にマリアに伝え、彼女が取るに足らない小さな者であることを自覚させます。天使はマリアの心の奥底を見抜き、「恐れることはない」とマリアにいいます。神はわたしたちの心の奥底も見抜いておられます。神はわたしたちが人生の中で立ち向かうべき課題をよくご存じです。この世において自分はどんな人間となり、何をすべきなのかという問いにかかわる根本的な選択に直面したときはなおさらです。自分の未来、生き方、召命がかかわる選択を目前にして、わたしたちは「身震い」します。そして戸惑い、多くの恐れにとらわれます。

 それでは若者の皆さんはどんな恐れを抱いているでしょうか。何が皆さんを心底、悩ませているのでしょうか。多くの皆さんが抱いている「根本的な」恐れは、自分という人間が愛されても、好かれても、受け入れられてもいないのではないかという恐れです。今日、多くの若者が人為的で実現不可能になりがちな標準に合わせるために、本来の姿とは別の姿にならなければならないと感じています。自分の姿を「画像修正」し続け、仮面と偽りのアイデンティティの後ろに隠れ、まるで自分自身を「偽造(フェイク)」しているかのようです。多くの人が出来るだけ多くの「いいね」を得ようとやっきになっています。自分が不十分であるという心情から、多くの恐れや不安が生じています。一方、安心することもできずに独りぼっちになるのではないかと恐れる人もいます。多くの人が、不安定な仕事に就いているので満足のゆくような職業上の地位を得られないのではないかと恐れたり、自分の夢がかなわないのではないかと恐れたりしています。今日、信者であるか否かにかかわりなく、多くの若者が心から恐れを抱いています。信仰のたまものを受け入れ、真剣に自らの召命を探し求めている若者も、もちろん恐れから逃れられません。「神はあまりにも偉大なことをわたしに求めておられ、これからもそうされるだろう。神から示された道をたどっても、真に幸せになれないかもしれないし、神がわたしに求めておられる高みにも到達できないかもしれない。」と考える人もいます。また、「神から示された道をたどっても、最後まで行き着けると、だれが保証してくれるのだろう。失望し、熱意を失ってしまうかもしれない。わたしは生涯を通してその生き方を貫くことができるだろうか」と自問する人もいます。

 疑いと恐れが心を覆い尽くすときには、識別が必要となります。識別することにより、思考や感情の混乱に秩序が戻り、わたしたちは正しく慎重に行動できるようになるのです。この過程の中で恐れを克服するための第一歩は、恐れの正体をはっきりさせることです。そうすれば、声も実体もない亡霊のなすがままに、時間と力を無駄に費やすこともなくなります。ですから皆さんにお願いします。心の中に目を向け、自分の恐れを「名指し」してください。自分が今、生きている現状の中で次のように自問してください。何がわたしを不安にさせるのだろう。わたしがもっとも恐れているのは何だろう。前に進むのを妨げ、阻んでいるものは何だろう。どうしてわたしは、勇気をもって自分がなすべき重要な選択を下せないのだろう。怖がらずに、真摯に恐れに目を向け、その正体を見極め、その恐れに対処してください。聖書は、人間が恐れを感じることも、その多くの理由も否定していません。アブラハムは恐れました(創世記12・10参照)。ヤコブも(創世記31・31、32・8参照)、モーセも(出エジプト2・14、17・4参照)、ペトロも(マタイ26・69参照)、使徒たちも(マルコ4・38―40、マタイ26・56参照)恐れました。イエスご自身も比類のない恐れと怒りを感じておられました(マタイ26・37、ルカ22・44参照)。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4・40)。弟子たちを叱責するイエスのこのことばは、不信ではなく恐れが信仰の妨げとなることがいかに多いかを物語っています。このように、識別は自分の恐れが何であるかを見極めるのに役立ちますが、わたしたちが人生を受け止め、人生における問題に真剣に向き合うことによって恐れを克服する際にも役立つに違いありません。わたしたちキリスト者にとって、恐れは最終的なものではなく、神を信じ、いのちを信じるための機会にほかなりません。それは、神が与えてくださったものは根本的に善であると信じ、たとえ不可解に思える状況や逆境を幾度となく通っても、神はわたしたちをよい結末に導いてくださると信じることを意味します。しかし、もし恐れを増大させるなら、わたしたちは自分の中に閉じこもり、すべての物事や人から自分自身を守るために防壁を築き、身動きが取れなくなるでしょう。立ち向かってください。決して閉じこもらないでください。聖書では「恐れるな」という表現が、あらゆるかたちで365回繰り返されます。まるで主は一年中毎日、恐れからわたしたちを解放したいと思っておられるかのようです。

 自分自身の召命を追求するためには、識別が不可欠です。実際、ほとんどの場合、召命はすぐにはっきりしたり、完全に明らかになったりするのではなく、少しずつ判明していきます。この場合の識別は、自分が力をつけ、一定のバランスを保てるように、心の中がどのようになっているかをよりよく理解するために、各自が内省することを指しているのではありません。それにより人は強くなれるかもしれませんが、自分自身の可能性と視野という限られた領域の中に閉じこもったままです。一方、召命は天からの呼びかけであり、この場合の識別は、呼びかけておられるかたに心を開くことにほかなりません。したがって、わたしたちの意識の中に響いている神の声を聞くために、沈黙のうちに祈らなければなりません。神は、マリアにそうされたように、わたしたちの心の扉をたたいておられます。そして、祈りを通してわたしたちと友情を結び、聖書を通して語りかけ、ゆるしの秘跡においていつくしみを与え、聖体の交わりのうちにわたしたちとともにありたいと望んでおられるのです。

 一方、他の人々に出会って対話することも重要です。さまざまな選択肢をしっかり見極め選べるよう助けてくれる、同じ信仰をもつ経験豊富な兄弟姉妹に相談するのです。少年サムエルは、主の声を聞いても、すぐにはそのことが分からず、老祭司エリのもとに三度駆け寄りました。エリは最後に、主の呼びかけに対する正しい答えをほのめかします。「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』といいなさい」(サムエル記上3・9)。もし疑いをもったら、教会に頼ることができることを思い出してください。そこには優れた司祭や修道者、信者がいますが、その多くが若者です。彼らは同じ信仰をもつ兄弟姉妹として皆さんに寄り添い、皆さんが自分の疑いを解き明かし、自分自身の召命の意図を読み取ることができるよう、聖霊の力のもとに、助けてくれるでしょう。この「他の人々」は、霊的な指導を行うだけでなく、神から与えられたいのちの無限の豊かさを受け入れられるよう皆さんを支えます。人々が成長し、夢を見、新たな地平に目を向けられるような場を、わたしたちの町や共同体の中に設ける必要があります。出会いや友情がもたらす喜び、他の人々と一緒に夢を抱きながら歩む喜びを失ってはなりません。真のキリスト者は、恐れずに自らを他者に開け放ち、自分の大切な場を他者と分かち合い、友愛の場にします。若者の皆さん、皆さんの若さの輝きを、コンピュータとスマートフォンという窓からしか世界が見られない閉ざされた部屋の暗闇の中で消さないようにしてください。人生の扉を開け放ってください。皆さんの空間と時間には、直に接する人々がいて、彼らとの深い結びつきがあります。皆さんは日常生活における真の実体験を、それらの人々とともに分かち合うことができるのです。

2.マリア

 「わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43・1)。恐れなくてもよい第一の理由は、神がわたしたちを名前で呼んでおられることです。神の使いである天使は、マリアを名前で呼びます。名前を与えることは、神がなさることです。天地創造において神は、名をつけて万物をお造りになりました。名前の背後には、あらゆる存在と人に固有のアイデンティティがあります。神だけが、その根底にある本質を知っておられます。その後、神は獣、鳥、さらには人間の子に名前をつけるという特権を人間と分かち合いました(創世記2・19-21、4・1参照)。多くの文化が聖書に基づくこの深遠な考え方を取り入れ、いのちの奥深い神秘の表われと、存在することの意味を名前の中に見いだしています。

 神が名前で人に呼びかけるとき、神は召命を示し、聖性と善にあふれるご自分の計画も明らかにされます。それにより人は、他の人々へのたまものとなり、唯一の存在となります。さらに主は、シモンを「ペトロ」とお呼びになったように、人の人生の地平を広げたいと望まれるときに、その人に新しい名をお与えになります。したがって、修道会に入会する際に新しい名を名乗ることは、新しいアイデンティティと新たな使命の表れです。神の呼びかけは個人的で唯一のものです。したがってその呼びかけは、皆に同じような行いを強いる社会の圧力から自分自身を解き放つ勇気をもつよう求めます。それによりわたしたちのいのちは、真に神のため、教会のため、そして他の人々のためのかけがえのない唯一のたまものとなるのです。

 親愛なる若者の皆さん。したがって名前で呼ばれることは、神がわたしたちのうちに偉大な尊厳を見いだし、わたしたちをとりわけ愛してくださるしるしです。そして神は皆さん一人ひとりを名前で呼んでくださいます。神にとって皆さんは「あなた」であり、神の目には値高く、尊く、いとおしい者として映っています(イザヤ43・4参照)。神が提示しておられるその対話を、皆さんの名を呼んでおられる神のその呼び声を、喜んで受け入れてください。

3.あなたは神から恵みをいただいた

 マリアが恐れなかったおもな理由は、神から恵みをいただいていたことです。「恵み」ということばは、報いる必要のない無償の愛を表します。神に近づき、神の助けを得るために必要なのは、功績や成功にあふれる「輝かしい履歴書」を前もって渡すことではないことを知って、わたしたちはどんなに力づけられることでしょう。天使は、すでに神から恵みをいただいたとマリアに告げたのであって、これから恵みを受けるといったのではありません。神の恵みはつかの間の一時的なものではなく、永続的なものであり、決してなくならないことを、この天使のお告げのことばは教えています。神の恵みは今後も、とくに試練や暗黒のときにも、わたしたちをつねに支えてくれるでしょう。

 神の恵みがつねに存在し続けることを知ることにより、わたしたちは信頼して召命を受け入れるよう励まされます。召命を受け入れるためには、信仰を日々新たにするよう努めなければなりません。召命への歩みは実際、十字架のない道ではありません。最初に疑問を抱くだけでなく、道すがらたびたび誘惑に出会います。キリストの弟子は、自分がふさわしくないのではないかと最後まで感じていますが、神の恵みが自分を支えていることを自覚します。

 人間の恐れの上に天使のお告げが下り、そのことばがもつ福音の力が恐れを消し去ります。わたしたちの人生は、まったく偶然の出来事でも、生き残るための闘いでもありません。わたしたち一人ひとりは、神が愛しておられる一つの物語です。「神のみ前で恵みをいただく」とは、創造主がわたしたちの存在の中に比類のない美しさを感じ、わたしたちのために壮大な計画を立ててくださるという意味です。もちろん、このことを自覚することにより、すべての問題が解決されるわけでも、人生の不安が取り除かれるわけでもありませんが、人生を根底から変える力を得ることができます。明日はどうなるか分からないということは、乗り越えるべき暗い脅威ではなく、各個人に与えられる召命の唯一性を生き、そのことを教会や世界の中の兄弟姉妹と分かち合うための有意義なときなのです。

4.今このときの勇気

 神の恵みが自分たちの中にあることを確信することにより、今このときに勇気をもつ力がわいてきます。それは、神が今ここで求めておられることを人生のどの段階においても行う勇気、神によって示された召命を受け入れる勇気、自分の信仰を隠したり弱めたりせずに貫く勇気です。

 そうです。神の恵みを受け入れれば、不可能なことが実現します。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8・31)。神の恵みは、皆さんの人生における今この瞬間に触れ、皆さんのありのままの姿とすべての恐れと限界を「しっかりつかみ」、神のすばらしい計画を明らかにします。若者の皆さんは、自分を真に信頼している人がいることを実感しなければなりません。教皇が皆さんを信頼し、教会が皆さんを信頼していることを認識してください。そして皆さんも教会を信頼してください。

 少女マリアは、まさにその若さゆえに、大切な使命を託されました。若者の皆さんは人生のその時期を力尽きることなく生きており、活力に満ちています。その力とエネルギーを、世界をよりよくするために使ってください。まず皆さんの周囲の現実に力を注いでください。わたしは、教会が皆さんに重要な責任をゆだね、勇気をもって皆さんにその機会を与え、そして皆さんも、その責任を引き受ける備えをするよう望みます。

 マリアの愛に再び目を向けましょう。その愛は優しく力強く具体的な愛であり、自分に与えられたたまものにすべてをささげる、勇気にあふれる愛です。このようなマリアの資質が浸透している教会は、つねに外に出向く教会となり、いただいた恵みが周りにあふれ出るように、自らの限界や領域を超えて出掛けて行きます。もしマリアの模範に従うなら、自分自身やどんなものよりも神を愛し、日常生活をともにしている人々を愛するよう促すその愛を、わたしたちは具体的に生きるでしょう。そして、あまり感じのよくない人のことも愛せるようになるでしょう。それは、もっとも弱い人や貧しい人にとりわけ奉仕し献身する愛であり、わたしたちの表情を変化させ、わたしたちを喜びで満たす愛です。

 受胎告知の神秘に関する聖ベルナルドの有名な説教の中の美しいことばをもって、わたしはこのメッセージを締めくくりたいと思います。それは、すべての人がマリアの答えを待ち望んでいることを表しています。「おとめマリアよ、あなたは自分が身ごもって、男の子を生むと告げられました。それは人間によるものではなく、聖霊のわざであることも知らされました。天使はあなたの答えを待っています。……マリアよ、わたしたちもあなたのあわれみ深いことばを待っています。……あなたの短い答えによって、わたしたちは新しくなり、いのちに引き寄せられるに違いありません。……全世界があなたの前にひざまずいて待っています。……おとめよ、どうか早く答えてください」(『説教』4、8-9、Opera Omnia, ed. Cisterc. 4,1966,53-54)。

 親愛なる若者の皆さん、主が、教会が、そして世界が、生きている間にだれもが受けるただ一つの招きに皆さんが応えるのを待っています。ワールドユースデー・パナマ大会が間近に迫っていますが、わたしは、偉大な冒険に加わりたいと望む人の喜びと熱意をもって、この大会のために備えるよう皆さんにお願いしたいと思います。ワールドユースデーは勇気あふれる人々のためにあります。居心地のよさだけを求め、困難の前で尻込みする若者のためにあるのではありません。皆さんはこの挑戦に応じますか。

 

・注・世界青年の日(受難の主日)

 教皇ヨハネ・パウロ二世は1985年3月31日(受難の主日)、国連制定の国際青年年にあたって全世界の青年たちにメッセージを発表し、その翌年から「世界青年の日」を毎年、受難の主日(枝の主日)に祝うよう定めました。それとともに1987年以来、「国際青年フォーラム」と「世界青年の日」記念式典が教皇臨席のもとに開催され、全世界から大勢の若者が集まるようになりました。

 初回の1987年はブエノスアイレスで開かれ、以降、サンティアゴ・デ・コンポステラ(1989年)、チェストコバ(1991年)、デンバー(1993年)、マニラ(1995年)、パリ(1997年)、ローマ(2000年)、トロント(2002年)、ケルン(2005年)、シドニー(2008年)、マドリード(2011年)、リオデジャネイロ(2013年)、クラクフ(2016年)で開催されました。

2018年3月25日

・「エゴイズムから抜け出し、積極的に出会いを」大学生フォーラムに教皇メッセージ

大学生のフォーラムに教皇フランシスコのメッセージ – AP

(2018.3.23 バチカン放送)世界の大学生たちが参加する「FORUM UNIV 2018」が3月25日(日)から4月1日(日)にかけてローマで開かれるが、教皇フランシスコが23日、会議を前にメッセージをおくられた。

 今年で誕生から50年目を迎えるフォーラムには、世界約150の大学からおよそ2500人の大学生が参加し、復活祭前の「聖週間」と「復活の主日」の意味を深く認識しながら過ごし、「未来を再考する」をテーマに講演、パネルディスカッション、展示など、様々なイベントが予定されている。28日には、大学生たちがバチカンでの教皇一般謁見に参加する予定だ。

 教皇は「FORUM UNIV 2018」の参加者に宛てたメッセージで、「神への愛、教会と教皇への愛に動かされてローマに集った文化や経験も様々な大学生らが、聖週間を通して、幸福や寛大な自己献身への思いを一つにしながら、互いに信仰を強め合う」ことを願われた。

 そして、「キリストを求め、キリストを見つけ、キリストを愛せ」という、このフォーラムを始めた聖ホセマリアの言葉を取り上げ、「イエスならばどうされただろうか」「どうしたらイエスと似た者になれるだろうか」と自らに問いつつ、「キリストとの友情を育み続ける」ことを参加者に求めた。また、「安楽さや自分のことだけを考えるエゴイズムから抜け出し、助けを必要とする人々に積極的に出会いに行くこと、それがキリストに従い、キリストを熱く愛する心を保つ秘訣です」と強調された。

(「カトリック・あい」が編集しました)

2018年3月24日

・信徒としての悩み、自覚、教会への注文ー若者によるシノドス準備会合始まる(CRUX)

(2018.3.20 Crux Contributing Editor  Claire Giangravè)Youth to bishops: Yes to guidance, no to clericalism, questions on secularism

Pope Francis sits among youths for a group photo during the opening session of the pre-synod of the youths meeting, at the Mater Ecclesiae college in Rome, Monday, March 19, 2018. (Credit: AP Photo/Alessandra Tarantino.)

ローマ発―若者たちのシノドス準備会合の第一印象は、バチカンが不可能な試みをしている、ということだった-世界中の様々な背景を持つ若者たち300人をローマに集め、彼らの対照的ともいえる経験、見解、価値観をまとめて、秋の全世界の司教たちの会議に役立てたい・・。

 会合が始まる前から、バチカンのさまざまな呼びかけの努力に対して若者たちから、懐疑的な声が上がっていた。いわく、参加対象が限られている、一方的だ、表面的だ、事前検閲的だ、欧州中心主義だ、などなど。そして、会合初日の教皇フランシスコとの質疑は、入れ墨の問題から売春の問題まで、すべてに教皇が応答するという、焦点を欠いたものになったようだ。

 それでも、24日まで続くこの会合の初日の結果を見る限り、カトリック教会は現代の世界の若者たちが直面している多種多様な断面を把握することに成功しただけでなく、若者たちが感じている現実的な指針の必要性、世俗主義との効果的な関わりの必要性、聖職者主義の有害性への対処、などの課題が提起され始める、という成果が生まれつつあるようだ。

 この日の教皇との質疑で発言した約20人の参加者たちは、教会組織に疑いを持たせるような現実の問題から目をそむけることなく、現代世界の汚染された状態の中で教会の指導や助言の必要を一様に訴えた。

 米国のサンアントニオに住み、ダラス大学でキリスト教教育担当を務めるニック・ロペスは「教会の若者への指導はこれまで以上に必要となっています」と述べ、米国では「若者たちが宗教指導者たちに不信感を抱いており、宗教一般について懐疑的」で、若者たちの3分の1が宗教と全く関わりを持っていない、と実情を説明した。

 ベルギーのアネリエン・ブーンは、欧州の現状から、「信仰を証しし、進んで若者たちと接し、指導するキリスト教徒がいることが重要だと思います。そうした指導は学校でも、若者たちの運動でも行われ、彼らに人生の意味を教える必要があります」と語り、欧州の35か国以上の18歳から34歳のミレニアル世代を対象にした調査分析結果を示した。それによると、欧州では全体の半分近くの若者が宗教組織に不信感を持ち、94%もの若者が幸福になるために宗教を信じることは必要でない、と考えている、ベルギーでは、一か月に何回かでもミサに出る若者の割合は、34歳以下の人口のたった2%しかいなくなっている、と深刻な教会離れ、宗教離れが進んでいる。

  ベトナムからの参加者、カオウー・ミン・トリは、第四の産業革命を迎えているアジアでは、拡大する無神論と敵対的な政府が若者たちを「神を信じないように、さもなければ神を単なる哲学者を考えるように」と仕向けている、子供を産む権利、結婚、離婚と性についての考え方の変化が宗教と若者の間に深い溝を作っている、と指摘した、他の地域から来た多くの参加者の共感を得た。

 また、カトリック教会と協調する23の東方教会の一つでイラクとシリアに信徒が多いカルデア派のアンジェラ・マーカスは「若者たちは、教会と切り離されたように感じています。世代が上の聖職者と意見が合わず、異なった考えや信仰は歓迎されず、自分たちのことを親身になって聞いてもらえない、と感じている。教会に自分の場があるとは、いつも感じられないのです」と訴え、「若者たちは深さを求めています。私たちはその複雑さを分かりたいし、分かることができるし、声をあげることもできます。それなのに、教会の中には話すことが容易でない問題を避けようとする傾向がある。同性の結婚、性の問題、そして教会での女性の役割などです」指摘。さらに、中東に祖先をもつ若い女性として、自分が”無視”されていると感じたことがあり、若者が教会から幻滅させられているという問題が理解できる、と述べた。

  アフリカからの参加者、ジンバブエのカトリック青年会議議長を務めるテンダイ・カロンボは「若者たちのための、信仰形成のための継続的で総合的なプログラムは教会にはありません」「教会が、若者たちが宗教とつながるための適当な基礎を提供していない」と現状を説明し、「アフリカの教会は、多くの場合、秘跡、経験を全部備え、何もかも知っている”習熟信者”によって動かされています」と訴えた。

  聖職者主義 (clericalism)(「カトリック・あい」注:宗教的権威や聖職者による支配を、肯定・容認・推奨・支持・支援する立場のこと)の問題では、この日の冒頭で教皇の「取り除かねばならない”ひどい病”」との指摘が満場の拍手で支持された。

 この質疑の中で、ウクライナの東方教会の神学生、ジュリアン・ベンジロビッチの「聖職者はどのようにして若者たちが必要としている指導や人格形成の助けをすることができるでしょうか」の問いかけに対して、教皇は「共同体社会は父、兄を必要としています。そして、実際にそこにいるのは医者、教授・・王子なのです」と答えた。会合のあと、彼はCruxに対して「自分たちの教会が変わることを、私たちは希望しています」「教会には、変わらねばならないものがあります。なぜなら、私たちは多くの変化を経験しており、若者たちは教会の一歩先を歩いているからです。私たちは若者たちとともにいる必要があります。変わる世界とともに歩む必要があります」と語っている。

 また、ベンジロビッチが「入れ墨のように社会の主流とは言えない慣習や流行に、どう対応すればいいのでしょう」と質問したのに対して、教皇は「入れ墨を怖がらないで。入れ墨は持ち物。入れ墨をしている人に『それで何を期待しているのですか』と聞くべきです」「 若者たちのことを、絶対に怖がらないでください。さほど良くないことの裏に、よく理解する助けとなるものがいつも隠れているのです」と答えた。

 参加者が基調発言で頻繁に指摘したのは、現象の表面にとらわれず、現実に目を凝らすことだった。ダラス大学のロペスは、自分たちの世代は、現状改革と権利擁護に特に熱心になる傾向があるが、確信しているものの中には、キリスト教的な価値観と対立するものもある、とし、「熱心さは、時として方向を間違うことがあるが、私たち若者の気高い特長。その熱情も、望みも否定することはできません。真実を求め、生きる目的を満たそうとしているのです。私たちは、皆が求めているのがキリストだ、ということを皆に示さねばなりません」と訴えた。

 また、ロペスはそれに関連して「若い教会の活気」を示す場としての「ワールド・ユース・デイ」の重要性を強調。ベルギーのブーンもこれを受けて、「教会にとって、若者たちの経験を提供することが重要です」と述べ、世界的な集まりと巡礼の旅は「たくさんの若者たちにとって転機になります。自分は一人でないということ、仲間がいるということを経験するから」と期待を語った。さらに、若者の宗教離れが進んでいる問題について彼女は「それを機会、とみるべきです」とし、「ベルギーは、私の見方では、”平和な、宗教に無関心な社会”になっています。キリスト教の信仰を知らない社会。でも、キリスト教の信仰が皆を驚かすことができるようにする、という、やりがいのある課題があるのです」と強調した。

 ベトナムのトリは、Cruxに対して、多様性と一致の今回の会合の意義について、教会との対話を始めるための、挑戦ではなく、機会を参加者に提供している、とし「これは、私たちにとって、若く、いつも若くあり続けるための機会なのです」と語っている。

(翻訳「カトリック・アイ」南條俊二)

⇒日本の”代表”は参加しているのか。”顔”が見えない。バチカンはずっと前から、この日程を発表し、世界の教会に若者たちの派遣を呼び掛けていたが。どのような意見をまとめて、誰が選ばれ、参加しているのかも明らかになっていない。せっかくの機会に発言をしているとも報道されていない。残念なことである。それが日本の教会の”実態”なのだろうか。(「カトリック・あい」)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

 

2018年3月21日

・若者によるシノドス準備会合始まる-「勇気をもって語れ」と教皇(Crux)

‘Be brave!’ Pope tells participants at Vatican pre-synod on youth

Pope Francis, flanked by cardinals Lorenzo Baldisseri, left, and Kevin Farrell applauds as he attends the opening session of the pre-synod of the youths meeting, at the Mater Ecclesiae college in Rome, Monday, March 19, 2018. (Credit: AP Photo/Alessandra Tarantino.)

 (2018.3.19 Crux  Claire Giangravè)

 教皇はさらに、若い人々は、自分たちのスタイルと独創性をもった文化の作り手だが、放っておかれることがあまりにも多い、と指摘し、「教会の中でそのようなことがされてはならない」「このシノドス準備会合には大きなこと-誰も排除せず、若者たちすべてから話を聴こうとする教会の熱意-の”しるし”となることが求められています」と会合への期待を語った。

 また、10月のシノドスの狙いについて、教皇は、条件を整備し、若者たちが「召命の識別における熱意と能力」を備えることができるようにすること、であるとし、会合の参加者たちに「神があなた方を信じ、愛し、呼びかけておられる」ことを思い起こさせた。そしてこのメッセージは、自分たちの席の下に書かれた「神は、あなたをとても愛している」という言葉を見るように、教皇も含めた参加者に求めることで会合を始めた、若い人たちの思いでもあった。

 続けて教皇は、このシノドス準備会合にはまた、「教会に対してアピールを行い、教会が、新たな若々しい活力」を見出し、提起すべき新たな道を学び、若い人々と親しくするようになることを期待している、と述べた。

 今回の会合を前にして、世界中の15万人を超える若者たちが、教会と宗教に関する希望や要望、心配、日々の生活で直面する問題などについて、準備事務局に回答を寄せていた。この回答の分析結果は、今会合の討議結果とともに10月のシノドスに提出される予定だ。これに関連して、教皇は半世紀前の第二バチカン公会議で出された若者たちへの優れたメッセージに言及し、それが「自己中心主義と戦い、より良い世界を勇気をもって作るための推進力となりました」と語り、「それが、新たな道を探し求め、勇気と信頼をもって、常にイエスに眼差しを注ぎ、聖霊に心を開いて、その道を歩み、教会を刷新する誘因です」「教会の心は若い、それはまさに、福音が教会を絶えず蘇らせる命の樹液であるからです。その豊かさの中でうまく馴染み、順応していくかどうかは、私たちの努力にかかっています」と付け加えた。

 さらに教皇は、教会には信仰の熱意、探求心とを取り戻すことが必要とされている、「変化を選ぶことをしない組織は、子供のまま、成長することがない」(「カトリック・あい」注・教会はそうであってはならない)とし、成長を続けるために、信徒は、危険を恐れず、新たな道に踏み出す勇気を持たねばならない、と強調、「私たちは危険を冒さねばなりません。なぜなら、愛は、どのように危険を冒し、危険なしに、若者が年を重ね、教会も年を重ねることを知っているからです」「私たちはあなたがた若者を必要としています。若々しい顔をもつ教会の生きた、化粧をしていない石材、人工的に若く見せるのでなく、内面からの若さをもった人々を。あなた方は、私たちが正当な伝統を保ちつつ創造性も失わないように、『それは、いつもこうやっています(だから変える必要はない)』の論理から脱するように力づけてくれるのです」と教会における若者たちの存在を、改めて高く評価した。

 そして、若者たちは「新しい文化を創造すること」を基本としているが、文化は”根こそぎ”にしてはならず、根を必要とする、つまり、人生の長い経験者であるお年寄りたちは若い世代を導くことができる、ことも指摘、新約聖書の使徒言行録の「あなたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒言行録2章17節)と引用し、「今、私たちは若い預言者たちを必要としています」、しかし、若い人たちが「老いた人たちの夢をかなえる」時にだけ、預言者となる、とも語った。

(翻訳「カトリック・アイ」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

 

2018年3月20日

・教皇フランシスコ、選出から5周年(バチカン放送)

教皇フランシスコ、選出から5周年

(2018.3.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコが13日、教皇選出から5周年を迎えられた。アルゼンチン・ブエノスアイレスの大司教、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿がベネディクト16世引退後のコンクラーベによって、第266代目のローマ教皇に選出されたのは、今から5年前の2013年3月13日だった。

 教皇フランシスコはこの5年間の活動の中で、2つの回勅(ベネディクト16世が書き始めたものを教皇フランシスコが完成させた「信仰の光」、環境問題をテーマにした「ラウダート・シ」)、2つの使徒的勧告(外に出て行く教会の姿勢を示した「福音の喜び」、家庭の愛をテーマにした「愛の喜び」)、教皇庁の改革などを中心とする23の自発勅令を発表された。

 また、家庭をテーマとした2回の世界代表司教会議(シノドス)を開催したほか、「いつくしみ」をテーマにした特別聖年を実施し、22回の海外司牧訪問を通し33カ国を訪問、また17回のイタリア国内訪問をされた。また、原則として毎週水曜の一般謁見のなかで行うカテケーシスでは、信仰宣言、秘跡、聖霊の賜物、教会、家庭のいつくしみ、キリスト教的希望、ミサ聖祭などをテーマにされており、昨年秋からは、「ミサ聖祭」をテーマにした長期連続講話を続けられている。

 選出5周年を迎え、教皇フランシスコは「開かれた教会」「受容性のある教会」を目指し、精力的な活動を続けておられる。今秋には、若者と召命をテーマにしたシノドスを開催するが、その準備の一環として、世界の若者たちを集めたシノドス準備会議を19日から24日にかけてローマで開く。

 また教皇選出5周年を記念して、バチカン出版局から「教皇フランシスコの神学」シリーズ全11巻が刊行され、ヴィム・ヴェンダーズ監督によるドキュメンタリー映画「Pope Francis – A Man of His Word」も5月頃に公開が予定されている。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました。)

2018年3月15日

・教皇フランシスコの5年ーその成功と未完の仕事(Crux)

Assessing Francis’s successes and unfinished business at 5-year mark

    Pope Francis waves from the central balcony of St. Peter’s Basilica following his election March 13, 2013. March 13 がmarked the fourth anniversary of the Argentine cardinal’s election as pope. (Credit: CNS photo/Paul Haring.)

 では、司牧上、何を優先すべきか、教皇として何に焦点を合わせるのだろうか。教皇就任から5年が経ち、「慈しみ」が、彼の教皇としての仕事の基調となり、若者たちに新たな焦点が合わされ、地球環境問題と移民・難民の窮状への対処も課題であり続けている。

 フランシスコの教皇就任5周年にあたって、Cruxは、世界の様々な地域、階層のカトリック教会の指導的立場にある男女にインタビューし、教皇フランシスコの言葉や行いの何に最も感銘を受けたのか、彼が何をまだ成し遂げられていないと考えるのか、などについて聞いた。

(以下、翻訳中です)

(Credit: CNS photo/Bob Roller.)

*ティモシー・ドーラン枢機卿(米ニューヨーク大司教)*

 2015年に教皇がニューヨークを訪問された時、私は、何十万、何百万のニューヨークっ子たちが嵐のように、熱烈歓迎したのを目の当たりにしました。

  今日にいたるまで、人々は私のところにやって来て、こう言います。「何年も教会から離れていましたが、教皇フランシスコが私を教会に引き戻してくれました」、あるいは「私はカトリックではありませんが、教皇を本当に愛しています」と。私にとって、今でも最も素晴らしい贈り物です。彼は、 教会の時を超えた教えを、新しい、感動的なやり方で示してくれました。教皇は人々がカトリック教会を新鮮な目で見、イエスを知り、イエスの愛と慈しみを体験するのを助けてくれたのです。

 彼に失望した、とか、まだ仕事を成し遂げていない、というのはフェアではない、と思います。ローマは氷河のように動くのです!いつもなすべきことがあるのです。私は9年近くニューヨーク大司教を務めていますが、なすべき仕事の目録は、大司教になった当時よりも長いものになっているように感じています。ですから、教皇として27年近く働かれた後も、聖ヨハネ・パウロ二世は、まだ、なさりたい「未完の仕事」を抱えておられたに違いないのです。教皇を近くで見ていて、とくに2か月にわたるシノドスを通じて、他の人の話しに耳を傾けるのがとてもお好きで、協同的な統治、バチンの官僚機構の改革に強い関心をお持ちだと感じました。これらすべては、疑いもなく重要です。でも、「人々の魂をイエスのところに連れていく」という彼の真の使命に比べれば、影が薄いものです。そして、その使命について言えば、彼は素晴らしい仕事をなさっているのです。

*シスター・シャロン・ユアート(米国のResource Center for Religious Institute専務理事、前米カトリック司教会議事務局次長)*

 教皇フランシスコは、福音の欠かすことのできない喜びで人々を奮い立たせる新しい言葉をお使いになり、振る舞いをなさってきました。忘れられた人々-教会と社会の中で軽視されている女性、男性、子供たち―を優先してお考えになり、カトリック信者たちを狭い考えを捨てて、傷ついた世界を受け入れるように促されます。教皇の愛のメッセージとすべての人をやさしく思う心は、さまざまな分裂を、遠く離れ、絶望的な人々をまとめることにつなげます。不協和音とせめぎあいの中に心の交わりを作ろうとする教皇の努力は、偏見を乗り越え、他の人々の根本的な尊厳を認識するように、私たちを動かします。

 まだ成し遂げられていない仕事のうち、重要な分野のひとつは、教会における女性の役割に関することです。現在の「教会文化」を変えるために、意味のある行動が必要です。教皇フランシスコは言葉を行いに移す必要があります。私が希望するのは、教皇が司教たちや他の教会のリーダーたちに、新しい、意味のあるやり方で、一般信徒の女性と聖職者の女性を教会のあらゆるレベルの仕事に関与させるように、奨励してくださることです。

 教会の日々の活動と使命について女性の考えに耳を傾け続けながら、指導的な立場にさらに多くの女性を就けることは、教皇が就任して間もない時期におっしゃった「教会において、女性のさらなる優れた力を働かせるような広範な機会を作る」(使徒的勧告「福音の喜び103項」という約束に答えることになるのです。

*マリル・エスポンダ(メキシコシティ教区広報担当、 通信社 Variopinto創立者)*

 教皇フランシスコの業績について列挙したいことは、とてもたくさんあります。その中で二つ挙げるとすれば、まず、これまで教会から遠く離れていたとても多くの人たちの中に、キリストのメッセージへの関心を呼び起こしたこと。それと、教会内部にいる私たちが、そして何よりも政府の重要な責任を負っている人たちが、自己批判をし、そうすることで信じるところに従って生きるように、強く働きかけたことです。

 教皇フランシスコは、挑戦的で具体的な方法で、このことをなさいました。世界で、そして教会内部で起きている誤まちを批判し、求められている姿に立ち戻るように私たちに求められました-お互いにもっと兄弟、姉妹のようになるように。なぜなら、私たちには同じ父がおり、もっと人間的になれるから。

 私が思うに、教皇が抱える現在の最大の問題は、教会に属する私たちの間にある「従順さの欠如、変化への抵抗」です。私たち一人ひとりの関心の置き方は違っても、「キリストの代理者」である方が言われるように、現状で満足し、現状を変えたり、刷新したり、福音の求めと現代社会に心を開いたりすることを好まない性向は共通しています。教皇の課題は、非キリスト教化され、非人間化された現代世界において、洗礼を受けた私たちすべてが神の慈しみの良き証人となることです。その他のすべてのこと-教皇庁の改革など―は、課題達成の方法として、二次的なものです。

*ファン・ビンセント・ボー(スペインの日刊紙ABCローマ特派員、教皇フランシスコに関する二冊の著作の著者)

 教皇は、祈りと行い、という原始キリスト教会の信徒たちー物質主義と搾取にあふれ、獰猛な社会を変えた人々-が歩んだのときわめて近い道にカトリック信徒を静かに導こうとしているのだと思います。彼の業績は、政治やサッカーなどと同じように、短い期間では測れません。とくに彼のように、"場を制御する"ことは"たどるべき道を始める"ことほど重要ではない、と考えている人の場合はそうです。教皇は二元論に打ち勝つように一人一人を助けています-そういう人たちの中には、徴税人ではなくファリサイ派の人が祈るような祈りをし、物事を否定的に見、私たちが住んでいる世界についていつも不平を述べている人がいるのですが。

 教皇は、ご自身の経験をもって、ヨハネ・パウロ二世の示した慈しみ、ベネディクト16世の環境と貧困問題に対する姿勢のように、前任者たちの基本的な考え方を精力的に推進なさいます。彼の振る舞い方、教え方は、ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世)が「帝国教会」-司教たちが武装した護衛をかかえ、判事の衣装を着け、宮殿に住むような教会-と呼んでいたコンスタンティヌス皇帝時代の変則的な教会、そして教会が何世紀にもわたって続けてきた変則的なものの残さいーバチカンの中間レベルに”裁判所”の空気が今でも残っている-を改めることにあります。

  教皇就任から五年間を振り返ると、フランシスコは、ヨハネ・パウロ二世-彼の統治下では、バチカン官僚たちは彼がポーランド出身だから、不可解だから、と言って真剣に受け止めなかった-よりも強力で効果的にバチカンを統治しています。例えば、世界中から選んだ9人の枢機卿による顧問会議を作り、世界の司教たちの定期ローマ訪問を自由な意見交換の場に変え、そうすることで、障碍を打ち壊し、宣教の積極的な支援を第一線にいる人たちに向けたのです。初代の使徒たちのように、欧米中心でなく、いわゆる"周辺地域”の国々から枢機卿を選ぶことでそれをなさりました。

 五年間で問題があるとすれば、最も大きな失望は、信頼に応えない、あるいは彼に仕えようとしない人々を信頼なさったことからきていると思います。例をあげれば、バチカンの高位聖職者の中で、教理省の前長官は聖職者による性的虐待の犠牲者たちに十分な配慮を払わなかった、新設の財務事務局長官は実績を上げることができなかった、典礼秘跡省長官は教皇が二度にわたって公に訂正しなければならないような言動をした・・などです。そして今、教皇を居心地を悪くする人物、敵と考える石炭・石油産業、軍需産業、投機ファンドなど経済分野から、教皇を批判する声がでています。

*シスター・シモーネ・キャンベル(カトリック社会正義のためのNETWORK専務理事)

 教皇フランシスコのお話、お書きになるものは素晴らしい。彼の使徒的勧告「福音の喜び」と環境回勅「ラウダ―ト・シ」を何度読んだか分かりません。私の心に話しかけてくださる教会のリーダーは、本当に宝です。

 残念に思っていることは、きわめて人間的な問題です。教会における女性の地位向上への対応、そして性的虐待問題への対応です。教皇はこの二つの課題を政治的あるいは構造的な問題としてではなく、心をもって取り組んでくださると期待しています。

 

 

 

以下、翻訳中(どなたか読者の方でお手伝いいただければ幸いです!)

Carolyn Woo, Former CEO of Catholic Relief Services and Distinguished President’s Fellow for Global Development at Purdue University

I think that with his first encyclical, the pope very clearly brings back the joy of the gospel that can sometimes be lost in all of the theology and the teaching. It’s almost like someone singing, particularly with his proclamation of mercy-which, of course, he followed up with a Year of Mercy. It’s a sense that the pope’s priority is for the salvation of people and that he cares most that people have a way to get back to God and that we are all here to help people get back to God rather than stand in the way. He really challenges the Church hierarchy to consider if they are helping people find their way back to God and as shepherds, he asks, do you know your flock?

The two areas I’m disappointed about are the handling of sex abuse problems within the Church and the issue of engaging and welcoming women to the Church. Even though the pope has created a commission and called for an honest and courageous response, for whatever reason, it’s stuck somewhere. I think we still need to get to the bottom of how extensive this abuse is, and we need to own these abuses, we need to provide apologies, we need to do penance, we need to seek forgiveness so that there can be healing, and we must prevent this from happening in the future.

On the issue of women, I am not a person who stands on the need for women to be ordained. I know people care deeply about that, but I actually can accept the Church’s teaching and say that is not in the works. But acknowledging this, I think a lot more can be done to welcome women into the Church. The Church has not really done enough to engage the talents of women, their intellectual capabilities, their administrative capacities. I think much more can be done to recognize women theologians, to put people on advisory councils in a way in which it is not a token, for them to be well represented in Vatican academies, for them to have a place at the table when doctrine is being formulated, for them to staff important pontifical councils and dicastries, for them to have a more recognized role in parish councils-at every level the Church needs to legitimize the gifts of women.

(Credit: Ettore Ferrari/Pool Photo via AP.)

Greg Burke, Director of the Vatican’s press office, former advisor to the Vatican’s Secretariat of State, and correspondent for Fox News and Time

In a world that bombards us each day with a growing number of distractions and temptations and false idols, Pope Francis has done an extraordinary job in getting out a very simple message that is at the heart of the Gospel: God loves you, and God forgives you.

And there’s more. There’s joy, the Joy of the Gospel. Francis knows – and shows – that if you read the Gospel and try to live your life following Christ closely, you are going to have a deep, interior joy.

Despite all our faults, all our sins, all of our nastiness, big and small, God loves us, and God forgives us. The parable of the prodigal son plays out again and again in the course of our lives. God is the merciful and loving father, waiting outside to embrace us before we can even knock on the door. Pope Francis has reminded everyone of how God absolutely smothers us with his love, and has challenged us to share that love with others.

As for unfinished business, one of the pope’s main goals is changing a mentality, helping everyone in the Church know that he or she is here for service and not for power. This has been unfinished business since day one, if you look at Christ’s words to the Apostles, and it won’t change overnight. But Pope Francis has certainly helped set the tone for that change.

Paulina Guzik, journalist and professor of communications of Pontifical University of John Paul II in Krakow, Poland 

The best thing about Pope Francis that absolutely changed the lives of Christians around the world for me is the example that he’s giving and – by it – making people follow him. We listened to other popes, they inspired us, of course, they crushed deadly totalitarianism, we were happy that they came visit. And then we were coming back to normal life. Pope Francis has made his teachings and deeds so down to Earth and yet so Evangelical that people follow him – on a daily basis. People working in banks devote their afternoons to working for the homeless, doctors are spending their free time in field hospitals for the poor, whole families are peeling carrots that lands later in a soup for the homeless (twice a week for a second season now it happens in Krakow and other cities in Poland) – only because Francis inspired them. He accomplished the mission of accompaniment – come, let’s go together, I’ll show you how to kiss the feet of the refugees, I’ll show you what buying a pizza means for the homeless, I’ll show you what Jesus would do if he was here today. Making people follow his example on a daily basis is for me a great milestone of this pontificate. Living a gospel became real under Francis.

One thing I really want to see him accomplish is the influence on the Global Compact for Migration – he calls migration a sign of the times and improving or rather creating proper global migration policies I would dare to say is a political task as important as the fall of communism for John Paul II. I wish the Vatican structures were able to influence not only the UN but – through episcopal conferences – governments of particular countries to change their refugee policies. I’m not only talking about Poland but also the U.S. and many other countries.

Father John Wauck, communications professor at the Pontifical University of the Holy Cross in Rome

The best thing about Pope Francis’s papacy so far has been his ability to get a hearing from people who would not have given Benedict XVI or John Paul II the time of day. It has been, quite literally, an eternity since we saw a pope’s picture “on the cover of the Rolling Stone,” and that photo is emblematic of a new openness toward the papacy on the part of sectors of society previously hostile or indifferent. Now, some might suggest that such people pay attention to Pope Francis only because he seems to tell them what they want to hear, but while, as time has passed, that may be true of some people, my own experience immediately after the conclave tells me that the extraordinarily positive response to Pope Francis was not based on an analysis of his stances on particular issues. It pre-dated any knowledge of his views. Recently, Jesuit Father Antonio Spadaro has insisted that Pope Francis is not a “nice” pope, but I do think that his initial popularity stemmed largely from his apparently natural, approachable, regular-guy persona. He came across as a more familiar fatherly figure than the somewhat professorial Benedict or the larger-than-life John Paul II. Of course, it remains to be seen what the fruit of this expanded attention will be, but the opening and the engagement are themselves clearly a positive development.

It is natural that, after only five years of a papacy, much unfinished business should remain, and this pontificate is no exception: the response to the sexual-abuse crisis, the reform of the Vatican’s finances, communications reform, and the reform of the Roman Curia all fall in the category of unfinished business.

But there is unfinished business of a deeper sort as well.

When he became pope, Francis stressed the need for the Church to leave the sacristy and go out to the world, to resist the temptation of being self-referential and engage the “peripheries” of society and of human experience. After five years, however, the Church seems to be trapped in a divisive internal debate, and an enormous amount of spiritual and intellectual energy, which might have been spent on works of service and apostolate, has been spent instead discussing Amoris Laetitia and, more specifically, the doctrinal and disciplinary implications of a quintessentially in-house matter: communion for the divorced and remarried. As a consequence, the outward-looking Church that Francis hoped for is still struggling to raise its head. On its way out of the sacristy, the Church didn’t get much further than the Communion rail.

Similarly, it was hoped that the first South American pope would be the herald of a vibrant new era in the life of the Church in that vast continent, yet Pope Francis’s recent visit to Chile – described in these pages as “his first could-be flop” – was his least successful trip so far, marred by church burnings, small crowds, and controversy over sexual abuse. Moreover, the trip called attention to the sad fact that the pope has yet to visit his native Argentina, where, for political reasons, he receives less friendly treatment than in the rest of the world. At the same time, in Venezuela and Cuba, the Church still suffers grievously. Here too, in terms of ecclesial “geography,” the high expectations inspired by the pope’s inaugural voyage to Brazil, for World Youth Day in 2013, have yet to be met.

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載します。

2018年3月14日

・前教皇が、教皇フランシスコを批判する見方を「愚かな偏見」と強く批判(Tablet)

(2018.3.13 Tablet  Christopher Lamb)

 フランシスコが2013年3月13日に266代教皇に選ばれて5年経ったが、前教皇ベネディクト16世が自らの書簡で、自身と現教皇フランシスコの間に断絶がある、との見方を強く批判した。教皇庁広報事務局のダリオ・ビガーノ長官が12日、「教皇フランシスコの神学」についての解説書11巻の刊行について記者会見をした際に、書簡を公開した。

 明らかにされたベネディクト16世の書簡によると、前教皇は、教会内外にある「フランシスコは神学的、哲学的な人格形成を欠いた実務者にすぎない」「ベネディクト16世は現在のキリスト教徒たちの具体的な生きざまに関心を払わない神学の理論家だ」をとする見方は、「愚かな偏見」と指摘した。

 現在81歳の教皇フランシスコは、この5年間、その言葉や行いが多くの信者や信者以外の人々から称賛を浴びる一方で、一部のカトリック信者から強い批判も受けている。教皇は、教会が、難民や家のない人々を腕まくりして助けるような、慈しみにあふれた、"野戦病院”となることを求めているが、批判する人々の多くは、「道徳的な相対主義に陥っている世界に反対する創造的な少数派」としてのカトリック信者像を、世界的に著名な神学者であるベネディクト16世に重ね、彼を否定的に評価しているのだ。

 ベネディクト16世は 公開された書簡で、こうした見方は誤りだと言明し、教皇フランシスコを批判するのを止めるように求め、歴代教皇の間に「行動様式や気質に違い」はあれ、「内面的に一致」している、と強調している。また、教皇フランシスコの神学の解説書11巻について、「教皇は奥深い哲学的、神学的人格形成をされている方、だということを、正しく示している」と述べている。これらの本は、イタリア神学学会のロベルト・レポーレ会長がとりまとめ、バチカンの出版局から発行された。

 前教皇が現教皇を公に支持したのは、今回が初めてではない。2016年に「神の慈しみに絶えず言及している」として現教皇を称賛していた。2013年2月13日に過去600年なかった存命中の教皇辞任という衝撃的な行動に出た後、彼はバチカン庭園にある元修道院に住み、教皇が通常身に着ける白衣(教皇の権威の象徴であるモゼッタ=短いケープは外して)を着、自身を「名誉教皇」と呼ぶことを選択した。

 自身を「教皇」と呼び、白衣を着て、バチカンの中に住む者が二人いるということは、カトリック教会の歴史の中でこれまで予期しなかったことだが、教皇フランシスコは前任者を受け入れ、「家に賢い祖父がいる」ように振る舞っている。だが、ベネディクト16世が故ヨアヒム・マイスナー枢機卿の葬儀に弔辞を送り、「枢機卿は、舟(教会)が水浸しになり、ひっくり返るような事態になっても、主はご自分の教会をお見捨てにならない、という深い確信をもって生き抜きました」と称えたが、そのことをもって、二人を仲たがいさせようとする試みがあった。マイスナー枢機卿は、教皇フランシスコが使徒的勧告「(家庭のおける)愛の喜び」で離婚し再婚した人々に聖体拝領を受ける道を開いたとされることに、強く反対する書簡を教皇あてに出し、公開した枢機卿4人のうちの一人だった。(注・弔辞は、教皇フランシスコの勧告で示した方針を間接的に非難するもの、と受け取る向きがあった、ということを意味する=「カトリック・あい」)

 90歳のベネディクト16世は今年1月に、フランシスコに教理庁長官のポストを半年前に解かれたゲルハルト・ミュラー枢機卿を称賛する発言もしている。だが、同じ時に、ベネディクト16世の司祭叙階65周年の祝賀会も含めて、現教皇と前教皇の親交が頻繁に公けにされてもいる。ベネディクトはフランシスコに語っている。「あなたがイエスのなさったやり方で、慈しみの道を、神に向かって、イエスに向かって、歩み続けられるように、望みましょう」と。

 (翻訳・「カトリック・アイ」南條俊二)

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年3月14日

・教皇、聖ペトロ大聖堂でゆるしの秘跡

 ゆるしの秘跡を受ける教皇フランシスコ、バチカン・聖ペトロ大聖堂で – AP

(2018.3.12 バチカン放送)

  教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂でゆるしの秘跡をとり行われた。

復活祭のための準備期間、四旬節には、信者たちが主の復活をよりふさわしい状態で迎えることができるよう、ゆるしの秘跡に与ることが勧められる。

3月9日(金)、教皇庁新福音化推進評議会(議長:サルバトーレ・フィジケッラ大司教)主催の行事「主に捧げる24時間」の一部として、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で共同回心式をとり行った。

この共同回心式には、多くの聴罪司祭たちと、信者や修道者たちが参加。皆で行う祈りとことばの祭儀に続き、個々の人々の赦しの秘跡が行われた。

教皇は最初にご自身が大聖堂内の告解室でゆるしの秘跡を受けられた。

この後、教皇は告解室に入られ、信者たちの告解を聴かれた。

 

2018年3月14日

・第33回「世界青年の日」(3月25日)に向けた教皇メッセージ

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(ルカ1・30)

 教皇フランシスコはこのほど、3月25日の世界青年の日に向けたメッセージを発表された。

 カトリック中央協議会の翻訳によるメッセージ全文以下の通り。

親愛なる若者の皆さん

 2018年の世界青年の日は、2019年1月に開催されるワールドユースデー・パナマ大会に備える歩みをさらに一歩進めるものです。わたしたちの巡礼におけるこの新たな行程は、「若者、信仰、そして召命の識別」というテーマのもとに行われる世界代表司教会議(シノドス)通常総会と同じ年度に行われます。これは幸運な一致です。教会のまなざしと祈りと思いは、若者の皆さんに向けられています。そして皆さんが自分は神への、教会への、そして世界への大切なたまものであることを認識し、とりわけ「受け入れる」よう望んでいます。

 ご存じのようにわたしたちは、神が御子の母としてお選びになったナザレのおとめマリアの模範と取り次ぎのもとに、この旅を進めることにしました。マリアはシノドスに向けて、そしてワールドユースデー・パナマ大会に向けてわたしたちに寄り添っておられます。昨年は、「力あるかたが、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1・49)というマリアの賛歌の一節の導きのもとに、過去を思い起こすよう促されましたが、今年は、ご自分の呼びかけに応えるのに必要な勇気を与え、恵みを注いでくださる神の声を、マリアとともに聞こうと努めます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(ルカ1・30)。これは神の使いである大天使ガブリエルが、ガリラヤ地方にある小さな村のごく普通の少女マリアに告げたことばです。

1.恐れることはない

 突然、天使が現れ、「おめでとう、恵まれたかた。主があなたとともにおられる」(ルカ1・28)という謎めいたあいさつをしたのですから、マリアはひどく戸惑ったことでしょう。また、それまで知らなかった自分の真の姿と召命を初めて告げられ、さぞ驚いたことでしょう。マリアは、他の聖書の登場人物と同じように、神の召命の神秘の前で震えます。神はご自分の計画の偉大さを瞬く間にマリアに伝え、彼女が取るに足らない小さな者であることを自覚させます。天使はマリアの心の奥底を見抜き、「恐れることはない」とマリアにいいます。神はわたしたちの心の奥底も見抜いておられます。神はわたしたちが人生の中で立ち向かうべき課題をよくご存じです。この世において自分はどんな人間となり、何をすべきなのかという問いにかかわる根本的な選択に直面したときはなおさらです。自分の未来、生き方、召命がかかわる選択を目前にして、わたしたちは「身震い」します。そして戸惑い、多くの恐れにとらわれます。

 それでは若者の皆さんはどんな恐れを抱いているでしょうか。何が皆さんを心底、悩ませているのでしょうか。多くの皆さんが抱いている「根本的な」恐れは、自分という人間が愛されても、好かれても、受け入れられてもいないのではないかという恐れです。今日、多くの若者が人為的で実現不可能になりがちな標準に合わせるために、本来の姿とは別の姿にならなければならないと感じています。自分の姿を「画像修正」し続け、仮面と偽りのアイデンティティの後ろに隠れ、まるで自分自身を「偽造(フェイク)」しているかのようです。多くの人が出来るだけ多くの「いいね」を得ようとやっきになっています。自分が不十分であるという心情から、多くの恐れや不安が生じています。一方、安心することもできずに独りぼっちになるのではないかと恐れる人もいます。多くの人が、不安定な仕事に就いているので満足のゆくような職業上の地位を得られないのではないかと恐れたり、自分の夢がかなわないのではないかと恐れたりしています。今日、信者であるか否かにかかわりなく、多くの若者が心から恐れを抱いています。信仰のたまものを受け入れ、真剣に自らの召命を探し求めている若者も、もちろん恐れから逃れられません。「神はあまりにも偉大なことをわたしに求めておられ、これからもそうされるだろう。神から示された道をたどっても、真に幸せになれないかもしれないし、神がわたしに求めておられる高みにも到達できないかもしれない。」と考える人もいます。また、「神から示された道をたどっても、最後まで行き着けると、だれが保証してくれるのだろう。失望し、熱意を失ってしまうかもしれない。わたしは生涯を通してその生き方を貫くことができるだろうか」と自問する人もいます。

 疑いと恐れが心を覆い尽くすときには、識別が必要となります。識別することにより、思考や感情の混乱に秩序が戻り、わたしたちは正しく慎重に行動できるようになるのです。この過程の中で恐れを克服するための第一歩は、恐れの正体をはっきりさせることです。そうすれば、声も実体もない亡霊のなすがままに、時間と力を無駄に費やすこともなくなります。ですから皆さんにお願いします。心の中に目を向け、自分の恐れを「名指し」してください。自分が今、生きている現状の中で次のように自問してください。何がわたしを不安にさせるのだろう。わたしがもっとも恐れているのは何だろう。前に進むのを妨げ、阻んでいるものは何だろう。どうしてわたしは、勇気をもって自分がなすべき重要な選択を下せないのだろう。怖がらずに、真摯に恐れに目を向け、その正体を見極め、その恐れに対処してください。聖書は、人間が恐れを感じることも、その多くの理由も否定していません。アブラハムは恐れました(創世記12・10参照)。ヤコブも(創世記31・31、32・8参照)、モーセも(出エジプト2・14、17・4参照)、ペトロも(マタイ26・69参照)、使徒たちも(マルコ4・38―40、マタイ26・56参照)恐れました。イエスご自身も比類のない恐れと怒りを感じておられました(マタイ26・37、ルカ22・44参照)。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4・40)。弟子たちを叱責するイエスのこのことばは、不信ではなく恐れが信仰の妨げとなることがいかに多いかを物語っています。このように、識別は自分の恐れが何であるかを見極めるのに役立ちますが、わたしたちが人生を受け止め、人生における問題に真剣に向き合うことによって恐れを克服する際にも役立つに違いありません。わたしたちキリスト者にとって、恐れは最終的なものではなく、神を信じ、いのちを信じるための機会にほかなりません。それは、神が与えてくださったものは根本的に善であると信じ、たとえ不可解に思える状況や逆境を幾度となく通っても、神はわたしたちをよい結末に導いてくださると信じることを意味します。しかし、もし恐れを増大させるなら、わたしたちは自分の中に閉じこもり、すべての物事や人から自分自身を守るために防壁を築き、身動きが取れなくなるでしょう。立ち向かってください。決して閉じこもらないでください。聖書では「恐れるな」という表現が、あらゆるかたちで365回繰り返されます。まるで主は一年中毎日、恐れからわたしたちを解放したいと思っておられるかのようです。

 自分自身の召命を追求するためには、識別が不可欠です。実際、ほとんどの場合、召命はすぐにはっきりしたり、完全に明らかになったりするのではなく、少しずつ判明していきます。この場合の識別は、自分が力をつけ、一定のバランスを保てるように、心の中がどのようになっているかをよりよく理解するために、各自が内省することを指しているのではありません。それにより人は強くなれるかもしれませんが、自分自身の可能性と視野という限られた領域の中に閉じこもったままです。一方、召命は天からの呼びかけであり、この場合の識別は、呼びかけておられるかたに心を開くことにほかなりません。したがって、わたしたちの意識の中に響いている神の声を聞くために、沈黙のうちに祈らなければなりません。神は、マリアにそうされたように、わたしたちの心の扉をたたいておられます。そして、祈りを通してわたしたちと友情を結び、聖書を通して語りかけ、ゆるしの秘跡においていつくしみを与え、聖体の交わりのうちにわたしたちとともにありたいと望んでおられるのです。

 一方、他の人々に出会って対話することも重要です。さまざまな選択肢をしっかり見極め選べるよう助けてくれる、同じ信仰をもつ経験豊富な兄弟姉妹に相談するのです。少年サムエルは、主の声を聞いても、すぐにはそのことが分からず、老祭司エリのもとに三度駆け寄りました。エリは最後に、主の呼びかけに対する正しい答えをほのめかします。「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』といいなさい」(サムエル記上3・9)。もし疑いをもったら、教会に頼ることができることを思い出してください。そこには優れた司祭や修道者、信者がいますが、その多くが若者です。彼らは同じ信仰をもつ兄弟姉妹として皆さんに寄り添い、皆さんが自分の疑いを解き明かし、自分自身の召命の意図を読み取ることができるよう、聖霊の力のもとに、助けてくれるでしょう。この「他の人々」は、霊的な指導を行うだけでなく、神から与えられたいのちの無限の豊かさを受け入れられるよう皆さんを支えます。人々が成長し、夢を見、新たな地平に目を向けられるような場を、わたしたちの町や共同体の中に設ける必要があります。出会いや友情がもたらす喜び、他の人々と一緒に夢を抱きながら歩む喜びを失ってはなりません。真のキリスト者は、恐れずに自らを他者に開け放ち、自分の大切な場を他者と分かち合い、友愛の場にします。若者の皆さん、皆さんの若さの輝きを、コンピュータとスマートフォンという窓からしか世界が見られない閉ざされた部屋の暗闇の中で消さないようにしてください。人生の扉を開け放ってください。皆さんの空間と時間には、直に接する人々がいて、彼らとの深い結びつきがあります。皆さんは日常生活における真の実体験を、それらの人々とともに分かち合うことができるのです。

2.マリア

 「わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43・1)。恐れなくてもよい第一の理由は、神がわたしたちを名前で呼んでおられることです。神の使いである天使は、マリアを名前で呼びます。名前を与えることは、神がなさることです。天地創造において神は、名をつけて万物をお造りになりました。名前の背後には、あらゆる存在と人に固有のアイデンティティがあります。神だけが、その根底にある本質を知っておられます。その後、神は獣、鳥、さらには人間の子に名前をつけるという特権を人間と分かち合いました(創世記2・19-21、4・1参照)。多くの文化が聖書に基づくこの深遠な考え方を取り入れ、いのちの奥深い神秘の表われと、存在することの意味を名前の中に見いだしています。

 神が名前で人に呼びかけるとき、神は召命を示し、聖性と善にあふれるご自分の計画も明らかにされます。それにより人は、他の人々へのたまものとなり、唯一の存在となります。さらに主は、シモンを「ペトロ」とお呼びになったように、人の人生の地平を広げたいと望まれるときに、その人に新しい名をお与えになります。したがって、修道会に入会する際に新しい名を名乗ることは、新しいアイデンティティと新たな使命の表れです。神の呼びかけは個人的で唯一のものです。したがってその呼びかけは、皆に同じような行いを強いる社会の圧力から自分自身を解き放つ勇気をもつよう求めます。それによりわたしたちのいのちは、真に神のため、教会のため、そして他の人々のためのかけがえのない唯一のたまものとなるのです。

 親愛なる若者の皆さん。したがって名前で呼ばれることは、神がわたしたちのうちに偉大な尊厳を見いだし、わたしたちをとりわけ愛してくださるしるしです。そして神は皆さん一人ひとりを名前で呼んでくださいます。神にとって皆さんは「あなた」であり、神の目には値高く、尊く、いとおしい者として映っています(イザヤ43・4参照)。神が提示しておられるその対話を、皆さんの名を呼んでおられる神のその呼び声を、喜んで受け入れてください。

3.あなたは神から恵みをいただいた

 マリアが恐れなかったおもな理由は、神から恵みをいただいていたことです。「恵み」ということばは、報いる必要のない無償の愛を表します。神に近づき、神の助けを得るために必要なのは、功績や成功にあふれる「輝かしい履歴書」を前もって渡すことではないことを知って、わたしたちはどんなに力づけられることでしょう。天使は、すでに神から恵みをいただいたとマリアに告げたのであって、これから恵みを受けるといったのではありません。神の恵みはつかの間の一時的なものではなく、永続的なものであり、決してなくならないことを、この天使のお告げのことばは教えています。神の恵みは今後も、とくに試練や暗黒のときにも、わたしたちをつねに支えてくれるでしょう。

 神の恵みがつねに存在し続けることを知ることにより、わたしたちは信頼して召命を受け入れるよう励まされます。召命を受け入れるためには、信仰を日々新たにするよう努めなければなりません。召命への歩みは実際、十字架のない道ではありません。最初に疑問を抱くだけでなく、道すがらたびたび誘惑に出会います。キリストの弟子は、自分がふさわしくないのではないかと最後まで感じていますが、神の恵みが自分を支えていることを自覚します。

 人間の恐れの上に天使のお告げが下り、そのことばがもつ福音の力が恐れを消し去ります。わたしたちの人生は、まったく偶然の出来事でも、生き残るための闘いでもありません。わたしたち一人ひとりは、神が愛しておられる一つの物語です。「神のみ前で恵みをいただく」とは、創造主がわたしたちの存在の中に比類のない美しさを感じ、わたしたちのために壮大な計画を立ててくださるという意味です。もちろん、このことを自覚することにより、すべての問題が解決されるわけでも、人生の不安が取り除かれるわけでもありませんが、人生を根底から変える力を得ることができます。明日はどうなるか分からないということは、乗り越えるべき暗い脅威ではなく、各個人に与えられる召命の唯一性を生き、そのことを教会や世界の中の兄弟姉妹と分かち合うための有意義なときなのです。

4.今このときの勇気

 神の恵みが自分たちの中にあることを確信することにより、今このときに勇気をもつ力がわいてきます。それは、神が今ここで求めておられることを人生のどの段階においても行う勇気、神によって示された召命を受け入れる勇気、自分の信仰を隠したり弱めたりせずに貫く勇気です。

 そうです。神の恵みを受け入れれば、不可能なことが実現します。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8・31)。神の恵みは、皆さんの人生における今この瞬間に触れ、皆さんのありのままの姿とすべての恐れと限界を「しっかりつかみ」、神のすばらしい計画を明らかにします。若者の皆さんは、自分を真に信頼している人がいることを実感しなければなりません。教皇が皆さんを信頼し、教会が皆さんを信頼していることを認識してください。そして皆さんも教会を信頼してください。

 少女マリアは、まさにその若さゆえに、大切な使命を託されました。若者の皆さんは人生のその時期を力尽きることなく生きており、活力に満ちています。その力とエネルギーを、世界をよりよくするために使ってください。まず皆さんの周囲の現実に力を注いでください。わたしは、教会が皆さんに重要な責任をゆだね、勇気をもって皆さんにその機会を与え、そして皆さんも、その責任を引き受ける備えをするよう望みます。

 マリアの愛に再び目を向けましょう。その愛は優しく力強く具体的な愛であり、自分に与えられたたまものにすべてをささげる、勇気にあふれる愛です。このようなマリアの資質が浸透している教会は、つねに外に出向く教会となり、いただいた恵みが周りにあふれ出るように、自らの限界や領域を超えて出掛けて行きます。もしマリアの模範に従うなら、自分自身やどんなものよりも神を愛し、日常生活をともにしている人々を愛するよう促すその愛を、わたしたちは具体的に生きるでしょう。そして、あまり感じのよくない人のことも愛せるようになるでしょう。それは、もっとも弱い人や貧しい人にとりわけ奉仕し献身する愛であり、わたしたちの表情を変化させ、わたしたちを喜びで満たす愛です。

 受胎告知の神秘に関する聖ベルナルドの有名な説教の中の美しいことばをもって、わたしはこのメッセージを締めくくりたいと思います。それは、すべての人がマリアの答えを待ち望んでいることを表しています。「おとめマリアよ、あなたは自分が身ごもって、男の子を生むと告げられました。それは人間によるものではなく、聖霊のわざであることも知らされました。天使はあなたの答えを待っています。……マリアよ、わたしたちもあなたのあわれみ深いことばを待っています。……あなたの短い答えによって、わたしたちは新しくなり、いのちに引き寄せられるに違いありません。……全世界があなたの前にひざまずいて待っています。……おとめよ、どうか早く答えてください」(『説教』4、8-9、Opera Omnia, ed. Cisterc. 4,1966,53-54)。

 親愛なる若者の皆さん、主が、教会が、そして世界が、生きている間にだれもが受けるただ一つの招きに皆さんが応えるのを待っています。ワールドユースデー・パナマ大会が間近に迫っていますが、わたしは、偉大な冒険に加わりたいと望む人の喜びと熱意をもって、この大会のために備えるよう皆さんにお願いしたいと思います。ワールドユースデーは勇気あふれる人々のためにあります。居心地のよさだけを求め、困難の前で尻込みする若者のためにあるのではありません。皆さんはこの挑戦に応じますか。

 

・注・世界青年の日(受難の主日)

 教皇ヨハネ・パウロ二世は1985年3月31日(受難の主日)、国連制定の国際青年年にあたって全世界の青年たちにメッセージを発表し、その翌年から「世界青年の日」を毎年、受難の主日(枝の主日)に祝うよう定めました。それとともに1987年以来、「国際青年フォーラム」と「世界青年の日」記念式典が教皇臨席のもとに開催され、全世界から大勢の若者が集まるようになりました。

 初回の1987年はブエノスアイレスで開かれ、以降、サンティアゴ・デ・コンポステラ(1989年)、チェストコバ(1991年)、デンバー(1993年)、マニラ(1995年)、パリ(1997年)、ローマ(2000年)、トロント(2002年)、ケルン(2005年)、シドニー(2008年)、マドリード(2011年)、リオデジャネイロ(2013年)、クラクフ(2016年)で開催されました。

2018年3月13日

・教皇、聖金曜日「十字架の道行き」の台本作成を学生たちに依頼

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(2018.3.9 「カトリック・あい」)教皇庁は8日、今年の聖金曜日30日にローマのコロッセオで予定する「十字架の道行き」の際の沈黙の祈りの台本の作成を、教皇フランシスコが、ローマの15人の学生たちに依頼した、と発表した。学生たちは市内の高校に学んでおり、指導は同校で宗教を教えるエッセイストのアンドレア・モンダ氏。

 今年は10月に若者をテーマにしたシノドス(全世界司教会議)が予定され、その準備の一環として今月、世界の若者たちによる会議がローマで行われる。教皇は、キリストの死と復活を記念する聖週間の夜の儀式である聖金曜日の「十字架の道行き」の沈黙の祈りの台本の作成を、毎年、異なった人物、あるいはグループに任せているが、今年は若者が大きなテーマとなる会議を控えて、世界の若者たちの関心を高める狙いがあるとみられる。

 

2018年3月9日

・福者教皇パウロ6世と、福者オスカル・ロメロ大司教、列聖近づく

福者教皇パウロ6世と、福者オスカル・ロメロ大司教 – RV

(2018.3.7 バチカン放送)

  教皇フランシスコは6日、教皇庁列聖省長官アンジェロ・アマート枢機卿とお会いになり、教皇パウロ6世とオスカル・ロメロ大司教を含む福者5名について、列聖に必要な奇跡を認める教令の発布を承認された。これによりお二人は列聖に向けて大きく進むことになる。

 列聖のために必要な奇跡(当人の取次ぎによって行われたとされる奇跡)が認められた福者は以下のとおり。

-福者パウロ6世(ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ、教皇、イタリア1897-1978)-福者オスカル・アルノルフォ・ロメロ・ガルダメス(サンサルバドル大司教、殉教者、エルサルバドル1917-1980)-福者フランチェスコ・スピネッリ(教区司祭、聖体礼拝修道女会創立者、イタリア1853-1913)-福者ヴィンチェンツォ・ロマーノ(教区司祭、イタリア1751-1831)-福者マリア・カテリナ・カスパー(イエス・キリストの貧しい侍女会創立者、ドイツ1820-1898)

 また、この教令では、尊者神のはしため、マリア・フェリチア・ディ・ジェズ・サクラメンタート(女子跣足カルメル修道会・修道女、パラグアイ1925-1959)による列福に必要な奇跡と、神のはしため、アンナ・コレサロヴァ(信徒、スロバキア1928-1944)の殉教が認められた。

 さらに、この教令で、主のしもべ/はしため、ベルナルド・ルビエンスキ(レデンプトール会・司祭、ポーランド1846-1933)、チェチリオ・マリア・コルティノヴィス(カプチン会・修道士、イタリア1885-1984)、ジュスティーナ・スキアッパローリ、ヴォゲーラの神の御摂理ベネディクト修道女会創立者、イタリア1819-1877)、マリア・スキアッパローリ、ヴォゲーラの神の御摂理ベネディクト修道女会創立者、イタリア1815-1882)、マリア・アントネッラ・ボルドーニ(信徒、ドミニコ会第三会会員、神の母の小さな娘会創立者、イタリア1916-1978)、アレッサンドラ・サバッティーニ(信徒、イタリア1961-1984)の6人の英雄的徳が認められた。

2018年3月8日

・教皇「教会の母マリア」の記念日を聖霊降臨の翌日に制定+典礼秘跡省長官による解説

教皇フランシスコ、教会暦に「教会の母マリア」の記念日制定 – AFP

(2018.3.5 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、教会暦において、「教会の母マリア」の記念日を、聖霊降臨の翌日の月曜日に制定された。

 教皇庁典礼秘跡省(長官:ロベール・サラ枢機卿)が、「教会暦における、至福なるおとめマリア、教会の母の記念日についての教令」を発表。この中で「おとめマリアを、キリストの神秘とその本性に照らして考える時、キリストの母であると同時に、教会の母としてのその姿を忘れることはできない」としている。

 そして、聖アウグスティヌスが「マリアは教会において信者たちの再生に愛をもって協力したために、キリストの肢体の母である」と、また教皇・大聖レオが「頭(かしら)の誕生は肢体の誕生でもある」として、マリアを神の御子キリストの母であると同時に、キリストの神秘体の肢体の母でもある、と考えていたことに言及。

 こうした認識は、「マリアの神の御子の母としての母性と、キリストの十字架上の犠牲によって頂点に達する、贖い主のみ業へのマリアの親密な一致から来るもの」とし、「イエスの十字架のそばに、その母が立っていた(参照:ヨハネ福音書19章 25節)」「マリアは、御子の愛の遺言に従い、愛する弟子に代表される、すべての人を子として受け入れ、こうして、キリストが聖霊を発しつつ十字架のもとに生んだ教会を、愛情深く育む者となった」と説明している。

 「生まれつつある教会の導き手、母としての使命」を、マリアは聖霊降臨の高間で、使徒たちと聖霊を待ちながら祈っている時に始めた。キリスト教の信心は、このようなマリアに「弟子たちの母」「信徒の母」「信じる者の母」といった呼び名で崇敬を示し、霊的な著作者や、ベネディクト14世とレオ13世の教えにも「教会の母」という名が見られることを文書は紹介している。

 そして、このような基礎のもとに、教皇福者パウロ6世は、1964年、第2バチカン公会議の第3会期の終了に、至福なるおとめマリアを「教会の母」として宣言した。教皇庁が1975年の聖年を機会に「教会の母マリア」に捧げるミサを提案し、その後、ミサ典書に挿入されたこと、この呼び名を聖母の連祷に任意で加えることができるようになったこと、ある国や教区などはその教会暦に、希望で「教会の母マリア」の日を加えることが可能となったことなど、「教会の母マリア」がどのように祝われてきたかを示している。

 教皇フランシスコは、「教会の母マリア」に対する崇敬の推進が、司牧者や、修道者、信徒たちの間に、教会の母としての認識を助け、同時にマリアへの純粋な信心を育むために、「至福なるおとめマリア、教会の母」の記念日を制定すると共に、この日を教会暦の「聖霊降臨」の翌日の月曜日に加え、毎年祝うことを望まれた、と同文書は記しており、この記念日は、すべての教会暦、ミサと時課のための典礼書に加えられることになる。

 

教皇庁典礼秘跡省が発表した教令についての解説

[イタリア語原文からSr.岡立子が試訳]

 「教会の母」マリアの記念

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 教皇フランシスコの決定-2018年2月11日、ルルドのおとめマリアの最初の出現の160周年記念の教令をもって-の実践において、典礼秘跡省は、ローマ典礼暦の中に「教会の母、祝せられたおとめマリア」“Beata Vergine Maria Madre della Chiesa”の記念を加える準備をした。

 添付された教令の中で、ミサのため、聖務のため、ローマ殉教録il Martirologio Romanoのための、ラテン語の関連する典礼書が言及されている。各司教団は、使用するテキストの翻訳を承認し、承認の後、それらを典礼書として出版する準備をする。

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 この祭儀の理由は、教令自身の中で短く説明されている。それは、マリアに取っておかれた典礼的崇敬が、第二バチカン公会議の『教会憲章』の第八章が説明したように、「キリストの神秘と、教会の神秘における」マリアの存在(現存)の、よりよい理解の結果、成熟したことを思い起こしている。実際、十分に考慮して、1964年11月21日、この公会議憲章の公布において、福者パウロ六世は、マリアに「教会の母」の名称を荘厳に認めることを望んだ。

 キリストの民の信仰感覚は、二千年の歴史の中で、キリストの弟子たちを、キリストの最も聖なる母に親密に結びつける子としての絆を、さまざまな方法においてとらえてきた。そのような絆を、福音作者ヨハネは明瞭に証ししている。十字架上での死ぬ前の、イエスの遺言を言及しながら(cf. ヨハ19・26-27)。ご自分の母を弟子たちに託し、弟子たちを母に託した後、「もはやすべてが成し遂げられたことを知って」、死の直前のイエスは、彼の神秘的体(からだ)である、教会のいのちを考慮して、「霊をお渡しになった」。実際、「十字架の上に眠るキリストの脇腹から、このうえない秘跡である全教会が生まれたのである」(『典礼憲章』5項)。

***

 十字架上のキリストの心(心臓)から湧き出た水と血-彼のあがないの奉献の総体のしるし-は、秘跡的に、教会にいのちを与え続けている。洗礼とミサ聖祭を通して。

 「あがない主」と、あがなわれた者たちの間に、つねに養うべき、この驚くべき交わり(コムニオ)において、もっとも聖なるマリアは、果たすべき母としての使命を持っている。

 それを、新しい記念日のミサの中で示される、ヨハネ19・25-34の箇所は思い起こしている。その箇所はすでに-創世記3章と使徒言行録1章の朗読箇所と共に-、典礼省が1973年、「和解の聖年」(1975)を考慮して認可した、「教会の母聖マリア」“de sancta Maria Ecclesiae Matre”の随時ミサla messa votivaの中で示されている(cf. Notitiae 1973, pp. 382-383)。

***

 マリアの、教会的母性(教会の母であること)の典礼的記念は、ゆえに、1975年の『ローマ典礼書』の第二版l’editio altera del Missale Romanumの中の、 いくつかの随意ミサの中に置かれた。その後、ヨハネ・パウロ二世の教皇職の間に、『ロレトの連祷』(聖母の連祷)の中に「教会の母」の名称を加える可能性が各司教団に許可され(cf. Notitiae 1980, p. 159)、「マリア年」の折に、典礼秘跡省は、『祝されたおとめマリアのミサ典書集』Collectio missarum de Beata Maria Virgineの中に、「教会の母、教会の姿であるマリア」の名称のもとに、随意ミサのその他の式文を公布した。

 また、年月の流れの中で、幾つかの国-ポーランドやアルゼンチンのように―の固有の典礼暦の中で、聖霊降臨の祭日後の月曜日に、「教会の母」の祝日の挿入が認可された。その他の日に、パウロ六世の側からの、この名称の宣言が行われた、聖ペトロ大聖堂のような独自の場所において-さらに、さまざまな修道会の固有の典礼暦において-加えられた。

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 五旬祭(聖霊降臨)の聖霊の待望(cf. 使徒1・14)から、母として、時代の中を旅する教会を絶えず気遣うマリアの、霊的母性の神秘の重要性を考慮しながら、教皇フランシスコは、「教会の母マリア」の記念を、ローマ典礼の全教会に義務として制定した。

 聖霊降臨の教会の活力と、それに関する母としての気遣いの間の結びつきは、明らかである。ミサ典書と聖務の中で、使徒言行録1・12-14は-創世記3・9-15,20とともに-、世のあがない主、御子の十字架のもとで「生きるものすべての母」“Mater omnium viventium”として制定された、新しいエバのタイポロジーの光で解釈され、典礼祭儀を照らしている。

***

 全教会に広げられたこの祭儀が、キリストのすべての弟子たちに、次のことを思い起こさせることを切望する。もし、わたしたちが神の愛に成長し、満たされたいなら、わたしたちの生活を、三つの現実の上に据える必要があることを:「十字架」、「ホスチア(聖体)」、「おとめマリア」-Crux, Hostia et Virgo-。これらは、神が、わたしたちの内的生活を築き、実りあるものとし、聖化するために、そして、わたしたちをイエス・キリストに導くために世に与えた、三つの神秘である。それらは、沈黙の中で観想すべき神秘である(R. Sarah, La forza del silenzio, n. 57)。

                長官:ロベール・サラ枢機卿

 

2018年3月7日

・教皇が6月21日にジュネーブのWCC(世界教会協議会)本部を訪問

【2018.3.5 CJC通信】教皇フランシスコが6月21日にジュネーブのWCC(世界教会協議会)本部を訪問する。バチカン(ローマ教皇庁)でキリスト教一致推進評議会議長のクルト・コッホ枢機卿とWCCのオラフ・フィクセ=トゥベイト総幹事が共同記者会見を行い、正式に発表した。

 この訪問は、教皇フランシスコの着座5周年、WCCの創設70周年の記念に行われる。双方の一致を目指す約束の積み重ねを確認し、その革新を図るものとなろう。

 トゥベイト総幹事は、「教皇のWCCとジュネーブへの訪問というニュースは、悲惨に分裂した世界で一致、平和、正義を求める人すべてにとって希望の印である。それはキリストの教会同士が、神に共に仕えるという共通の使命を確信できる印なのだ」と語った。

 カトリック信徒の総数は12億人に上る。WCCは、正教会、英国国教会、ルーテル、メソジスト、改革派など348加盟教会で構成されており、全世界5億人の信徒を擁している。□

2018年3月7日

・性的虐待への対応で起訴されたペル枢機卿裁判で証人尋問始まる(Tablet)

(2018.3.5 Tablet by Mark Brolly) オーストラリア・メルボルンの治安裁判所で公判中のジョージ・ペル枢機卿の弁護人、ロバート・リヒター弁護士は5日の意見陳述で、枢機卿を起訴したビクトリア州警察当局が犯罪を推定する際の「要人を訴追する手続き」を踏んでいない、と申し立てた。

 リヒター弁護士は、警察当局は枢機卿のいくつかの罪状が否定されるような21の証言に関して適正な捜査をしていない、とし、警察当局が証拠として挙げているうちのいくつかは取り下げられるべきだ、と主張した。罪状の詳細については、これまでに明らかにされていない。

 ペル枢機卿は昨年6月にビクトリア州警察から起訴されて以来、バチカンの財務事務局長官のポストを離れているが、起訴されている内容を否定してきた。枢機卿は1996年から2001年までメルボルン大司教を務めた後、2014年に教皇フランシスコがバチカンの財務改革のために新設した財務事務局長官に就任するまで、シドニー大司教を務め、その間の2003年に枢機卿に昇格していた。

 マーク・ギブソン検察官は、枢機卿に対するこれまでの性的犯罪に関する起訴案件のいくつかについて、日付けと用語の修正が必要だ、と述べた。検察側は先週の審問中に起訴案件のうち一件を取り下げている。

 5日、枢機卿がメルボルンの法律関係のビルが立ち並ぶ街区の中心にある治安裁判所に到着すると、テレビ局、新聞などの報道陣や枢機卿支持派、批判派の”出向かえ”を受けた。

 公判では、ベリンダ・ウォリントン治安判事が、証人が遠隔地からビデオで証言するための補助者や介助犬を伴うことを承認。また、原告側が証言する際に、枢機卿の”年齢と健康状態”を考慮して、彼に補助者をつけることも認めた。 ギブソン検察官は冒頭陳述で、起訴内容の詳細を説明することを申し立てたが、ウォリントン判事は内容を承知しているので、その必要はない、との判断を示した。

 証人尋問は、同日の午後2時から、一般の傍聴人やメディアに対して非公開で始められた。ビクトリア州の裁判所は、性的な被害に関する事件を扱う場合に、非公開とすることが慣行となっている。

 同日始まった尋問は、上級審に諮ることが適当とされる十分な証拠があるかどうかを判断するためのもので、予定される四週間のうち、証人尋問の二週間が非公開となる見通し。約50人の証人の出廷が予定されている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 (Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

 

2018年3月7日

・カトリック教会への信頼は”壊れて”しまっているー高位の女性聖職者は語る(Tablet)

(2018.2.22 Tablet  Christopher Lamb in Rome)

 聖職者による性的虐待問題を扱う時、カトリック教会は、透明性を確保し説明責任を果たすことを拒む”根深い文化”を変えなければならない-教皇が設置した子供たち保護機関の新任メンバーは語った。

 教皇への助言機関、Pontifical Commission for the Protection of Minorsの委員に新しく選ばれたシスター・ジェーン・バーテルセンはTabletのインタビューで「このような文化は何世紀も続いてきたが、現教皇はそれを改めようと努めておられます」とし、「私たちは信頼を回復しなければなりません。信頼は壊れてしまっている。真実を追求し、同情をもって耳を傾け、出来ることは何でもして、信頼回復の努力を続ける必要があります」と強調した。

 同時に、彼女は「このことはカトリック教会の管理層だけにゆだねることはできない」とし、性的虐待への対応で教会の信頼を回復するには一般信徒一人一人もかかわっていく必要がある」と指摘した。

 英国人のシスターとして、彼女は児童保護に長い経験を持ち、教会の性的虐待への対応に関するLord Nolan2001年報告を受けたイングラントとウエールズの教会の指針-全世界のカトリック教会で最も強力な児童保護のルールと評価されている-の作成に協力した実績がある。

 Franciscan Missionaries of the Divine Motherhoodの長であり、英サウスワーク大司教区の児童保護機関のメンバーである彼女は、オーストラリアでの性的虐待問題への対応にも関わり、アフリカにおける児童保護基準の案文作成にも協力している。

 教皇の助言機関の委員選任はこのほど、他の8人の新任委員とともに発表されたが、彼らは世界の6つの地域から選ばれた。このことは、性的虐待が世界的な現象であり、もはや欧州と北米だけの問題ではなくなったいる、とのバチカンの認識をしてしている。

 シスター・ジェーンによれば、困難な問題の一つは、性的虐待の実態を調査したり、虐待をなくすような体制を欠いている発展途上の地域で指針を作成することだ。教会は性的虐待の事実を役所に報告しなければならないが、事実の掌握が難しいのだ。

 この問題に関する教皇への助言機関は2014年に発足し、委員は3年任期とされていたが、今回の任期切れに伴う委員交代で、これまでもっとも熱心に働いていた委員が再任されなかった、という批判の声が出ている。ただし、再任されなかった一人、ホリンズ男爵夫人は退任できてうれしい、国際部会を作って委員会を助けたい、と述べ、ニュージーランドのビル・キルガロン氏も自ら引退する、としている。だが、この機関の委員だった人の中には、性的虐待の被害者でありながら児童保護の専門家として活躍しているアイルランドのマリ-・コリンズ女史のように、バチカンのこの問題への対応が遅すぎることに抗議して任期途中で辞任したメンバーもおり、他にもやはり性的虐待の被害者代表として委員になっていたピーター・サンダース氏も休職の後、辞任している。

 新任委員は全部で16人だが、バチカンは、プライバシー保護のために名前は公表しない、としている。

(翻訳「カトリック・アイ」南條俊二)

シスター・ジェーンとのインタビューの全文以下の通り。

What do you see now as the major challenges facing the Church in its response to the sexual abuse scandal? 

The first thing that comes to mind is that we are all the Church. Sometimes its convenient to think that on some issues it’s just the Pope and the bishops, but we have to remember it’s us as well and we all have a part to play.

The second is that the challenge is continuing the work that has been done to change that deep-seated culture in the Church that lacked accountability, transparency and collaboration. It’s a culture that has been around for centuries. Pope Francis has made great attempts at changing that but he is one person. We’ve all got to keep that conversation going.

We have to restore credibility. Trust has been broken. And we have got to keep trying to restore that credibility, with truth-seeking, compassionate listening and in whatever way we can.

And while I’m not in anyway pushing bad news under the carpet – that’s often the trigger for dealing with problems – but we also have to get the good news stories out. And look for them. It’s not to cover up the bad news, but to give people hope.

Pope Francis has faced criticism recently in his handing of abuse in the case of Bishop Juan Barros in Chile. What is your response? 

My response, as it has been for the last 20 years, is to play my part in continuing the conversation and the dialogue, to deepen our response to the call to those who are hurt and damaged. I’m not here to make judgments or to to look back, but I want to offer what I can in the future.

Is there now an argument for a more centralised approach by the Church when it comes to dealing with the global phenomenon of abuse? 

Speaking from my own experience as a leader of an international missionary congregation, I know our sisters look to us as a leadership team for guidance and support in authentically living our charism and we have to provide it. Then we facilitate their expression of it  in their culture and their situation and as they see it on the ground.

So it’s viewing it through different lenses. To both give the support and guidance, but also facilitate the best approach for those on the ground. I think my experience here parallels with the Church in a small way.

Some argue there must be mandatory reporting of abuse across the Church. But this is difficult in countries without a functioning legal or justice system. You’ve been involved in safeguarding in Africa, what’s your assessment? 

That’s where the cultural context has to be taken into consideration. When we were first working on guidelines in Africa [Nigeria, Zambia and Zimbabwe] the first step from a /European perspective maybe to report abuse but in some countries there was just not the infrastructure to do this safely.

We also found when we were trying to write standardised guidelines across countries we realised how difficult this was as structures we might take for granted e.g. a safeguarding unit or policing concerned with children just did not exist

So I’m delighted the commission is so global as the cultural context is imperative. And if we actually understood the issue, then we’d know how to respond in every part of the world. We are still on that journey.

Do you think the clerical abuse scandal would have been handled better had more women, including religious sisters, been involved in responding to the crisis?  

You better ask the Holy Spirit that one! I just don’t know. I know women have a particular contribution to make, and I’ve experienced that in both Australia and UK.

I’m delighted there is an equal number of men and women on the commission and I have worked with wonderful men and women in safeguarding and we all bring different gifts to the table.

(Tabletはイギリスのイエズス会が発行する世界的権威のカトリック誌です。「カトリック・あい」は許可を得て翻訳、掲載しています。 “The Tablet: The International Catholic News Weekly. Reproduced with permission of the Publisher”   The Tablet ‘s website address http://www.thetablet.co.uk)

 

2018年3月7日