本稿より有意義な本を紹介していきます。今回は、プリンストン大学博士課程修了、元名古屋大学理学部教授の素粒子理論物理学者、現在はカトリック終身助祭を務めておられる三田一郎氏の「科学者はなぜ神を信じるのか―コペルニクスからホーキングまで」(講談社ブルーバックス)を紹介します。
三田氏によると、国連の調査で、過去300年間で大きな業績を上げた科学者300人に聞いたところ、8~9割の科学者が神を信じていたそうです。なんと神を持ち出さずに宇宙論を創出した、名だたる無神論者と思われていたホーキング博士や、相対性理論を打ち立てたアインシュタインでさえ、神を信じていたというから驚きです。
最近、友人と話す機会があり、神のことを聞いたら「宇宙は偶然にできた」と言うので、大いに驚きました。しかし、この本によると、「私たちがこの宇宙に偶然存在している確率は、限りなくゼロに近いものの、この宇宙は莫大で、なにしろ何回実験できるかどうか見当がつかないため、私たちは偶然存在していることを否定できない」。別な本では、あの有名なシェークスピアの「ハムレット」でさえ、AIが何回も挑戦すれば同じ物語を作れる可能性はゼロではない、といいます。
そうだとしても、「この宇宙には科学法則があることは確か・・・科学法則はものではないので、偶然にはできません。宇宙創造の前には必然的に科学法則が存在したはずなのです。では科学法則は誰が創造したのでしょうか」と問い、筆者は、科学法則の創造者を「神」と定義し、「ルールが存在する、ということは、その創造者である神が存在するということだ」としています。
もう一つ、本の中のエピソードを紹介しましょう。枝から落ちるリンゴをみて万有引力を発見したニュートンですが、彼は極めて熱心なキリスト教徒で、生涯に書いた本の中で、宗教関係の本の方が多かったそうです。そんな彼の元に、無神論者の友人が訪ねて来ました。
部屋には機械職人に作らせた太陽と惑星が動く模型が置いてありました。開口一番、友人は言いました。「誰が作ったんだい、実に見事な模型ではないか」。ニュートンはしばらく黙っていましたが、再度促され、「それは誰かが作ったものではない。たまたまここにあるのさ」と答えると、友人は気色ばんで言います。「馬鹿にするもんじゃない。誰かが作ったに決まってるだろう」。ニュートンは言い返しました—「これは偉大な太陽系を模して作った単なる模型だ。この模型が、設計者も製作者もなく、ひとりでに出来た、と言っても、君は信じない。だが君は普段、本物の偉大な太陽系が、設計者も製作者もなく出現した、と言う。どうしたらそんな不統一な結論になるんだ」。それで友人は、創造主が存在することに納得したといいます。
この本では、コペルニクス、ガリレオ、ニュートンに始まって、量子力学を打ち立てた、錚々たる科学者が登場し、「神様はサイコロを振らない」で有名なアインシュタインとボーアとの論争など、宇宙論を述べながら、神様に関わる逸話を散りばめ、なぜ科学者は神を信じるのかと論じています。ペーパーバック版なので、読みやすい。一読をお勧めします。
横浜教区信徒 森川海守 (ホームページ https://mori27.com)
*新教皇レオ14世に期待する・・
プレボスト枢機卿がレオの名を選び、レオ14世と名乗られたことは喜ばしいことだと思います。その名を選ばれた動機となったレオ13世(在位:1878年–1903年)について振り返ってみましょう。レオ13世の存在は、近・現代においてカトリック教会が社会と関わりを持つようになった原点だからです。
*レオ13世の時代背景
時代背景を見てみますと、フランス革命(1789年~)があり、ナポレオン後、思想的には啓蒙主義、近代の自然科学など、理性の立場が社会を支配していきますから、キリスト教や聖書が述べる奇跡などは認めないとする時代思潮となります。
産業革命があり、それに合わせて人間関係、社会も変化し、労働者階級ができ、彼らは貧困化します。資本家や地主と対立。男も女も子供も奴隷のように働かされます。長時間労働、伝染病の蔓延。スラムもできます。社会では共産党、社会主義運動、労働運動など。19世紀後半は西欧の諸国家は政教分離、教会は社会との関係を失い、社会への発言力も失います。
*レオ13世の前はピオ9世教皇・・
ピオ9世教皇は1864年、「誤謬表(シラブス)」で近代を全面的に批判します。哲学的な合理主義も、社会主義も自由資本主義も進歩や近代文明もすべて否定・断罪します。こうしてカトリック教会は社会から孤立して、伝統的な「信仰の遺産」を墨守し、「教義本位主義」という頑なな姿勢を貫きました。
*レオ13世の登場で・・
そんな中にレオ13世が登場し、近代社会との和解を実現していきます。啓蒙思想や科学などの「理性」の立場と「信仰」は共存できると言いました。
そして1891年に回勅「レールム・ノヴァールム」を出し、資本家、雇用者、労働者、そして国家の義務や権利を明確にします―資本家・富裕層と労働者は、それぞれの義務と権利を認め合い、協議によって和解し、労働者も人間らしい生活を営めるようにすべきであり、それが資本家にもプラスになる。雇用者は労働者が家族を養うに足る賃金を支払う義務がある。労働時間、休憩時間、婦人や年少者の保護。労働組合を結成する権利もある。国家にも、生活の困難な労働者を援助する義務、貧しい人を守る義務があり、人間は精神的存在なのだから、人々の精神生活、宗教生活を守る義務がある。日曜日にはミサ・礼拝に参加できるようすべき、と。
*レオ13世によって教会は社会や政治との関りを持つように・・
以上のような主張は。社会に大きな影響を与え、カトリック教会は、政治、社会運動に関与するようになりました。社会の中で、世界の中で発言権を得ていったのです。カトリックと民主主義の両立が可能である、それで「キリスト教民主主義」という政治運動が生まれました。
歴代の教皇は、国際連盟の設立にも影響を与え、国際労働機関(ILO)などの国際機関との関係を構築してきました。教皇ヨハネ23世は、1962年のキューバ危機で米ソ首脳を仲介し、核戦争を防ぐことを助けました。冷戦末期には、教皇ヨハネ・パウロ2世が、まだ共産主義政権だった母国ポーランドを訪れ、民主主義運動「連帯」を支えました。1989年にポーランドで総選挙が行われ、共産党政権は崩壊。教皇が民主化運動が東欧に広がるきっかけを作った、との見方もされました。
第二次世界大戦後、1962年に、ヨハネ23世は第二バチカン公会議を通して、現代社会の戦争と平和、富と貧困といった問題も「教会の問題」として捉えるようになり、バチカンの国連との関係も出来ます。国連には、政治的に中立を保つためオブザーバーとして参加。教皇フランシスコは核廃絶運動に注力され、核兵器が引き起こした惨状を身をもって知るために被爆地を訪問されました。地球環境問題への取り組みも、国際的な影響を及ぼしています。
これらの延長線上にプレボスト枢機卿が「レオ14世」を教皇名に選んだということは期待していいのだろうと思います。
*レオ14世への不安・・ドイツの「シノドスの道」への対処は?
もう一つの関心は、新教皇がドイツの教会に対してどのような姿勢で臨んでいくのか、です。
教会における信徒の役割を大きく高めようとするドイツの司教団に対してNOを突き付けた3人の枢機卿のうちの1人が、当時のプレボスト枢機卿(司教省長官)でした。あとの二人はパロリン国務長官とフェルナンデス教理省長官です。ドイツの「シノドスの道」の歩みの重要な段階である「シノドス委員会」の設立を承認するか否かの投票を行なわないように、という書簡を、3人の連名で、投票直前になってドイツ司教協議会に送ったのです。
信者団体「我々が教会」によると、それは「突然の、脅迫的な手紙」でした。2023年3月にシノドス集会で、シノドス委員会を新たに設立することが決まり、その後、その規約なども決議されました。そして信徒組織であるZdK総会で、圧倒的多数の賛成をもってシノドス委員会の規約は決議・採択されました。
最終的な決定には、司教サイドの承認が必要でした。司教協議会総会の決議を経て初めて効力を持つことになるからです。司教協議会総会は2024年2月アウクスブルクで開催されましたが、その直前にバチカンから3人連名の書簡が届いたというわけです。
*シノドス委員会、そしてシノドス評議会とは・・・
世界の教会の取り組みに先駆けて進んできたドイツの教会の「シノドスの道」の歩みを、さらに協働的なものにするための審議と決議の場となる「シノドス評議会」を2026年3月までに発足させること、そしてその準備のための「シノドス委員会」を新たに作ること。。すでに決まっていました。
シノドス評議会の機能は、教会と社会に助言し、司牧計画や将来の展望を示し、一つの司教区だけで決めることのできない経済的・予算的事柄を教区を超えて決定することです。全教区に関わる連邦レベルでの機能を果たすことが狙いです。
*バチカンからの書簡の背景にあるもの・・・
バチカンからの3人連名の書簡が、ドイツ教会の動きにストップをかけた理由は、「司教たちと一般信徒による共同統治を含むシノドス評議会の機能は、カトリックの教会観、カトリック教会の秘跡的構造と一致しない」というものでした。
そしてドイツ内部の問題も指摘されました。司教団の一致の乱れ。シノドス集会等で、ケルンと南部3州のアイヒシュッタト、パッサウ、レーゲンスブルクの司教たち4名が反対したこと。ドイツは全部で27教区ありますが、4教区の司教が反対し、「シノドスの道」から撤退したので、委員会に合法性に疑問を呈したのです。
シノドス委員会の規約上、もはや司教優位の投票方法ではなく、司教か信徒かの違いに関係なく、投票数の3分の2の多数で議決されますので、4名の司教が委員会に入らなければ、一般信徒に有利になってしまう、ということも危惧され、委員会の運営資金の調達も、司教たちの満場一致の承認が必要なので、この面からも問題が生じます。
*その後・・・
2024年6月、教皇フランシスコの意向に従って、ドイツ司教団の代表とバチカンの代表それぞれ6名が、丸一日の会談がもたれました。詳しくは2024年7月31日付けコラム「シノドスの道に思う⑭ドイツの視点から・8」をご覧ください。バチカンの介入もあり、シノドス委員会(Ausschuss)をどうするか、シノドス評議会(Rat)をどうするかという問題が話し合われました。シノドス評議会はシノドス審議会Gremiunに名称が変更され, 内容も変わるようです。
2025年5月9,10日、マクデブルクにおいて第4回目のシノドス委員会が開催されました。もちろんドイツ司教協議会と信徒団体ZdKの共催です。そこではシノドス審議会Gremiumはシノドス団体a synodal body と英訳されています。「連邦レベルでのシノダル団体」です。はっきりしていることは2024年10月に出た世界シノドスの最終文書に添ってドイツのシノドスの道も進めていくという方針が確認されたことです。
5月のシノドス委員会には、あの撤退していた4つの教区(アイヒシュタット、レーゲンスブルク、パッサウ、ケルン)のうちの3教区からも招待客が参加したようです。次回は2025年11月、フルダで第5回シノドス委員会が開かれ、そこで「連邦レベルでのシノダル団体」の規約が決まる予定です。ドイツの27教区が一致してシノドスの道がさらに展開することが期待されています。
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参考までに、ドイツの「シノドスの道」がどのように歩んできたかを、これまでこのコラムに書いてきたことから要約してみます。
*ドイツ・シノドスの道の略歴・・
ドイツの「シノドスの道」のきっかけは、聖職者による性的虐待と教会当局による隠ぺいの原因の研究でした。これに基づいて、危機打開のためには自由で公開の討論が必要だ、と司教協議会総会が認め、「シノドスの道」の歩みが始まりました。
2019年12月に始まり、翌年、第1回目のシノドス集会。「シノドスの道」は2つの団体、すなわちドイツ司教協議会と一般信徒組織である「ドイツカトリック者中央委員会(ZdK)」の共同作業として行なわれています。合計約230名。シノドス集会が最高の会合であり、様々な決議(決定)を行なう。メンバーは等しい投票権を持つ。なお、中央委員会のメンバーは約230人で、その内97人はドイツカトリック組合の作業チームから選ばれ、84人は各教区の信徒連合から約3名ずつ送られた者、45人は個人として選ばれた人たちです。
*ドイツ・シノドスの道で扱うテーマは4つ・・・
テーマは①権力と権力の分散―宣教への共同参画と参入について ②今日における司祭の存在について ③教会における女性の奉仕と役務について ④継続する関係における生活―セクシャリティとパートナーシップにおける生ける愛について。要するに、統治の問題、司祭の問題、ないがしろにされてきた女性の問題、特に性の倫理の問題の4つです。
これらを審議して出席メンバーの3分の2(そのうちに司教協議会の出席メンバーの3分の2を含む)の賛成で決議案は可決しますが、この決議案が法的効力を持つためには、司教協議会と個別教区司教の教導権によります。諸会合において、審議から決議文ができるまでは、聖職者も一般信徒も平等の権利(一票の権利)を持って参加しています。
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最後に―
*新教皇への期待と不安・・・
レオ14世に対しては、ドイツ司教協議会もZdKも期待していることは間違いないと思いますが、例の書簡のことを考えると、ドイツの「シノドスの道」は大きな改革を進めるなことはできないのではないか、とも思われます。
信者団体「我々が教会」は、今年5月7日の新聞記事で、教皇フランシスコが始めたシノダル(共働的)な教会への改革を、新教皇がさらに進めることへの希望を表明し、具体的に4点を挙げています—①あらゆる点における共同の意思決定:小教区、教区、シノドス(教会会議)において。②女性、LGBTQ+、叙階された奉仕職における既婚者にも同等の権利。③司教の任命において、性的虐待を絶対赦さない。④異なる文化の多様性における一致の尊重。これらは「シノドスの道」の方向とほぼ同じです。
蛇足ですが、2024年度のドイツのカトリック教会の統計の仮発表がこのほどされました。それによると、受洗者数も、教会での結婚者数も、減少傾向が続いており、小教区数も2023年度に9418から9291に減っています。教会を公的に去った人数は2023年度に40万2600人、24年度に32万1600人と、若干少なくなったものの、教会離れの傾向は続いています。
ちなみに、日本では教皇フランシスコが通常の教導権において承認した昨年10月の世界代表司教会議総会・第2会期の最終文書」は、「カトリック・あい」の有志信徒による試訳は昨年11月に完成、掲載されているにもかかわらず、司教協議会の”公式訳”はそれから半年以上も経つのにまだ出てきません。”シノドスの道”への日本の教会の取り組みは極めて消極的でしたが、今やほとんど忘れ去られたように思う
のは私だけでしょうか。
参考=レオ13世に関しては増田正勝「労働者問題とドイツカトリシズム―レオ13世 『レールム・ノヴァールム』100周年に寄せて―」、アゴラ言論プラットフォームの八幡和郎、 湯浅 拓也の記事参照。その他ドイツ司教協議会、ZdK、「我々が教会」のサイトを参照してください。
(西方の一司祭)
先日久しぶりにムッとする気持ちのまま口をきき、自分でもハッとするきつい言葉を言ってしまい反省。その時、走馬灯の様に思い出されたのが長いタイでの生活、温かい懐かしい記憶にしばし浸りました。どういう関連?読者の皆さんには想像つかないでしょう。
タイ国に宣教に赴いた折、少しでも人々の生活に溶け込む為に、歴史文化、生活習慣を学ぶために本を読みました。マナーの本は今でも印象に残っています。蜘蛛の巣が張るほど忍耐強く待つ人の挿絵、腹を立て短気の不徳の至らなさがタイの人々にとっては最低の人間、忍従して穏やかに怒らないで生きるように、と。仏教に培われた文化ですね。喧しい騒音、うるさく煩わしい人々と気長に付き合う、約束の時間に遅れ待たせられても穏やか、決して人を急がせない。
タイで平素使うใจเย็น ๆ (ใจ=チャイ=心 เย็น=イェン=冷える冷たい ๆ=繰り返しの記号なのでイェンイェンと発音し強調する) と言う言葉があります。チャイイェンイェン、冷静に、慌てないで、ゆっくりね、との声掛けです。タイでの生活でゆったりと受けとめる友人達の豊かな姿に触れ感化され、考え方を意識して変えたほどです。
それまでの6年間は三ノ宮の聖パウロ書院に勤務、尼崎の修道院から通勤。神戸の街を歩く人並を足速にすり抜け、時間を惜しんだ秒刻みの 生活でした。手早い仕事、時間を大切にする実質は変わらないのですが、人との接点に労わり優しさがあることで、潤いができるのですね。さして時間を取るわけでなし、急かさなくても事はうまい具合に行き、人を生きた心地にしてくれます。
タイでの多忙な30年の宣教生活は、人間味ある素敵な余裕の出会いに織りなされていました。労わりと優しさの心の潤滑力をますます発揮して、日本での宣教に励んでいます。ヨハネ福音書によると、鍵がかかっていたのに、イエス様は入って来られ、励ましてくださいました。
「カトリック・あい」愛読者の皆さん、復活なさった主の平和と喜びを、霊に導かれて共に宣べ伝えましょう。
(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)
教皇フランシスコの帰天。冥福を祈ります。(今月のこのコラム原稿は死去される前に書いたものです。)
*教皇はキリストの代理者になった・・
このコラム2月28日付け「共に歩む信仰に向けて③キリシタン史と現代その1&その2」で、伴天連の政治的な動きが問題であったと述べました。では、そのおおもとの原因はどこにあったのかというと教皇権、制度としての教会であると言わざるを得ないと思います。
15世紀末、教皇アレキサンデル6世は発見される土地(新大陸)をスペインとポルトガルとに分かつのに、おおよそ以下の教義を用いたと言われます。「地上の国を統一するのは、王のなかの王であるキリストである。キリストの中にいっさいの至上権はある。キリストは教皇をその代理人とした。教皇はキリストの全権力を、世俗の権力さえも受け継いだ。不信心な君主は単なる占領者にすぎない。キリスト教徒の国王は、教皇の認可を得てその代理として統治しているにすぎない。国王は教会の聖務の代行者として、教会のために宗教的職分を果たしているのである」(マルティモールによる)。教皇権の具体
化が伴天連たちの政治的動きとなったのでした。
*王と教皇の相互依存・・
教会も変動する世俗社会のただ中にありますから外敵からの攻撃や侵入などに対処するために強大な王たちの支援や保護を必要としました。教皇権と世俗の王や皇帝の権力との相互依存の社会です。フランク王のカール大帝(768~814)は自らを「信仰の擁護者にして教会の支配者」と自認していました。「皇帝が教皇からの支援を必要としたのとまったく同じくらい、教皇権も皇帝からの支援を必要とした」のです。
その後、ドイツ国王オットー1世はカール大帝の居所だったアーヘンの大聖堂で大司教から国王としての権標(剣、マント、笏など)と聖油の塗油を受け、黄金の冠を被せられます。オットーはローマの政
情不安で苦しむ教皇ヨハネ12世の救援要請に応えたので、962年、サン・ピエトロ教会で教皇から皇帝として戴冠されます。こうしてドイツ国王はイタリアの北部と中部の支配という「イタリア政策」に関わることになります。
*3つの事件と教皇権・・
以下、3つの事件を取り上げ、教皇権がどのように表れたかを見てみます。
①カノッサ事件
高校の世界史でも扱う事件です。1075年、教皇グレゴリウス7世はドイツ国王ハインリヒ4世がイタリアの一部の司教たちの叙任を強行したことに警告を発し、教皇の命令に無条件で従うよう求めます。ハインリヒの行為は、ドイツ王はローマ帝国の後継者としてイタリアの支配に関わっていたためになされたことでした。
ハインリヒは教会会議を開き、26名の大司教や司教が出席。彼らはグレゴリウスを教皇として認めず、教皇に服従の解除を通告します。それに対してグレゴリウスはハインリヒによる統治の停止と破門を宣
言し、全キリスト教徒をハインリヒに対する忠誠義務から解放します。
ハインリヒは再び教会会議を開催しようとしますが、今度は出席する司教はほとんどいない。司教たちは教皇を恐れたのです。また反国王派の諸侯たちも会議を開いて、ハインリヒが一年以内に破門から解かれなければハインリヒを廃位すると宣言します。窮地に陥ったハインリヒは教皇に謝罪することを決めて、カノッサ城に滞在する教皇に赦しを請い、雪の城門で3日間裸足のまま祈りと断食をして、やっと破門を解かれたという事件です。
いちおう、教皇の勝利ではありますが、カノッサに赴く前、トリノに到着したとき、北イタリアの司教と諸侯たちは、ハインリヒを支えるために大軍を集めていました。グレゴリウス教皇は武力行使を畏れてカノッサのマチルダの居城に避難していました。
またカノッサ事件には後日談があります。反国王派諸侯によって対立国王になったルードルフとの戦いでハインリヒが敗れたことで教皇は再びハインリヒを破門にし、ルードルフを正式な国王と認めます。これに対してハインリヒは教会会議を開き、対立教皇クレメンス3世を擁立します。ハインリヒとルードルフの両陣営の戦いが何度かありますが、ルードルフの死によって、ハインリヒはイタリアに進軍し、ローマに入って対立教皇クレメンス3世から皇帝戴冠を得ました。
グレゴリウス7世はローマ近郊サレルノに逃れ、そこで憤死します。さらにハインリヒは帝国会議を開催し、多くの大司教や司教、世俗諸侯が出席し、そこでグレゴリウス派の司教の罷免が宣言されました。
事件の前、1059年、教皇ニコラウス2世は、教皇選出は世俗権力を排するため、枢機卿団の相互選挙(コンクラーベ)によるとの教皇令を出します。これ自体、当時枢機卿だったグレゴリウス7世(ヒルデブランド)たちの意図によるものでした。グレゴリウス7世は『教皇訓令書(Dictatus Papae)』の中で、ローマ教皇のみが正しく普遍的であること、彼のみが司教を罷免することも復帰させることもできること、彼のみが皇帝の標徴を用いることができること、すべての君主は教皇の足に口づけすべきこと、彼は諸皇帝を廃位することができるとして、教皇の権威・権力が不可侵・普遍・不可謬であり、皇帝の権威・権力よりも上であること、教皇を頂点とした中央集権、社会全体のヒエラルキーを構想していました。
グレゴリウス7世が失敗した理由の一つは、教皇が利用できる行政組織が未発達であったからだと教会史家バラクロウは言っています。従って1088年即位のウルバヌス2世の頃から教皇庁が組織化されますし、教会法も発展していきます。教皇庁の成立によってカトリック教会は「聖なる人々の集団が信徒を率いる組織」ではなく「法律家集団が信徒を統治する組織」へ変わったのだと中世史家の藤崎衛氏は言っています。
この事件から、教皇権が王たちだけでなく司教たちからも全面的に支持されていたわけではないことがわかります。教皇は自分の至高権、普遍かつ不可謬な権威を主張していますが、全面的に承認されていたわけではないのです。
②シチリアの晩鐘(シシリアン・ヴェスパー)事件
この事件も高校の参考書『詳説世界史研究』(山川出版社の脚注に記載されています。1282年3月シチリアの首都パレルモでシチリア島人がフランス人数千人を殺戮する暴動・反乱が起こりました。直接の原因は、晩の祈りの時刻に、一人のフランス人兵士がシチリア人女性にセクハラをしたので、それに怒ったシチリア人たちがその兵士だけでなくフランス人を手当たり次第見つけ出しては殺していきました。十数年前からシチリア島民はフランスのシャルル・ダンジューの過酷な政治によって支配されていたので、その恨みもありました。しかしそれだけではなく、当時シチリアの諸都市がドイツや北イタリア
の都市のような自治を要求していました。
時の教皇マルチン4世はシャルルによって立てられた傀儡にすぎなかったので、全島民に破門を宣告しますが、島民の働きもあって結局シャルルの支配は終わり、アラゴン王ペドロ3世がシチリアを治めるようになります。
当時、地中海世界はそれぞれの国家や都市が競い合い、利害関係は複雑でしたが、おおざっぱに分けると、教皇側にはフランスとシャルルのアンジュ―家、イタリアの教皇派諸都市、ヴェニス、南イタリアのナポリなど。反教皇側にはシチリアの諸都市、イタリアの皇帝派諸都市(ペルージア、スポレート、アッシジ)、ジェノア共和国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、神聖ローマ帝国(ドイツ)、アラゴン王国(アラゴン、カタロニア、ヴァレンシア)、アフリカの一部イスラム人など。そのような中でこの事件は起きたのです。
もともと西欧中世世界は理念的にはローマ教皇を中心として一つになるはずでしたが、徐々に各々の国や都市は自分の利益を図るようになっていき、また教皇の側も自己の地位と存続を優先して行動するようになったために、このように教皇の考えに従わない反教皇派の国々や都市ができ、しかも彼らはイスラム勢力とも同盟を結ぶという、非キリスト教的なことまでしました。つまり教皇を中心にして一つであるべき西欧キリスト教世界の崩壊を露呈していたのです。また、国際政治の比重が高まる中で、教皇の存在は霊的な指導者ではなく政治的な要素の一つ、一勢力に過ぎないことを、「シチリアの晩鐘事件」は示しています。
さらにシチリアの晩鐘事件の示すこと。この事件に限らず、教皇および教皇庁は一人の権力者や国に過剰に権力が集中して教皇に反抗することを防ぐため、また諸勢力が互いに争い合って仲裁役に当たる教皇の存在を皆が必要とするように、政治的に介入していきました。霊的な使命をもそのために利用したことが、結局は教皇の権威の失墜につながっていきました。聖戦という名目で十字軍を色んな国々に派遣させたこともその一つです。これでは教皇権は「神からのもの」と思える
はずがありません。
③アナーニ事件
この事件についても高校で学びます。教皇ボニファティウス8世は勅書 UnamSanctam (1302年)で二つの剣の思想(ルカ22:38参照)、すなわち霊的剣と現世的剣の両方とも教会の権力の中にあり、俗界の権威者は精神界の権威者に従わなければならない、そしてすべての権威は教会に、そしてその頭である教皇に帰される。すべての人は救いのために教皇に対する服従が絶対必要であるとして教皇の絶対性を主張しました。
そして教皇庁はフランス国内の全教会の聖職禄に課税し、国王フィリップ4世も対イギリス戦争のため聖職者十分の一税を課したことで教皇と対立します。国王は全国三部会を開いてその支持を得、聖職者と国王は共同戦線を張り、また教皇を裁くための公会議の召集を要求します。そして1303年国王の密使たちはアナーニで教皇を急襲して捕え監禁します。教皇は捕えられる前に関係者を破門していましたが、その効果もなく屈辱の内に死去します。
その後、フィリップ4世は新しい教皇に圧力を加え、先の勅書の撤回とアナーニ事件関係者の破門解除を認めさせました。また新教皇クレメンス5世は自らの住まいを1309年南フランスのアヴィニョンにします。ローマが政情不安であること、アヴィニョンが教皇に忠実なナポリ王国の治下にあったからです。以後、アヴィニョン教皇時代となり、いわゆる「教皇のバビロン捕囚」が67年間続くことになります。また1378年、ローマとアヴィニョンに二人の教皇が立ち、その後約40年間続く教会大分裂(シスマ)となりました。
教会分裂によって、西欧は二つの陣営に分かれました。神聖ローマ皇帝、イギリス国王、 フランドルおよび多数のイタリア都市がローマのウルバヌス6世教皇の側に。フランス国王、サヴォワ公国、スコットランド、神聖ローマ帝国の幾つかの地方、そしてほどなくしてアラゴンとカスティラがクレメンス7世(対立教皇)の側に。教皇の権威は失墜しました。
*両剣の解釈は3者によって違う・・・
ローマ司教がパパ(教皇)の称号・肩書きで教令を発したのはシリキウス(在位384~399)であったと言われますが、それまでは幾つかの教会でパパの称号は用いられていました。のちにローマ司教に限定されていきますが。
5世紀の教皇ゲラシウス1世(在位492~496)は「それぞれ独立した聖俗二つの権力が世界を支配する」と述べ、世俗権力からの自立を主張しました。のちに両剣論と呼ばれる理論のもとになったものですが、先述したようにボニファティウス8世は世俗の剣も聖なる剣(教皇権)に従わなければならないとし、教皇権の絶対性を読み込んでいます。
カノッサ事件の後、ドイツ王フリードリヒ1世(バルバロッサ)は教皇ハドリアヌスの馬の鐙(あぶみ)を支えて、つまり封建制的に教皇に臣下の礼を取って、ローマ帝国の皇帝戴冠を得ました(1155年)。しかしながらバルバロッサの思い、両剣の解釈は、世俗の剣と聖なる剣はともに神より発している。各剣は神により直接、その帯剣者に与えられたのであるから、政剣を与えられた皇帝は教剣を帯びる教皇と同等であるとし、帝国そのものの神的起源を強調しました。
したがって、教皇には世俗権力に介入する権利は元々ないのであり、皇帝は直接神から世俗の統治を委ねられている、帝国は神に直接、聖別されているとし、自らの帝国を「神聖帝国」と命名します。のちに「神聖ローマ帝国」の名称に変わる帝国です。帝国が「神聖な」と冠せられるのは俗権が教皇の神権政治を断固として斥ける決意表明であったわけです。教皇の政治への介入を断固拒否していますし、教皇の権威は認められてはいないのです。
*まとめ
教皇自身は聖俗両界における至高の権力を持っていると主張しましたが、以上見てきたように、人々はそのような信仰を持っていたとは言い難いのです。教皇も一人の人間に過ぎず、決して不偏不党にはなれなかったし、自分の利益や自分の生命の安全を優先して行動して逃げたり隠れたりしています。Aを聖別して王としても、その人がBに戦争で敗れるとAを破門して、Bを王とするなど、自分が生き延びるため行動していることが明らかです。判断の基準は神なのか何なのか、わからない。
こんな次第では判断を教皇に仰ぐことはないでしょう。何よりも「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43)とのイエスの言葉。教皇がしてきたことは、その真逆ではなかったかと思います。
今回のシノドスで、教皇フランシスコは第2千年期の教会はヒエラルキー中心であったが、第3千年期はシノダルな教会になることが神の意向であるとはっきり述べたことは重要な指摘です。
(参考資料 *堀米庸三『西洋中世世界の崩壊』(岩波書店)、スティーブン・ランシマン「シチリアの晩祷」(太陽出版)、藤沢房俊『地中海の十字路=シチリアの歴史』(講談社選書)、マルティモール『ガリカニスム』(白水社クセジュ文庫)、藤崎衛『ローマ教皇は、なぜ特別な存在なのか』(NHK出版)、G.バラクロウ「中世教皇史」(八坂書房)、山本文彦『神聖ローマ帝国』(中公新書)、菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社)など参照。
(西方の一司祭)
教皇フランシスコのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りします。
お亡くなりになる前日、復活祭に姿を現されお祝いの言葉を宣べられた教皇フランシスコは最期まで、現役の教皇だった。
世界中のメディアが教皇フランシスコのご逝去を報じている。そんな教皇は『思想の自由と寛容』と『平和』を祈られた。教皇として戦争は人間性の敗北とはっきりと意見し、死の直前まで平和への希望を訴え続けられた。そして、カトリック教会を改革せねばならないことを宣べ続けられた教皇フランシスコを身近に感じた信者が、どれくらいいることか。
『希望』を2025年聖年のメッセージの中心に置かれた意味が今はっきりと私に伝わっている。
最近の私は路線バスでの移動を楽しんでいる。先日、高齢者が多く集う施設前停留所から杖を持つ3人が乗車した。87歳男性と88歳女性93歳男性の夫婦だ。なぜ私が彼らの年齢を知っているのか。バスのシルバーシートに座ったすぐ、一人の男性が「私は87歳です。あなたは何歳ですか?」と失礼にも女性に話しかけた。バス中に聞こえる大きな声である。女性は答えた。87歳男性は「あなたたちは夫婦ですか?それならばあなたは93歳でしょう!」と彼女の夫に話しかけた。なんと”ピンポーン!”である。
話好きの彼は悦に入って続けた。「高齢夫婦の年齢は一方を知れば簡単に分かる。今の時代は、好いて好かれてでなければ結婚しない。互いの年齢など関係ない。だから若者は中々結婚しない。子供も少なくなる一方。そして、男性が女性よりも早く死ぬからあと10年もすれば女性ばかりが残る。その時には私もいませんが(アハハ)。これからの若者はこの国で苦労すると思いますよ… あなたたちは幸せですね。今も二人で行動できて」と。
この人何者?93歳男性も「私たちは互いに元気ですからありがたい。だんだんと人口が減るのは困ったものです」と、しっかり答える。バスの中で、後期高齢者の方々が日本で生きてきた時代と現代社会への思いを聞くことができた私は、ひとりほくそ笑んだ。これも生きた信仰であろう。
「真の愛は、愛すると同時に愛されることです。愛を受け取ることは、愛を与えることより難しいものです」(教皇フランシスコ 2015年1月18日 フィリピン・マニラでの講話から)。
今年も主イエス・キリストの復活を祝った私たちにとって、生きる信仰とはどういうことか、考える。ある若者からは「カトリックの信仰は八方美人的でしょう。違いますか?」。また別の若者からは「ここの教会はイデオロギーが強すぎるのでは⁈」。ある中学生からは「聖書に書かれたこととか、信じる人がいるんだね⁈」。そして、受洗のために聖書を勉強していた友人からは「聖書を勉強するたびに今までの自分を全否定されているように思って、どうしても神が入ってこないし信じられない」と。
私自身これらの疑問と意見を共有できる側の信者だ。正しい聖書解釈と伝統を望むが故の声は大事だ。伝統を重んじる宗教も社会の移り変わりとともに現代人に合う聖書の解釈、表現の仕方を考えねば、今を生きる信仰にそぐわないと思っているからだ。
聖書を読み、うわべだけの理解や机上の空論に真実はない。私たちは真実の愛を求めて旅を続けているのではないか。私自身、いつ如何なる時も偽善的愛は与えない、受け入れないと心している。幸いにも未信者の友達が”偽りの愛”を語ることを聞いたことがない。彼らは、嘘をついた後の面倒くささを知っているからである。しかし、教会での”愛”は多種多様であり、私は首を傾げることが多い。未信者の友達は何につけても「それがカトリックでしょう⁉︎」と便利な答えを持っている。私よりもカトリックの宗教を理解しているようだ。。
「隣人に関して偽証してはならない」(教皇フランシスコ 2018年11月14日 一般謁見の講話から)
偽りの関わりをもつことは、交わりを妨げることにより、愛を阻む、深刻な問題だ。嘘のあるところに愛はないし、愛することもできない。人々の間のコミュニケーションには、言葉だけでなく、しぐさ、姿勢、さらには沈黙や不在であることさえ関わっているのだ。
(西の憂うるパヴァーヌ)
この4月21日、フラシスコ教皇が亡くなれた。第1代目の教皇が聖ペトロだから、優に2000年続く第266代目の教皇であった。
以下、新約聖書のルカ福音書第4章から引用する。
初代教皇となった聖ペトロ、この男の生涯は奇跡に彩られている。イエスとの最初の出会いは、漁をしていた時である。夜通し漁をしたのに一匹も釣れずくたくたになって浜辺に戻ってきて、網の手入れをしていた時であった。そこへ、病気を治し、悪霊を追い払うことで評判を呼んでいたイエスを慕って大勢の人々が、浜辺にやってきていた。イエスは、当時シモンと呼ばれていたこの男に船を借り、船の上から群衆に説教をした。説教が終わった後、イエスは、シモンに言った。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。たった今しがた、夜通し漁をして帰ってきたところであった。恐らく疲れていただろ
うと思う。しかし、シモンは言った。「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と。これが運の付き初めであった。漁をしてみたら、なんと一網で網が破れそうになる程の沢山の魚が取れ、船が沈みそうになったのである。驚いたのはシモンである。なにしろ、一晩くたくたになる程、何度も網を下ろしたのに一匹も捕れなかったのである。「この方はただ者ではない」と思ったのであろう。仲間の船に応援を頼んで、浜辺に戻ってきたシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と。以来、ペトロは、漁師仲間ヤコブとヨハネとともにイエスの12弟子の一人となったのである。
マタイによる福音書第16章では、元漁師だったペトロが初代教皇となったいきさつが記述されている。そこでは、イエスは、シモンにこのように言っている。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と。このイエスの言葉により、十二人の弟子の長として初代教皇となったのである。
ペトロについては、多くの話しが聖書の中に出てくるが、この話はペトロの勇敢さを現していると筆者は思う。
マタイによる福音書第14章によると、事の次第はこうである。
イエスは、群衆を帰らせた後、12人の弟子を船に乗せて、先に対岸に行かせ、自分は山に登り祈りを捧げた。船の方はと言えば、逆風のために波に翻弄されていた。イエスは、翌朝、船に乗ろうと、なんと湖の上を歩いていった。驚いたのは、船の上に乗っている十二人の弟子たちだ。「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
聖書の記述が本当であれば、水の上を歩いた人は、人類史上、後にも先にも、ペトロただ一人である。信仰はともかく、勇気とイエスへの熱き信頼が無ければ、水の上を歩くなどというのは、できる話しではないのではないか。
ペトロの最後については、ローマ人による激しいキリスト教徒への迫害の中で、詳しいことは分かっていないが、弟子の自分がイエスの十字架に習うのは不遜として、頭を下にした逆十字架で殉教した、と言われている。
横浜教区信徒 森川海守 (ホームページ https://mori27.com)
フランシスコ教皇が天国に帰られたこと、心からご冥福を申し上げます。これを機に、考えたことをコラムにまとめました。
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先月の私のコラムを読んだ未信者の友人からこんな言葉をかけられた。「麻衣さんの文章を読んで、信じるものがある人は、僕とは違う世界に住んでいるんだな、と思いました。あまりにもまぶしいし、心に拠り所がある人たちが羨ましいです」私は、その言葉に、思わずドキリとしてしまった。そして、その言葉をきっかけに、私が誰にも打ち明けてこなかった気持ちを、彼の前で話すことになった。
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洗礼を受け、いざ、信者になってみて、私は喜び以上に戸惑いを感じていた。神の存在を疑っているわけではないのに、なぜかまわりの信者たちと混ざれない感じがしていた。「本当は私には信仰がないのかもしれない」と悩んだこともある。
その理由が分かったのは、受洗してから約10年後に、こんな意味の言葉を目にしたのがきっかけだった。「昨今、見えないものや神の存在を信じる人が減った。自分の親でさえ信頼できない子どもたちが増えたのだから、それはある意味当然とも言えよう」。読み終えた私は、愕然とした。そもそも私は、『信頼する』という感覚が分からないことに気がついた。
人は、母親との関係の型を、他の人間関係においても無意識のうちにトレースしてしまう。なので、母親との関係性は、後の人生に大きな影響を与える。私の母は、精神的な問題を抱え、不安の強い人だったので、私は母との愛着関係を築けなかった。それは、私の後の人生に多くの課題を残した。
「親ですら、本当の自分を愛してくれないのだから、他人が私を愛せるわけがない」と、私は考えていた。人付き合いを避けていた時期も長かった。友人たちにも心を閉ざした時期、私のスマホの電話帳には、片手に収まる数の連絡先しかなかった。
ただ、本当は、私を愛してほしいと願っていた。受洗から15年以上経ち、その気持ちに向き合い、素直になると決めた。その背中を一番強く押したのは、私の意思ではなく、周囲の環境が良かったことと、それに与れる運に恵まれていたことだった。少しずつ「信頼するって、こういうことかもしれない」と体感できるようになった。
それに派生して、こんな素晴らしい人々を周囲に配置してくださった『大いなる存在』に目が向くようになった。
そんな過程を経て、私は今ここにいる。
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「愛ってどんなものですか?」そう彼に聞かれた瞬間、私は過去の自分と彼とが、重なって見えた。かつての私も、『愛とはなにか?』といろんな人に聞いた。当時の焦りや混乱、孤独、渇望などが大波のように押し寄せた。私が「言葉では説明できない。感覚的なものだから…」と答えると、彼は、いっそう深く額に皺を寄せて、真剣に考え始めた。
そして、彼はおもむろに顔をあげ、「もっと僕に迷惑をかけてほしい。気を遣わないで接してほしい」と言った。その言葉を受けた私は、胸に両手を当てた。そういえば、私自身にも、どこか彼に遠慮する部分があったのは否めない。私もまだ回復の途上にあることを改めて感じた。
彼の存在は、私が私自身を愛せるようにしてくれた。私の存在も、彼自身を愛し始めるきっかけになれたら、と願ってやまない。また、それがろうそくの灯りを分けるように、世界中に広げたい。それは壮大な夢で、大海に一滴の水を落とすようなものだとわかっていたとしても。
神よ、どうか私をあなたの平和の道具としてお使いください。アーメン。
(東京教区信徒・三品麻衣)
先週、カトリック教会とプロテスタント教会の葬儀に中1日空けて参列することになった。神様のご計画に涙した私であった。
天に召された二人の友(91才と77才)は、家族で一人だけのキリスト者だった。生前、彼女たちは教会で葬儀をするようにと子供たちに託していた。両家とも「家族葬」との案内だったが、参列後の私の気持ちは、随分違った。葬儀式をする司祭と牧師は同世代だったが、それぞれのキリスト教での”死”への見解が違うことも当然ではあるだろうが、いろいろ考えさせられた私である。
最近、カトリック教会では若手(60歳代まで?)と言われる司祭方の説教や黙想会の中での話から共通して感じることがある。司祭自身が持つ、”司祭像”が変わってきているのではないか、ということだ。(信徒が持つ、”司祭像”が変わってきていることは、だいぶ以前から感じてはいたのだが)。
カトリックの小神学校から司祭の道を歩んできた欧米人司祭が中心だった時代から、現代は社会人を経て司祭召命があった日本人司祭の時代に変わってきている。
「私たちは、三つの相違なる集団、すなわち、(1)カトリック的な集団、(2)キリスト教的集団、(3)非キリスト教的な集団を考察しなければならない」(第二バチカン公会議解説書『世界に開かれた教会』から)。
教皇ヨハネス23世以来、カトリック教会は、実践においても発言においても、この見方を確認している。カトリック教会は一つの時代に決別を告げたのである。世界そのものが、あまたの変化をとげて新時代に突入したというのに、どうして教会だけが古い時代にしがみついていることができようか。世界を揺るがしている大きな変化が、教会にも強い影響を及ぼし、教会自体と世界における教会の使命について反省を促している。キリストのもとに集まる民である教会の反省、転換、刷新は、常に教会の源泉に戻ること、イエズスの福音の純粋さに帰ることでなければならない。
第二バチカン公会議を終えて今年で60年である。カトリック教会は20世紀半ばの第二バチカン公会議を境に大きな様変わりを経験したというが、その歴史的転換期の様子を私は知らない。公会議は、ローマ聖座と一致した司教たちの会議だ。司教=教区長として各々の小教区の状態を知らなければ、公会議に参加する意味がないだろう。
日本の全ての司教様方を存じていない私であるが、未来の教会を憂い行動に移した方は、タイプは違うが今は亡き森一弘司教と溝部脩司教のお二人だ、と私は勝手に思っている。1970年以降からの教会は、高齢化に加え、若者の教会離れが加速している状態が今も続いている。溝部司教は説教集の中で罪について教区長として自分について語っておられる。
「私が高松教区の司教として困難に遭遇し、いろいろな反対を受けるとしましょうか。そのとき、『まあ、しょうがないか』とすべてを投げ出し、『まあ、なるがままになるさ』と、これぐらいのやり方で、教区そのものを駄目にしてしまうとしましょう。活気のない、もう、見るからに立ち上がることのできない教区にしてしまう」
「そのとき、私に罪はないのでしょうか。そのとき、神の恵みを信頼して、信じて、そして、どんな困難があっても立ち上がって働かなければいけない、というところに至らなかった、その点において私は罪深い、と考えなければいけないのです」
「私がその決心をすることができなかったために、高松教区は、活気のないつまらない、難しい教区になっていったとしたら、私は自らの罪をやはり悔いると思いますし、一生をかけて償わなければならないことになります。罪を考えるときは、いつでもこのように相手の立場に立って考え、自らを振り返る、こういう視点が必要です」(溝部司教の『聖霊の息吹を受けて』 2004年10月31日の説教より抜粋)
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森司教と溝部司教は、その時だけの自分の安泰だけを望まれてはいなかった、と私は確信している。お二方の共通点は感覚が若く、ビジョンと共に先見の明を持っておられた、ということだろう。それ故に、下の世代の私たちの意見を真剣に聞いてくださり、見放すことなく叱咤激励してくださった”人間司教”としての器の大きさには感謝と尊敬の念しかない。
人としての生き方を知らないなら、聖職者として生きていくことは難しいのではないだろうか。互いに理解するためには、”確かな愛”が必要だろう。キリスト教的集団の中におられたイエスは一人の人間として生きられたのではないか…。
最近の私は、「この愛を永遠に信じたいのです…」と、人間イエスに日々伝え、問いかける日々を送っている。こんな私を神様は全てご存じだろう。
(西の憂うるパヴァーヌ)
「สวัสดีค่ะ=サワッディーカ」と女性の場合、男性の場合、「สวัสดีครับ=サワッディークラップ」と言いながら、合掌する仕草であいさつ。タイ国の日常的習慣、朝から晩まで同じあいさつ。30年も日々繰り返し、すっかり身についてしまいました。
このあいさつをタイ語で『ワイ=ไหว้』をすると言い、尊敬、好意を表す動作です。胸の辺りで合掌して頭を下げるのですが、自分との関係によって、合掌する手の位置が胸から顔、額へ、会釈からさらに頭を深く下げるのです。蓮の蕾の様にふっくらと合掌した手が高く、頭を下げるほど敬意を表すことになります。
タイに行って間も無い頃、教えられたように合掌し、あいさつすると、「シスターは自分からワイをしちゃダメ」と注意されました。 社会的身分(聖職者はワイを受ける立場)を考え、社会の秩序を守ってワイをしてください、と。子供や学生には、軽くうなずき、微笑み返す。王様や僧侶は受けるだけ。なるほど!
合掌してあいさつする仕草はすぐに馴染み、気持ちを込めて親しみました。拝むような気持ちで話しを聴くことは普段から心がけていたので、敬う姿勢をすっかり気に入り、タイの文化習慣や言語にもはまり込んでいきました。
このワイ、実は人造語で1931年ラジオ放送開始の折、チュラロンコン大学文学部のニム•カーンチャナチーワ教授が、放送終了時のあいさつとして考案したもの。サンスクリット語の「吉祥」という言葉をタイなまりで発音し、語尾をดี(ディー=良い)に変えて「良い吉祥」とし、放送局内で出会いや別れのあいさつとして交わされるようになり、庶民にも浸透しました。1950年にタイ学士院辞書編纂会議で「タイ語には元々、あいさつ語はないが、もしあるとすれば『サワッディー』以外考えられない」とされ、あいさつ語として定着していきました。
社会のしきたりを考慮することは、独自の文化や国境を超える人々との関わりの中で、平素、気遣うべきマナー。自分主体の常識を脇に置いて、多種多様な常識に柔軟な対応を迫られます。50歳からタイ国で30年、国際社会バンコク、東南アジアの文化の合流地点に移り住み、私の頑固さも随分と柔らかくなりました。同時に、揺るがない福音の普遍の精神に深く根差して生きるようにと、導かれたように思います。変えられ、譲歩できる事ごとを削ぎ落とし、「真理に根差した自由」を少しは味わえるようになりました。
便利至極な日本社会ですが、人間関係や構造は複雑至極。毎日曜、教会を訪問し、一緒にミサに与り、同じ信仰を持った仲間たちと目を輝かせて出会う、本当に嬉しいですね。
ちなみに、聖体拝領の時は、心を込めてご聖体の主に最高の深いワイを捧げています、タイの人々を心に抱きながら…。結び目を解く聖母マリアにご保護とお導きを願いつつ、今、祖国で再出発、人々に心からのワイを捧げながら、日々福音宣教に励んでいます。
(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)